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ようやく残暑が癇癪を沈め、涼しくなりだした十月中旬。
紅葉の季節となり、屋敷周辺の木々たちも、秋のそれへと緩やかに装いを改めていた。
「綺麗だね」
爽やかな秋晴れの下、心地よい涼やかな風のようにセリーヌの声が耳を撫でる。
一瞬木々がそよいだのかと思ったが、それも気のせいではない。先ほどまで凪いでいた風は、彼女の声とともに微風へと変化していた。
「ああ。それに、ここは暖かいだろう?」
切り株に腰掛けながら、背を向けて眼前に立つ彼女に声をかけた。
「そうだね。この広場は、いつ来ても暖かいよ」
森の香りを吸い、肺いっぱいに取り込んだ彼女に、
「冬はさすがに寒いけどな」
苦笑を浮かべながらぼやく。
「ふふっ。楽しみにしてるね」
言ってスカートの裾をひるがえし、振り向いたセリーヌの顔は驚くほど晴れやかだった。
暖かな陽光のように輝いて見えた笑顔に、私はしばしの間見惚れていた。
「あ、またボーっとして」
「え? あ、いや、別に見惚れてたわけじゃない」
ポカポカとした陽気のせいだろうか。確かにボーっとしていると自覚はあるけれど……。
「クリス、自分で白状しちゃってるよ?」
「うぇ!? いや、違うって。僕は見惚れてなんかない!」
反論しようと咄嗟に立ち上が――ったところで、なんと切り株の出っ張りに踵を引っ掛け、そのまま前のめりに倒れこんでしまった。
「きゃっ!」
もちろんすぐ目の前にいたセリーヌも巻き込んで、二人仲良く芝生にダイブ。
ここが岩肌むき出しの大地じゃなくて、内心、本当に安堵している。
「今度はクリスが押し倒す番?」
頬をほんのりピンク色に染めて、見返す彼女は笑う。
その言葉に蘇った記憶――――。
だが瞬時に、刹那的な速さで書き消えた脳内の映像は、セリーヌが初めて屋敷へ来た時のこと。
あの時は、セリーヌに押し倒された形だったが。思い出すだけで、まだ顔が熱くなる。
「番って……。これは事故だよ。“故意”ではなく偶然、偶発的に起こってしまった不慮の事故だ」
「“恋”でもなくて、そんなに必然であることを否定されると、わたしとしては少し悲しいんだけど」
……あれ? なんか言葉を取り違えてる気が。
「いや、別に押し倒したくないわけじゃない。って、私は何を言っているんだ」
言葉に出して後悔した。セリーヌはしたり顔でこちらを見上げている。
思わず視線を外した私の頬に、温かくやわらかい何かが触れた。途端、そむけた顔が元の位置まで戻される。両手で優しく頬を包まれた私は、再びセリーヌと見つめ合う。
「クリス、顔、真っ赤だよ」
くすくすと笑う彼女。それに対し、
「う、うるさいな、そんなことはないよ。それにそうだったとしても何も問題はないだろう、それにセリーヌだって顔が真っ赤じゃないか、人のことは言えないぞ」
ついムキになって反論してしまう。
彼女の前だと、どうしても自分という名の仮面が、仮面の役割を果たしてくれない。押し隠そうとしても、それが表層まで押しあがり、結果、小さな亀裂から顔を覗かせ露出してしまう。
何度も修復してはかぶり直しても、例えば震える大地の如く突き上げるその衝動で、仮面と言う名の大地が隆起し地が露呈してしまうようなものだ。
これが、「恋人」という関係なのだろうか。
自分の『今』を形作ってる殻の中まで曝け出せる、心許せる唯一の存在。――とは言うものの、やはり長年かぶってきた仮面は、顔の特徴を知らずの内に記憶するもので。
馴染んでしまっては、今さらのように元には戻せない。
ふとした瞬間に出てしまっている、という自覚はあるのだが。
「セリーヌ――」
「ん?」
囁くように発した声に、丸い蒼玉を向けて返事する。その表情にはクエスチョンマークが浮かんでいる。
「並木通りを、歩かないか?」
私の提案に、セリーヌは数瞬の思案ののち、「うん」と小さく頷いた。
もみじで色鮮やかに彩られた並木道のアーチを、二人歩幅を合わせて歩く。
ちなみに私は脚立持参だ。
目に映る紅は波間を揺蕩う木の葉のように、優しく吹き抜ける風に煽られ、さらさらと音を立てる。
途中、ただ一本だけ仲間外れの樹木までやってくると、揃ってそれを見上げた。
毎年恒例、例に違わず二つしか実をつけていないリンゴの木。この季節まではそこまでおかしいとは思わないが。……こうして見てみると、やはりリンゴは目立つ。
紅の中にある赤二つ。しかもそれは球に近しい形をしているのだ。
樹葉に埋もれることなく存在を主張する赤色は、意地になりムキになっているようにも見える。
ここを整備したのは、以前屋敷に住んでいた人物なのだろうが。どういった意図があって、ここにリンゴを植えたのか……。今となっては知る由もないが、多少気にはなるところだ。
「本当に二つしか生らないんだ」
感心した風に呟くセリーヌは、でもどこか不思議そうに首を傾げた。
「私も不思議に思っているんだ。毎年のように見に来ては確認するんだが、三つ生ってるところを見たことがない」
そう答えると、彼女はこちらへと振り向き、
「怪奇現象だね!」
言って好奇心溢れる眼差しを向けてきた。
「いや、そこまでの事象じゃないと思うが……。でも、確かに不思議だな」
再び見上げたリンゴの木は、秋風に吹かれ枝葉を揺らし、どことなく寂しげに泣いているようにも見えた。それは音でそう感じたのかもしれない。
故にこれから起こる運命に抗えないと、嘆いているように見えたのだろう。
「このリンゴ、すごく美味しいんだ。二人で一つずつ、分けて食べようか」
一歩踏み出し、庭から持ってきた脚立を掛け、上ろうとしたその時――、
「ダメだよ、クリス」
制止する声が聞こえた。音には、戒めるような棘は含まれていない。
一先ず脚立から下り、私はセリーヌに振り返った。
「どうしてだ? 生っているんだ、私たちで分け合ってもいいだろう?」
その問いに、彼女は首を振って答える。
「この森には、たくさんの命があるんだよ。見て」
促すように向けた視線の先々を、私も目で追従する。
そこには、木の実を頬張る小さなリスや、番仲良く樹枝にとまり羽を休める小鳥たち。
この森に住み、生命を営み育むものたちの姿があった。
「だから、一つだけにしよう」
辺りを見渡し、気づけば、この並木通りにたくさんの生き物たちが集っていた。
ゆっくりと彼女に振り返り、
「なんだ、てっきり、「全部残しておこう」と言うのかと思ったよ」
言いながら歩み寄る。
するとセリーヌは、視線をほんの少しだけ逸らして、
「だって……。あなたとリンゴの味、共感したかったんだもん」
手をもじもじさせながらそう呟いた。
……嬉しいことを言ってくれる。
もとからそのつもりだったのだが、森に住む生き物への配慮は完全に忘れていた。今までも、そうして動物たちの貴重な食料を奪ってしまっていたんだ、と思うと心が痛い。
これから季節は寒さを増していく一方だ。その冬支度にも、食料は必要なのだから。
「解った、一つを二人で分け合おう。残りの一つはこのままだ」
「うん」
と頷き返す彼女に背を向け、私は脚立に足を掛けた。
中段まで上り、手を伸ばし、小さい方のリンゴを掴むと、それを捻じ切った。
手にしたリンゴを落とさぬよう注意を払い脚立を下りる。地に足を着け、振り返るとそこには、満足そうに頷くセリーヌの顔。その表情だけで、何を言いたいのかがよく解る。
私も口端に微笑を浮かべ、見返しながら、
「さあ、帰ってリンゴを食べようか」
セリーヌに左手を差し出すと、
「そうだね」
弾けるような清々しい笑顔で頷き、彼女はそっと右手を重ねた。
指を絡ませ繋いだ手の温もりは、少し肌寒く感じる秋風の中、切なさと甘い安らぎとを私の胸中に運び入れる。
じきに木枯らしへと変わる風に想いを馳せ、二人寄り添いながら屋敷へ帰った。