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あやし奇譚  作者: 鶴田巡
4/12

支.祭の夜

磯崎神社の祭りと言えば、この辺りでは町を上げて盛り上がる夏の風物詩のようなものだ。祖父母も祭りとなれば、自ら率先して手伝いに行くほど祭りが好きである。そのせいもあって、幼い時から前準備、後片付け、その他いろいろと手伝ったものだ。櫓や町内会の出店、御輿などが徐々に姿を現してくると、不思議とわくわくして胸が踊った。この時期が来ると、それほど祭が好きではなかった由良でも、何だか落ち着かずにそわそわしてしまう。夏祭りは、幼い頃からこの身体に焼き付いているのだなと改めて思い知らされる。

 それに今年は少し特別だった。

 磯崎神社の祭りは盛大な盛り上がりを見せるメインの三日を含んで約一週間行われる。その間、街に住む女性たちから毎年、何人か巫女の役を仰せつかり、神社で行われる式典や行事に参加するのだ。昔から祭りを見てきた由良は、この巫女の姿に憧れを持っていた。鮮やかな朱色の袴、頭に載せた小さな金色の飾り、美しく飾られたその巫女の姿に憧れない子供など、この町にはきっといないだろう。幼い頃は何度、祖父母の家の子になれたなら…と願ったことか。町の子供なら、そこに住んでいれば必ず巫女役の番が回ってくる。羨ましくて羨ましくて、泣いて駄々をこねて両親と祖父母を困らせたことがあったのは、今では懐かしい思い出だ。もちろん、今でだって少し羨む気持ちは残っているけれど、きっと自分には似合わないだろうとか、それは無理なことだと諦めていた。

 そんな風に未練を抱えながらも、巫女になれないことを諦めていた矢先、今年は祖母に巫女役の番が回って来たと言う話を聞いた。祖母は祭りの期間、巫女を勤めることになるわけだが、最後の日だけ、由良に巫女の役を任せたいと言い出した。

 そんな話が降ってわいて、にわかに由良の心は舞い上がった。

 なんでも最後の一日は神事の奉納が早朝から行われ、ほとんど一日立ちっぱなしになるのだそうだ。腰の悪い祖母は一日立っているのは大変だと言うことで、急遽、代役を立てたいと言うことだった。

 一日立ちっぱなしは少し苦労しそうだが、幼い頃から憧れた巫女の装束をまとえるのだ。こんな嬉しいことはない。由良は祖母に感謝したい気持ちでいっぱいになった。ひとつ、夢が叶う。

「由良姉、やっぱりお祭りで食べる焼きそばは最高だよねー」

 隣で一心不乱と言った様子で焼きそばをたいらげた妹の加奈が、それは満足そうな表情をして言う。

「駅前の焼きそば屋さんって、なんでお祭りの時はいつもと違った感じに美味しく感じるんだろ?」

 加奈が食べていた焼きそばは、駅前に店を構えている。祭になると神社の境内に町内会の出店として出店してくるのだ。確かに昔から駅前にある焼きそば屋の焼きそばは美味しい。

「お祭り限定の隠し味とか、あるのかな?」

 本気で悩んでいる妹を見て、由良はおかしくなって笑った。

「きっと、お祭りの雰囲気が隠し味ね」

 普段食べ慣れているものでも、食べる場所や雰囲気が変わっただけでより一層美味しく感じたりできる。人間の感覚とは、なんとも不思議なものだ。

 神社の境内は祭が始まったばかりだと言うのに、多くの人で賑わっていた。近所の人もいれば、見たことがないような人も大勢いた。海が近く、有名な社寺などの観光名所もあるこの町は観光客も一年を通して多くいる。

「なるほど。それならあたしの食欲も、お祭り限定解放中ってことかな? あー! あのじゃがバター美味しそう! 買ってくるー!」

 加奈はむこうのじゃがバターの出店に走っていく。せっかく着付けた浴衣が台無だ。

 由良が浴衣を着込んで居るとき、加奈は目をきらきらさせながらやってきて、「あたしも浴衣着たい」と言った。加奈はまだ、自分で浴衣を着られないので、母か由良に着付けて貰わなければならない。由良は加奈の祭での行動を予想して、身なり構わず走って回ってしまうんだから、浴衣は着ないほうが動きやすいのではないかと意見した。だが加奈は「乙女は格好で性格だって変わるのよ」と慣れない口調で言って、絶対に浴衣を着ると意地を張った。あまりにもしつこく着付けを要求されたので、由良は根負けして加奈に浴衣をきつけてあげた。

 しかし、いざ浴衣を着てみると、やれ帯がきついとか、鼻緒で足の指がすれて痛いだの文句ばかり。ようやく神社についたと思ったら、すぐにいろいろ買い食いを始める始末だ。あげくの果てには、浴衣の裾持ち上げ割って、勢いよく走って行く様だ。乙女が聞いて呆れる。

 けれど、それが加奈らしい。浴衣を着込んだからと言って、急に志雄らしくなってしまったら逆に気持ちが悪いくらいだ。由良は人混みの中に消えて行った、加奈の後ろ姿を見送った。

 それにしても、本当に凄い人出だった。行き交う人波の中で立ち止まっていると、何度も歩く人にぶつかってしまう。由良は加奈を待つために、少し人の流れが緩やかな端の方に離れた。

 少し離れた場所でも、人混みのざわめきは由良の耳にそれなりの大音量で響いてきた。その中には祭囃子も混じっていたし、出店の客引きの声もあった。ずっと耳を澄ましていいると、そのざわめきの波の中にどんどんと引っ張り込まれて行く。それは由良自身の声さえもかき消してしまう。


 ざわざわ

 ざわざわ


 それは本当に波そのものだ。人の流れも、その人々からこだます声も。まるで荒れた海のように、いろいろなものを巻き込んだ。由良自身も、その大波に飲み込まれてしまいそうになる。


 どんどんと自分の身体から、意識だけが遠のいて行く。

 身体と意識が分離する。

 人波にさらわれてはぐれてしまう。


 最近こんな状態に陥ることが多々あった。それは突如としてやってきて、そして唐突に終わる。気づいてみると、知らない場所で歩いていたり、行った覚えのない駅のホームで電車を待っていたり。

 おかしな行動だ。

 そんなの自分でも分かっている。

 大体、無意識のうちに何処かに出かけてしまうなんて、どんなに考えたってまともではなかった。それもその、記憶が欠落して何処をどうやってここまで来て、何をしたのかさえ分からないとなれば、かなり重傷だろう。

 けれど、由良はそれを疲れているせいだと思って有耶無耶にしてきた。日常生活とは言っても、新しい生活空間に心がついていけていないだけだ、しばらくして生活に慣れれば、きっとそんな状態も収拾がつくに違いない。

 でも、実際は本当に疲れていただけなのだろうか。生活に慣れていないだけだったのだろうか。

 新しい生活が始まってもう四ヶ月が過ぎようとしている。高校へ通う混み合ったバスの中も、たくさんの人で溢れかえる街の風景にも、その中を歩く一人としても、高校でできた新しい友達とのつき合いも、考えるよりもずっと適応していると思う。

 だからこそ、それは何故だろうと自分でも理解しがたいのかもしれない。

 この休みでそんな疲れもゆっくりと癒したいと思っていた。田舎に来れば、少しでも安らぐことができて、不慣れも何もかもリセットできるような気がして、期待していたけれど。今の調子では、それもなかなか難しいかもしれないと感じた。

「いたー、もう、どこか行っちゃったのかと思ったー」

 聞き慣れた声がざわめきを遮って飛び込んでくる。人波をかき分けて、加奈がこちらに急ぎ足で歩み寄って来るのが見えた。じゃがバターとたこ焼きを両手に持って、頬を膨らませている。

「ごめんね。さっきのとこで立ち止まってると、邪魔になると思ったから」

「急いで戻ったらいないんだもん、びっくりしたよ。…それにしてもすごい人だね。毎年のことだけど」

 加奈は辺りをぐるりと見回してそう言いながら、たこ焼きの入った容器を由良に手渡してじゃがバターをほくほくしながら美味しそうにほおばった。

「…ね、加奈。私、なんか変わったかな?」

 由良が急に切り出すと、加奈はゆっくりと首を傾けた。しばらくこちらを見ながら、口に入れたじゃがバターをむぐむぐ噛んでいる。

 やけにその沈黙の間が重く感じて、由良はもう一度自分から話しかけた。

「なんて言うのかな、高校生になって私って何か変わったと思うことない?」

 加奈はさらにもう一口、じゃがバターを口に入れ噛み砕くと、やがてごくんと飲み込んで言った。

「ぼーっとしてるよね」

「ぼーっと?」

「そうそう、由良姉は昔から全然変わらない」

 …確かに加奈の言う通りだ。

 よくおっとりしてるとか、周りから一テンポがズレてるとか、そう言うことは言われるけれど、そう言うのじゃなくて、いつもと様子が違うとか、いつも以上に上の空が多いとか、そう言ったことはないかと問うたつもりだったのだが。

「そう言う意味じゃなくて」

「そう言う意味じゃないなら、他はどんな意味?」

 加奈は存外難しそうに眉間にしわを寄せて考え込みながら、再び小首を傾げた。

 自分が思う以上に、周りはそれを感じていないらしい。

 自己に過剰になっているのだけなんだ。

 由良はなんだが安堵した。

「ううん、やっぱり何でもない」

 少しホッとして、笑みがこぼれる。こんな心配ごとなんて、すごく馬鹿馬鹿しい。

「勝手に自己完結してるし……高校生になれば、もう少し変わるかなって思ってたのに全然進化してないし!由良姉は、由良姉の枠を越えられはしないのかー…」

 加奈は哲学者のような独り言を言って、近くのゴミ箱に向かって歩いて行った。


 やっぱり新しい場所での生活にまだ慣れていないところがあるんだ。

 そして、ちょっと記憶が無い部分だって、よく考えれば今までにだってあったんだ。

 それは周りだって周知してるし、それが私の性格の一部なんだ。

 そんなに心配することでもないんだ、きっと。


 加奈の背中を見ながら、由良は自分にそう言い聞かせた。そして、やはり短い休みだけれど、この期間に心も体もゆっくり休めようと再度思い直した。

 そして、まだほんのり温かいたこ焼きに手を伸ばそうとしたとき。

 ちょうど膝の後ろあたりに何かがどしんと勢いよく当たった。その衝撃がかなり唐突だったので、一瞬足元がふらついてしまう。一歩前に押し出されながら、由良は後ろを振り返った。

「…犬さん?!」

 見覚えのある茶色の毛並みをした犬がそこで尻尾を振っていた。そう、あの時みたいにもう由良の顔を見ても吠えたりしない。

「こんばんは」

 そしてその少し後ろには、あの時と同じように少し困った顔したこの犬の飼い主がいた。

「あっ……こ、こんばんは」

 由良は急に恥ずかしくなって、顔を隠すようにお辞儀をする。たこ焼きを持った手はそのままに、ひどく不格好な挨拶だった。

「左京がぐいぐい先に進むから、なんだろうって思ったら、君がいた」

 由良はお辞儀したまま視線を少しあげると、茶色の犬がお行儀良く座ってこちらを見ていた。

「この間はありがとう。大切なものを拾ってもらって、お礼もできなくて、正直、申し訳ないって思ってたんだ。でも、またこんなところで会えてよかった」

 由良がゆっくりと姿勢を戻すのと同時に、彼はかがみ込んで左京と言う名の犬に寄り添った。

「その子、左京ちゃんって言うんですか?」

 犬の頭を愛おしげに撫でる彼の姿を見つめながら由良は問いかけた。そう言えば、この前、浜辺で会った時もこの茶色の犬をそう呼んでいた。

「そう。俺の大事な相棒」

と言って、彼は八重樫と言う名の青年は顔を綻ばせる。そしてひとしきり頭を撫で終えて、再びゆっくりと腰を上げた。

「その後、調子はどう? 送って行ってあげられなくて申し訳なくて、ずっと気になっていたんだ」

 顔色をうかがうように由良の顔をのぞき込んで、今度は八重樫が問いかけた。

「はい、こちらこそ心配をかけてしまって。もう大丈夫です」

 由良はにこやかに答えた。きっと、熱射病かなんかだったのだろう。祖父母の家に帰って、涼しいところで休んだらすぐに気分の悪さは取れた。

 だが、八重樫は憂い顔のまま由良をじっと見ている。由良はその視線に自分の目のやり場に困ってしまう。人からじっと見つめられるのは、いろんな意味で苦手だ。

「……本当に?」

 そう言うと、急に由良の左腕を掴んだ。突然の出来事に、右手に持ったまだ温かいたこ焼きを落としてしまいそうになる。

 びっくりしている由良とは対照的に、八重樫は由良の左手を開かせ、両手で包み込むと目を伏せた。

(こ、この状況って一体なに……!?)

 心臓がばくばくと音を立てる。良く知らない人にこんな風に手を握られて、振り払うこともせず硬直したまま立ちつくしている。一瞬、思考が止まって、また動き出したと思うと由良は顔面に血が集まって熱くなるのを感じた。きっと今の自分は、さっき見た露天商で売っていた茹でたこみたいに真っ赤になっているのだろう。そう思うとますます顔が熱くなる。

「『ケ』があまりよくないようだね」

 目を閉じていた八重樫が、ふたたび鳶色の瞳を開くと、意味の分からないことを言った。

 由良は真っ赤になった顔を背けるようにして下を向くと頭を振って「け、け……けってなんですかっ!?」と問いかけた。『け』と言われて思い当たるのが、『髪の毛』くらいしかないが、手を握って髪の毛の話はないだろうと、沸騰する頭の中で考える。

「『ケ』とは、『気』のことだよ」

「気……ですか?」

 由良は顔を少しあげて、八重樫の表情を盗み見る。彼は由良の手を優しく両手で包んだ自分の手をじっと見ていた。

「そう、元気の気、気力の気、気持ちの気。君は少しケガレてる」

「けが、れ?」

 きょとんとしながら、自分のどこかが汚れているんのだろうかとか、手はちゃんと洗ったよね、などと猛スピードで思考が回転する。

「汚れのじゃなく、気枯れ。気が枯れているって意味。人の気にはハレとケガレがあってね。健康な状態や、充実している状態をハレと呼ぶんだ。逆に病気だったり、気持ちが塞いだり、そんな状態をケガレと言うんだ」

「はあ……」

「この前会った時から、ちょっとそこが気になってたんだ。最近、自分でもおかしいなって思うことない? なんか急に記憶飛んだりとか、疲れやすいな、とか」

 まるで、さきほど心配していたことを知っているような口振りに由良は驚いた。誰にもそのことは話していない。

 びっくりして口をぱくぱくさせている由良を見て、八重樫は急にはたと口元を引き締めた。まるで、言わなくてもいいことを言ったような、気まずさが表情に表れていた。

「ごめん、今の最後のとこナシ。……とにかく、今もあまり顔色良くないから、十分気をつけてってことで。ゆっくり休んで、栄養補給が一番だね」

「あ、はい、ありがと、ございます」

 何? 何で分かるんだろう? 自分の不安点を言い当てられてびっくりと言うか、怖いと思ったけど、それ以上にどうしてそんなのが分かるの? 手に触れただけで、私のことが分かるの? 分かるんだとしたら、本当に怖い。怖いくらい当たってる。気がどうとか言ってるけど、それ見えるものなの?

 由良はゆっくりとぬくもりが離れていく左手を見つけながら考えていた。

 最近、気が見える人がテレビなんかで話題になっているけど、彼もその類だろうか。

 そんな人は信じられないけど、もしそんな人がいたとしたらすごいことだと思う。

 テレビで言うことなんてみんな作られたシナリオの一部に過ぎないと思って馬鹿にしていた。画面の向こうで繰り広げられていることなんて、ただのエンターテイメントだ。それを真に受けるほうがどうかしている。

 けど、なんでだろう。

 この人の言うことは、エンターテイメントでも、シナリオに書かれたお芝居でも、ねつ造されたものでもない。

 よく分からないけど、彼が言うことはそんな風に作られたものではない、と感じるのだ。

「何してるんですか、由良お姉さん」

 突然かかった声に由良はびくんとして飛び上がった。後方に視線を転じると、側にあった木の陰から、妹の加奈がこちらをじっとりと見ている。

「わわっ……!! か、加奈!!」

「ほほーん、ははーん、そう言うことですか」

 目を細めてにやついた顔で加奈は勿体ぶった風に言いよどんだ。

 その様子に、由良ははっとして正面に振り返る。まだ、八重樫は由良の手を握ったままだったし、彼は少し驚いたような表情で由良の向こう側の加奈を見ていた。

「ちょ……これは違うの!」

 再び顔に熱が集まってくるのを感じながら、否定をしてみたものの。

「ふふーん、由良姉も隅に置けないねぇ」

 にやにや顔の調子はいっそう勢いを増しているようだ。加奈は完全に勘違いを起こしている。

「だ、か、ら、違うんだって!」

「はいはい、ごちそうさま」

 弁解しようにも、加奈は聞く耳持たない感じだ。肩をすくめると、口の端をきゅっとあげて慈悲深い微笑みを由良に投げて寄越した。

「じいじとばあばには、テキトーに言っておくから。ごゆっくり☆」

 加奈はそう言って、ばちーんとウインクした。そして由良の右手にあったたこ焼きをさらい、鼻歌交じりに人混みの中に消えて行った。

「本当に違うんだって……」

 今更何を言おうと加奈の早とちりは続くだろう。頭の回転が早い子だが、一度思いこむとなかなか別の意見は聞かない頑固者タイプなのだ。

「ははっ、おもしろい子だね。妹さん?」

 頷いて見せると、八重樫はまたかみ殺したような声で笑った。この状況で焦っているのは由良一人だけらしい。左京も何かを面白がるように、すっくと立ち上がると高い声で二回吠えた。

 何だかとても面倒なことになった。加奈は誤解しているし、八重樫はそれに動じている様子もないし。右往左往しているのは自分だけなんだと思うと、悔しいやら情けないやらでため息しか出てこない。

「なんか凄い誤解に巻き込んじゃって、すみません」

 由良は向き直って、ぺこりと頭を下げて謝った。自分だけならまだしも、全然関係のない八重樫を巻き込むような形になってしまったのは本当に申し訳ない。

「いや、いいよ。誤解されるようなことを最初にしたのは、こっちだしね」

 八重樫は全く気にする風もなく、笑顔で応じた。確かにいきなり手を握って来たのは彼の方だし、誤解されるシチュエーションを演出したのも、他ならない八重樫の方だ。それに対して動揺しているのは由良一人。本当に何でもないなら、もう少し冷静に反論したって良かったのだ。けれど、どぎまぎして狼狽してしまった。今思えば、何でそんなに気が動転したのだろうか。

 由良は八重樫の顔をこっそりのぞき見た。由良よりひとつ頭分くらい大きいので、おのじと見上げる格好になる。夜闇の中の、ぼんやりとした明かりの中でおぼろげに横顔が映し出されている。

 凛とした表情の中に、どこか優しい光を灯す黒檀色の双眸。夜風にさらさらと揺れる茶褐色の髪、由良の手を握ったまま離されることのない大きな手。骨が浮いてごつごつしているけれど、力強くて温かい。

「そうだ、誤解ついでに少しつき合ってくれないかな? 拾い物のお礼のしたいから」

 ふいに振り向いた八重樫と目が合って、また心臓がひとつ、どきんと大きく弾けた。

「向こうに行こうか。ここじゃ、落ち着かないからね」

 有無をいわさず、由良の手を引いて八重樫は歩き出す。由良には返事をする間さえなかったくらい、唐突だった。

 しかし、出し抜けであってもなくても、由良は八重樫の好意に甘えただろう。

 それがかなり急で、しかも少々強引だったのは、照れくさがりで思ったことをはっきりと言えないタイプの由良にとって、ちょっと幸運だったかのかもしれない。


 表参道の賑わいも、少し裏に入れば閑散として静かなものだった。人の姿もまばらで、表の喧噪が嘘のようだった。

 休憩用に用意された縁台に座って、道すがら買ったかき氷を二人で食べた。その時、先ほどは気づかなかったが、八重樫の左手首には、あの時由良が浜辺で拾ったブレスレットが掛かっていた。暗闇の中でも、確かな存在感を表している。

「それ、大事なものだって言ってましたよね」

 ふいに掛けられた言葉に、最初は何を指して言っているのか分からない様子だったが、由良の視線の先が自分の左手だと気づいてゆっくりと頷いた。

「うん、この瑠璃は、家に代々受け継がれて来たもののひとつなんだって」

 一族に伝わって来たものなら、八重樫が大切なものだと言っていた意味が理解できる。無事に持ち主の元に返ることができて、本当によかったと改めて胸をなで下ろした。

「石にも寿命があるから時折一個一個取り替えられながら、祖父やその前の祖父、俺が知らない人たちの手を渡って今ここにある。何だか不思議な話だよね」

 そう言って、八重樫は手首ごと瑠璃を月夜にかざした。柔らかい月の光を受けて、それはあの砂浜にあった時とは全く違うかたちで輝いていた。

「俺の家は十代続く古い家柄なんだ。昔から由緒ある一族に仕え、当主を守る。その証のひとつがこれ。……なんて、今の世の中じゃ考えられないよね。あんまりかけ離れてて、最初は俺もびっくりした」

 由良は改めて八重樫の顔をのぞき込んだ。そんな話を聞かなければ、特別な仕来りの中で生きている人だとは思うはずもないくらい、彼はそれこそ普通で、どこにでも居そうな青年だった。

 でも、そんな話を聞いた途端、急に八重樫との距離を感じた。どんなものかはよく分からないけれど、伝統ある家柄の人間であると分かった時、自分のような、平凡な人生を歩んでいる人間とは、別の世界で生きている人なのだとはっきりと確信したのだった。

 由良は自分の手を見つめた。さきほど握られた手の温もりが遠ざかって行くのと同じように、冷たいかき氷が手の体温を奪うように、何かの隔たりと距離を感じた。 

「そんな大役成せるわけないって思ったよ。何もかも半人前で、考え方もぬるくて、そんな俺が誰かを守るなんてね」

 自嘲したような笑みを浮かべて、八重樫は独り言のように言った。

「い、いえっ、きっとできます。八重樫さんなら、できると思います!」

 由良は慌てて堰きを切った。そんな由良の言葉に八重樫がきょとんとしている。

 自分でもよく分からないうちに発した言葉だけに、次の言葉が見つからない。決して社交辞令などではなく、本心から思ったことなのに、どんな風にそれを伝えればいいのか思い当たらない。探せば探すほど、言いたいことは逃げて行くように思えてやきもきしてしまう。だから思うより先に口を動かした。

「八重樫さんみたいな人なら、きっと大丈夫です。誰だって最初は半人前だけど、いつかはきっと一人前になります。それに、八重樫さんの手……」

 とても温かかったから。誰かを守れるくらい、大きくて温かい手だったから。

 最後の言葉は言えずに飲み込んでしまった。

「……ありがと。そう言ってくれると、頑張れるよ」

 でも、八重樫は飲み込んだ由良の言葉を、まるで聞いたていたかのようだった。

 由良は自分が言った言葉に恥ずかしくなって俯いた。隣で囁いた八重樫の顔を見ることができなかったけれど、きっと微笑んでいただろう。

 なま暖かい夜風が吹いて、頬を撫でる。

 一瞬の沈黙。

 遠のく祭囃子。

 耳が痛くなるほどの静寂。

 八重樫の左手が、由良の肩を抱いた。

 心臓が飛び出すかと思った。あまりにそれが急過ぎて、由良の体が硬直する。

 胸の拍動を聞かれてしまうのではないか、そう思うほど距離は近い。

「ごめん、なんか厄介なことになった」

 それは最初、空耳だと思った。由良が慌てて顔を上げてすぐ側にある八重樫の表情を確認する。傍らの八重樫の顔は、こわばっていた。

 一帯の空気が張りつめて、緊張感が漂う。訳の分からない悪寒に、由良は鳥肌がたった。

 辺りに注意の視線を向けている八重樫と同じように、由良も辺りを見回した。

 人影がない。先ほどまであんなにたくさん人がいたのに、気配すら感じられない。何の音もない。ざわめきも、喧噪も、虫の鳴き声すらも。

 そこはまるで、由良が知っている神社の境内であって、全く知らない別の場所のようにも思えた。

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