第1章 赤い夢の残滓①ー赤い夢ー
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僕と女は海辺に立っていた。
女の足元には、潮に濡れた赤いワンピースが、鮮やかな血のように波に揺れていた。
女は振り向かずに言った。
——「愛って、ほんとはどこに行くんだろうね。」
僕は答えなかった。
代わりに、女の消えてゆく背中を見つめた。
世界が急速に音を失ってゆくように感じた。
そのとき、足に鋭い痛みが走った。
僕は足元を見た。
海面をジェリーフィッシュが踊るように揺れていた。
僕は視線を戻した。
女は消え、赤いワンピースだけが浮かんでいた。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 1 》
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飼い猫のこまちの鳴き声で目を覚ました。
「こまち。」
こまちはベランダに向かって鳴いていた。
僕の存在を忘れているかのようだった。
午後の光はすでに傾き、ガラス戸を朱に染める夕陽が、こまちの毛を黄金色に染めていた。
僕はしばらく動けなかった。夢の残滓が、まだ脳の裏側に残っていた。
——また彼女の夢だ。赤いワンピースの女。
もう何度も見る。同じ顔、同じ沈黙。
時には砂漠のような街で、時には廃墟になった港で、時には灰色の海辺で。
どこであれ、彼女は僕の知らない誰かを待っていた。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 2 》
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『夢から覚めるたび、僕の人格はひび割れまたひとつ剥がれ落ちていく。
床に散らばった破片を拾い集めながら、これは本当に僕のものだったのか、それとも夢のあいだに紛れ込んだ別人のかけらなのか、判別がつかなくなってくる。
時折、拾い上げた破片の裏側に、見覚えのない文字が刻まれていることがある。
詩のような、あるいは誰かの呪いのような。
僕は仕方なくその破片を顔に押し当てて、新しい人格の形を作る。
だが、つくったそばから思う。
これは僕ではない、と。
僕を模した何かが、僕の体の中で勝手に生活を始めている、と。
ときどき、胸の奥から聞こえてくる微かな囁き声は、その〝何か〟が僕にかけている指示なのかもしれない。
オリジナルの僕はどこへ行ったのだろう。
夢の底か、あるいはもっと深いところ——名前が反響しない場所に落ちてしまったのかもしれない。
そこでは、誰も僕を呼ばない。僕自身すら。』
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 3 》
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僕はいつ書いたのかも忘れてしまった詩を呟いていた。
自分が書いたのだと記憶しているのに、その作者が他人のように思える。
詩は僕のものではなく、僕が詩の付属物として存在しているような感覚だった。
相変わらず、こまちは僕に背を向けたままだった。
いつからこまちは返事をしなくなったのか思い出せなかった。
やはり僕は、夢から覚める前の自分ではないのかもしれない。
あったはずの〝僕〟という存在が欠落し、この部屋に〝余白〟が生まれる。
代わりに他者が認識されるまで、この部屋に〝余白〟は存在し続け、こまちは沈黙し続けるだろう。
「こまち。」
やはり返事はなかった。
まるで僕の言葉を別の言語として受け取っているかのようだった。
僕は少し寂しさを覚えながら、洗濯物を取り込むためにベランダに出た。
風は重く、忘れかけていた季節が混じっていた。
樹々はすでに紅葉を始めていた。体内にわずかに残った最後の熱を発しているかのようだった。
年の暮れに向かう、枯れた空気に満たされた世界は、僕の内面を反映したような景色だった。
洗濯物のあいだから、赤い布の一片がひらりと揺れた。
見覚えはない。
しかし、まったくの無関係とも思えない。
まるで僕の行動の隙間を狙い澄ましたかのような出現の仕方だった。
こまちがベランダから飛び出して低く唸った。
毛を逆立て、赤い布を睨みつけている。
こまちの視線は、赤い布の奥に隠された別の何かを見据えているようだった。
僕は赤い布を手に取った。
布を落陽のわずかな光にかざしてみると、織り込まれた繊維の奥に小さな黒い点がいくつも見えた。
最初は繊維の影だと思ったが、よく見るとそれは文字の断片のようでもあった。
判読できるほどの形にはなっていなかったが、〝a〟や〝c〟のような、アルファベットのかけらに見えた。
「m、a、c、…h?、i…」
指先に残る、ぬめりのような記憶。
——赤は残る。彼女は消えたはずなのに。
その赤は、単なる色ではなかった。
布きれが空間の一点を汚染するように、僕の内側にも小さな裂け目を開いていく。
愛情の残滓にも、事故の痕跡にも見えるが、どちらかとも決められない。
決めようとするたびに、布がわずかに形を変えているように思えた。
ふと気がつけば、赤い布片が僕の体の一部だったかのように、僕の手の中でひどく馴染んでいた。
まるで愛がかたちを変えて、物質として沈殿しているようだった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 4 》
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「愛って、ほんとはどこに行くんだろうね。」
そう呟いたのは僕だったのか、それとも夢の中の彼女だったのか。
夢か現実か、どちらもはっきりしない。
しかし胸に刺さる赤の感覚だけは確かだった。
波の音が耳の奥で反響し、僕の内側の詩が自分の意思とは無関係に語りはじめた。
それは僕の言葉ではなかった。もっと古い、誰かの遺した詩。
死者の言葉のように、静かで、正確だった。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 5 》
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夕陽はますます濃くなり、世界の輪郭を焼きつぶしていった。
『黒い影。
視界の端で何かが落ちた。』
心臓が早鐘を打つ。
まるで自分が海中に沈んでゆくように、波の音が増幅し、水の音に溺れた。
息をするたびに海水を飲み込んでいるようだった。
苦しい。
僕は酸素を求めて手摺を掴んだ。
突風が吹いた。
赤い布が僕の手を離れ、生き物のように震えながら空を裂いて飛んで行った。
——赤は消えた。もう戻ってはこないだろう。
『覗き込むというよりは落ちてゆく感覚だった。
視線が、重力に引かれるように沈み、闇の底に触れたとき、ようやくそれが目に入った。
そこに転がっていたのは、悪夢の残りかすだった。
ねじれた手足はタコの触手を思わせたが、もっと乾いていて、枯れ枝のようでもあった。皮膚はヒキガエルを膨張させたように腫れ上がり、ところどころ裂け、暗い液体を滲ませていた。
地面は赤かった。
絵の具をぶちまけたような赤だ。
風が吹いたのか、それともそいつがまだ微かに動いたのか、赤い光景が波打った。
その瞬間、胸の奥で、何か古い恐怖がゆっくりと目を覚ました。
やがて悲鳴が聞こえ、落陽の静寂をざわめきが埋めた。
斜陽が沈んでいくなか、蟻のように死骸の周りに人が群がった。
潰れた生物の口は大きく裂けて笑っているようだった。
それは僕の願望であり、失ってしまった感情のかけらそのものだった。』
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 6 》
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激しい痛みが僕の意識を足元に連れ戻した。
こまちが僕の足に噛みついていた。
血が流れ落ちた。
それは涙のようだった。血の赤が夕陽の赤と混ざっていた。
こまちは振り返ることなく、一目散に部屋の奥へ消えていった。
赤は、ふたたび僕の元に戻った。
もう何も聞こえなかった。
まるで詩の行が途中で途切れた夢のつづきのように、静かだった。
そして数十分の薄明が終わり、すべてが闇に包まれた。
《幻想文学集 『Red Jelly Fish 』第1章 赤い夢の残滓 7 》
▶︎次回予告「第1章 赤い夢の残滓②ーマリアの檻ー」




