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微睡む意識の外、朝を喜ぶような楽しげな音が聞こえてきた。
鳥の鳴き声を目覚ましにして、私はいつものように起床する。そして枕元に置いてある、予定を書き込んだ手帳をめくった。
「今日は特に用事はないみたいだな」
そうだ、セリーヌを誘ってどこかへ出掛けようか。そうと決まれば、こんなところでゆっくりしている暇はない。
私は急いで支度をし、クラウスのいる厩舎へ走る。
小屋から出してクラウスに飛び乗り、門を出ようとした時。
「あれ、セリー、ヌ……?」
何か違和感を覚えたが、私はそのまま森を抜けた。
「久しぶりだな。馬に直接乗るのは。馬車を手に入れる前は乗っていたんだけどな」
……あれ、でもなんで私は馬に乗っているんだ。セリーヌを迎えに行くんだ。馬車でなければ……?
やがて彼女の店、ラフェドレーヴに到着した。
「クローズド……。今日は休みだったかな?」
店には鍵がかけられ、カーテンも締め切られている。
でも今日は営業日なはずだし。少し不安になり、私は呼び鈴を鳴らしてみた。
しかし、何度鈴の音が響こうとも、セリーヌが顔を見せることはなかった。
「ああ、病院か」
なぜそう思ったのか自分でもよく分からないが、ヴァン=クライク中央病院へと移動する。病院へ着くと、足が勝手に動いているかのように、特別病棟百十五号室へと向かっていた。
早足で病室まで来ると、その名前を確認する。
「……名前が、ない」
私は勢いよく部屋の扉を開け放つ。そこには、綺麗に整えられたベッドと脇には木製のスツール。窓は開け放たれカーテンがそよ風に揺れていた。まるで、誰かが窓から出て行ったかのように。
私は部屋を出て、近くを歩いていた看護婦に声を掛けた。「セリーヌが入院していないか」と。
すると女性は、信じられないことを言った。
「セリーヌさんはお亡くなりになりました。あなたが連れて行ったじゃないですか」と。
そんな馬鹿な……これはなんの冗談だ? 私は夢でも見ているのか?
病院を急いで出て、私は屋敷へと出戻る。
「まさかそんな、セリーヌが……死んだ?」
そんなわけないだろう。きっと……そうか! セリーヌはあの場所にいるんだ。森の広場に。そうに違いない。
屋敷へ着くと厩舎へクラウスを入れる。そのまま私はあの広場へ……。
森の中でここだけ、木々が避けている場所。木漏れ日がシャワーのように降り、まるで円形のステージのように照らし、空を望める処。
けれど来てみたものの、セリーヌの姿はどこにも見当たらない。
「どこにいるんだ……セリーヌ。屋敷にいるのか?」
私は屋敷へと戻ることにした。
死んだ? セリーヌが?
あの時の看護婦の言葉が、何故か棘のように心に突き刺さっている。屋敷の中へ入ると、玄関にはベージュ色のヒールブーツが揃えられていた。
「やっぱりいるじゃないか。セリーヌが死んだなんて……あの女性も不謹慎だな」
私はセリーヌを探して、屋敷の中を歩いた。
とりあえずリビングかな? 料理でも作って待っていてくれてるのかもしれない。そう思いリビングのドアを開ける。
「……いないな」
部屋の中を見渡しても、セリーヌの姿はどこにもない。
「……ん?」
ふとテーブルの上に食事が用意されているのに気付く。パン、サラダとスクランブルエッグ、それに紅茶。
セリーヌが用意してくれたんだ。けれど一瞬頭を過ぎった記憶。
「――あれ? でもこれは、私が……用意、した? いいや、そんなはずは……」
不安に駆られ、次の場所へと走る。書斎だ。
彼女がいるとしたら、沢山のドールを見にここへ……。
「セリーヌ!」
書斎の扉を強く開けるも、ここにも彼女の姿はなかった。
どこにいる。どこにいるんだ、セリーヌ……。
「……ベッド」
何故かは分からない。分からないがベッドにいる、そんな気がした。
長い廊下を疾走し、私は寝室へと向かった。さっきまで寝ていたベッドへ。そして寝室のドアを乱暴に開けて中へ入る。
「セリーヌ!!」
カーテンから洩れる、太陽の光が照らしているベッドの上に、探していた人をようやく見つけた。
「セリーヌ……ここにいたのか」
どうやら眠っているみたいだった。静かな寝息をたてている。
まるで白雪でも纏っているかのように美しい眠っている彼女に歩み寄り、その頬に触れようとしたその時――――。
ウェディングドレスを身に纏ったセリーヌが、突如白骨へと変わった。
「っ! セリーヌ……。う、うわあああぁぁぁぁっ!!」
叫ぶと同時に、突如足元が崩れ、私は奈落の底へと落ちていった。
もう二度と這い上がれない。そんな気がするほど奈落は暗く、そして、深かった。
………………。
…………。
……。
「はっ!? ……夢か」
目を覚ますと、現実を確認するように周囲を見渡す。間違いなく屋敷の寝室だ。
しかし嫌な夢を見たな。セリーヌが死ぬなんて……縁起でもない。
先ほどの夢をかき消すように頭を振り、セリーヌに会いに行く準備をする。身支度を整え厩舎へと向かい、クラウスを出して騎乗する。
店に行けば会えるんだ。
きっと、会えるんだ……。
また笑顔で私を迎えてくれるはずだ。そう願い、彼女の店へと馬を走らせた。店へ到着しても、夢と同じように「CLOSED」の掛札。
その時何故かあの場所が頭を過ぎり、私は自然とクラウスを向かわせていた。
私と彼女が大好きだった、森の小さな広場へと……。
愛馬を小屋へ入れた後、私は広場へと向かった。その足取りは重く、膝は震え、喉は渇き、不思議と歯がガチガチと打ち鳴らされた。
何故かは分からない、恐怖に身を震わせながらも一歩、また一歩と歩を進めていく。
遠くから広場を見た時に、夢にはなかったあるものを見つけた。石の十字架だろうか。その下には、太陽の光を反射してきらりと光るプレートが設置されていた。
「……まさか――」
私は走り出していた。それがなんであるかを知っているかのように、体が勝手に動いていた。
それの近くまで来た時に、これは墓なんだと実感した。真新しい十字架には、そこに眠る主がいる。そのまま下にあるプレートに目線を落とすと、そこには――、
「――っ!! セ、リーヌ……」
私は思い出した。……いや、違う。信じたくなかった、信じられなかった。だからこの現実から目を背け、逃げ出したかったんだ。
店に行けばセリーヌの笑顔。二人で出掛け、笑い合い、愛を育み、一緒に幸せになれると思っていたのに。彼女はいなくなった。私の前から……。今はこの下で眠っている。二度と笑顔を見ることはない。
自然に力が抜け、気付けば泣き崩れていた。再び悲しみに打ちひしがれ、激しい嗚咽を漏らす。
涙が零れ落ち、セリーヌの名を刻んだプレートを濡らしていく。
もう戻ることのない日々に、別れを告げるように……。
しばらくその場を動くことが出来ず、私は虚ろな瞳で墓を見つめていた。まるで何かに取り憑かれたように、プレートに刻まれた彼女の名を、何度も指でなぞった。
もう還ることのない愛しい人に、別れを告げるように……。
それから屋敷へと戻った私は一人、リビングにいた。
ワインのボトルを開けては飲み、また開けては飲みの繰り返し。飲まずにはいられなかった。少しでもこの辛さを忘れたかった。心の空隙は、隙間どころか空洞と呼べるほど大きな穴となっていた。
そこには本当になにもない。人形たちへの感情ですら沸き起こらない。彼女を失った事実だけが、行き場のない遣る瀬無い思いとなって、心に大穴を穿っている。
それを埋める術を私は知らない。
それを満たす人は、もういない。
なぜセリーヌが死なねばならない。彼女は、幸せになるべき人だった、幸せになって欲しかった! 両親が死に、一人で店を守り、悲しむ間もなく苦労して。
いつもセリーヌは笑顔だった。自分は悲しくて辛いはずなのに。いつも私を心配し、励まし、慰めてくれた。彼女は、なにか悪いことをしたのか? 死なねばならない理由がどこにある! ……彼女をなぜ殺した。彼女の幸せを、どうして奪った。私は神を許さない。……決して。
-―――急に意識が途絶え、私は泥のように眠りについた。
目を覚ましたのは深夜だった。森は静まり返り、風も止んでいる。私はなぜか、妙に落ち着いている自分に気付いた。焦点の定まらない虚ろな瞳は変わらない。部屋に洩れる月明かりを、ただ呆と見つめている。
「……そうだな。そうしよう……」
誰に言うでもなく、ここ三日、頭の中を巡っていた一つの答え、結末。私はそれを選択することにした。自分にとって、パンドラに残された最後の希望のような、そんな一縷の望み。
情けないと思うだろうか。愚かだと笑うだろうか。
……でも、もういいんだ。
気付いた時には、夜の街へと出掛けていた。
いつもと変わらず、ヴァン=クライクには煌々と明かりが灯っていた。
目的の場所は中央都市の西の方にある。主に医薬品等を扱っている薬屋だが、毒物や麻薬等も扱っている店だ。
治安の悪かった昔のヴァン=クライクでは、殺人や暗殺などによく毒物が使用されていた。故にそういった物を裏で取り扱い、荒稼ぎしていた輩が沢山いたらしい。
女王直下の近衛隊や市警団の調査により、無断で毒物および麻薬等の販売を行っていた者の大部分は逮捕。そして見せしめに逮捕者全員が処刑されたそうだ。
今となってはそういった者たちはほとんどいなくなり、正式に認められた薬屋のみが商売を許されている。今から向かう店は、主に医療用の麻薬や、殺虫剤として使用する劇物等も販売している薬屋だ。他にもいくつか店はあるが、屋敷から一番近い薬局はここだから。
「妙に心が落ち着いている……。覚悟を決めると、こんなにも穏やかなのか」
さざなみ立つこともなく、まるで水を打ったように静かな心を感じつつ、私は夜空を仰ぎ見て呟いた。都会にありながらも、埋め尽くされることなく拓けた空には、無数の星たちが瞬いている。
ヴァン=クライクを西へ進みやがて裏路地へと入っていく。
迷路のように入り組む通りのいくつもの角を曲がると、だんだんと気鬱になってきた。闇が手招いているようで、けれどそれを跳ね除ける光は、もう私の心には一片の欠片も残されてはいない。
しばらく馬車を走らせると、袋小路へ到着した。その一角。奥まった場所に建てられたこじんまりとした一軒の薬屋。ひっそりとした静か過ぎる場所で細々と営業している、歴史の古い店だ。
御者席を降り、ふらつきながら店内へと足を踏み入れると、店主がこちらに気付き、正面を向いて頭を下げた。
大柄で大雑把そうな、およそ薬屋というイメージではない店主の風貌に少しばかり驚きを隠せない。
そんなに具合が悪そうに見えたのだろうか。店に入ると第一声に「お体大丈夫ですか?」と店主は気遣う声を掛けてきた。
私は、「いや大丈夫だ」と告げると一言――、
「シアン化カリウムを十グラム……」
生気のこもっていない声で店主に注文を出した。
すると店主は、「青酸カリなんて何に使うんです?」と聞いてくる。
それは当然だろう。目的なしに購入出来るほど甘くはない。だが私はもちろん、「殺虫だよ」と端的に答えた。
店主はしばらくの間、目的を見抜くような鋭い視線で私の顔を見ていたが、やがて納得したように頷いた。そして鍵が何重にもかかり厳重に管理されている戸棚ではなく、その下の簡素な引き戸の奥から古い瓶を取り出した。瓶のラベルには「KCN」と書かれている……シアン化カリウムだ。上の戸棚にも「KCN」の瓶があるが、何が違うのだろうか。
疑問に思っていると、店主はその瓶をテーブルに置く。まるで長年その状態で放置されていたかのような古臭い瓶は、蓋と口の間に隙間があった。
……あんなぶかぶかの栓で大丈夫なのか? まあ湿気にやられなければいいのかも知れないが。
訝しむ私の視線を店主は特に気にする様子でもなく、隙間のある瓶の蓋を開けた。手際よく秤で計量すると、それを小瓶へと移す。私はそれを受け取ると、支払いを済ませ無言で店を後にした。
後ろで店主が何かを言っているのが微かに聞こえたが、そんなことはもうどうでもいい。
「早く屋敷へ戻ろう……もう、疲れた……」
ゆっくりと馬車を走らせ、精気を失った空虚な瞳で街灯を見つめる。明かりがぼやけてゆらゆらと揺れているその様は、まるで虹のようだった。
今の私には、とても眩しく映る。
光から目を逸らし、私は夜の車道へと視線を落とす。等間隔に配置された街灯の下、こんな時間だというのに人が歩いている、馬車が走っている。
ヴァン=クライクは相変わらずだ。景色は多少変わっても、この街はいつまでも変わらない。
変わっていくのは……人の心。
街に響く蹄鉄の音に耳を傾けながら、私は再び空を見上げた。
……もう、この空を見ることもないだろう。
私は屋敷への、死への帰路へとついた。
屋敷へ戻った私は、いつものようにクラウスを……。
いや、もういいんだ。
「クラウス、お前はもう自由だ。今まで私の傍にいてくれて、ありがとう。友よ……さようなら」
ハーネスを外しクラウスの鼻筋をひと撫ですると、愛馬を厩舎へは入れず私はそのまま屋敷へと帰った。リビングには昨日空けたワインボトルが散乱し転がっている。
ポケットに入れていた小瓶をテーブルへ置くと、私は新しくワイングラスを用意した。そして地下へと降りていき、ワインセラーからボトルを数本適当に持ち出す。
リビングに戻りテーブルに着くと、コルク貫きで栓を開けワインをグラスへと注ぐ。小瓶を一度手に取ると、私はしばらく考えていた。
青酸カリの服毒死は苦しいと聞いたことがある。実際に見たことはない。
死ぬ? 私がか? いや、死ぬことに未練はない。むしろ死にたい。死ぬことは怖くない。
いや、それは嘘だな。だったら何故、こんなにも手が震える。私は……死ぬのが怖い。とても……。
だがそれ以上に、セリーヌを失った事のほうが怖い。とてつもなく、胸が痛いんだ、寂しいんだ。張り裂けそうになるほど、千切れそうになるほどに。
セリーヌが居ない未来など、私に意味などない。生きる希望もない。だから私は死ぬ……それでいい。
だがあまり苦しみたくはないので、小瓶の中身は酔い潰れてから使うことにした。
グラスのワインを一気に飲み干し、ボトルを掴みワインを注ぐ。
私にとっての、最後の晩餐だ。パンはないけどな。
気付いたらボトルは五本目だった。三本目からは覚えていない。目の前が揺れている。部屋を見渡すとグニャリと視界が歪んだ。焦点の定まらない瞳で天井を見つめる。平面であるはずのそれは、起伏に富んだ大地のように見えた。今座っているのが天なのか、それとも見ている天井が地なのかすら曖昧だ。
家具に乗せられた人形たちの顔が、幾百にも重なって見える。
……そろそろか。
私は覚束ない手で、ボトルに残ったワインをグラスに全て注ぎいれる。感覚がないのか、残っていたワインは相当な量で、グラスから溢れ出てテーブルをひどく濡らした。意識が朦朧とする中、震える手で小瓶の蓋を開け、そして中に入った青酸カリを全てグラスへと落とす。
死ぬ準備は出来た。
「セリーヌ、私はきっと……君と同じ処へはいけないだろう……。だがセリーヌ……君は……天国で、幸せになってくれ」
私は泣いていた。温い涙が頬を伝う。
その涙を拭うこともなく、少し塩味のする最後のワインを、私は一気に飲み干した。
視界が薄れ、意識が混濁してゆく。向こうで誰かが苦しんでいるような、そんな声が聞こえてきたような気がした。
「これで……死ねる」
微かに残った理性でそう呟くと、私の意識はそこで途絶えた。