七.藍花
黄泉と言う場所にはふたつの顔がある。
ひとつは、常世。
もうひとつは、常夜。
どちらも同じ読みだが、その環境はまるで違う。
常世には、昼と晩があるが、常夜にはその文字が表すように漠然とした夜しか存在しない。
常世に住むモノは、主に権力を持つもの。あるいはその性格が音便であり、現世に興味が薄いアヤカシが住むと聞く。また移ろい行く時の流れを感じさせる場所でもあると言う。聞いた話は噂程度なので本当かどうか、藍花は知らない。
だが、常夜は全く逆で、そこは藍花にとって言わずと知れた場所だった。そこは言わば、弱肉強食の場所であり、諍い、争い、略奪が日常茶飯事の無法地帯。そこに居るアヤカシは皆、負に偏っている。
いや、負を背負っていると言った方が正しいのかもしれない。
藍花もそんな常夜に属するアヤカシのひとりだった。
どうして自分が常夜に属するアヤカシになったのか、そんなことは知らない。ただ、意識を持った時、すでに自分はそこに居た。そしてそこで、いつも何らかの不和に巻き込まれ続けていた。
環境とは不思議な空間だ。自分がそうしたい、そうしよう、と考えずともいつの間にかそれらと同じ方向を向かされている。どんなに逆らおうとしても、その激流は大きな川のように、そのひとひらの意志を飲み込んでしまう。飲み込まれた意志は、逆らうこともままならずいとも容易く押し流した。
何故、あたしは常世で意識を持つことができなかったのだろう。
常世の華やからしい話を聞くたびに藍花は思った。
同じアヤカシでも、力があるから、ただそれだけの理由でふたつの世界に振り分けられてしまう。
黄泉には、黄泉の王と言うアヤカシがいるらしいことを聞いた。その王と言うアヤカシが、常世と常夜にアヤカシを振り分けているのだそうだ。藍花はその王の話しか聞いたことしかないので、その王とやらが本当に存在するのか知る余地もない。
だが、それを聞いて余計に不条理を感じた。
たかが、王と言う偉そうな冠を持つだけの同じ穴のむじなのはずなのに、そんなモノに王以外の誰かの居場所を勝手に決める権利があるとは思えないかったからだ。
しかし、そんなことを嘆いても王と言う名の、悠然とした滝のようなものを遡って逆らう力など、ただのアヤカシである藍花には出来るはずもなかった。
ただ、いつかは絶対に自分も常世に行ってやろうと言う、根拠もない野望ばかりが猛火のように全身を駆けめぐっていた。
力が欲しい。
だが、力はどうやって手に入れる?
どれだけ同胞を傷つけて、動けなくすれば、力を手に入れることができる?
どうやれば、王に自分の力を見せつけることができる?
そして、どうやれば常世に身を置くことができるのだろうか?
そんな折りだ。何かの呼び声を聞いたのは。
噂では聞いていた。時々、彼岸から此岸へ渡って行くアヤカシがいると言う話を。
彼らはどうやって此岸へ渡って行くのか誰も知らない。
ただ、吸い込まれるように消えていくのだと言う。彼岸の、常夜のアヤカシたちはそれを、勝手に此岸へ渡って行ったと解釈しているだけだったのかもしれない。吸い込まれるように消える理由が他に思いつかなかったから、ただそれだけかもしれない。
藍花も聞いていた話のように、此岸へ吸い込まれた。その時見たものは、渦を巻く竜巻に似た何かだった。
気づくとそこは見たことのない世界で、見たことのない格好をしたモノがあった。見るなり、ここは此岸で目の前にいるのはヒトと言う存在のモノだと直感した。
徳永尚也と、名前は知らない男。名前を知らない男は、きちんとした身なりの徳永とは反対にだらしない格好で、前髪が顔にかかっていて表情を読み取ることができなかった。
そしてだらしない男が言った。
「知っている? 此岸から彼岸に帰ることができると、常世でも常夜でも好きな場所に行くことができるんだって」
彼らの言うことが信用できるとは思えなかった。
「それと、あなたはヒトの人魂を食べたことがある?」
突拍子もない質問に、藍花は上擦った声で否定した。
ヒトの人魂……それを喰らえば、自らのチカラを養い、向上させるものだともっぱらの噂だ。それと同時に、その人魂の味は一度口にしたなら二度と忘れ得ぬほど、アヤカシにとって至極美味なモノなのだと。
「たったひとつ、僕らの頼みを聞いてくれたら、自由にしていいよ」
その頼みと言うのが、白磁の欠片を一つ見つけて取り出すと言うこと。
白磁の欠片はアヤカシにしか見ることのできないもので、この此岸で数多存在するヒトの体中にあるのだと言う。そしてそれは、ヒトの死と同時に吐き出され、アヤカシが手にしなければ消えてしまうというモノだった。
最初は断った。何故、卑しいヒトの言うことなど聞かなければならないのか。それほど落ちぶれてなどいない。だが、だらしない男はこうも言った。
「そう。それなら、あなたは彼岸に戻ることはできないし……イツバに喰われて死ぬしかないね」
イツバ。
聞いたことがある。
此岸で、アヤカシを狩る一族の総称だ。
イツバに喰われると、「無」に成ると聞いたことがあった。「無」とは何か。その時の藍花には分からないことだった。
だが、常夜で争い合う時、相手に負けると全身に感じていたものがあった。
それは恐怖であり、戦慄と言う名のモノだった。
しかし藍花は、その時、沸き上がるものの名前を知らなかった。
知りたくなかった。
知ってしまうと、自分がもっともっと劣等に晒されてしまう。どこかでそれを感じ取っていたからだ。
だが、「無」はそれを超越した存在のように思えた。いい知れない恐怖と隣り合わせの「何か」だ。「無」は恐怖や戦慄より、もっと巨大で怪異なもの。
今の藍花はそれを感じていながら、自ら目を背け、その怪異をわざと理解しなかった。
「それにあなたは彼岸への帰り道さえ知らない。出口がなければ、ただ留まって、いつやってくるか分からないイツバに怯えて此岸を漂うしかない」
勝敗が歴然とした駆け引きだった。彼らは藍花にふたつ返事で答える以外の道を全て塞いでいる。
答えは最初から、相手によって決められていた。
それは藍花にとって、耐え難い屈辱だった。よりによって、ヒトの言葉に従う以外に自分を生かす方法がないこと、彼らに逆らう手段がないこと。
これもチカラがないから、だからこうなった?
本当に悔しい。悔しくてたまらない。
こんな奴等の言うことを聞くくらいなら、イツバにでも喰われた方が幾分かマシかもしれない。
でも、嫌だけど、こいつらの言うことを一つ叶えれば、彼岸に、しかも常世に行くことができるのか。
ふたつを天秤に掛けた時、藍花にとって重要だったのは「常世へ行くこと」だった。
一時、蔑まれても常世に行けばそんなもの返上できるかもしれない。
なにより、常夜のしがらみから解放されると思うと、彼らの言うことを聞くことなんて造作もないことのように思えた。
「約束してくれれば、あなたを必ず黄泉に還す道を教える。僕が開く」
互いの口約束に過ぎなかったが、藍花は還る道を知るために、彼らが白磁の欠片を手に入れるために、契約は成立した。
まただらしない男はこうも言った。
「あなたがイツバに捕らわれることがないよう、力を尽くすことも約束しよう」
そんなデタラメを信用したわけではなかった。
だから、試すつもりでヒトの人魂を盗ってみた。人魂を盗ることは造作もなく、ヒトがこちらに抵抗しなければ至極簡単なことだった。
人魂は果実のようだった。一口含めば、その味が忘れられないと聞いていたことも頷ける。何度でも盗って口にしたくなる妙味だった。
藍花が動くと、それに呼応するように彼らも行動した。藍花が動くと、どうしても残ってしまうと言う足跡を、彼らは巧みに消し去った。方法は知らない。そんなものは藍花に興味などない。イツバに追いかけられるための布石を取り除いてくれるのは、こちらとしても好都合だった。
そうしてふらふらと人魂を食い荒らしているうちに、出会った。
白磁の欠片を持つ少女、白石由良に。
藍花はすぐに由良から人魂を奪い、白磁の欠片を手に入れようと行動に出た。
だが、何故か上手くいかない。
これまで、手こずったことがなかっただけに、それは藍花を苛立たせた。
由良の意識を奪うことはできても、人魂も白磁も奪えない。
彼女を操って、何度も人魂を奪おうとしたが通じない。
そうこうしているうちに、イツバの総領に勘づかれ、身を潜めることになる。
だが、時間は藍花に残酷だった。
由良がこともあろうに、イツバの一人と接触してしまった。
どんな運命の悪戯か。
一瞬、常世を遠く感じた。
これを乗り越えなければ、常世はおろか、黄泉でさえ遠い。
彼らとの約束を果たせなければ、支援は途絶え、藍花はひとり此岸でイツバに追われて、やがては始末される。
一度知ってしまった人魂の味だ。この世でそれを絶つことは難しい。人魂を喰らわずに、この此岸で存在していけるはずがない。藍花は人魂を口にした瞬間からそれを悟っていた。
最悪のシナリオだ。
考えるだけでも嫌だった。
逃げおおせるはずもない。
そう思った時、もう覚悟は決めなければならなかった。
「守ってみせなよ。アタシは必ず奪うよ。あの娘の中に眠る白磁の欠片をね」
最初に啖呵を切ったのは、藍花の方だった。その場でイツバを殺してやっても構わなかったが、それではつまらないと思った。
気持ちが高ぶっていたのかもしれない。イツバに会ったこと、手を引けと言われたこと、それらに対して。どうせやるなら、いっそのこと大きいことを成し遂げた方が、黄泉に還って箔がつくと言うものだ。それに、イツバが由良を守りきる保証などどこにもなかった。
どちらにしてももう後戻りはできない。
藍花は心の中でそう感じていた。行く道はふたつにひとつなのだ。
「さて……そろそろ行こうか」
大きな木の枝に腰掛けていた藍花がゆっくりと立ち上がる。
その日の夜明けの空は血で染めたように真っ赤だった。雲までもが朱に染まり、これから始まる戦陣に花を添えるようだ。
藍花はその空を少し眩しそうに見つめ目を細めた。
そして足元に視線を降ろす。
仰々しい格好をした人間たちが、列を組んで社殿の奥へ入っていくのを確認した。