参.イツバひとひら
麻紀がイツバの総領を訪ねた折、街中が少々騒がしくなっている、と、聞かされた。
空虚モノことだった。
イツバはウツロモノとヒトとの均衡を守るために存在する。
ウツロモノとは、ヒトの世に現れ、何らかの影響を与えるものである。
ヒトの住む世を此岸、もしくは現世と呼び、ウツロモノの存在する場所を彼岸、もしくは黄泉と呼んだ。
ウツロモノは、特に忌みを込めて呼ぶとき「アヤカシ」と言われる。
ウツロモノは彼岸にいるとされている。
そこは、ヒトの住む世とは表裏一体となった場所であり、ヒトが計り知ることのできない世界だ。
ウツロモノがなぜに此岸やってくるのか、理由や方法は定かではない。
その方法は、自ら逢魔ヶ時と呼ばれる此岸と彼岸を繋ぐ場所を渡りやってくるとか、誰かが出入り口を開いて呼び出したり還したりしている、ヒトが死ぬと彼岸と繋がってウツロモノが流れ出す、など様々だ。
理由も他説あるが、ウツロモノはヒトの魂を喰って生きながらえている、ウツロモノは此岸でヒトを見守る、アヤカシからヒトを守ると言ったこともしばしば語られたりする。
しかしウツロモノがヒトの世に姿を見せ、影響を与えて行く理由は、本当のところ、誰にも分からない。
ただ一つ分かっていることは、ウツロモノ……アヤカシはヒトを殺すことがある。
イツバはそう言ったアヤカシを還す、あるいは封じると言ったことを生業としていた。
ウツロモノはどんなヒトにも見えるものではない。
代々そう言うモノが見える家系や、生まれ持った体質と言ったものがあると言う。
イツバにもウツロモノが見えない者もいる。イツバの血を継ぐ者だからと言って、必ずしもウツロモノが見えたり、それを還す、封じると言う力を持つわけではなかった。
イツバは『五つ刃』と書く。
古くからウツロモノ・アヤカシと深い関わりを持つ、五つの家柄を指している。
ひとつ、総領『御子神』(そうりょう・みこがみ)
ひとつ、妖刀覇王を持つ『八重樫』
ひとつ、綾刀紅姫を持つ『橘』
ひとつ、密刀鴉丸を持つ『来栖』
そして、今は失われし血、禁忌の忌刀修羅を持つ『九鬼』
麻紀はアヤカシを還すことを生業とする『五つ刃』のうちの一つ刃、八重樫を継ぐ者。数えて十代目となる八重樫の名の継承者だ。
最近、アヤカシ退治の指示を受けたのは、ちょうど今から三ヶ月前にさかのぼる。
新緑が眩しく、緑の間を渡る風がさわやかで、弾むように心地良くなって来た頃のことだ。
この時世、人が一人亡くなったと言ってもあまりにも日常茶飯事なことで、誰も酷く驚く出来事でもなかった。
世間では新聞の地域欄に小さく載る程度のもので、その死に対して誰もがほとんど無関心だった。
当初は警察も動いたが、死亡した人々には「殺された」と思わせるような外傷はなかった。持病を持っていた人もいたが、検死を行ってもそれが死亡の引き金でないと判定された。性別、年齢などもばらばらで、さきほどまで家族と会話していて急に亡くなったと言う人もいた。
自然死・病死に見えず、殺人にはほど遠い。
首を傾げる不可思議な死。
そこで総領のところにこの件が持ち込まれた。
イツバは、警察関係、ひいては国家にも古くから通じている。人の手に負えなくなれば、それはイツバの出番なのだ。
調べた結果、連続した不可思議な死にはウツロモノが関わっていた。
しかし、ただのウツロモノ、と言う訳でもなかった。
普通なら、ウツロモノが見えたり、感じられたりするヒトは、その場所にウツロモノの残した足跡のような軌跡、あるいは気配、臭いのようなものを感じることが出来る。ウツロモノは自らそれを消して去ることは出来ず、そしてそれは消えないシミのようにくっきりと残されてしまうものなのだ。そして、ウツロモノ自身は、自らシミを残していることに気づかない。
しかし、今回の案件の場合、そう言ったものたちがそれはそれは巧みに消されて続けていた。
精巧なまでにその痕跡を消して去っている。
手練れた者でなければ、故意に消された痕跡を見過ごしていたかもしれない。それを考えると総領と言う人は優れていると言える。麻紀よりも歳下なのに、ウツロモノのに対しては敏感で聡いと言える。総領と呼ばれる地位に立つには相応しく、早々代わりなどいないだろう。
しかし、気づいていないものを、どうやって自身で消すことが出来るだろうか?
結論から言うと無理だ。
自分の知らないものを、自分で消すことは不可能。
「痕を残してる」と指摘されても、そのモノはそれを見ることが出来ない。
そうなると、他の何かが関わっていて…その何かが、意図的に無に、消し去っていると考えるのが妥当だろう。
だが、合点できるが、そうすることで誰が利益を得るのだろう?
消去することで益を手にしているモノが存在すると言う考え方自体に矛盾を感じる。この世でウツロモノと関わって、私益を受けることがあるなど聞いたこともない。
その部分がどうにも納得いかなかった。
だが、その考えを導き出したのと時期を同じ頃、ウツロモノの足跡はぱったりと消え失せた。
それはまるで、こちらの動きが読み取られているのかと疑うほどだった。
足取りが途絶えたと言う理由から、その件は一度保留され総領の元で改めて精査されることになり、こちらの手から離れた。
あれから三ヶ月弱だが、上からはほとんど、その件の話は降りてこない。何か進展があれば報告があるのはずだが、そんな情報も入ってこないところを見ると総領も手を焼いているのかもしれない。
今回の行動はウツロモノを扱う仕事ではなく、従兄弟から頼まれた使いだった。
随分と古くからの知人で、こちら側の仕事の折にはかなり世話になっていると聞いている。
麻紀はこちら側の仕事を本格的に任されるようになって一年足らずで、その知人と言う人にもまだ会ったことがなかった。今回はその挨拶も兼ね、この海の美しい小さな町へやってきた。
相手は麻紀を歓迎してもてなしてくれた。本来ならその日のうちにでも帰るつもりでいたが、先方が好意で宿泊してゆっくりするようにと勧めてくれたので、断るのも腰が引けて相手の言葉に甘えることになった。
正直、ここ半年以上ずっと働き詰めだったので、ここに来て休むことができたのはとても嬉しい。
一人でウツロモノに関わる仕事を請け負うようになってから、無我夢中に仕事に奔走していたからだ。
八重樫の名を持つからと言って、その血筋にあたる者全てに、ウツロモノを退治できるチカラが備わっているとは限らない。
現に八重樫は、三代続いてイツバの当主継承者がいなかった。
その間ウツロモノと関わることはなくとも、八重樫の名、そして妖刀覇王はその家に脈々と伝えられた。
麻紀にチカラがあることが発覚したのは、五歳の頃だったか。
最初は白くて長い、アメーバ状の淡い燐光を放つモノが見えたり、古い蔵の中で目隠しをして鞠をついて遊ぶ着物姿の女の子が見えたり、池の側でヒトほどの大きさを持ち、頭に草で出来た冠みたいなものをかぶった青白い鯰が見えたりした。
しかし、それは他の人には決して見えていなかった。だから、大人たちや友達から変な目で見られるようになって、麻紀はそれらの存在について語ることをやめた。子どもながらに、自分が妙なモノが見えることについて、他人と違っていることに気づいたのだ。
だから、そのことは自分の中だけの秘密にすることにした。
従兄弟の拓巳は、麻紀と五つ違いだったので幼い頃から本当の兄弟みたいに仲が良かった。拓巳は祖父母の大きな家に家族と住み、剣道の達人の祖父からその技術を学んでいた。
麻紀も最初は従兄弟の真似っこで始めたが、そのうちみるみる上達し、拓巳とは引けを取らないほどにまで腕を上げた。そしてやがてはお互いに切磋琢磨するようになった。
麻紀はそうして精神を鍛えることで、自分が見る変なモノから逃れようとしていたのかもしれない。だが、剣の道に進めば進むほど、自らが幻視しているモノが余計にはっきりとしてくる。幻視しているモノたちの声や音、それら全てが日常的に麻紀を取り囲むようになった。
「麻紀は…ウツロさまが見えるのか」
時々、空を眺めたり、独り言を言っていた麻紀に祖父はそう問い掛けた。
それが麻紀には衝撃だった。
初めて、自分の見ているものを共有できるヒトが現れたことに。
麻紀は嬉しくなって、今まで出会った数々のウツロモノの話を祖父に聞かせた。
しかし祖父は、楽しげに話す麻紀とは真逆に、硬い表情でその話を聞いていたと言う。
麻紀は一通り話し終えると、祖父は言った。
「ウツロさまは、此岸にはあってはならない存在だ。気軽に話しかけたり、話を聞いたりしてはいけない。ウツロさまは、あちら側で生きている。気持ちを傾け過ぎると、麻紀もあちら側に連れて行かれてしまう」
祖父からそんな言葉を向けられて、麻紀は落胆した。
麻紀にとって秘密にしていた存在だが、決して自分に害を成すモノではなかった。
ウツロさまは、麻紀にいろいろなモノを見せて聞かせて、感じさせてくれる存在だった。ウツロさまが麻紀に見せてくれるモノは絶対的にこの世にないものばかりだ。それは新鮮で、斬新で、五感を超越していた。
素晴らしいモノであって、負の要素で否定するようなモノは何一つないと思った。
だから、祖父の言葉には反感を覚えた。
ウツロさまは自分の味方だ。決して危害を加えない、優しくて不思議な存在なんだ。
ウツロモノの存在を、一人きりで抱えた時間が長すぎたのだろう。麻紀の潜在意識にはウツロモノはそんな風に記憶され、何度も祖父に叱られてもウツロモノに積極的に関わることをやめなかった。
そんなある日、麻紀は祖父に連れられて、多摩の山奥の屋敷に出向いた。
屋敷は山一個分くらいありそうな広い広い敷地の中に、ゆったりと腰を下ろすように優雅に建っていた。具体的にどれくらいの広さがあると、麻紀たちを迎えに来てくれたヒトが教えてくれたが、幼い麻紀にはただただとても広いものだ、としか認識することが出来なかったほど、そこは広大だった。
そんな広いところにあって、歴史の教科書に載っている戦国大名でもいそうな屋敷に住んでいるのは、片手で足りるほどの数のヒトたち、使用人と運転手、双子の幼い兄妹、そして兄妹の母と言う。その兄妹の母も、一年の大半は家を空けているのだとか。実質、住んでいるのは幼い双子だけのようだった。
通された客間も広すぎて落ち着かない。内装、設えられた調度品、知識のない幼い麻紀でさえ、これらはとても高価なものなのだと分かる。開かれた障子戸から見える庭の景色は手入れの整った日本庭園で、ししおどしの音が遠くから心地よく響いていた。
客間に後から現れたのは、麻紀よりもずっと幼い少年だった。名前は霜と言う。
それが総領・御子神霜との初めての出会いだ。
かくも麻紀より幼いはずのその、霜と言う少年は、その外見の幼さからは想像できないほど大人びて、普通の大人でさえ使わないような難しく、そして威厳に満ちた言葉遣いで祖父に話しかけた。
やがて祖父と話を終えた霜は、大人びて落ち着いた視線を麻紀に寄越した。それは冷たく、氷の矢のような鋭さを持っていたことを覚えている。冬の荘厳な寒さ、凛と張り詰めた雰囲気、それは霜と言う名に相応しい雰囲気の持ち主だ。
霜は開口一言に言った。
「ウツロモノ…アヤカシはヒトが思うほど、生易しい存在ではない」
いきなりの言葉は、麻紀の胸を貫く。
このヒトも、あのウツロさまたちを否定するのか。
「アヤカシはヒトに危害を加え、ヒトを脅かし、ヒトを喰う。あれは我等、現世に住まうモノたち共通にして、最も忌むべきモノ、そして決して免れることができない天敵」
そんなことはない。
麻紀は思ったが、とても口に出せる雰囲気ではなかった。
でも、ウツロさまたちはこの世にない、不思議な話をしてくれる。
美しいモノを見せてくれる。
感動を教えてくれる。
彼らとは、共存していける。
少なくとも、俺自身は、ウツロさまと上手くやっていける。
だが、霜は麻紀の心を読んでいるように言った。
「忘れるな。アヤカシは所詮、裏側に生きるモノ。表と裏は共に同じ場所を共有できはしない。表が裏に入り込めば、それはたちまち異端となる。それは逆もまた然りだ。例え、君が出会ったアヤカシが、君に危害を与えなかったとしても、それは本当の顔を隠した偽りの姿に過ぎない。アヤカシは、ヒトと対等な立場では共存できない」
幼い少年の語ることを、麻紀は否定することがやはり出来なかった。
とてつもない圧倒的な威厳の違いと言うか、言葉の重みは、麻紀の否定を言葉にする前から受け付けない。
彼の前にあっては、全てがひれ伏さずにはいられない…。
霜と言う少年はそんな、超越的な存在感を身体から滲ませて、佇んでいる。
「君はいずれイツバの一人として、僕に従い、アヤカシと相対することになる。そうなれば分かるだろう。僕らは狩るか、狩られるか、それだけでしかないことを」
そう言って、霜は一振りの刀を麻紀に託した。
それが妖刀覇王。
麻紀には覇王を操る資格があるのだと、霜は話した。
そうして、覇王を自在に使いこなすための修行が始まった。修行に明け暮れる日々の中で、霜の言葉は胸の奥に支えたまま、理解も否定もなく、ずっと留まっていた。
やがて霜の言葉の通り、彼を主軸とするイツバの一つ刃になり、ウツロモノと対峙するようになり、あの日、霜が言っていたことを目の当たりした。
彼らはヒトを傷つけ、時には殺した。
狩るか、狩られるか、その二者択一の中、常に身を寄せていなくてはならなくなった。
霜の言ったように、麻紀は、ウツロモノに傷つけられ悲しむヒトの姿を見た。
そこに怒りや憎悪を滲ませたのは、紛れもないことだった。
だが、麻紀はまだ本当にウツロモノがヒトにとって有害なモノなのか、理解しかねている。ウツロモノと向き合い、戦う中で、本当はどうなんだろうと思う時がある。
ウツロモノを忌み嫌い、アヤカシと呼ぶべきか?
本当にウツロモノは、ヒトにとって宿敵だと言えるのだろうか?
感動や、ときめきを与えてくれたのも。
恐怖や、憎悪を与えるのも。
姿形は違うけれど、どちらも麻紀にとってウツロモノだ。
そのことは、この一年ずっと頭の端に留まって、ふとした時に眠りを覚ましては疑問となって降りかかってきた。
どのくらいの時間、そのことで考えを巡らせていたのだろう。ふと気づくと、辺りの暑気はうっすらと涼しさをはらみ、太陽は西に沈みかけて辺りを深い茜の色に染め上げていた。
遠くからざわめきが聞こえ、それに混じって賑やかな笛や太鼓の音も聞こえた。
そう言えば、今日は近所の神社の境内で、地域の夏祭りがあると家人が話していたことを思い出した。散歩がてらのぞいてみるのもいいかもしれない。
暑さで少々バテていた犬の左京だが、夕方になり涼しくなったこともあってか、聞こえてくる祭の音色に耳を側立てて尻尾を振っている。
麻紀はそんな左京を見て、「よし、お祭りに行ってみるか」と声を掛けると、彼は嬉しそうに一声吠えた。