最良の形
突然訊ねてきた私を、香織は驚いたものの、柔らかい笑顔で迎えてくれた。
「お茶がいい? 珈琲? 何か飲みたい?」
「どちらでも、いい」
悲しいのか苦しいのか、泣きたいのか叫びたいのかもう、どうして良いのか分からくて、グシャグシャの私を見て、香織は首を傾けて笑う。
「まず、顔洗ってスッキリしたほうがいいかもね。クレンジングと洗顔料も貸してあげるから」
それだけ、凄まじい顔をしているのだろう。私は恥ずかしくなって、ただ黙って頷く。
清潔に整頓された洗面所に行く。涙のせいでファンデーションもアイメイクも滅茶苦茶になった自分が映った鏡をみてますます気分がおちていく。
メイクを落として、顔を洗い、香りの良い柔らかいタオルで顔を拭く。
リビングに行くとキルティングで彩られた暖かい空気がそこには満ちていた。その空気に私はなんかホッとする。
「薫ちゃん、ソファーに座って寛いで」
対面式のキッチンの向こうから香織が笑う。素直に言葉に従ってソファーに腰を下ろす。トレイに載せたティーポットとカップをもって香織はやってきて、隣に座る。
香りの良い暖かいお茶の入ったカップを手渡され、その香りと暖かさに張っていた気がほどけていくのを感じる。そして再び涙が溢れてきた。
香織は優しく私の背中を抱くように手を回す。私は彼女に抱きしめられた状態で泣きながら。私は今日起こった出来事の説明を始める。
「苦しめているのは分かるけれど……私だって普通に生まれたかった……なんでそう産んでくれなかったのかって……」
幼い子供のように、支離滅裂で辿々しい言葉を続ける私の言葉を、香織は黙って聞いてくれている。やさしく背中を撫でながら、母性に満ちた笑みを浮かべ私を抱きしめる。
「あぁぁああ~」
私は香織の小さい身体にすがりつき、声を上げて泣く。こんな泣き方をしたのって、幼稚園以来なのかもしれない。情けないはずの私を、香織はただ黙って私を抱きしめてくれた。洗剤のやさしい香りのする胸に抱きしめられ、私はただ泣き続けた。
※ ※ ※
思いっきり泣いた事で、少しは落ち着くことができた。私は香織が差し出したキルトに包まれたボックスティッシュを借りて鼻をかむ。
「お茶、冷めちゃったね、新しいお茶いれるね。そうだ、栗の紅茶っていうのもあるのよ! それ入れてくるね」
香織は、コチラの気持ちを絶妙に察してくれる。抱きしめて欲しい時は抱きしめてくれて、少し落ちついてきたら必要以上に構わずすっと離れてくれる。
冷静になろうと、大きく深呼吸をした時に、玄関の方から音がする。私はそこで改めてこの部屋にもう一人暮らしている筈の人物の事を思い出す。
「いらっしゃい、薫さん?」
リビングに顔を見せた鈴木賢治は、驚いたように私を見る。
「すいません、こんな遅くまでお邪魔してしまって。もう帰ります」
慌てて立ち上がろうとする私を、鈴木賢治は止める。
「ごゆっくりしてください……ご自分がどんな顔しているのか分かっていますか?」
私を馬鹿にした笑いではなく、どちらかというと医者がするような穏やかな顔だった。しかし思いっきり、泣きはらした醜い顔を晒してしまった事にも恥ずかしさを覚え、顔を背ける。
「今の貴方は、迷子で弱り果てている子供のような顔している」
思ってもいない言葉に鈴木賢治の顔を思わず見返してしまう。本当に泣いている子供を宥めるかのような悪戯っぽい笑みに、緊張が解けていく。
「困っている子供を保護するのも、大人の役割だ。落ち着くまでいればいい」
夫の鞄を持ちながらニッコリとコチラを見守っている香織と『着替えさせてもらいますね』とネクタイを解きながら離れていく鈴木賢治をみて、これが大人の懐の深さというものなのだろうと思う。それに比べて自分はなんと未熟で中途半端なのだろうか? 結局私はその優しさに甘えて、そのままソファーに腰を下ろしてしまった。
「ケンちゃんも薫ちゃんも、お腹空いたでしょ、おまたせ。急いで作ったからこんなものしか出来なかったけど」
テーブルの上に、パスタとサラダが並べられている。その料理の香りで改めて自分が、お腹を空かせている事を思い出す。
台所で冷蔵庫の前に立っていた鈴木賢治が、ビールを掲げて『君も飲むか?』と聞いてきたが首をふる。
美味しいモノを食べ、穏やかな時間を過ごすことで、だいぶん落ち着いてきた。そして昼間とはちがい、賢治にも落ち着いて状況を説明することができた。商売柄、鈴木賢治が話を人から引き出すのが上手いということもあるのだろう。
「君の状況は分かった。ところで、君はその状況の何処を問題としているのかな?」
冷静な鈴木賢治の言葉に、思わず唖然としてしまう。言ってしまえば全てだ。そんな事もこの男は理解してないのだろうか? グラスのビールを煽る目の前の男の整った顔を見返してしまう。
「私が、ちゃんと女として生まれていれば、もしくは性同一性障害じゃなければ何も問題はなかったけど」
根本的な部分を挙げるしかない。母のように興奮した人が相手だとコチラもそのテンポに巻き込まれ動揺しまともに会話にならないが、こうも冷静に応じられると、コチラもジックリと考えながら答えられる。
「過去についての、たら・れば論は、問題ではないよ。解決の糸口の参考になにもならない」
そういってニッコリ笑う鈴木賢治を思わず睨んでしまう。
「でも、それが問題だから、こんな状況に」
思わずカッと声を荒らげた私に、鈴木賢治は穏やかにコチラを見つめている。
「ほら、君が性同一性障害であることと、今の状況での問題は別だろ? 悩んでいる人間というのは、とかく全ての事を問題にして、物事をさらに複雑にして混乱していくものだ。今の君のように」
鈴木賢治の言いたい事がなんとなく分かってきた。香織は私達の様子を見て、安心したように笑い、汚れた皿をもってキッチンの方に行く。自分は口を挟まず夫に別の形での相談をさせることにしたのだろう。
「問題を解決したいなら、まず君がどうしたいのかそれを考えるんだ。そしてそれに対して何が障害になっているのかを考え。それを解決するにはどうすれば良いのか? シンプルに考えるべきだ」
『私が望んでいる事』その意味を考える。『ちゃんとした女になること』
性別適合手術を受けて戸籍変更をする。でも、それが本当に女になるということなのだろうか?
「君はSRS(性転換手術)まで考えているのか?」
私は鈴木賢治の質問にすぐ頷くことができなかった。望んでいないという訳ではない。ただあくまでの社会的地位と見た目を変えるだけで、結局は男でも女でもないものになるという事に悩んでしまう。
でも今のままでは、いられない。私は頷く。
「今はどの段階まで治療を進めているの? 第二段階?(ホルモン剤治療を伴う体質改善)」
首をふる。もう第二段階をしてしまうと、二度と後戻りはできない。生殖機能に根本的に打撃を与え元の身体に戻すことはできなくなる。男性でなくなる事は嬉しくはあるが、女性っぽくはなるものの女性に完全になれるものでもない。
それに、生殖機能を完全に失うということは、自分がさらに歪な生物になっていくような気がするのは、私だけなのだろうか?
「まだ、第一段階までです」
鈴木賢治は眼を細め、頷く。
「君は最終段階まで望みながら、その先に進めてないという理由は金銭的問題で?」
随分、性同一性障害の治療について詳しい事に驚きつつも、私は素直に質問に答える。
「それもあります。あとこの身体は私だけのものではない。親に理解してもらい許可をもらってからと」
「君は成人しているから、保護者の許可なしでも出来るけれど、そこで思いとどまっているという訳か」
その言葉をジックリ噛みしめながら頷く。
「つまり、SRSへの戸惑いではないと」
その言葉に、私は頷くことができない。戸惑いはハッキリいうとある。日本において、戸籍の性別を変更するには、現在婚姻をしていないこと、子共がいないこと(2008年より未成年の子供がいない事に改正)、元の性別の生殖能力を持たぬこと、性別適合手術すみであること、という条件が必要になってくる。要は『戸籍上に難しい事にならないであろう環境で、元の性別を完全捨て去り、形だけでも新しい性別らしい姿を整えたら性別を変更できる』という状況だが、コレは本当に形だけの性を手に入れるにすぎない。
「まずはご両親を説得する前に、自分の意思というのを固めるのが先だな。どう生きていきたいのかという。そこが揺れていたら、ご両親と何を話し合うべきポイントすら分からないだろ? まあ君の母親がもう少し落ち着くのを待って、一緒に話し合うという方法もあるけど」
その言葉に、不思議と気持ちが楽になってくる。鈴木賢治の言葉で、まったく見えなかった未来への路がうっすらではあるが見えてきた気がしてきた。
前に座っていた鈴木賢治は席を立ち、私の頭をポンポンと撫でて『書斎で仕事をしてくる』と香織に告げてから去っていった。
コトンと音がして、テーブルをみると前にココアの入ったマグカップが置かれている。香織が私に慈愛に満ちた笑みで笑いかけてくる。
彼女の優しさと柔らかさが、私の傷だらけになった心を手当してくれて、鈴木賢治の冷静さが動揺で荒れまくっていた感情を沈めてくれた。本当に最高の組み合わせで良い夫婦だと思う。
それだけに、この夫婦に足りないものを改めて強く感じてしまう。
子供を虐待するような親が多くいる、なんで神様はそんな親の所ではなく、この夫婦に子供を与えなかったのか?
きっとこの夫婦の元に生まれた子供は幸せになるだろう。優しく暖かい母の愛と、強く包容力もある父親に見守られて。もし、私がこの家に生まれていたら、もっと冷静に私の問題も受け入れてもらえたのだろうか? 香織と他愛ない話をしながら、そんな考えても仕方が無い事をぼんやり考えていた。
私はこの先、恋愛なり結婚することができたとして、女性の幸せは手に入れるかもしれない。しかし、自分の血をもつ子供を産み出すという生物としての幸せは永遠に味わうことはできない。
正直言うと『自分の子供を抱くというチャンスが永遠に失われる』、という事を今までそこまで問題に思っていなかった。実際性同一性障害を隠して結婚し子供を作り、ある日突然カミングアウトして奥さんや子供と揉めて裁判沙汰になるという話も意外とある。私にはその人物の事が信じられなかった。なんて自分勝手なのだろうか?とも思う。偽りであれ、普通の生活を選択すること自体は悪いとは思わない。しかし、その道を選んだら最後まで貫くべきだ。自分の苦しみをさらに結婚相手や子供まで巻き込む事はないのにとも思っていた。でも、今はその人物がチョット羨ましいと思ってしまう。
この夫婦との付き合いが、母性本能なのか、父性本能なのかは分からないけれど、そういうものを私の中に芽生えさせた。
また、私は一人っ子であることから、父や母に対しても、女性になるという事以上に、自分が生殖能力を放棄するという事実を申し訳ないと感じてきていた。だからこそ、今日の昼間の母との会話が辛かった。
確かに自分で、まず、どうすべきかを、ちゃんと決めないとダメだ。私は、少しぬるくなったココアを一口飲む。そして大きく溜息をついた。




