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あやし奇譚  作者: 鶴田巡
2/12

弐.影のない女

退屈だ。

 退屈で、頭が壊れてしまいそうだ。

 夜半を過ぎた人気のない公園。

 常夜灯の光に誘われ、羽虫や蛾が集まって来る。光の中に飛び込もうとして何度も何度も光源を包む分厚いガラスにぶつかって、ぱちんぱちんと無意味な音を立てた。何度もガラスに突っ込み続けた虫たちは、やがて力つきて死んでいく。退屈な生き様だ。

 虫たちを誘う常夜灯の光がわずかに届く場所で、尚也はライターの火をつけた。

 ジュボと鈍い音とともに赤い炎があがる。口にくわえた煙草の先に火を近づけ、ゆっくりと息を吸い込んだ。

  梅雨も終わり頃だと言うのに、今夜はやけに涼しかった。

 あの昼間のむせ返るような蒸し暑さが嘘のようだ。緑の多い公園だと言っても、都会の真ん中。多少汗ばむとは言え、人を待つのが億劫でないのが不思議なくらいだ。

 この時期になると、尚也は思い出す。楽しみにしていた夏休みを迎えずに、息を引き取った妹のことを。もう、十年以上も前の話だ。

 祥子は、尚也より六つ年下の妹だった。

 彼女の病気が発症したのは七歳の時。まだ小学校に通い始めて間もない頃だ。

 授業中に急に倒れ、救急車で病院に搬送された。白衣とヘルメットを身につけた救急隊員たちに囲まれ、担架の上で苦しそうにしていた妹の姿は、今でも脳裏に焼き付いている。

 それ以来、妹は入退院を繰り返し、長い時は半年以上も入院していた時もあった。尚也は学校のから帰るとすぐに一人でも妹の元へ見舞いに行った。

 早く元気になるように。

 とにかく、それだけを願って妹に会いに行く。

 時には野に咲く花を摘んだり、通り道の庭先に咲く花を折って住人にひどく怒られたりもした。妹の大事にしていたぬいぐるみを持っていったら、すごく喜んでくれたけれど、こっそり病室に持ち込んだのが看護士に見つかって取り上げられたこともあった。

 その時はどうしてと思ったけれど、今になってみれば、抵抗力の弱まっていた妹の元に、ばい菌だらけのぬいぐるみを持ち込むと言うのは、妹の命に関わる重大な過失だった。

 看護士は後にぬいぐるみを消毒して、妹の部屋に置いてくれた。

 ある六月の最後の週の話だ。

 梅雨が明けたのにまだ空模様が曇りがちですっきりしない日々が続いていた。久々に家族そろって休日を過ごしていた時、ふいに父が、夏休みは旅行に行こうと言い出した。

 いつも梅雨の時期から夏の初めにかけて調子を崩す妹が、その年は思いもよらず元気だった。両親も尚也も、そのことが嬉しかったのは言うまでもない。だから、父はこの夏休みに家族で旅行に行こうと言い出したのだろう。

 妹の目は輝いていた。

 元気に過ごせる夏休みが来ること、そしてその休みに家族と旅行に行けること、すべてが初めて。それをあこがれ、それに期待し、体験がない長い休みを迎えることにおおいに胸がふくらんだだろう。

 尚也も、はしゃぐ祥子の姿が眩しくてしかたなかった。


 けれど、それは叶わなかった。

 あと数日で夏休みと言う日。

 猛烈な暑さが日本列島を直撃し、各地で観測史上希にみる猛暑日に見舞われた日。

 暑さと疲労がたたったのだろう。

 朝から顔色の冴えなかった祥子は、夕方に緊急入院する。

 

 そして、あまりにも急に息を引き取った。


 あの暑さと。

 体温を無くして行く妹の体と。

 青白くなった顔と。

 朱色に染まる夕焼けと。

 止めどなく流れる涙と。

 静まりかえる病室と。

 

 十五の尚也の、記憶に焼き付いた忘れ得ぬ光景だ。

 祥子は、あんなに楽しみにしていた夏休みを迎えることができない。

あの笑顔を見ることも、声を聞くことも、全て叶わない。

 もう二度と。


 自分はなんて無力なんだろう。


 その死は誰のせいでもない。

 けれど、尚也はもっと自分にできることがあったのではないかと思った。

 それはきっと、両親も一緒だっただろう。


 あの時、もっと早く妹の異変に気づいていれば。

 どうして祥子の死は、その時でなければならなかったのか。

 せめて、家族で旅行し、夏休みを終え、楽しい記憶を残してやりたかった。


 それだけが悔やまれて、過ぎ去った日々だけが鮮やかに蘇る。


 そう思っても、結局、時間は戻らず、後悔と言う文字の前に頭を垂れるだけ。

 過去は過去でしかないし、どんなかたちであれ、生きるもの全てに平等に死は訪れる。


 やがて自分に納得のいくような答えを見つけて、ようやく折り合いをつけたのは、それから一年後だった。


 人は儚い。

 だから、祥子の分も自分が生きなくては。

 何か大切なものを、生きる中で見つけなければ。


 煙草の灰が燃え尽きるなり、ぽろりと落ちた。

 目の前の現実が、プールで大量の水を飲み込んでしまったときのように頭の中になだれ込んでくる。

 それではっとした。

 尚也は一度、気持ちを落ち着かせるようにゆっくりと呼吸する。

 そして、吸いかけた煙草を足下に落とした。くすぶる火を、靴で押しつぶす。


 生きる中で大切なものを見つけよう。

 生きることが儚い故に、がむしゃらにつかみ取らないと、それはこの手の中からこぼれ落ちてしまう。

 だからなりふり構わず、後ろは振り返らず、ただひたすらに、見えない何かを追って生きていく。大切な何かの為に。


 まだ子供だったころ、そうやって一心不乱に「何か」を探し求めて奔走した。

 それは生きることにとても真面目だったと言えるだろう。そのころは妹のぶんまで生きると言う、それ以外考えられなかったし、考える必要もなかった。

 だが、心血を注ぐほどに冷めていくような気がしてきたのはいつのころからだろう。


 子供のころの決意は、大人になるにつれて失われて行く。

 明らかに、紛れもなく。


 狂奔すればするほど、気持ちとは裏腹に頭の中が冷静になって、日々が平凡になり果てて行く。

 自分と言う輪郭さえ曖昧になって、その存在の理由も、意味が分からないものに劣化して朽ちて行く。

 大勢と個人。

 その境界そのものが失われて、大きな一つの濁流の中に飲み込まれてしまう。

 例え、意志の欠片が残されていたとしても、その流れはあまりにも大きすぎて抵抗さえ通用しない。

 ただ流されるだけ。

 退屈で、鬱屈で、魅力のない、満たされない灰色の日々。

「本当につまらないな」

 尚也は呟いた。その顔は退屈と言うのに相応しく、感情に乏しかった。

 張り付いた鉄仮面のような表情、光を映さない冷たい目、それらは尚也自身でも呆れてしまうほど様になっていた。

「それはアタシのお守りが、ってこと?」

 暗闇から急に女性の声が聞こえた。

 しかし、尚也は驚く様子もなく顔を向ける。

「…時間は守ってくれませんか? 私もそれほど暇ではありません」

「イヤね。人間って時間にうるさいわ」

 木陰からすっと姿を現したのは、場違いな着物姿の女性だった。色白の肌に、唇だけがばかに鮮やかな紅色をしている。

「つまらないと、別にあなたに向かって言ったのではありません。それに、お守りをしているわけでもありません」

 尚也の言葉に、女はうふふと笑った。

「あなたは自由になる代わりに、約束をした。私はその約束を受け取る役目を担っているだけです」

 そう言った尚也の目が鋭く光った。 その様子におどける素振りを見せて、女は着物の裾を口元に当ててもう一度笑う。

「約束もヒトも、面倒ね。そんなのは、あんたの言葉を借りれば、つまらないものよ」

 頭一つ分くらい背の高い尚也を見上げ、女は言った。

 尚也は目を細めると女から視線を外して足下の自分の影を見つめる。常夜灯の光から作り出された長い影だったが、隣に立っている女の影はない。


 そう、女には影はなかった。


 彼女はこの世のものではない。

 だから、この世界の光では影を作らない。作れない。


 その妖艶な出で立ちも、月白の髪も、蒲葡色の目も、透き通るほどの象牙の肌も。

 全てがこの世にあってはならないものだ。


 彼女のようなモノに忌みと穢れ、そして敬意を払ってこう呼んだ。


 アヤカシ。

 

 彼岸のモノ。

 ヒトでない存在。 


 それが彼女の、アヤカシと言う名の存在なのだった。


「約束を守らないと言うつもりですか?」

「約束守らなかったら、アタシはどうなるって?」

「消えてもらうことになると思います」

 尚也はひどく冷淡に言い放ったが、女は全く動じる様子もなかった。それどころかどこか楽しそうに笑っていた。

「それは困るわ。せっかく此岸で好き勝手できるようになったんだから」

 女はまるで踊るようにくるりと身を翻す。豊かな長い髪が、月明かりの下で美しく跳ね上がった。

「約束を守れば、私は貴女には二度と干渉しません。藍花」

 そうだ。約束さえ違えなければ、こんな厄介な女になど、頼まれても関わらない。

 この女の、藍花の側にいると言うことは、『イツバ』に目を付けられることになる。それは尚也の望むところではない。

「見つけたわよ、白磁の欠片。しかもとっておきに大きいの」

 飛んだり跳ねたり、楽しそうにしていた藍花がこちらを振り返ると、突然言った。

「……それは本当ですか?」

 思わず尚也が問う。

 まさかこんなに早く見つかるとは思っていなかっただけに、尚也としては驚きを隠せない。

 見当がついていると言う旨の話は聞いていたが、まさか本当に見つけていたとは思っていなかったので、藍花が約束を忘れていないと言ったのは嘘ではないのだと少し感心した。

 話が本当なら一刻も早く入手して、藍花と手を切りたい気持ちだった。

 だが、藍花は笑顔を消し去り、急に神妙な顔つきになった。

「本当。けど、ちょっと厄介」

 厄介だと言う藍花の言葉に、尚也は引っかかりを覚えた。

 白磁の欠片を持って産まれて来るヒトは類い希だ。だから探すことは大変だが、奪うのは容易い。藍花のような存在であれば、それは簡単に引き出せる。白磁の持ち主の命を奪ってしまえば、白磁は手にすることができるはずなのだ。

「イツバが側に?」

 尚也が問うと、藍花は首を振った。

「違う。白磁の持ち主がなかなか手強い。殺しただけではきっと手に入らないと思う」

 何故だ? 通例に倣えば、死に際に体から吐き出されるはずだ。そしてそれは普通のヒトには見えないし、放っておくと別の誰かにところへ行ってしまう。

「それはどう言うことですか?」

「そんなの分かれば苦労しない。分からないけど、持ち主が無意識に守ろうとしているのか、あるいは、何らかのチカラで守られている」

 白磁の欠片を持っている者が、自分でそれを所持していると言うことを認識していると言うのは聞いたことがなかった。例え無意識でも、欠片を守ろうとしていると言うのは厄介だが、逆に興味深い。

「でも、絶対に手に入れて見せるわ。……それがお互いの約束。それに長くあんたたちに関わっていたくない」

 なるほど。長く関わり合いを持ちたくないと思っているのは、同じ気持ちのようだ。お互いリスクが高くなることは分かっているようだった。

 イツバに関係がないと言うところで安堵があったものの、彼らに見つからないと決まったわけではない。

 藍花は最近少し目立ち過ぎている。

 此岸では彼女たちの動きに目を光らせているのは、イツバとそれに関わるごく一部だけだ。それほど大きな問題として、社会に影響を及ぼさない。

 ただ、イツバはこの手の専門だ。少しでも均衡が乱されたとなると、すぐに天秤のバランスを保つために動き出す。

 聞いた話では、イツバの一つが動き出していると言う情報もある。

 藍花がイツバの一つにでも捕まるようなことが起きると、計画がまるで破綻してしまう。また振り出しに逆戻りだ。

「分かりました。伝えておきます」

 身を隠すことはあっても、この一件から逃げ出すようなことはまず無いと判断し、尚也は返答した。どちらにしても所詮、藍花は逃げられない。逃げたところで糸のついた対象が、こちら側から逃げおおせる訳もない。

「白磁の欠片のことは、漏らさず報告をお願いします」

 念を押すつもりで言いかけると、それは面倒そうな表情で藍花が遮る。

「分かっているって言ってるでしょう! ……本当に面倒な生き物ね、ヒトって言うのは」

 最後の言葉には、尚也を含む全てのヒトと言う生き物に対しての嫌悪感と差別的な意識が含まれているように感じた。

「ヒトならざるモノであるから釘を刺しているのです。あなたのような方は、煙のように消えてしまえかねない。だから、安易には信用できません」


 藍花は此岸の光で影を作らざるモノ、此岸を喰うモノ。

 ヒトならざるモノ。


 尚也は自分にそれを言い聞かすように、頭の中で復唱した。


「ふん…ヒトだって満足に信用していないくせに、ね」

 藍花はそうやって尚也を皮肉った。

 だが、尚也は藍花の言葉に共鳴した。

 藍花の言ったことは間違っていない。

 人間そのものを信用していないうえ、あまつさえ、この自分の意志や身体も、ふわふわとしたカタチのないもののように感じて、信じがたいとさえ思っている。

 

 人間でさえ、出来ないのに。

 アヤカシなら、尚更だ。


 押し黙る尚也を嘲笑にも似た顔付きで見つめる藍花は、尚也の前から急に消えた。

 それは本当に、煙が空気に混じって見えなくなるように、霧散して見えなくなった。


 姿を消した藍花を探すように、ぐるりと周りを見渡した。

 だが、もうここにアヤカシはいない。


 間を置いて、ゆっくりと息を吐き出す。

 気づかないうちに自分でも緊張していたのだろう。

 少しだけ、肩の荷が下りた気がした。


「信じられるモノなんて、何もない。明日の自分を描けない。次の一瞬に消えてしまうかもしれないものを、留めておくことなんて出来ない」


 尚也は呟いた。


 自分も、他人も、世界も。

 次の一瞬が永久に分解して、未知のものならば、そこに次の何かを描いて留めて、信じることなど、尚也にはできない。

 だからこそ、これ以上何も失うものなどなかった。


 だが反面、何もないからこそ見つけたいとも思う。

 何かを掴んでいる感触を、何かを信じている感覚を。

 足の先から頭まで感じたい。

 灰色の世界に彩りを取り戻すために。

 極彩色の中に自ら飛び込んで、全てを染め直す。


 アヤカシに関わることで、それらを手に入れることができるのではないか。


 尚也はそんな風に感じていた。

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