003
それから幾日が経った。
日を増すごとに暑くなり、季節は完全に夏のそれへと移り変わる。
屋敷周辺も虫や動物たちで賑やかしくなり、バックグラウンドミュージックには事欠かない。
セリーヌとは互いに休みの都合を合わせて出かけたり、屋敷に招待したりしてのんびりと過ごすなど、あの日以来恋人として触れ接する機会が増えた。
今では互いの家の合鍵を持っているくらいだ。仕事から帰るとセリーヌがご飯を作って待っていてくれたりする。それはとても幸せなことだ。
その互いの呼び名は変わらない。私は“セリーヌ”と呼び、彼女は“クリス”と呼ぶ。
今日も今日とて、休みを利用し彼女の買い物に付き合うため、私は朝から馬車を走らせ中央都市に赴いていた――。
「ねえクリス、これ可愛くない? わたしに似合うかな」
石畳の路上に面したウインドウケースを指差して振り向くセリーヌ。彼女が指し示していた物は、ガラスの靴のような白銀のドレスシューズだった。
付き合ってみて分かった彼女のこと。見た目は大人しいお嬢様の風体をしていながらも、その実、言いたいことは結構はっきりと言うタイプのようだ。好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌い。
時折、気持ちのいいくらいの決断力を発揮し、私もそれには感心しきりだ。
いや、比較的優柔不断な私から見て、それは羨望と言っても過言ではない。
「ああ、きっと似合うと思うが……こっちの黒いのなんか私は好きだな」
彼女の意見に同意を示す頷きとともに、私は隣に飾られた黒のパンプスを指さした。
「黒か~。素敵だけど、わたしあんまり黒って好きじゃない」
「そう言えば、黒を着てるのも見たことないな……。でもどうしてだ? セリーヌなら綺麗に着こなせると思うが」
改めて彼女を見た。今日の服にも黒味はほとんど入ってない。白のシャツに薄茶色のロングスカートと、足元は丈の短いベージュのヒールブーツという組み合わせ。黒はベルトくらいだ。
不思議に思った私の問いに、彼女は端的に答える。
「だって黒は……喪服みたいでしょ」
その呟きは悲愁を帯びていた。聴く者の心の奥深くに根付く悲しみを想起させるような、そんな言霊。両親を失ったという自らの体験と、命の儚さを憂い重ねた、彼女だからこその韻。
ガラスに映ったそんな彼女の顔をちらりと見やった。表情こそはいつもと変わらないが、瞳だけが、寂しげに泣いているように見えた……。
「さ、次行こう! クリス」
「――えっ?」
突如、声が上がったと思った次の瞬間、私は彼女に腕を引かれていた。
「だってせっかくの休みなんだよ? 回りたい所もたくさんあるし」
楽しげに笑う彼女は、陽の光を全身に浴びるヒマワリのように眩しかった。
そうだったな。気分を一新すること、これも彼女の取り柄だった。
でもだからこそ、セリーヌは今まで潰れずに店を続けてこられたんだ。それは決して、やらなければならないという強迫観念からではなく、自らがしたいと思い描いた願望。
辛さを胸にしまい込んでいる彼女は、それを感じさせないほどに明るい。それは私に対してだけではなく、すべての『人』に平等だ。
以前こんなことをセリーヌに訊ねたことがある。
“どうして、君はいつも笑っていられるんだ?”と。
すると彼女はこう答えた。
“――小さい頃にね、お母さんに言われたの。辛い時こそ、人に笑顔を見せなさい。自分が辛く苦しい時こそ、他人の幸せを願って心からの笑顔を見せるのよ、って……”
その一言が、彼女の生き方をよく表していると思う。私には到底真似の出来ない話しだが。セリーヌがいてくれるのならば、或いは変われるかもしれない。と、不意にそんならしくもないことを思った。
まるで欲しい物を見つけた子供のように、私の手を引く彼女。連れられるままに中央都市のブティックを梯子して、ようやく羽を休められたのは、小休止にと喫茶店へ入った時だった。
茶色を基調とした内装で纏められた店内奥。私たちはその窓際のテーブル席に落ち着いた。
――カランッ、と氷がグラスを叩く。真昼の太陽光が差し込み、グラスの氷を照らして万華鏡のように光を拡散させた。
「今日も暑いね」
一口含んだアイスティーを飲み込み、セリーヌは言った。
「ああ。まあ、夏だから仕方がないさ」
「……水浴びしたいな」
涼みに来た客で騒がしい店内。ポツリとこぼした言葉は、けれど私の耳に十分な響きを伴って聞こえた。
氷を転がすようにグラスを傾けては、ちびちびと口に含むセリーヌ。その瞳は上目遣いで私を見つめている。
彼女の言葉に、少しだけあらぬ方向へと思考が働いたが、そこは旨いこと軌道を無理やり修正した。
「だが、この辺りじゃバーンシュタイン裏の湖しかない。……それなら、私の家で浴びればいいだろう」
湖畔に人がいないとも限らないから、と私は言葉を添えた。
セリーヌの裸同然の姿を他人にあまり晒したくはない、という心配からの言葉だった。のだが、なにを勘違いしたのか、彼女は頬を赤らめ視線を外す。
「――――えっち」
そう言って窓から遠くを見やり、両手で持ったグラスに口を付けた。
そんな反応を返されると、こちらもどうしていいのか分からなくなるじゃないか。
気まずくなり、私も釣られるように外へ視線を向けた。――と、次の瞬間。
「ゴホッ、ゴホッ」という咳き込む音が聞こえた。
真昼の都心風景を楽しむ間もなく、私の意識はそちらへ向かう。
セリーヌは口元を手で押さえ、何度か咳をした後、いつものように微笑んだ。
「あれ、風邪かな?」
その表情に、翳りが見えたのは気のせいだろうか。
「大丈夫か?」
「うん。もう落ち着いたから、大丈夫」
そう言う彼女の呼吸は少し荒い。私は身を乗り出し、彼女の額に手を当てた。
――どうやら熱はないようだ。しかしせっかくの休みだが、無理をさせて体調が悪化でもしたら困る。
「セリーヌ、今日のところはかえ――」
「いや!」
その身を案じ、帰ろうか。そう言おうとした私の言葉を遮り、彼女は声を上げた。
ざわめく店内を縫うように響いた声に、何人かはこちらに振り向く。
「セリーヌ、どうしたんだ? 今日の君は変だよ。まるで生き急いでいるように見える」
「そんなことない、ないけど……。わたしは、あなたといたいの……」
いつにも増して弱々しい声。その響きは涙を孕んでいる。
俯き小さく震えるセリーヌは、必死に何かを訴えかけているようだった。自分の思いを察してもらえない子供のように。
「だが体を壊しでもしたら、仕事にも支障が出るだろう? 君が育てた花を楽しみにしている客もいるんだ」
その手を握り優しく諭すような口調で言葉を投げるが、セリーヌは声を返さなかった。
今日の彼女はやはりどこか変だ。時折寂しげな顔をすることはあっても、命を嘆くなんてことはあの日以来一度もなかった。何か心境に変化でも起きたのだろうか。それとも別の要因か……。
笑顔の耐えない騒々しい店内で、私たちの座るこの一角だけが重苦しい空気を纏っていた。
しばしの沈黙の後、これでは埒が明かないと思いセリーヌに問う。
「本当に大丈夫か?」
「……うん」
「体調が悪くなるようだったら、すぐに言うんだよ。無理だけはしちゃいけない」
「分かったわ」
心配する言葉に彼女はただ頷いた。
私は過保護だろうか。いや、恋人の身を案ずるのは紳士として、その前に男として当然のことだろう。常に様子に気を配らないといけない。
しかし喫茶店を出てからは入る前とさほど変わらず……。あちこち連れ回されては何件も梯子し、セリーヌの買い物に付き合った。
だが彼女は見はするものの、あまり物を買おうとはしなかった。
私に気を使い、遠慮しているのだろうか。恋人にねだるくらい許される行為だと思うが――。