幼き日の風景
「ケンちゃん、この子私の孫で香織っていうの。今度から一緒に暮らす事になったので、仲良くしてあげてね」
鬱陶しいくらい雨が降りしきる、六月。小学校からマンションに帰ってきた時、自分の家の隣に久しぶりに電気が灯っているのに気が付く。大好きなお隣の高梨さんが戻ってきた事を知り、喜び勇んで訪ねたら、見知らぬ小さい女の子がその部屋にいた。真っ直ぐの長い髪で黒目がちの瞳が印象的で人形のように可愛い女の子。青いワンピースを着て腕を怪我しているのか三角巾で右腕を吊っていた。そしてボンヤリと外を眺めている。部屋にいきなり入ってきた俺の方をしばらく眺めていたが、興味なさげに視線を窓の方に戻してしまった。
高梨さんは旦那様と死別したとかで隣で一人暮らしをしていた女性で、俺の母親と仲良く、共稼ぎしていた母が家族以上に彼女を頼っていた。俺も高梨さんによく預けられていたりしていた事もあり、俺にとって三人目の祖母とも言える存在だった。
自分の家同様勝手知ったる、高梨さんの家。そんな自分のテリトリーに突然入ってきた存在に戸惑ったものの、大好きな高梨さんからのお願いでもあったし、しかも一人っ子の俺に妹が出来た感じもしてチョット嬉しかった。
窓から外を眺めるその子の隣にすごすご近づき、俺は窓から見える建物を次々指さし、その子にこの街の事を教えてあげる事にする。その子は俺の話を聞いているのか聞いていないのか分からない感じで、俺の言葉に反応する事もなく、ただ窓にぶつかり流れていく雨の様子を虚ろな瞳で見つめていた。
「ケンちゃん、この子、チョット照れ屋さんで、引っ込み思案なの」
困っている俺に高梨さんは優しく笑いかけながら、香織という女の子の頭を優しくなでる。その子は高梨さんのそういった動作にも何の反応も示さない。殆ど動くこともしない、言葉を話すこともしない、本当に人形のようだ。
子供ながらに、この子の様子は、照れ屋さんとか引っ込み思案とかいうレベルではないのは、何となく分かった。
俺は釈然としない気持ちのまま、家に帰ることになる。
晩ご飯の時に、香織という女の子の様子を父と母に話すと、二人とも何故か悲しそうに顔を歪める。
「香織ちゃんはね、お父さんとお母さんを車の事故で亡くしてしまったばかりなの。心が怪我しちゃっているの。だからお前は、香織ちゃんの心が早く元気になるように、仲良くしてあげてね。心の怪我はね、人の優しさが最高のお薬なのだから」
母のその言葉は、小学校の俺には衝撃だった。生まれて初めて人の死というものが、どれほど大変で遺された人の心に傷を残す事なんだと実感した瞬間でもあった。俺より三つ歳も小さいのに、あの女の子は大切な両親を失ってしまったというのだ。
もし、自分が彼女の立場だったらどうするのだろうか? ずっとずっと泣き続けるのだろうか? 想像もつかない。
最初はなんとも幼い、ヒロイズムだったのかもしれない。お伽噺の王子様か少年漫画のヒーローにもなった気分で、自分こそが彼女を救うんだと、学校から帰ると、すぐに隣に行き彼女の元に通う日々が始まる。
今考えてみると、現実を拒絶し自分の世界に閉じこもってしまった彼女にとって、脳天気に近づいてくる俺なんて迷惑意外の何者でもなかったと思う。でも、少しずつ表情を取り戻して可愛くなっていく彼女に、俺は惹かれていった。最初は偽善で始まった彼女との交流だが、俺は彼女と一緒に遊ぶ事が嬉しくて夢中になる。高梨さんも、俺の両親もその様子が面白かったようで、いつも二人でいる俺達を三人は微笑ましそうに見守ってくれた。
高梨さんは、香織が表情を取り戻していったのは俺のお陰だと言う。俺は高梨さんの愛情溢れる生活が彼女の心を癒していったのだと、今はよく分かる。俺が出来たことは側にいてあげた事だけだ。そして彼女を見続けていただけ。高梨さんの愛情に満ちた暖かさが彼女の心を癒していき、小学校入学するまでには、ぎこちないながらにも人との対話が出来るくらいまでは回復していった。とはいえ、大切な人を簡単に失ってしまったという過去の為、子供にしては執着心といったものが殆どなく、可愛い容姿のわりに地味で温和しい学校生活を送っていたようだ。友達というものも、積極的に作ることもなく、俺以外に数年にわたって親しくしている友人というのをあまり見た事がない。
そんな彼女が、俺と両親が話をしている様子や、公園で楽しそうに遊ぶ親子を羨ましそうに眺めているのを、俺は気付いていた。その表情を見て、俺も切なくなるが何をしてあげられるわけもなく、ただそんな彼女を見つめていただけだ。
俺の視線の中で、幼かった彼女はどんどん成長し、中学生になり、高校生になり、綺麗になっていく。俺が高校になったとき、香織に告白する。拙いながらもそれぞれの家族にも暖かく見守られ順調に交際はスタートした。
先に社会人となり、自分にある程度の経済力がついてきたことを自覚できるようになった段階で俺は一つの決断をする。彼女をディズニーランドに誘い、そこで楽しそうに家族でリゾートを楽しむ親子の様子を眺めながら、香織にプロポーズをした。
「二人で、暖かくて楽しい『家族』を作ろう」
香織は驚いた顔をしたが、嬉しそうに頷いた。俺なら彼女がかつて失い、心から求めている物を彼女に与えられると思っていた。香織を幸せに出来るのは俺だけだという自負もあった。
俺は感極まり泣いている彼女を抱きしめながら、『香織を絶対幸せにする』と心に誓う。