謀.香りと雨とケーキ
「それじゃ、頼んだよ。由良ちゃん」
そんな祖母の言葉で送り出されて、海沿いを走る電車に揺られて、途中の駅で下車す
る。駅を過ぎて反対側に住む、今回の祭を統括する会長の家に向かっていた。
改札を降りて駅を出ると真夏の強烈とも言える日差し降り注いだ。アスファルトから
の照り返しは、帽子を被っていても全身に突き刺さるようだった。
駅前は人々が行き交っていた。それぞれ汗を拭ったり、水分を補給したりしている。
空気の流れを遮る凪に、景色はゆらゆらと歪んで見えた。そして遠くを見るほど、そ
れはまるで蜃気楼を見ているかのようで不思議な感じがした。
蝉の鳴く声が、鬱陶しく感じるほどあちらこちらからこだましている。その音に街中
を走る車の音や、生活音が混じりあって、頭の中がまどろんでしまいそうだ。
時折、街路樹の下を通ると、すっと暑さが柔らんで、溶けてしまいそうな意識が戻っ
てくる。
空を見上げると、高い建物の間を縫うように真っ青な空に白い入道雲がいくつも立っ
ていた。
遮断機の下りた踏切の前で電車が行き過ぎるを待つ。赤色の点滅と、カンカンと言う
音がいつもより大きく聞こえるような気がした。そして四両編成の白い電車は、風を連
れて目の前を通り過ぎていく。遮断機が上がると、浮き輪を持った子供たちが勢いよく
走り出した。線路端の小さいお店に「氷」と書かれた旗が垂れ下がっていて、軒下の縁
台には猫が長くなって眠っていた。
それから古びた住宅街を少し歩いた。街中からほんのちょっと離れただけなのに、先
ほどより涼しいと感じるのは何故だろう。ただコンクリートの塊が少なくなっただけ、
木造の平屋の家が増えただけ、ただそれだけの差で流れる空気の温度までこんなに違う
ような気がする。視界が開けたせいもあるかもしれない。先ほどよりも空はずっとずっ
と広かった。
自治会長の家に近づいた時、その家の前に白い車が止まって居るのが見えた。
近づくとそれは外国の車で、興味のない由良でもそれが外国の値段の高い車であるこ
とを知っていた。
(会長さんの家の車じゃないなあ……)
ナンバーを見ると品川だった。
由良はその高級車を横目に、会長宅の門を潜った。
「……ええ、そうなんですよ」
玄関先から話し声が聞こえて来た。その様子に及び腰で近づく。会長と話しているの
は、背広姿の背の高い男の人だった。背筋をぴんと伸ばした後ろ姿がとても凛々しく見
えた。
由良がその背広姿に見とれていると、会長の方が由良を見つけてくれて先に声を掛け
てくれた。
「おお、白石さんちの由良ちゃん」
会長の声に背広の男性も振り返った。その時、一瞬視線が交わった。由良は慌ててそ
の視線を逸らすようにお辞儀した。
「こんにちは」
「ちょっと待ってな。用意はしてあるからね」
そう言うと背広の男性に、少し待ってくれと言う仕草を見せてから玄関の奥へ消えて
いった。
その間、由良はその背広の男性と二人きりになる。二人の距離は三メートルくらい離
れていたけれど、何だか変な雰囲気だった。
相手は別のところを見ていた。顎が上がっていたから空でも見ていたのかもしれない。
由良は無意識にその横顔を見つめてしまっていた。鼻が高くて、少し彫りの深い顔立ち
をしている。そこに細いフレームのメガネを掛けていた。年齢は、二十代前半くらいだ
ろうか。大人の、社会人の雰囲気を纏って、同じ場所にいるのに別の世界の人のように
見えた。
しばらくすると、パタパタとサンダルを鳴らして会長さんが玄関から風呂敷包みを片
手に出てきた。
「これ。二人分入ってるからね」
風呂敷包みを由良に差し出しながら問い問い掛けた。
「はい、急にお手数をおかけしてしまい、すみません」
「いやあ、いいんだよ。若い娘さんが二人もお手伝いに来てくれるんなら、みんな大歓
迎さ。手伝い終わったら、姉妹で写真撮ってあげるからね」
その言葉に由良は微笑んで応えた。結局、妹も巫女をやりたいと急に言い出した。羨
ましくなったのだろう、加奈は祖母に食い下がり、困った祖母は会長に相談。急に一人
増えることになった事態に周囲は慌ただしくなった。各方面に迷惑を掛けて、加奈は巫
女装束を無理矢理勝ち取った。こんな時、自分の気持ちを素直に言って、奔放に振る舞
ってはばかることのない加奈が羨ましくも妬ましく感じた。由良だったら、自分のやり
たいことより、周りの迷惑を先に考える。そして、結局、何か欲求があったとしても逡
巡の末に我慢してしまう。
「いろいろ、どうもありがとうございます。じゃあ、失礼します」
夏空の中、汗一つかいていない涼しげな様子の背広姿の男性を一瞥して、由良が踵を
返そうとした時だ。
「ああ、そうだ。由良ちゃんの家、磯崎の近くだった」
何かを思い出したように独り言を言った。
「徳永さん、と、言ったかね」
会長は振り返ると、そこに立ちつくした「徳永」と言う名前らしい背広姿の男性を呼
んだ。
「はい」
呼ばれて徳永と言う男性はこちらに振り返った。
「先ほど言ったようにわしはこれから用事があって、案内することが出来ないのだがね。
この娘さんは磯崎の側なんだ」
その言葉に由良ははっとした。
「由良ちゃん、悪いんだが、わしに代わって彼を磯崎まで案内してやってくれないかね」
「へっ……?」
何となく話しの流れを感じていたが、実際に言われると何とも突拍子のない話だ。
「磯崎の祭とか、そう言うのを調べているらしくてね。少し歴史やら、祭の概要やらは
話したんだが、実際に神社を見たいようなんだよ」
にっこりと会長は笑った。
「え、ええっと……」
「わしはこれから町内会の集まりで、席を外す訳にはいかないんだよ。こんなお願いす
るのは本当に悪いと思うんだが、ひとつ頼まれてくれないか?」
両手を合わせて片目を瞑ると、本当に申し訳ないような表情をして、ひそひそ声で会
長は由良に頭を下げた。
由良は少し考えた。妹の無理強いを通してくれた恩義が頭を掠めた。会長さんはきっ
と、各方面への調整やら、要望やらの忙しい中、加奈の為に駆け回ってくれたい違いな
い。それを考えると、当人でないけれど、妹の言い出したことでも会長には恩を感じる。
だからそれを仇で返すわけにはいかなかった。
「……はい、分かりました」
なんてお人好しなんだろう。自分を嘲笑うしかないかった。
「助かった! 恩に着るよ。ありがとう、由良ちゃん」
会長さんは本当に嬉しそうに笑うと、背広の男性の方に向き直った。
「この娘さんがわしの代わりに案内してくれると言ってくれたよ」
「そうですか、それは助かります。よろしくお願いします」
徳永は薄く笑うとこちらに向かって歩いて来た。そして由良の前に立つと、右手を差
し出した。
由良はゆっくりと顔を上げると、すぐ側で秀麗な姿を目にした。そしてその右手をぎ
こちない動作で握り返した。
会長宅の門前に止まっていたのは徳永の車だった。
「さあ、どうぞ」
助手席のドアを開けて貰って、由良は慣れない感じにゆっくりと中へ進んだ。
「閉めますよ。いいですか?」
由良が頷くと、スマートな動きで優しくだがしっかりとドアを閉めた。そして後部座
席のドアを一度開けると、由良が預かった風呂敷包みをシートの上に納める。
「それじゃ、よろしく頼むよ」
会長が門前まで見送りに来てくれていた。
「白石さんちの可愛い孫娘だ。変な気だけは起こさないでくださいよ」
冗談交じりに会長が言うと、徳永は礼儀正しく「ちゃんと家まで送らせて頂きます」
と答えた。そんな生真面目な表情に、先ほどまでへらへらしていた会長の顔が少し引き
攣ったのが見えた。
徳永は運転席に回って来るとドアを開け、乗り込んできた。
「シートベルトは大丈夫ですか?」
本人もシートベルトを締めながら問い掛けて来たので、由良は短く「はい」と答え頷
いた。静かにエンジンが掛かると、車体がゆっくりと動き出す。助手席側に立っていた
会長が少し屈むと手を振ってくれたので、由良も微笑んで手を振った。
徳永の運転する車は電車の線路とは違う道を走る。途中、乗ってきた電車が通過する
踏切を渡るが、それ以外はあまり見慣れない風景で少しだけ戸惑った。
助手席のシートはしっかりとしているがふんわりとしていて座りやすかった。やはり
自宅の車とはやはり雲泥の差で、車内も広くて心地良い空間だった。そんなに広く感じ
る車内に緊張感からか、由良は小さく身を縮こまらせてしまっていた。もっと開放的な
気持ちで、ゆったりと座れていたなら、この車内の雰囲気を楽しめたかもしれない。し
かし、なにしろ初対面の人の車に乗って、今のところ会話の一つもないのだから、縮こ
まってしまうのも仕方ないことだったのかもしれない。そして、ふわりと車内を包む柔
らかい匂いは、徳永から漂ってくるのだと気づくのにしばらく時間が掛かった。
「突然ですみませんでした」
信号で止まった時、徳永が急に口を開いた。
「来る途中でナビの調子が悪くなってしまって。宮地さんの家までは何とか辿り付けた
のですが、磯崎神社までの道がよく分からなくて、困って居たところでした」
良く通る綺麗な声と発音が、ひとつひとつ、由良の耳に届いた。
「磯崎神社には、どうして行くことになったんですか?」
「文化研究している……と言えば格好もつきますかね」
研究、大学か何かでなのだろうか。教授と言われればそう見えなくもないけれど、ち
ょっと若すぎる。研究生なら身なりが整い過ぎているし、こんな高級車に乗っているの
はちょっと違和感がある。でもお金持ちの家柄の人かもしれないし、などと空想を巡ら
せた。
「それ、とても綺麗ですね」
走り出して少しして、突然徳永が言った。最初は何について言っているのか分からな
かった。だから、由良は真っ直ぐ前を見つめている徳永の横顔を見ていると、彼はふい
にこちらに視線を向けた。そしてそれが左の手首に注がれてていることにようやく気が
ついた。
「あ……っ」
瑠璃の石を束ねたブレスレット。
先日、八重樫から預かったものだった。
あの日、とても不思議なことが起こった日。
帰り際に返そうとしたら、持っていてくれと頼まれた。それが八重樫にとってとても
大切なものであることを教えてくれたのに、それなのに、彼はこのブレスレットを由良
に持っていて欲しいと言った。
理由は分からない。と言うか、八重樫は教えてくれなかった。ただ、ただ、なるべく
肌身離さず持っていて欲しいと言ったのだ。それは切実な願いのようにも聞こえて、由
良は頷くしかなかった。その切実なまでの願いを込めてまで持っていて欲しいと言った
理由も、きっと明日の、朝一番の行事が終われば全て明らかになるような気がしていた。
「それは瑠璃ですよね」
「よくご存じですね」
最近はパワーストーンが流行っているから知っている人も多いのかもしれない。だが、
それは若い女性の間だけだと思っていたから、徳永のような男性が知っているのは意外
だと由良は思った。
「和名の瑠璃、又は天藍石。一般的にはラピスラズリと呼ばれている。方ソーダ石グ
ループの鉱物である青金石を主成分とし、同グループの方ソーダ石・藍方石・黝方石な
ど複数の鉱物が加わった類質同像の固溶体の半貴石である。深い青色から藍色の宝石で、
しばしば黄鉄鉱の粒を含んで夜空の様な輝きを持つ」
交差点で右に曲がる。ハンドルを大きく右に回す。
「モース硬度は五~五.五。透明度、半透明ないし不透明。色は群青色および瑠璃色、
時に白色、金斑色を含み、劈開は不明瞭。古代の原産地はほとんどアフガニスタンで、
そのほかシベリア、チリ、カナダ、アメリカ・コロラド州などでも産出する。日本では
産出しない、と言われている」
次々と飛び出してくる学術的な言葉たちに由良はあっけにとられるしかなかった。
「"Lapis"はラテン語で「石」、ラズリはペルシア語からアラビア語に入った "lazward"。
天・空・青などの意でアジュールの語源。それが起源で「群青の空の色」を意味してい
る。この先はどう行けば?」
「…あっ、えっと、道なりに二キロくらい進んで、五差路地を左斜めに」
急に道順を問われて、びっくりした。
圧倒的な知識だった。そうだ、パワーストーンとしての知らなくても、こうした学術
的な部分から、こう言った石についての知識を持つ人だっているのだ。
「ラピスラズリは、水晶と並び最も古くかつ強力な霊石とされている。世界各地で「聖
なる石」とされ、邪気を払い、神につながる石として、様々な儀式や呪術に用いられて
きた。シュメール文明、メソポタミア文明の遺跡からも出土し、ツターンカーメン王の
黄金の棺にもはめ込まれていた。仏教においては七宝のひとつに数えられ、日本でも昔
から水晶と瑠璃は「幸運の守り石」とされてきた」
その話の合間も、磯崎神社へ向かう道筋を何回か訊かれた。
車外は酷い暑さなのに、この車の中はとても涼しくて快適だ。でも、空の色は少し変
わってきた。雲が多くなって、時折太陽の光を遮っていた。
由良は徳永の話を聞いて、八重樫がとても大事なものだと言っていた意味がなんとな
く分かった気がした。
「それがあなたの持つ、その石について言われていることです」
またちらりと徳永が、今度は由良の顔を見た。由良は首を横に振った。
「知りませんでした。とても凄い石なんですね、このラピスラズリ……瑠璃と言う石は。
でも、もっと凄いのは、徳永さんの知識です」
本当に感心していた。きっとこの人の頭の中の引き出しには、今以上のもっともっと
たくさんの知識が詰め込まれていて、出したい時にいつでも引き出せるよう準備してあ
るのだろう。もしかしたら、知らないことなんてほとんどないんじゃないかとも思わせ
るほど、由良にとっては圧倒的だった。
「大した知識ではありませんよ。たまたま、調べていたことの副産物でしかありません」
少し、徳永は笑ったような気がした。
「それに、ラピスラズリは今では特別な代物ではありません。それなりの金額を提示す
れば手に入れることが出来るものです。わたしでもあなたでも、誰でも。ただ、あなた
の持っているものは、そうではないようですね」
会長宅の前を出発して、そろそろ四十分くらい経っていた。
「あくまで、私がそう感じると言う程度のものでしかありませんが」
金銭では手に入れられない何か貴重なものと言う感じがしますと、徳永は続けた。
そして左側に磯崎神社の看板が見えた。
車を駐車場に止め、二人は参道を歩いて境内に向かった。
まだ出店も出ていて、人通りも結構なものだった。昼間見る参道は一昨日の夜の姿と
は一変していた。青い空の下で、緩く吹く風に提灯が揺ている。あの夜に見た幻想的な
風景とは違って、のんびりとした中に祭りの華々しさがあちらこちらからかいま見えた。
しばらく歩くと境内の入り口に真っ赤な鳥居が姿を現す。
徳永は神社の関係者に話しを聞きに行くと言ったので、由良は辺りを散策して回るこ
とにした。
真っ赤な鳥居を見て、由良はあの晩に起きた事を思い出していた。
ただ、ただ、不思議としか言いようのない出来事に遭遇した祭りの夜。八重樫の言葉
を借りて言えば、そこは磯崎神社であって磯崎神社ではない場所。
そこは深い暗闇の淵で、ぽっかりと浮かんだ青白い月だけが辺りを照らし出していた。
月の光がこんなにも冷たいものなのだったことを、その時に初めて知ったのかもしれな
い。
ちょうどこの辺り。
由良はあの時座っていた縁台を遠目に眺めた。今は子どもを連れた母親らしいき人が、
ちょうど木陰になっているその縁台に座って休憩していた。
(あれは本当に何だったんだろう? もしかして、夢でも見ていたのかもしれない)
強い太陽の光に目を細めながら手で影を作りながら、由良は社殿を見上げた。
(けど、夢だったら……)
それなら、この左腕に掛かった瑠璃のブレスレットは一体なんだ。
あの時、見たモノを恐れた由良の体を抱き留めてくれた八重樫の温もりはなんだ。
夢なら全て否定される。
あの温かさも嘘になる。
嘘だとは思いたくない。
夢なら、与えられたものは全てが幻になり果てる。
幻にするには切なすぎるし、現実にするならあまりにも劇的だった。
体験したことのないものを理解するのには、時間と心の整理が必要だ。八重樫の側で
体験したことについて、知りたいと言う欲求が高まると同時に、それを受け入れること
が出来るかどうなのか。由良は考えあぐねていた。
知りたい。
けど、知ってしまえば、世界は確実に変わる。
自分が知っている世界とはほど遠いと思われるものを、受け入れることが自分には出
来るだろうか。
変わってしまった世界の中で、今までと同じように暮らして行けるだろうか。
(明日になったら、みんな知ってしまうかもしれない)
そう思うと、知ることが怖い。
だが、由良の中では確実にそれへの興味や関心、知りたいと思う欲求は高まっていた。
人間とは不思議な生き物だ。知りたいと思いながらも、それを否定しようとする。相
反するもの同士が、対極陰陽図のように互いの尾に噛みついてぐるぐると廻り永久運動
のように繰り返す。
もしかしたら、知ろうとする時間が由良にとっては短すぎるのかもしれない。
だが、知るために用意された準備の時間は今も進み続けている。一刻と、揺るぎなく。
止まれと願っても、世界中の時計を壊しても、その時は必ず訪れるのだ。
気づいたら社殿を一周していた。元の場所に戻って来ていたが、徳永の姿はまだ見え
なかった。きっとまだ話が終わっていないのだろう。
由良は鳥居から真っ直ぐ伸びた石畳を進んで、賽銭箱が置かれたところまで進んだ。
お金を投げ込んで二礼二拍一礼をして、磯崎の神様に心の中でお願いした。
(明日は何も起きませんよう、見守ってください)
しばらくすると徳永が玉砂利の上を歩いて社務所の方から帰って来た。
「お待たせしました」
彼は少し申し訳なさそうな顔をして謝って来たので、由良は首を振った。
「大丈夫です、久しぶりに探索していたので。徳永さんは、お話聞けましたか?」
「ええ。いろいろ聞かせて貰いました」
さすがに少し喋り疲れたような表情を見せ、大きく息をつく。そして喉が渇いたと言
って、木陰の側の自動販売機まで由良を連れ出した。
徳永は由良にはよく冷えた紅茶を、そして徳永自身はコーヒーを買った。
「立派な鳥居ですね」
木陰から見える朱塗りの鳥居を見上げて徳永は呟いた。
「はい。私も幼い頃から知っています。子どもだから大きく感じていたのだとばかり思
っていたのですが、そんなことはなくて、今でも何度見てもここの鳥居は大きいです」
もう幾度となくこの鳥居を見上げたが、その大きさと偉大さは年齢を重ねても変わら
ない磯崎神社の目印だ。大きい鳥居と併せて、社殿の裏手奥にある樹齢百五十年余の御
神木の山桜の木も磯崎の目印だった。春先にはきらびやかに咲き誇る桜を愛でに来る観
光客も多く、四月には桜祭りも行われる。
「鳥居は、神社などにおいて神域と人間が住む俗界を区画するもので、神域への入口を
示すもの。一種の「門」です」
徳永は一口コーヒーを飲んで続けた。
「「門」は神奈備という「神が鎮座する」山や森、これは磐座・磐境 ─ 日本に古く
からある自然崇拝の一つを指します ─ とも繋がってます。これら鎮守の森や神木や霊
峰や夫婦岩は神域や神体であると共に、「此岸」人の住む世と「彼岸」人成らざる者の世
との境目と考えられ、魔や禍が簡単に往来できない、若しくは人が神隠しに遭わないよ
う結界として、注連縄や祠が設けられている」
「……確かに、そう言われると、神社の鳥居は門のようにも見えます。それに鳥居を潜
ると急に厳かな雰囲気になるような気がします」
由良が言うと、徳永は一つ頷いた。
「「門」は端境、つまり境界です。神奈備などの自然環境の変化する端境の場所だけでな
く、坂、峠、辻、橋、集落の境など人の手の加わった土地である「道」の状態が変化す
る場所も、異界との境界と考えられ、魔や禍に見舞われないように、地蔵や道祖神を設
けて結界とした。鳥居もまた然りです。
これらに共通するのは「場の様相」。環境や状況が転移する、あるいは変わる空間や時
間を表していて、夕方や明け方は、昼と夜という様相が移り変わる端境の時刻でもあり
ます。
昼間はどんな賑やかな場所や開けた場所であっても、深夜には「草木も眠る丑三つ時」
といわれるように、一切の活動がなくなり、漆黒の闇とともに、「時間が止まり、空間が
閉ざされた」ように感じるからです」
徳永の話に妙に納得している自分がいることに由良は気づいた。
そうだ、あの時も鳥居を潜ったら、人々が行き交う賑やかな場所に戻ることが出来た。
先日の出来事と、徳永が語る内容に一致する点がいくつもあって、偶然とは思えない
偶然に、由良は悪寒を感じて身が震えた。
そんな由良に気づくこともなく、徳永の話は続く。
「また社会基盤がもっと整備されると、市街の神社や寺や門などから、伝統的な日本家
屋の道と敷地の間の垣根や、屋外にあった納戸や蔵、住居と外部を仕切る雨戸や障子ま
でも、此岸と彼岸の端境と考えられ、人成らざる者や妖怪と出会う時間や場所と考えら
れました」
妖怪の文字に、あの時に見た、割れた急須から腕が生えたモノの姿が由良の脳裏を過
ぎった。
再び背筋がぞくりとする。由良は思わず辺りを見回した。明るい日の元で、それらは
影も形もない。でも、あの静謐な暗闇の中なら、どんなモノでもすぐに目の前に現れそ
うな気がした。
「どうかしましたか?」
よほど長い時間、地面を見ていたのだろう。少し心配そうな声で、徳永が問い掛けて
来た。その声にはっとして、由良は目をぱちぱちさせながら徳永の方に向き直った。
「すみません。あなたには興味もない話なのに、随分長く話してしまいました」
徳永は飲み終わったコーヒーの缶をゴミ箱に入れながら、申し訳なさそうに謝ったの
で、由良は「いいえ、面白いお話でした」と慌てて答えた。
「そうですか……それならば良かった」
薄く微笑んだ徳永につられるように、由良も少しだけ笑みを浮かべた。
しかし、心の中の恐怖は尾を引いていた。明日もここへ来なければいけないのに、何
だか急に不安が肥大していく。
それは、夏空を覆い尽くし、太陽を隠して、冷たい風が急に吹き荒ぶ雷雨の前触れの
ように。
「一雨来るかもしれませんね」
ぽつりと呟く徳永の視線を追うと、北側の空が黒煙のような色で迫って来ているのが
見えた。
「降り出さないうちに帰りましょう」
二人はやや急ぎ足で駐車場に戻った。参道の方も、雲行きをいち早く察した出店の主
人たちが撤収の準備をし始めているところだった。
徳永は会長と約束を守って由良をきちんと送ってくれた。帰るすがら、少し寄り道を
したが、それは由良が今日つきあってくれたお礼にとケーキを買って渡してくれたから
だった。
「ありがとうございます。お気遣いまで頂いて、返って申し訳ありませんでした」
半分開いたドア越しに、由良は徳永にお礼を言った。
「いいえ、こちらこそ急なお願いに付き合って頂いてありがとうございます」
「これからご自宅に帰られるんですか?」
由良が問うと、徳永は頷いた。
「あの、お気を付けてお帰りください」
「ありがとう」
由良が半分開いた車のドアを閉める。すぐに走り出すと思いきや、急に助手席の窓が
開いた。
「また、何処かでお会いできたらいいですね」
その時、徳永は笑っていた。
由良は徳永のことを勝手に、表情の起伏が少ない人だと思いこんでいた。だが、彼も
こんな風に笑うことがあるのだと、意外だと思った。
少し唖然としている由良を横目に、徳永の白い車はゆっくりと走り出した。
また、何処かで?
会うことはあるのだろうか。
由良は走り去っていく車の後ろ姿を見送りながら思った。
そして、最後に見せた徳永の笑顔が、とても意味深く、由良の心の中に強く印象付け
た。