第7話 人形じゃない
断りもなく、ルシールが僕の膝の上に座り込んだ。
上流の客の通うクラブ『モナーク』の、一番奥の僕の席である。
隣の卓にはケスラー・インダストリーズの会長の娘、イザベラ・ケスラーが陣取っていて、僕の奢りはたった今、あの女の一番安い奢りの引き立て役にされたところだった。
客の拍手は、今もまだ隣の卓のほうへ鳴っている。
ルシールはこの店の歌い手で、僕の女の一人だ。
いつもなら舞台を降りてからやることを、今夜は店に入って十分もたたずにやる。
さっき通路を歩いたとき、誰も狐の襟を振り返らなかったのが、よほど面白くなかったのだろう。
ルシールは銀狐の襟のコートを肩から滑らせて素肌の肩を見せ、僕の首に腕を回したまま隣の卓へ顔を向ける。
舞台用の白粉の匂いが、首のあたりにふわりとまとわりついた。
素肌の肩がちょうど僕の鼻先にあって、つい目が吸い寄せられる。
舞台の上で客を黙らせるときのあの目つきだ。
自分の男の隣にほかの女が陣取っていて、黙っていられる女ではないのだ。
「お嬢様、そこからじゃ舞台が半分しか見えないでしょう。残念ね。今夜はあたしが歌うのよ」
店の客の何人かが小さく口笛を吹いた。
いいぞ、ルシール。
「あなた、さっきから肩しか見ていないわね」
隣の卓から、イザベラの冷たい声が飛んで来た。図星を指されて、舌打ちが出かかる。
狐のコートなんか滑らせるルシールが悪い。あんなふうに出されたら、誰だって見る。
イザベラはルシールの顔を見もせずに、ルシールのコートの襟だけを見た。
「いい狐ね。九千ダルくらい?」
「一万八千よ。レオンが、取り置きの品を倍で買ってくれたの」
「そう。でも倍払っても、狐は九千ダルの狐のままでしょう? このお酒一本より安いのね」
ルシールの唇から舞台用の紅の色まで抜けたように見えた。舞台の上では一度も見たことのない顔だ。
「おい」
さすがに黙っていられなかった。僕は膝の上のルシールの腰を抱き寄せたまま、隣の卓を睨みつけた。
「ルシールを酒と比べるな! ケスラーのお嬢様は人を見ても、値段しか目に入らないのか」
「入るわよ。顔もちゃんと見えてる。きれいな子ね」
イザベラは平気な顔のまま笑った。
睨まれることにも男に凄まれることにも、生まれてこのかた慣れきっている笑い方だ。
「でも、比べたのは私じゃないわ。九千ダルの狐を着せて、一万ダルのお酒の隣に座らせたのは、あなたよ、レオン。並べて置いたら、比べられるに決まってるじゃない」
ルシールの肩が僕の腕の中で小さく強ばった。
抱いている腕に、その硬さがそのまま伝わってくる。
しまった。
庇ったつもりの一言で、かえってルシールをもう一度刺させてしまったのだ。
ルシールは口を開きかけてまた閉じた。何か言い返そうとして、言葉が見つからない顔だった。
「そっちのあなたは?」
イザベラの目がルシールの後ろに立つベティに移る。
「あなたは何を買ってもらったの?」
「ストッキング。四足」
ベティはけろりとした顔で、指を四本立ててみせた。
勝てない喧嘩には手を出さない女だが、訊かれたことには平気で答える女でもあるらしい。
「四足。素敵ね。脚を見せるお仕事だものね。……でも、四足も買ってもらったら、全部穿き替えるより先に、レオンのほうが次の子に替わってるかもしれないわよ」
「あら、そしたら、残りは次の人の前で穿くわ。無駄にはしないの」
ベティは肩をすくめて笑い返したが、さすがは踊り子で、舞台で野次を浴びるのには慣れているのだ。
イザベラが今夜初めて片方の眉を上げた。
「聞いた? レオン。あなたの次はもう決まってるみたい」
「ちょ、ちょっと、そういう意味じゃないわよ!」
ベティが慌てて両手を振ったが、もう遅い。両脇の社員たちが今度は遠慮なく声を立てて笑った。
ベティが一本取ったと思ったら、最後に笑われたのはまた僕だ!
「それから、そっちの子」
イザベラの目が今度はジーナの上で止まった。嫌な止まり方だった。
ジーナはさっきからずっとイザベラの顔ではなく、その後ろを見ている。
いつの間にか、扉の脇にいた大男が二人とも店の中に入ってきて、イザベラの卓の後ろを回り、僕の椅子の真後ろまで来ていたのだ。
拳銃の入った鞄を握るジーナの白い指に、力がこもっていくのが分かる。
「噂の子ね。手も足も目もいい病院で換装させてるんですってね。縫い目がずいぶん細いじゃない」
イザベラはジーナの手首を、飾り窓の時計でも眺めるように眺めた。人を見る目つきではなかった。
「白い輪のお家のお坊ちゃんが、自分の体には指一本触らせないくせに、女の子の体は好きなだけ取り替えさせて連れ歩いてる。お父様はご存じなのかしら。……要するにお人形遊びね。手を替えて、脚を替えて、目まで替えて。飽きたら、次はどこを替えてあげるの?」
イザベラは僕のほうへ小首を傾げてみせてから、ジーナに向かってにっこりと笑いかけた。
「あなたも大変ね、お人形さん。持ち主が飽きっぽいと、体がいくつあっても足りないわ」
「……あ?」
ジーナの口から低く濁った声が漏れた。
解体場で言うことを聞かない走鳥の首を押さえつけるときの声だ、と誰かが言っていたのを、僕はこんなときに限って思い出した。
人形、の一言で胃のあたりがぐらりと煮えた。
ジーナが何であるかは、僕が決めることだ。よその女に決められてたまるか。
お人形遊びと言われてすぐに言い返せなかったのは、ジーナの腕も脚も目も、金を出したのが僕で、どこの病院でやらせるかを決めたのも僕だからだ。
それに別のことで背中が冷たくなっている。
ジーナの換装は醜聞にならないようわざわざ州境の向こうの病院でやらせているのに、それをこの女はもう知っている。
いったい誰が喋ったのか。
ジーナが床を鳴らして一歩踏み出した。
踏み出したのと同時に、僕の後ろの大男が二人ともほとんど音を立てずに前へ出る。
あれだけの図体で足音が一つもしない!
僕の椅子を挟んでジーナと二人の大男が、互いの腕が届くか届かないかの距離で睨み合う。
右の男がジーナの手首の繋ぎ目に目を落として、低い声を出した。子供をあやすような、相手を見下した声だ。
「やめとけ、嬢ちゃん。いい生体部品を揃えてもらったところで、使い方を知らなきゃ飾りだ。こっちは十年、これで食ってる」
「飾り?」
ジーナは歯を見せて笑った。喧嘩の前にしか見せない嬉しそうな顔だ。
「じゃあ、試してみる? でかいの。あんたのその安っぽい金色の目と、あたしの目と、どっちが先に潰れるか」
そこで初めて、男の金色の目がジーナの上を動いた。
ジーナの白い喉もとから鞄を握る指先までを、確かめるように見直している。
お嬢様の言うお人形が棚に飾っておくだけの物ではないと、ようやく気づいたらしい。
店じゅうの音がすっと引いた。楽団が曲の途中で弓を止める。
誰かのグラスが床に落ちて割れたが、誰もそちらを見ない。
まずい、と思った。
ジーナが強いのは、よく知っている。
体じゅうを最新式の生体部品に換えたうえ、換えた手足とまったく喧嘩をしない体を持っているのだ。
一対一なら、そこらの入れ物には負けないだろう。
だが相手は二人で、どちらも目と手を取り替えた大男だ。それに何よりまずいのは――。
ケスラーの娘の目の前で、ケスラーの用心棒を叩きのめしたら、どうなる?
割賦の払えない工員やみすぼらしい帰還兵を締め上げるのとは訳が違って、ケスラーが新聞社へ持ち込んだ記事は、父の秘書でも消せないだろう。
相手は兄の入札の相手の家だ。
兄は首都の父に言いつけ、父は秘書を走らせ、今度こそ、僕の小遣いは止まるかもしれない。
ゆうべ食堂で兄の前で神妙な顔を作ってみせたのも、全部無駄になる。
兄のあの顔をまた見るのか。
「ジーナ。やめろ」
声が自分でも情けないほど上ずった。
ジーナに何かを命じて声が裏返ったのは、たぶん初めてだ。
ジーナは大男から目を離さずに、肩越しに僕を見た。
「なんで。あいつ、レオンのこと――」
「相手を見ろ! ケスラーだぞ。床に這わせた次の朝には、新聞と兄さんと父さんの秘書が、揃ってうちの玄関に来る」
ジーナの頬がぴくりと引きつった。
言われたことの重さは、この娘のほうが僕より先に分かったらしい。
しばらく誰も動かなかった。
それからジーナは、鞄を握っていた手を、こじ開けるように開いていく。開いていく白い指が小さく震えている。
手が鞄から離れきったとき、ジーナは右の大男の磨いた靴の先に唾を吐いた。
大男はやはり眉一つ動かさず、ただ、さっきジーナが踵で付けた白い跡の上に唾が落ちたのを見て、口の端を下げた。
「賢明ね」
イザベラがぱちぱちと二度だけ手を叩いた。下手な役者に送るような気の抜けた拍手である。
「あなたのお人形はあなたより度胸があるみたい。でも、持ち主のほうはちゃんと分かってるのね。自分が誰の娘に喧嘩を売ろうとしてるのか」
「人形じゃない! それに止めたのはそっちの用心棒のためだ。ジーナが本気を出してたら、明日からケスラーは用心棒を二人、雇い直さなきゃならなかった」
今度こそ言ってやった、と思った。ジーナが僕の後ろで鼻を鳴らすのが聞こえた。
「あら、優しいのね」
イザベラは心底面白そうに、くすりと鼻の奥で笑った。
「じゃあ、雇い直すまでのあいだ、あなたが代わりに私の後ろに立ってくれる? ……あら、無理ね。白い輪の坊やは生身でいらっしゃるんですもの」
生身。
僕がおめでたいマヌケどもと笑っていた、港の人足どもの言葉だ。
ケスラーの娘はそれを港から拾ってきて、わざわざ敬語にくるんで僕に投げてよこしたのだ。おまけに坊やときた!
店の隅で誰かが小さく咳払いをした。笑いをこらえ損ねたのだろう。
奥歯がぎりっと鳴る。
噴水の晩の口髭なら、この一言で水の中だ。だがこの女はケスラーの娘で、手を出すなとジーナを止めたのはついさっきの僕である。
イザベラはグラスを卓に置き、組んでいた脚をほどいて僕のほうへ身を乗り出した。
灰色がかった緑の目が下から真っすぐに見上げてくる。口元は笑っているのに、目の奥のほうは少しも笑っていない嫌な目だ。
「ねえ、レオン。前から一度、訊いてみたかったの。……白輪派の鉄砲屋の息子が、どうして素の体で表を歩けるの?」
何を訊かれているのか分からずに黙っていると、イザベラは出来の悪い生徒に教える先生のような口ぶりになった。
「お父様は人の体にモンスター由来の物を入れるのは罪だって、首都で議員さんたちに言って回ってるんでしょう。そのくせモンスターの血肉で作ったBFは売りたがる。もっともそのBFももうすぐうちがもっと安く作ってあげるけど。……それで自分の家の者には、モンスター由来の物を一滴も入れさせない。若返りもしない。恩恵も受けない。だから、あなたの体は生まれたときのまま。弱くて、すぐ病気になって、すぐ歳を取る、素の体」
イザベラはそこで僕の左の手のひらに目を留めた。わざとらしいほど、気の毒そうに。
もう傷痕がうっすらと残っているだけの手のひらだ。
「ナイフでちょっと手を切られて、お人形さんに舐めて治してもらったんですってね。お人形の唾はどんなお医者様よりよく効くって、自慢してたそうじゃない。さっき、あなたのお友達が教えてくれたわ。……転んだ坊やが、乳母に膝を舐めてもらうみたい」
さっき、あなたのお友達が、という一言が耳に引っかかった。
嫌な予感がして、僕は後ろを振り返った。
少し離れて立っていた取り巻きの一人が、慌てて目を逸らした。ネッドだ。
ゆうべ僕の手のひらを一番熱心に覗き込んで、すげえすげえと騒いでいた男である。
どんな医者よりよく効く、というのは、ゆうべこの卓で僕が手のひらを見せびらかしながら自分で言った言葉だ。それがあの女の口から出てきたのだ。
フレッドと残りの二人が、一斉に天井の飾り灯を見上げる。
カウンターで待っているあいだに呼ばれて、機嫌を取ろうと喋ったのだ。
何をどう喋ったのかは、訊かなくても分かる。州境の向こうの病院の話も、出どころはたぶんこの男だ。
この豚野郎。
「ネッドお前……!」
「い、いや、俺はその……訊かれたから、ちょっと答えただけで……ほら、ケスラーのお嬢さんに訊かれて、黙ってるのも感じ悪いだろ……」
ネッドは両手を胸の前で振りながらしどろもどろに言い訳を並べたが、言い訳の数が増えるほど、喋った中身も多かったのだと分かる。
役に立たないどころの話ではない。
お嬢様に呼ばれれば尻尾を振ってすっ飛んでいき、僕の恥を手土産に差し出す。これなら犬のほうがまだ義理堅い。
「そんな体でよく夜の街なんか歩けるわね。私だったら怖くて、屋敷から一歩も出られないわ。生身で一生を終える家の、せめてもの見栄ってところかしら」
「素の体の何が悪い!」
僕は隣の卓に向き直った。ここで黙ったら、本当に終わりだ。
「毎年薬を打って、体をいじり続けなきゃ若さも保てない家よりは、よっぽど身軽だ。こっちは何もしなくてもこの顔なんだよ」
「そうね。身軽よね」
イザベラは僕の言葉を、ありがたく受け取るように小さく頷いてみせた。
「その代わり、あなたは私より先に皺だらけになって、私より先に死ぬの。私がまだこの顔でいるうちに、あなたはお父様そっくりの顔になってるわ。……身軽で安上がりでよかったわね」
顔が、恥ずかしいという言葉ではとても足りないくらいに熱い。
傷痕の残る手のひらがじっとりと汗ばんでくる。
それに「すぐ歳を取る」の一言だけは、笑いごとでは済まないくらい本当に痛かった。
金ならいくらでもあるのに、白い輪の家に生まれたばかりに、ケスラーのヴァーナルを一滴も買わせてもらえないのだ。
この女はそのことを分かっていて、一番痛い所を一番楽しそうな顔で押してくる。
それでもここで黙る訳にはいかない。黙れば、取り巻きの前で負けを認めることになる。
「歳を取るのが怖くて体をいじる家に、とやかく言われる筋合いは無いね。ケスラーこそ、人の体に生体部品を売りつけて稼いでる家だろ。港の裏で暴れてる獣還りの半分は、ケスラーの腕を入れた連中だって聞いたぞ!」
後ろでフレッドたちが「おお」と小さくどよめいた。今度こそ急所に入った筈だった。
イザベラは少しも顔色を変えなかった。それどころか、可哀想な物でも見るような目を僕に向けた。
「半分? 誰に聞いたの? ……まあ、いいわ。売ってるのは本当よ。でも、うちの家の者は誰も入れてないわ。あんなの、工員や人足が買う物だもの。うちが売ってるのは、腕と、それを一生保たせる抑え薬。薬を打っていれば、獣還りにはならないの。獣還りになるのは、その薬が切れた人。薬が切れるのは、お金が無くなった人。お金が無くなるのは、仕事を失くした人」
イザベラは細い指を順に立てて数えてから、その指先をまっすぐ僕の胸に向けた。
「あなたのお家の工場は、腕を換えた工員を課長より上には上げないし、お家の病院は木の腕しか出さないんでしょう? だからみんな、借金をして余所で換えて、薬代で潰れていくの。それで首になったら、社宅からも追い出す。……獣還りを作ってるのは、どっちのお家かしら」
言い返そうとして、言葉が喉で止まった。
昼間、僕の駐車場の入口で震えていた灰色の腕が、頭に浮かんだのだ。
うちの工場で腕を失くし、借金で生体部品の腕に換え、職長を殴って首になり、僕の割賦の払いを滞らせたまま、その車で寝起きしていた男。
あの男の話をこの女が知っている筈は無いのに、知らないままぴたりと言い当てているのが、一番腹立たしい。
後ろでフレッドたちが息を殺している。
ルシールは僕の膝の上で身を固くしていて、ベティは黙って僕の背中を見ている。
トビーはたぶん目を逸らしている。ジーナは大男たちを睨んだまま、空になった右手を握ったり開いたりしている。
取り巻きの前で、女たちの前で、アッシュクロフトの次男が言い返すたびに言い負かされている。
情けない。死ぬほど情けない!
「……ケスラーの家こそ、ハイデルから流れてきた移民の家だろ」
最後に口から出たのはそれだった。我ながら、苦しまぎれにも程がある。
イザベラはきょとんと目を丸くした。それから、心の底から楽しそうに声を上げて笑った。
「そうよ。お祖父様がハイデルから鞄一つで渡ってきて、父が一代でここまで大きくしたの。自慢の家よ。……それで? あなたのお家は四代も続いた立派なお家よね。その鉄砲屋さんが大戦の頃から作ってきたBFの商売を、移民の息子のうちの父に、たった数年で脅かされてる。来月の入札で負けたら、どうなるのかしら。続いた年月の割に体は素のまま、商売は崖っぷち。どっちが自慢出来るお家かしら」
投げつけた一言が、そっくりそのまま僕の顔に跳ね返ってきたのである!
この女は移民と言われても少しも恥じない。恥じないどころか、胸を張っている。
移民と言えば黙る連中しか相手にしてこなかった僕は、その先の言葉を何も持っていなかった。
金は鞄一つでも、体に重ねてきた何代分かは鞄に入れずに海を渡ってこられたのだ。
イザベラは満足したように椅子の背にもたれ直すと、もう僕には興味を失ったというように、隣の銀行家の娘に小声で何か話し始めた。
娘が扇の陰でくすくすと笑う。
僕は自分の席に座っているのに、座る場所を失くしたも同然だった。
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