愛しい風景
俺は、コチラを静かに見つめ返す鈴木薫を、観察する。知識として解っていたつもりだったが、性同一性障害がどういうものなのかを実感することができる。彼女は性格的には冷静で優しさとか柔らかさを人に見せるタイプではない。言葉使いにしても、所謂オネエ言葉でもなく、寧ろ男性的で素っ気ない。にも関わらず、俺は鈴木薫を理性だけでなく女性として認識している。女らしいと女であるというのは別なのだと教えてくれた。俺はこの前にいる人物を、女と判断し認識してしまう。彼女の後ろのベッドヘッドに『鈴木薫 男性 血液型AB型』という札がついていたとしても。
不自然に、見つめ過ぎたのか怪訝そうにコチラを見上げてくる。どうも彼女を必要以上に警戒させている所があるようだ。
「いえ、花瓶とかも必要だったなと今更気付いてしまって。借りてきて、ついでに生けてきますよ。私は男だから、そのまま突っ込むだけになると思いますから、気に入らなければ、後で生け直してください」
鈴木薫は少し驚いた顔をしたがフッと柔らかい笑観を浮かべる。再び花束に視線を戻し愛しげに百合を見つめる鈴木薫の様子に俺の中である一つの光景が脳裏にフッ浮かぶ。
なるほど、だからか……。俺は笑顔を作り花束を受け取り廊下に出る。自分の顔に貼り付けた笑顔が苦笑に変わるのを感じる。ナースステーションから花瓶を借りて洗面所に行く途中に香織の病室の前を通りすぎる。中にいた香織が面白いものを見るかのようにコチラを見ている。
香織はそっと点滴スタンドを連れて病室から出てきて、俺の腕にある花束を見てニッコリ笑う。昨日、鈴木薫への見舞いの贈り物を相談していたから察したのだろう。
「綺麗! イメージもピッタリね」
「あのさ、これ花瓶に生けたいから、手伝ってくれない?」
香織は笑顔で頷く。耳の調子もよくなってきたこともあり入院当時に比べ表情も明るくなった。その晴れやかな表情になんかホッとする。
香織の手によって、花束状態で窮屈そうだった百合が伸び伸びと華やかになって花瓶に移し替えられた。一緒に鈴木薫の病室に行こうかとも思ったが、高梨さんから携帯に電話が入り、香織は点滴スタンドを押して慌てて通話スポットまで走っていってしまったので、一人で鈴木薫の病室へといくことにした。
花瓶を届けてから、俺は鈴木薫と少しだけ当たり障りのない会話をしてから病室を後にする。俺が病室に長居しても迷惑なだけだろう。俺がお暇の言葉を告げるとホッとした顔を彼女はした。
気が付けば病院のお昼という時間になっていた。俺は一旦病院を出て近くの喫茶店で自分もお昼を取る。ケーキ屋に寄り香織が好きそうなケーキを何個か買ってから、俺は再び病院に戻った。香織の病室へといく途中、鈴木薫の病室をチラリと覗くと綺麗に整頓されたベッドがあるだけで何処かに出かけているようだ。
「夜にでも薫さんと食べて」
ケーキの箱を渡すと香織は無邪気に嬉しそうな笑顔を見せた。あと一時間チョットで点滴が終わるという事なので、今日は病室で二人での会話を楽しむことにする。先程喫茶店で一人寂しく飲んだ珈琲より、香織と飲む自販機で買った紙コップの珈琲のほうが美味しく感じるから不思議なものである。
二人でノンビリとした時間を過ごしている内に、点滴の時間が終わる。看護婦が点滴チューブを外している様子を横で静かに見学する。毎日点滴するため、基本、針は刺したまま。チューブだけを外し、腕に残った針のついた部分に繋がっている短いチューブは簡単にテープで纏められ腕に固定される。今、気がついたがチューブの位置か昨日より指先の方に移動していて、昨日付けられいた場所は内出血起こしたのか醜く紫色になり、その真ん中で細い線状に 赤く腫れている血管が透けて見えた。俺はその余りにも痛々しい様子に、つい非難するような視線を看護婦に向けてしまう。そんな俺に看護婦は困ったように笑う。
「お薬がやや強いことと、奥様の血管が細めな事もあって、負けて少し炎症起こしただけです。心配されることはありませんから」
内出血位でとやかく言い気はないが、幾つかの針の跡や、内出血で醜く紫色に変色した腕を見るのは耐え難いものがある。これが他の人だったら、何とも思わないのだろうが、香織の事となると了見が狭くなることは自覚しているが、感情の問題なのでどうしようもない。
「見た目は凄いけど、痛いとかいうのもないから、大丈夫よ。それに内出血に効く塗り薬も貰ったし」
香織はそんな俺を宥めるように笑いながら、袖を下ろしさりげなく痣を隠す。やり場のない苛立ちを払うように俺は深呼吸する。ここでムカツいていても香織を困らせるだけである。
「このあともう治療スケジュールないよね? だったらチョット病院抜け出さないか?」
看護婦が去ったあとに、香織にそっと話しかける。ニコッと笑い香織は瞳に子共っぽい光を宿し俺を見上げてくる。こんな所、香織には似合わない、俺は妻の手を引いて病室から連れ出した。
※ ※ ※
恋人同士のように腕を組みロビーを通った時。目の端に妙に賑やかで華やかな集団が目にはいる。
いかにも水商売という感じの格好の厳つい身体の女性たちと、突きだしたお腹と薄い頭が特徴的な男性が仲良く話をしている。本人達は楽しそうだが、病院内においてかなり目立っていて、皆奇異の目でその集団を眺めている。
その集団の中にいた、一人がコチラを見て軽く頭を下げる。鈴木薫だ。その厳つい女性達は性同一性障害の友達なのだろう。その集団の中では、身長があるものの細身の鈴木薫はますます可憐な女性に見えた。見た目の問題だけでいえば同じ他の性同一性障害の人に比べ彼女は綺麗な容姿をしていただけ幸せだったのかもしれない。と失礼な事を思ってしまった。性同一性障害として生まれた彼女の苦しみは相当なもののはずなのに。
一緒にいた男性もコチラを見て、驚いた顔をしたが人の良い顔をしながらコチラに近づいてくる。佐藤満、俺の同業者だ。なるほどこの人が鈴木薫の弁護士なのかと納得する。彼女はなかなか、いい選択をしたようだ。簡単に佐藤氏に挨拶してから俺と香織は、外の世界へと飛び出す。
そういえば、最近はすっかりインドアになっていて、買い物意外二人で外を歩くことってあまりなかったかもしれない。
天然酵母の自家製パンを焼いているというパン屋さんでパンと、ホットコーヒーを買い二人で近くの河原までピクニックにいく。
河原に腰掛け二人で珈琲を飲みながら、風景を眺める。
「ところで、佐藤さんってどんな弁護士さんなの」
香織としては、友人の弁護士がどのような人物なのかどうか気になるところなのだろう。
「かなり優秀だよ! 元検事だったこともあり、その経験もあってこういった事件にはかなり強い。しかもさっき、強気な発言をしていた所からも、有利に流れていると思う。大見栄や安請け合い的な発言をする人ではないから」
そう佐藤氏は見掛けこそ冴えない親爺だけど、弁護士界においても評判の優秀な弁護士である。検事だった経験と人脈をもち、それを最大限に生かし、数多くの結果を残してきている。無欲なのか、主義なのかは分からないが、弁護料もあまり高くなく、町弁として細々と小さい案件を数多くこなし弁護士を続けているようだ。でも以前弁護した客から、新しい客を紹介される事から、仕事に困るという事はないようだ。
価格面でも能力面でも、ウチの事務所に相談にくるより遥かに鈴木薫にとって良かったともいうべきだろう。
「なら、安心ね」
香織はニコっと笑ってから、気持ちよさそうに空を見上げた。俺も一緒に空を見上げる。真っ青な空に、羊のような柔らかい雲が一つだけポッカリと浮かんでいる。日差しの暖かさと、頬をなでていく風が爽やかで気持ちがいい。やはり外に出て正解だったようだ。
「なんか、こういうのっていいな」
同意のフフフという笑い声が隣から聞こえる。香織の方をみると、穏やかな笑みを浮かべ俺を優しく見あげている。暫く静かに見つめ合う。秋の風が二人を包みこむように吹いていく。
俺は香織を抱き寄せ、キスをする。高校生のデートか! というシチュエーションだが、あの時のドキドキとした高揚感とはちがう、満たされた深い幸福感を感じた。二人のこんな時間がいつも以上に愛おしい。そしてこの状況が俺にとって、失うわけにはいかない掛け替えのないものだと実感し、香織を強く抱きしめた。