未来へ続くピース
梅雨という季節は、何故こうも鬱陶しいのだろうか? 纏わりついてくる湿気がどうしようもなく私を苛立たせる。
これらの不調はホルモン治療による副作用。更年期障害に似た症状と言われてもピンと来なかったが、実際自分がなってみると確かにこれは情緒不安定にもなるし、気を抜くと無気力になってしまうのも仕方がないと思う。こういう状態だっただけに、親元で治療を進めている事がありがたかった。
最初の方こそ、胸が出来てきたり、体つきがやや丸くなってきたりと、女性へ変化していく自分というものを感じられて、そこに喜びもあり楽しさもあったのだが、半年を超えたあたりからそういった目に見える変化もなくなると、単に体調不良だけを感じる日々が私をうんざりさせていた。
そして私を散々ブルーにさせていた朝勃ちが、気が付いたら起こらなくなっていた。同時に私はコレで完全に男ではなくなったという事を認識し、そこにも複雑な気持ちを感じる。
現在私は大学二年生。医者への道は諦め、薬学科に転科しGIDの治療をしながら薬剤師を目指している。この大学に行ったからには、人の役に立つ仕事をしたいし、折角入り父が残してくれていたこの大学の籍を無駄にするのももったいなかったから。仕事に繋がる資格ということでこの路を選ぶことにした。
勿論薬剤師の資格をとったからと、即それが就職に繋がるのかというと、あとは私という人間に掛かっているのは分かる。だから私は自分の出来る事を精一杯なんでもする、それだけである。
私は大学では、GIDであることを隠さないで通うことにした。ここで乗り越えていけねば、社会に出てもやっていけないだろうから。高校時代で、自分を誤魔化して生きるという苦痛を散々味わってきたし、治療を本格的に進めたこともあり、在学中に突然性別が変わるよりも、周りは受け入れやすいだろうと考えたからだ。理性で分かっていても感情がついていかないのか、周りはどう私と扱ってよいのか分からない所があったようで、遠巻きに接してくる。一年たった今では少し慣れてきたのか、挨拶とか会話を普通に出来るようにはなったが、高校時代のようにいつも一緒にいるというような友達はいなかった。しかしハッキリした人生の目的があることと、現在進行で変化していく自分自身との向き合う事もあり、寂しさは感じなかった。
ボウッとした思考を自分で叱咤しながら講義を受けていると、私のスマフォが震え着信を伝える。そっと画面を見てみると『鈴木賢治』とある。私はメール画面を開いて、その内容を見て立ち上がる。
唖然としている教授や教室の皆に、体調が悪いとだけ継げ、教室を飛び出した。
『今、連絡があった。
香織が午前中病院に入ったようだ。
俺は今打ち合わせ中ですぐに動けない。
頼む、先にいって見守ってくれ』
私は駅前に走り、タクシーに乗り込み、病院名を伝える。乗っている間に身体が震えてくる。脳天気に話しかけてくる運転手さんの言葉がまともにはいらず、私は曖昧な言葉だけを返す。あえて最悪な事を考えないようにしているために、思考が失われ頭が真っ白になっていく。
病院に到着すると、私はお金を払い運転手が扉を開ける前に自分で開けて、院内に飛び込む。そして受け付けで場所を確認しエレベーターを待つ時間も惜しくて階段を駆け上がる。
本来だったら、自分には絶対関わりもないであろうその場所は、不思議な活気と緊迫感に満ちていた。
「あら、薫ちゃん? 久しぶりね。来てくれて嬉しいわ! 薫ちゃんがいれば、香織も頼もしいでしょうね」
何回か会った事のある、香織の祖母である高梨さんがニッコリとコチラに笑いかけてくる。
「香織ちゃんは? 賢治さんから連絡もらって!」
余裕もなく、高梨さんに挨拶も忘れ話しかける私に、彼女は香織によく似た上品な感じでクスクスと笑う。
「まだ分娩室よ。そんな心配しなくても大丈夫よ。コチラに座って、何か飲んで落ち着きましょうか」
そういって私を、待合室の椅子に座らせてくれた。そして前に座っている、賢治の両親であろう人に私を紹介してくれた。賢治によく似たダンディーな感じの中年男性と、仕事をバリバリしてきたキャリアウーマンという感じの女性。二人も高梨さんと同じように、明るく私を迎えてくれた。三人の顔には不安よりも、今か今かと生まれてくる子供を待っているという喜びの感情の方が強いようだ。お母さんは、有名な子供服のブランドの大きめの袋を下げてきている。病院にそんなに洋服もってきても、とても着せられきれないだろうという感じだけど、孫にあげたくてたまらないのだろう。
「あの、香織ちゃん本当に大丈夫なのでしょうか? 予定よりこんなに早く。しかももうお昼なのにまだ……」
子供を実際に産んできた女性だからだろうか? 二人は不思議な程落ち着いている。予定では一週間後に入院して、計画無痛分娩を行うという事だった。もう誕生日も決まっていて六月の三週目の土曜日に生まれてくるはず。しかしそれよりも一週間も早く破水が起こり病院に入ることになったのだ。
「初産の場合は、予定から狂うことも多いのよ。それに時間もかかるものなの。それにあの子は強い子だから大丈夫よ、薫さんそんな顔をしないで」
高梨さんの言葉で私は少し落ち着きを取り戻す。私と同じように賢治が髪の毛を振り乱して待合室にやってくるのが見えた。まだ生まれてない事に驚きながら、受け付けへと向かう。
スーツの上着と荷物を親に預け、私の方を見て頷きながら中に入っていった。夫である彼は立ち会うつもりなのだろう。子供を産まれてくる瞬間から見守るつもりなのだ。
その表情は、ただ動揺している私とは異なり、全てを受け入れる覚悟を決めた男の顔になっている。
私に出来る事は、少し離れた所で二人の事を、いや三人の事を祈るだけだ。
私達は期間を限定してチャレンジをするという事を話し合って決めた。
人工授精の成功率というのは実は十%で高くない。半分は運命に委ね、三回だけ行い、その結果を三人で受け入れるという事にした。
一回目のチャレンジは失敗した。生理が来たことで、失意に沈みながらも賢治や私に明るく振る舞う香織が痛々しかった。このチャレンジ実は一番、香織の精神的負担が大きい。
賢治と私は見守るしか出来ないという事で、男というモノがこういう状況ではまったく役に立たないという事を思い知らされた。私は食事にいつも以上気を遣い、残りのチャレンジに挑む事になった。
二回目を失敗し、より苦悩の色を深める賢治と、小さい身体でジッと耐えるよう覚悟を決めている香織に私は何も言えなかった。内心この話に乗ってしまった事を激しく後悔していた。
そして三回目に香織は妊娠し、私はそこで力が抜けるような安堵感に包まれた。
しかし私自身はその段階で無邪気に喜んだ自分が恥ずかしくなる。まだまだ妊娠は、スタートでしかない。
彼女の中で、私と香織との子供が大きくなっていく。
香織の月齢が進むにつれ顔つき体つきが変化していく、そして子供の成長とともに彼女は母親へと変化していく。
コレが本当の女なのだというのを改めて見せつけられる。
同時にホルモン剤治療を始めた私の身体も男から少しずつ女になっていく時期と丁度同時期だっただけに、私はそこに不思議なシンクロを感じていた。
二人の変化は、周りにも影響を与えていく。
私の両親も後戻りも出来ない事で腹をくくったというのもあるのか娘と受け入れてくれるようになっていった。
薄着で家の中を歩いていると父は、はしたないと注意するようになり、母は自分で私の為に女物の服を買ってきてくれるようになった。
賢治も男から父親へとこの十ヶ月で成長を一緒にしていったように感じる。
以前感じたような不安定さとか危うさといったものは、もうない。
未来を真っ直ぐ見据え、ますます男らしさを感じるようになった。
妻への偏愛ぶりは相変わらずだけれど、その対象がお腹の中にいる子供までと範囲を広げていたようだ。あれだけやり合ったのが良かったのか私との関係も、良好でなんとも不思議な友情を築いている。
前は香織と二人で楽しんでいた事を三人で行うようになったという感じ。友達というより一人っ子三人集まって、兄妹ゴッコをしている状態なのかもしれない。
産声が聞こえる度に立ち上がり、それが別の子供の声だと知り落胆しといった事を、数回繰り返し、待合室で一緒に待っていた三人の表情にも疲労と焦りの表情がよぎりはじめたときに、一際大きい声が聞こえる。もう分娩室にいるのは香織だけの筈なので、私はその声を聞き身体中の力が抜け放心する。
香織の祖母と賢治の両親はすぐに立ち上がり、状況の確認に動くところが流石に年の功ともいうべきなのだろうか?
母子ともに健康で、標準よりも若干小さい女の子が生まれた事を看護婦さんは伝えてくれた。私はようやく安堵の気持ちになることが出来た。
生まれてきたとはいえ、その後色々処置があるようで、それから少し待たされて私達は病室に案内されることになった。
母子同室というシステムをとっているようで、母親用の隣に子供用の小さなカート式のベッドが置かれている。
ベッドに横になっている香織は出産の疲労と体力の消耗でやや顔色が悪く窶れたようにも見えたが、その表情は何故だろうか。いつもより神々しく美しく見えた。
私の顔をみて彼女はフワリと聖母のような表情で笑う。
そんな隣で賢治がぎこちない仕草で小さい包みを抱きしめている。
彼の目が少し赤い所をみると、子供の誕生に嬉しくて泣いたのだろう。そして私を見て頷く。
私は二人に、おめでとうの気持ちをこめて笑いかける。三人だけで視線で秘密の会話をする。
パワー全開で喜びはしゃいでいる高梨さんと賢治の両親に圧され、私はそっと後ろから子供の様子を伺う。
赤ちゃんは本当に信じられない程小さく、そしてしわくちゃで真っ赤な顔で、猿に近い顔をしていたものの、その存在はとてつもなく可愛らしく愛しく感じた。
頬に何かが流れる。もちろんソレは涙なのは分かっているものの、その涙の意味が私には分からなかった。
無事に生まれてきた生命に対してなのか? 事故もなく元気に出産を終えた香織に対してなのか? 母性本能からくる喜びなのか? 父性本能からくる喜びなのか?
「薫さんも抱いてみて!」
賢治はふと泣いている私に気が付き、そっと近づき、見舞いに駆けつけた誰よりも先に私にその赤ちゃんを抱かせてくれた。
実際抱いてみると、ビックリするくらい小さくて脆い存在に思えて抱いているがなんか怖い。抱きしめている事で、何とも言えない幸福感が沸いてくる。
私はしばらくその存在を見つめ続ける。
涙が止まらずに子供の頬を私の涙が濡らす。近くにいた高梨さんに、抱いていた子供を預け、涙を拭くだめに一旦病室を後にする。
お手洗いに行き、トイレットペーパーで鼻を思いっきりかみ、洗面所で一回顔をぬらし、ペーパータオルでそっと抑え、化粧を直す。
大きく深呼吸してから、私は病室に戻る事にする。
そっと部屋を覗くと、そこにはなんとも心温まる暖かい、光景が広がっている。
誰よりも愛し合って支え合っている夫婦の間に生まれた赤ちゃん。そしてその誕生を心の底から喜び、歓迎して迎える祖父母と曾祖母。
完璧にも思える家族の風景だった。
私という異物がその景色に加えたピースも、難なく受け入れてビクともしない強さをそこに感じる。
この世界に完璧なんてモノはない。人はそう言う。
私らだけではない、誰もがみんな何だかの『欠け』をもっている。でもそれは、『欠如』なのではなく、何か大切なモノを受け入れるためのスペースなのかもしれない。
賢治と香織は欠けを求め足掻き、そしてその欠けを埋める大切なものを手に入れた。
私は? 賢治はこの事は皆で欲しいものを手に入れると言った。
生まれてきた子供の存在は私にとってかけがえのないモノであるものの、私の欠けを埋めるものではない。
しかしその存在は私に前へ進む覚悟と勇気を与えてくれる。これから私が足掻いていく為の力を。
「薫さん、薫さん、見て! 見て! この子笑っているの! 眉の動かし方が賢治にそっくり」
賢治の母親が赤ちゃんを抱きながら、部屋に戻ってきた私に笑顔で浮かれた感じで話しかけてくる。
明日の事は明日悩めば良い。今はただこの幸せをみんなで分かち合おう。もう涙も止まった。私も笑いながら、その部屋の中へと足を踏み入れた。
~完~
最後までお付き合い頂きましてありがとうございました!
『欠けている』から始まった薫と香織の物語はこの物語は完結いたしました。
如何でしたでしょうか?
このシリーズ、現在『アダブティッドチャイルドは荒野を目指す』にて
メインではないものの鈴木薫の高校時代を描いた物語が現在連載中です。
そちらも楽しんで頂けたら幸いです。
その他に、鈴木薫が社会人になってからの恋愛モノがうっすら頭の中で構想があります。
物語の流れが纏まったら形にしてコチラで連載したいと思います。