あえて目を背けた風景
マンションの玄関のポストを覗いてから、エレベーターに乗りに四十二階のボタンを押す。自分で鍵を開け部屋に入る。
電気をつけると、住人が一人いないだけで彩度の落ちた風景が出迎えてくれる。俺は誰もいないのに、『ただいま』と言って玄関を通る。
別にそんなに汚す方ではないが、一人でいることで、テーブルに開きっぱなしのノートパソコンと書類は散らばったまま。ソファーには本が無造作に置かれと部屋が若干荒れていることに改めて気が付く。まさに今の俺の多少荒れた精神状態を表しているようだ。
来週に退院する香織にこんな部屋で迎えるなんてことは出来ない。
パソコンを閉じ、本を拾い書斎の机の上に移動し、書類の内容を見ながら整理する。今抱えている仕事の書類をまず纏めクリアファイルに入れる。そしてここ数日色々調べていたGIDについての資料を手に大きく息を吐く。
別に鈴木薫に興味を持ったというのではなく、気になった物事についてついついトコトンまで調べてしまうのが弁護士の職業病ともいうべき行動である。目の前に起こっている現象について、どのような問題が起こりうるのか? そしてその状況を自分が弁護する事になったらどうするか? そう考えて、その事を頭の中でシミュレーションする為に調べる。そういった知識の蓄積が、今後の仕事に大きく役に立つからだ。
今、手の中にある資料の中あるのはGIDという症状やその治療についてや、GIDの人間か関係していた裁判について抜き出したもの。今後鈴木薫の身にも起こるかもしれない事件でもある。男として生きるにしても、女として生きるにしても彼女には様々な困難が未来に待ち受けているのは間違いないだろう。
といっても、鈴木薫が今後どのような人生を歩もうが苦しもうが俺には関係ない事だけど、この資料は香織にはあまり見せるものではないだろう。外から見えないように茶封筒の中に入れ、書斎の引き出しへと放り込む。俺はそれで、自分自身の言葉にならない苛立ちも一緒にそこに封印したつもりだった。
散らかっていたモノを片付けハンディーモップで埃を払っていると、ふとリビングの棚の写真盾が眼に入る。その棚には俺と香織のツーショット写真や、高梨さんの写真や、俺の家族と香織と高梨さんが一緒にいった旅行の時の写真や、小さい頃の俺と香織の写真等が並んでいる。その中に一つの家族写真がある。可愛い女の子を愛おしげに抱き寄せた若い女性とその二人をさらに抱きしめて笑っている若い男性。香織の両親との最期の家族写真だ。この二週間後に、香織を抱きしめていた二人の人物は交通事故で亡くなってしまう。香織を抱きしめている母親の顔を見て、俺は首を小さく横にふり、写真盾を少しずつ移動し埃を払うついでに、その写真を奥におき他の写真を前へと移動させた。大人気ない行動だとは分かっているものの、今はその写真を見たくはなかった。その女性は今日、会った鈴木薫によく似ていた。香織が鈴木薫に思わず救いを求めたのはそこがあるのだろう。香織の母親が苦しんでいる娘の為に、姿を変えてこの世に蘇ったなんて馬鹿な事を考えたわけではないが。母から娘と繋がっていく想いというのを何処かに感じて辛かった。
携帯が震える。香織からのメールが来たようだ。
『ケーキありがとう。 薫ちゃんと一緒に楽しく食べました。 美味しかったです』
いつもなら、思わず俺を微笑ませてくれる香織のメールだけど、今日は苦笑しか浮かべられなかった。俺が気にしなければいいだけだ。この気付いてしまったどうしようもない苛立ちを、あえて目を背けることでやり過ごすしかない。
気分を紛らわせるために、お酒を飲みながらTVで録画していた映画を観ることにする。『アマデウス』という天才作曲家モーツアルトを描いた映画で香織が面白かったと言っていた作品である。
誰よりも音楽を愛しそれだけに生きてきた男サリエリ、その前に現れたのは神の音楽を奏でるものの、幼稚でどうしようもなく品行下劣のアマデウス・モーツアルト。サリエリはモーツアルトの才能に誰よりも先に気付きそしてその音楽に惹かれていくが、同時に自分にはない才能をもつモーツアルトへの憎しみと、そんな才能をこんな男に与えた神を恨み闇へと落ちていく。物語を追いながら、俺はサリエリに自分を重ね、同じようにドロドロとした感情に心が満たされていくのを感じた。
観るんじゃなかった。エンディングのスタッフロール中に響く、アマデウス・モーツアルトの甲高い笑い声を聞きながらウィスキーを煽る。
『物語の中にある映画館』にて解説あり
アマデウス
http://ncode.syosetu.com/n5267p/