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 人形の修繕を終えた後、私たちはリビングでくつろいだ。

 彼女と屋敷で過ごすことの多くなったこの頃。愛する我が子と、愛しいセリーヌ。

 ゆっくりとした時の流れに身を任せ、皆とともに過ごすこの時間は、いつの間にか私にとってかけがえのない癒しとなっていた。

 時間も時間ということで、


「セリーヌ、食事をテーブルへ運んでくれないか」

 夕食の準備に勤しんでいた私は、キッチンテーブルに皿が溜まってきたためそう促すが――――。

 彼女からの返事はない。

 熱せられたフライパンの上では厚切りの肉がフランベされて、湯気とともに芳ばしい香りが立ち上り鼻腔を刺激する。

 突如――、 


「――――――」

 ジューッという焼き音に混じり、微かだが音が聞こえた。

 それは聞こうとしなければ気づかないほど、衣擦れのような小さな音だった。

 人形でも倒してしまったのかと安易に考え、彼女に視線を送る。

 しかし、それは間違いだった。


「セリーヌっ!?」

 目にした彼女は床に座り込み、腰の辺りを押さえて苦しそうに呻いていた。

 慌てて火を消し止めて、彼女の元へと駆け寄る。


「大丈夫か、セリーヌ」

 肩を抱き、その顔を覗き込むと、セリーヌは僅かに顔を逸らした。

 吐息は熱く、呼吸は荒い。


「くぅ……」

「痛い、のか?」

 そんなことは聞くまでもない。彼女の表情がそれを如実に物語っている。

 だがどうしていいのか分からずに、ただそんなことを訊くことしか出来なかった自分が情けない。

 苦悶に満ちた顔で、声を出さぬように必死なのか……セリーヌはくぐもった声を唇の隙間から洩らす。体を抱いてやることしか出来なかったが、そうして数分が経ちようやく痛みが治まったのか、彼女はいつもと変わらぬ笑みを浮かべた。


「――ごめんね」

 なぜ謝るんだ。

 私には理解が出来なかった。


「セリーヌ、大丈夫か」

「うん、ちょっと、疲れてるだけだと思うから。風邪かな?」

 肩を貸し、セリーヌを立たせ、テーブル椅子まで連れて行く。

 触れ合う肌から若干の熱っぽさを感じた。

 足取りは正常に近いと思うが、どこか危うげで庇っているようにも見える。

 ゆっくりと椅子に座らせ、私はその場でしゃがんだ。


「疲れてるって……だから言ったろう。あれほど迎えに行くからと」

「うん、そうだね」

「ただでさえ立ちっぱなしで働き詰めなんだ。そのうえ十数分もかかる道程を、人形を持って歩いてくるなんて」

 悪戯を咎められる子供のように押し黙り、俯くセリーヌはか細く震えている。


「無茶だよ」

 呟いた私の声に、でも――そう言って彼女は静かに顔を上げた。


「歩いてきたかったの」

 濡れ光る双眸が、真っ直ぐに見つめ返す。


「あの長い並木道を歩いてくるとね、心が弾むんだ。クリスへの想いが、強くなるの」

 胸に手を当て、無理をしたような笑みを作り、彼女は続ける。


「いつもはあなたに迎えられて、馬車から眺めるだけのただ流れてゆく風景もね。歩いてみると、視点が違うだけじゃない。あの道程は、一歩一歩が……あなたに会うための想いの階段なんだよ。だから――」

 セリーヌの声が震えた。涙に沈めた声色とともに、薄っすらと滲む瞳。

 不思議と綺麗とまでは思わなかった。いや、思えなかった。

 触れれば今にも壊れてしまいそうな、儚げで存在そのものが覚束ない彼女の雰囲気。苦しみを無理やり押し込めたような表情が、爪を立てて私の心を鷲掴む。


「そこまで思っていてくれるのは嬉しい。だがセリーヌ……。もう少し自分の体は労ってくれ。君にもしものことがあったら、私はどうしたらいい? 二人の時間がなくなる、そんなのは嫌だ」

「分かってる、分かってるけど」

「それより、病院へは行ったのかい?」

 やわらかな口調の問いに、彼女は左右に首を振った。


「どうしてだ?」

「ただの風邪、だから」

「そんなものは見てもらわなければ分からないだろう? 何時からだ? 思えば随分前から咳はしていたね。本当に風邪なのか? もし違うんだったら早――」

 矢継ぎ早に繰り出す言葉を遮って、彼女は声を上げた。


「――風邪だもん! ただの……風邪、なんだから」

 瞬間、セリーヌの瞳を溢れんばかりの水分が潤していく。堪え切れなくなった涙は、頬に幾筋もの川を作った。

 セリーヌの嘘。

 一瞬だけ見せたその挙動を、私は見逃さなかった。

 君は気付いていないかもしれない。嘘をつく時、視線が左右に一度振れることに。

 普段なら、「可愛い」と思い微笑でも浮かべるのだろうが……。今はもちろんそんな気分じゃない。「森の動物たちと話してきた」とかいう愛らしい冗談でも、「熊さんと昼寝してきた」とかいう茶目っ気のある嘘でもない。

 話が話なら――――いや、本人が隠してる以上、憶測でしかないしその域を出ないのだが――――彼女は、何かを患っている?

 病院には行っていないと言うけれど、本当は行ったんじゃないのか。セリーヌは不安で苦しい痛みと、孤独に闘っているのか。

 目の前で俯き、大粒の涙を膝へと落とす彼女を見て、私は心苦しくなった。

 それは痛ましい様子を見たからだけではない。大事なことなのに、大切ないことなのに、私に打ち明けてくれない。そのことがとても痛い。

 ……私は君の、なんなんだ?


「なにも、話してくれないんだな」

 沈痛な面持ちで問いかける。だが――、


「ごめん、ね……ごめん……なさい……うぅ……」

 セリーヌはただ謝るだけ。

 声を我慢しているのだろう。口を噤んだ彼女の嗚咽は、息とともに鼻から抜ける。

 間断なく湧き出る泉のように、絶え間なく涙を生むその瞳は、本来の美しい空色をしていない。半分ほど閉じられた碧眼は、悲しみの色をより濃くし、濁ったような印象を受ける。

 それが絶望なのかどうなのか、私には解らない。話をしたいがそんな状況じゃないだろう。

 これほどまでに悲しむセリーヌを今まで見たことがないために、正直、私自身も行動の選択に戸惑っている。

 重苦しい静寂に包まれたリビングに、コチッコチッ――――と、時を刻む時計の音だけが響く。

 人形たちですら、この静謐過ぎる場の空気に、萎縮しているみたいだった。いつもの楽しげなパレードのような雰囲気は、まるで感じられない。彼らにも解るのだろうか。人型ゆえに……。

 膝の上でスカートをギュッと掴んで震える彼女の手に、包み込むように自身の手を重ねた。

 言葉はなにもかけない。

 ただそうしていることしか出来ないが、少しでもセリーヌの不安が拭えれば。そう願わずにはいられなかった。

 ――すすり泣く声が止んだのは、それから十数分経ってからのことだ。

 室内に響いていた時計の音は、さらにその音量を増したように聞こえる。それに伴い、外からの音も届くようになっていた。

 互いに言葉を交わすことはなく、空間が圧迫されるような息苦しい沈黙が、絶えず波紋を広げてリビングを伝播していく。


「そろそろ、帰るね」

「夕飯は?」

 ぽつりと呟きを落とし、私の言葉に返事することもなく、彼女はおもむろに立ち上がる。

 視線を下へ落としたまま私に背を向けたセリーヌは、ふらりと危うげな足取りで部屋を出て行こうとした。


「あ、送ろうか――」

 咄嗟に立ち上がり、その手を取ろうと無意識に伸ばした私の腕は、空しく宙を切る。

 数歩前へ進んだ彼女は、立ち止まり、小さな背中を向けたまま、


「今日はありがとう。さよなら」

 悲しみに沈めた声でそう囁くと、そのままリビングから出て行った。

 しばらくして聞こえた重い音――――。玄関の扉が、閉まる音だ。

 屋敷中に妙に響いたそれは、心の奥底まで沈殿する不安のように、残響をいつまでも耳に木霊させた。

 ……温もりに触れられなかった右手が涼しい。

 空っぽの手のひらを誤魔化すように、私は強く拳を握る。じんじんとした熱と痺れが少しずつ広がり、愚かな自分にいつまでも痛みを与えてくれるよう切に願う。

 しばらくの間、ただ呆然と立ち尽くして、セリーヌが出て行った先を見据えた。儚げに見えた後姿が、何度も目の前で繰り返される。

 聞こえる時計と自然の音。

 秋の夜長に聞く自然のアンサンブルは、時を刻む“モノ”をタクトに、バラバラな音色を奏でている。

 だが心なしかその旋律は、「別れの曲」に似ているような、そんな気さえした。



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