人生の形
寝転んだままどのくらいいたのだろうか? 五分くらいだったような気もするけれど、一時間程だったような気もする。扉から遠慮がちなノックの音が聞こえる。返事をすると、そっと扉が開き、母が顔を出す。
「薫ちゃん、大丈夫? 気分が悪いの?」
私は慌てて起き上がり、『大丈夫』と首を横にふる。
そして母に付き添われて下に降りる。リビングに入ると、母が暖かい甘酒を出してくれた。酒粕と牛乳と蜂蜜で母がよく作ってくれたその味と暖かさに私はホッとする。
寛いだからだろうか? 部屋の風景の色が少し彩度を増したように感じた。
「美味しい」
私の言葉に母がフフと嬉しそうに笑った。二階から父が降りてくる気配がする。父がリビングに入ってきて、私の前のソファーに腰掛ける。母が父の分と自分の分の甘酒も用意して、三人でしばらく静かに甘酒を飲む。空になった器が三つテーブルの上に置かれ、私は改めて父と母と向き合うことになる。
「散々心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
私は、まずこれだけは言わないといけないと思っていた言葉を口にする。
「いや、お前がこうして元気でいるなら、それでいい」
父は先程よりも幾分柔らかい表情で、私を見つめている。
「お金も、ありがとうございます。今、自力で生活も出来ているので、お返しします」
父はその言葉に苦笑する。
「返すのは、お前が本当の意味で自立してからでいい」
どう言葉を返すことが、この場合正解なのだろうか? 私は分からずただ父を見つめ返す。父の言う自立ってどういう意味なのだろうか? ただ一人暮らしが出来る事ではないようだ。
「ところで怪我はもういいのか?」
息子が、男性相手に恋の修羅場を繰り広げ大怪我を負ったというのは、父親としてどういう気持ちなのだろうか。私は申し訳ない気持ちで、父の顔をまともに見てられず目をつい反らしてしまう。
「はい、もう日常生活をするぶんにはまったく問題はないです」
「そうか」
父は簡単な言葉で答える。そのまま、皆黙り込んでしまい、なんとも居心地の悪い空気がリビングに流れる。
母が空いた器をお盆にのせ、台所へと一旦下がり、お代わりを入れて戻ってくる。
再び、満たされた器の白い液体を私は静かに見つめる。
「――か?」
ふいに父が話しかけてきた。しかし突然だったために聞き逃してしまった。
「あっ。すいません、ボウッとして」
父はやや、気不味そうに珍しく一瞬目を反らしまた視線を私に戻す。
「お前は、これからどうするのだ? どう生きたいのか?」
正直な気持ちを言うと、女性として生きていきたい。でも父はそれを喜んではいないだろう。そう訴えると父はどう思うのだろうか?
私は何も言えず黙っていると、父は溜息を大きくつく。
「男性として生きるにしても、女性として生きるにしても、お前は人生をどう生きるつもりだ?」
その言葉に、覚悟を決めて本心をいう事にする。
「お父さんは不快でしょうが……女性として生きて生きたいです」
緊張しながら父の様子を私はジッと観察する。父は口をヘの字にまげしばらくなにやら考えているようだ。そして眉を潜めフーと息を吐く。
「聞き方が悪かったな、性別の問題ではなく、将来設計はどうなっているのか?」
私はその言葉に父の顔をポカンと見つめ、母にその意図を問うように視線をやるけれど母もポカンとしている。
「今、お前は飲食店に勤めているようだが、それがお前のしたかった事か? 一生やっていきたいと思っている仕事なのか?」
その言葉に私は悩む。私のような人間を雇ってくれるという所自体が少ない。私を暖かく受け入れてくれて心地よいから、そこにいるということでしかない。それを私がやりたかった事かと言われると、否と言わざるを得ない。私は首を横にふる。
「医大をお前は選んだ、それはお前の夢があったからではないのか?」
医大に入学したものの、それは人の役に立つ人になりたいという青臭い気持ちからの事。明確に医者を目指していたのかというと今となっては分からない。人の事よりも自分の事でいっぱいいっぱいになってしまう私に、人を救えるとも思えない。今となっては自分が何をやりたいのか分からない。
「実は、休学届けを出しているので、大学の籍はまだある。戻るのもよい、退学して別の未来を目指すのも良い、自分の足で人生をまずあるけ! 一番大事なのはそこだろ? 私にとって、お前が男として生きる、女として生きる。そんな事は些細な問題だ」
じっとテーブルを見つめたまま黙り込んでしまった私に、父はそう言葉を続けた。私は思わず顔をあげ父の顔を見る。真っ直ぐ私を見つめてくる父の顔を見て、やっと今の言葉の意味が私の中に入ってくる。
これが男性なのだ、いや父親というものなのだと私は改めて実感する。情で愛してくれる母とは違って、理性で見守ってくれようとしている父。
同時に父親という人物を勘違いしていた自分が恥ずかしかった。私という子供を認められる人物ではないと。そう思い込んでいた。しかし、自分の父はそんな小さい男ではなく、自分が思っている以上に格好良く器の大きい男性だった。なのに自分はといったら、向き合うことすら最初から放棄してあらゆることから逃げてしまった。
私はもう逃げては駄目だ、父と母に散々心配かけ悩ませてきたのだから。これ以上私が馬鹿な事をして二人を悩ませるわけにはいかない。しかし、情けない事に、今の中途半端な状態でなく、女性として生きるという事だけしか考えずにきていた自分に、父の与えた課題は難しかった。どう生きたいのか?
「今すぐに答えを出せとはいってない。だが私も母さんも、いつまでもお前を守っていけるわけではない、一人でも生きていけるだけの力をつけることを考えろ」
「はい」
そういう短い言葉しか返せなかった。私は多分父の前で涙を流したのは子供の時以来なのではないだろうか? ボロボロと目の前で泣き出してしまった私に父は呆れるわけでもなく黙って見つめていた。母は私に近づきティッシュで子供にするかのように涙をふいてくれた。
私は家に戻ることができたんだ。本当の意味で。私は今はただその心地よい安堵感に身を委ね母の胸に抱きつき、ただ泣き続けた。