八.対峙
とてつもなく嫌な予感に駆り立てられて、夜明け間近に寄宿先から飛び出した。
たった二日でできることなど限られていたことは、承知の上だった。だが、思った以上に情報が乏しすぎた。
分かっていることはたったのふたつ。
一、アヤカシに命を狙われているヒトがいる。
二、そのヒトは「ハクジの欠片」と言うものを持っている。
特に厄介なのは二つ目の方だ。ハクジの欠片が一体どんなものなのか、なぜそれをアヤカシが手に入れようとしているのか。
寄宿先の家人や、従兄弟、そして総領にまで力を借りたが、ハクジの欠片についての情報は全く見つからなかった。麻紀自身もあの手この手を使って調べ回ったが、総領でさえ何も掴めないのだから、麻紀などがそれらの情報を手に入れられるはずもない。分かっていたけれど、時間が過ぎて行くだけ、誰かをあてにするだけ、そうやって待っているだけと言うのはあまりにももどかしかった。動いていなければ、落ち着かない。寝ることさえままならずに、こうして朝を迎えたのだが。
どうにも、心がざわついた。
寄宿先の家人から借りた古い文献など読み漁って、疲れが貯まりに貯まってうつらうつらしていた矢先だった。浅い眠りの中で、あのアヤカシの姿を見た。
夜明けを待つように、大きな木の枝に座ってただ空を眺めている……そんな他愛もない夢だ。
そうして、まどろみからふっと目が覚めた瞬間からだった。
意味の分からない気持ちの悪さが、ありとあらゆるところからじわじわと這い上がって来た。
身の毛が弥立つと言うのはきっとこういうことなのだろう。
ざわざわと肌が粟立つような、波立つような、悪寒にも似た感覚。
いい知れない予感。
何かが始まろうとしている、そんな理由もない胸騒ぎ。
これまで以上にじっとしていることを受け付けない。
由良の側に行って安否を確かめたくて、体は自ずと動き出していた。妖刀覇王を手にして、玄関で靴を履く。麻紀の行動に呼応するように玄関先で眠っていた左京も起き出して来た。
麻紀は左京を一瞥するとすぐに走り出した。後に左京も続く。
(なんだ、この、すごい嫌な感じは)
その感覚を言葉にして表すのは難しかった。どこからともなく鳴るサイレンは耳元で鳴らされているように騒がしく、そしてうるさい。
うるさくて、鬱陶しい。でも、それを聞き流すことができない。体中を駆けめぐる血液に、その音はまるで染みこんでいるかのようだ。走り始めて呼吸も若干上がって、ますますその音は激しくなった。
夜はもうすぐ明けようとしている。雲が空を覆い尽くし、東からもうすぐのぞく太陽の存在を示すように、浮かんだ雲たちを紅緋に染めていた。その緋はひどく生々しく、鮮烈で、美しいと思うのに恐怖すら感じる。生ぬるくこの地を覆う空気が、まとわりつくような感触で肌の上を滑っていく。
麻紀はその緋の世界の中をひたすら走った。一刻も早く、磯崎神社にたどり着くために。
どうか、何事もなく……。
祈るような願いを何度も心の中で唱えた。
神社を囲む森の姿が見えてくる。あの塊の中心を裂くようにして、境内への参道が延びている。両脇にうっそうと茂る木々を見ながら、参道を進む。
ふと、真っ直ぐ伸びた参道の先。丁度、鳥居よりやや手前にぽつんと何かの影を見る。
麻紀はそれを見つけて、走る速度を序々に落とした。
影がはっきりと見えてくると同時に、またしても、不吉めいた予感を覚えた。
こんな朝早く、神社の行事に参加しているとは思えない格好に、麻紀はごくりと唾を飲み込んだ。
「こんな時間に人が来るなんて、珍しいこともあるのですね」
場違いな格好をした相手は、麻紀を見るなりそう言った。
「……あなたこそ、こんなところで何を?」
そう言った刹那だ。
息を飲む勢いで、男は麻紀との距離を縮める。そして、ぶうんと何かが空気を引き裂く。麻紀は咄嗟に後ろに飛び退いた。
(早い!)
また空気を裂く音。今度は上半身を仰け反らせながら右斜めに避ける。足蹴り、次は手刀、と、なめらかで無駄のない動き。一分の隙も与えないかのように、今度は腹部目がけて膝蹴りの突きだ。上手く避けきれない麻紀は、男の膝蹴りを腹に食らってしまった。しかし、それでもダメージは最小限で済んだ。両足でバランスを取りながら地面に着地するが、勢いのあまりに地面を滑ってしまう。
(何だ、何者だ?)
片膝を着き、ずきずきする腹を抱えて、麻紀は男に視線を送った。
男はあれだけの動きに髪のひとつも乱れた様子もなく、悠然と立ちはだかっていた。
「イツバとは、この程度の者ですか?」
口角を少し上げて、男は笑う。
「なん、だ、と……?」
今、イツバと言ったのか。聞き間違いではないのか。どうして目の前の男は、自分を「イツバ」だと知っている?
「この程度かと訊いているんですよ。八重樫麻紀」
「何故、俺の名前を?」
「有名でしょう? その筋では。アヤカシ封じを生業とする、五つ刃の一刃。妖刀を持つ八重樫家の血筋を受け継ぐ者」
「あなたは何者だ!」
「随分急いでいらっしゃるようですが、少々私の相手をして頂きます」
「何者かと訊いている!」
「……徳永尚也。ちょっとした、あなたの邪魔者ですよ」
麻紀はぎしりと奥歯を噛んだ。状況はよく分からないが、この徳永と言う男はどうも簡単に通してくれそうにないらしい。
頭の中が混乱する。
どうして、何故?
そればかりが錯綜して、情報の導線は混沌とした。
だが、そうしている間にも、徳永は追撃してくる。
「ぐ……っ!」
再び繰り出される足技に、麻紀は手に持った覇王でそれを受け止めた。
強い衝撃が、覇王の刀身を伝ってびりびりと腕を痺れさせる。だが、徳永を押し返すのには都合がよかった。刀身ごとなぎ払うと、バランスを崩した徳永は麻紀との距離を置くために引き下がる。
「今はあなたの相手をしている場合じゃない。退いてくれ」
頭の中の絡まった記憶と情報の導線を冷静に、丁寧に解きながら、「徳永尚也」と言うワードを一心に検索する。
いつ、どこで、どんなふうに?
自分自身に問いかけてみる。
徳永尚也----------その、名前は記憶の何処に置き忘れて来た……?
息を大きく吸い込んで、記憶の中に深く潜る。
記憶は、海に似ている。
広大で寥廓、深層の蒼海。
潜るほどに暗くなり、暗くなるほどにぼんやりとして曖昧になる。
古い記憶は、その深程に眠り、浅い記憶は壮大な海面を漂う。
キラキラと輝いて、新しい記憶たちは自分の存在を誇張した。
その中に探す。
トクナガ・ナオキ。
「……それは無理な相談ですね」
徳永の声で、麻紀は記憶の海から浮き上がった。
改めて、麻紀は徳永の顔をのぞき込む。さらにもう一度、海の中に漂う記憶を漁る。
だが、彼の名前は麻紀の記憶にはない。
(俺が覚えていないだけで、怨恨でもあるのか?)
「申し訳ないが、俺はあなたを知らない。もしあなたが俺に何か恨みでもあると言うなら、必ず後で伺います」
だから、今は。
そう言いかけた麻紀の言葉と、徳永はあっさりと矢継ぎ早にかき消した。
「あなたに恨みなんてありませんよ。それにあなたが私を知らないと言うのも、至極当然のことでしょう」
こともなげな表情を浮かべて、彼は細い銀色のフレームの縁を指で押し上げた。
「なら、どうして」
先ほどまでの仮説はあっさりと崩れ去った。麻紀自身に執着がないのだとすれば、一体どうして徳永はここにいるのか。
「だから言ったでしょう。私はあなたの邪魔をするためにここにいる。……ここから先には行かせません。今、社殿の奥で行われていることに、手出しは無用です」
徳永は勝ち誇ったように、口角を上げ、目を細めて笑った。
何か、面倒なことになった。
それだけは分かった。
そして徳永と言う男は、社殿で行われている神事に麻紀を関わらせたくない。つまり、社殿で何かよかならぬことが起こっているとも推測された。
徳永は誰一人として、社殿に近づけさせないために、ここで見張りをしていたと言うことか。
麻紀はちっと舌打ちをした。
彼がそうしてここで門番をしているからと言って、易々と引き下がれない。
進ませたくないと言うことは、明らかにその先に不穏が待っていると言う表れに違いなかったからだ。
「くそ……!!」
よもや、強行突破以外に道はないらしい。
こんなところで時間を費やすわけにはいかなかったが、彼が自分の邪魔をすると言っている以上、それを排除しなければ道は開けない。
進んでヒトを傷つけるのは抵抗があったが、やむを得ない事態なので覚悟を決めた。
麻紀は瞬時に徳永との間合いを縮めると、手にしていた覇王を振り下ろす。徳永はすぐに振り下ろされた覇王を片手で掴んで避けるが、渾身の力が籠もった刀身に体制が崩れる。思っていたより強い力が籠もっていたことに少し狼狽しているようだった。
刀身が避けられるのは想定内だ。
すぐに、すばやく足蹴りを繰り出す。
鈍い音とともに、靴底が徳永のみぞおちをとらえた。
徳永の顔が歪む。
それと同時に彼の覇気が高まったのがはっきりと見えた。目つきが余計に鋭くなるのを、目の前で確認してしまう。
次の瞬間、刀身を押しのけられた。徳永は素早く両手を組むと力一杯、拳を振り下ろした。
「つっ!!」
左の頬を打ち付けられた麻紀は、その力で吹っ飛ばされた。受け身取って地面を転がることは避けたものの、口の中に鉄の味がにじみ出す。
「伊達に化け物相手はしていないようですね」
みぞおちに食らった一撃が効いたのか、徳永はそこに手を当てて少し息を切らせてそう言った。
「あなたの方こそ、ただの者ではない」
「油断していてくれた方が楽でしたね」
まるで計ったように、次にはお互いが動き出していた。
同時に間合いを詰めると、ど真ん中で再びぶつかり合う。
押しつ押されつ、麻紀と徳永の力は拮抗した。
「抜刀されたらどうです? 刀で斬りつければ、どうさもないでしょう?」
睨み合いながら徳永は薄ら笑いを浮かべて言った。
「これはヒトを傷つけるためにあるわけではない!」
勿論、徳永は麻紀が覇王を抜刀しないことを前提に挑発している。
きっとそうして、麻紀の心を乱し、隙を突こうとしているのだ。
しかし、そうとは分かっていても徳永の口ぶりには、苛立ちを覚える。
「大した信条ですね。しかし、それで守りたいものも守れなければ、意味がないのでは?」
麻紀は耳を疑った。
守りたいものも守れなければ、意味はない。
彼は確かにそう言った。その時、徳永は麻紀がここへやって来た理由の何もかもを知っているのではないかと言う疑惑が頭をもたげた。
由良のこと。
あの女のアヤカシのこと。
そして、ハクジの欠片と言うモノの存在。
麻紀自身のことも、それを取り巻く環境も、イツバのことも、何もかも……全部を分かっていて、彼はここに佇んで、麻紀がやってくるのを今かと待ちかまえていたのではないか。
そうすると余計に訳が分からなくなってくる。徳永と言う男の正体は、霧の向こう側でもやもやしたモノにはばかられて、ますます姿形を眩ませて行く。
思考回路はもうめちゃくちゃだ。何が何なのか、今の状態では雲を掴むようだ。
しばらくの競り合いの後、二人はお互いを突きのけた。再び張り詰めた空気の間合いで、にらみを利かせた。
「あなたは本当に何者なんだ……?」
麻紀は改めて徳永尚也と言う男に問いかけた。
徳永は居ずまいを正し、姿勢の良く背筋を伸ばした。そしてゆっくりと目を伏せる。
「私は徳永尚也です。そのほかの何者でもありません」
伏せた目を開くと、彼はくくっと声を出して笑った。
朝焼けの真っ赤に染まる空の下、彼の全てが薄暗い影の中だった。