Mason
ルーマニア、カルパティア山脈
2026年3月15日 午後11時47分
メイソンのプライベートジェット「ナイト・アウル」が専用滑走路に着陸すると、山々の霧が濃くなった。ハッチが開き、車椅子は自動プラットフォームに沿ってゆっくりと降下した。機械の関節が冷たい夜にかすかに響いた。
吸血鬼になってからずっと経っていたが、彼の肉体は回復しておらず、顔の傷は修復不可能だった。
「ようこそ、ヴィグ様」執事は頭を下げた。主人の顔は金属製のマスクで覆われており、鼻と左目があるはずの場所には、繊細なセンサーと油圧装置だけが残っていた。
メイソンは返事をしなかった。彼の電子の目は、滑走路に並ぶ黒いSUVの列を捉えた。ドアにはニコライ・ベリシャ一味の紋章がかすかに見えた。
（マウンテンヴィラ、屋内スパエリア、午前0時23分）
人工温泉の蒸気がガラスドームに滴り落ち、ゴシック様式の彫刻をゆっくりと滑り落ちていく。ニコラス・ベリシャは温泉に半分浸かっていた。シャンパングラスの中の琥珀色の液体は不気味なピンク色に輝き、泡の間には新鮮な人間の血がゆっくりと拡散していた。
「キーッ…」車椅子が大理石の床を転がり、メイソン・ヴァージャーのシルエットが霧の中にはっきりと浮かび上がった。チタン製の肘掛けが冷たく輝き、ネックブレースの金属光沢を反射していた。吸血鬼に変貌したニコラスの青白い肌は、歪んだ顔の骨にぴんと張り付いていた。額から顎にかけての左頬の傷跡は、ハンニバル・レクターが残したものだ。
「42℃」メイソンの声が、電子喉を通して機械的なしゃがれ声のように響いた。 「この温度でいいか？」彼は車椅子をプールの縁に近づけた。「それとも、その優越感を薄めてしまうと思うか？」
ニコラスはシャンパングラスを指でくるくると回し、小さく笑った。水滴が彼の筋肉を伝い、水中に赤い筋を描いた。「温泉にも入れない吸血鬼よりはましだ」彼はグラスを掲げた。「お前は俺のようになってくれと懇願したじゃないか。今更約束を反故にするのか？」
メイソンの機械の指がアームレストを掴み、シリコンカバーが白く変色した。「俺が反故にするのは」彼はニコラの完璧な体を一瞥した。「二人とも吸血鬼なのに、お前はなぜこんな殻の中で生きていて、俺はこんな鉄くずの山に閉じ込められているんだ？」
「ジーン、愛しいメイソン」ニコラは血のシャンパンを一口飲んだ。 「ハンニバルに不具にされた体に吸血鬼の血を注入したとしても、元通りにはならない。腐った肉を聖水に投げ込むようなものだ。美味しい料理にはならないだろう。」
「本題に入りましょう。」メイソンは車椅子を温水プールに背を向けた。流水の音が彼の電子喉の雑音をかき消した。「妖精さん、電話で言ったことは本当だったのですか？」
「もちろん。」ニコラが水面に浮かび上がり、腹筋を水滴が伝って流れ落ちた。「彼女を抱きしめる者は、他人を操り、願いを叶えることができる。」
車椅子の機械の腕が伸び、葉巻箱を拾い上げた。メイソンは葉巻に火をつけ、煙が鼻孔を巡った。「これで顔が治る？神経が繋がる？」突然、彼の電子喉がかすれた声を上げた。
「理論上は、できる。」ニコラスは腰にタオルをかけ、メイソンの後ろに歩み寄り、指先で車椅子のワニ革の背もたれをなぞった。「彼女の両親はミュータントマーメイドで、彼女は生まれながらの変身能力者だ。君は健康だけを求めているんじゃない。ハンニバルに復讐したいんだろう？」
メイソンの喉仏がネックブレースの下を転がった。葉巻の灰がコントロールパネルに落ち、小さな焦げ跡を残した。「ドリームヴィラで君は彼女を抱いた。去年のハロウィン、君は彼女の体温を調べたいと言っていたよ。」
「ああ、あの雨の夜だ。」ニコラスの笑い声がドームに響き渡った。「彼女が僕にオシッコをかけてきたんだ。海水とミルクを混ぜたような匂いで、君の葉巻の匂いより強かった。ルシアが隣に住んでいるのが残念だ。母性的なオーラが紫外線のように強いから、何も検査できないんだ。」
湯気で光が薄れ、暗い雲が窓の外を流れていった。メイソンはニコラの方を向き、ロボットレンズを狭めた。「つまり…」
「ルシアを殺す」ニコラは彼の髪を拭った。「母性はエネルギーフィールドよ。それをクリアにすれば、フェイの力が解き放たれるわ。その時までに、君は立ち上がるどころか、翼が生えたくなるかもしれないわね」彼はメイソンの肩当てを軽く叩き、笑った。「ハンニバルのために踊ることもできるかもしれないわね」
車椅子のブレーキがカチッと音を立ててロックした。メイソンはニコラの横顔を見つめた。「本当にいいの？何か計画はあるの？」
ニコラスは空になったカップをゴミ箱に放り投げ、パチパチという音が広がった。「計画だって？楽しいことしか計画しないわ。君が歩く時に赤いダンスシューズを買ってあげるとか」彼は踵を返し、ロッカールームへと向かった。「だって、ハンニバルがこんな君を見たら吐くわ」
ロボットアームが葉巻を下ろし、灰が山を成した。ニコラがロッカールームへと消えていくのを見ながら、メイソンのロボットのような目は大きく見開かれた。電子の喉は過負荷で鳴り響き、嫉妬が蔓のように彼の心に張り付いていた。
彼は車椅子を温泉に近づけ、ロボットの指を湯に浸した。歪んだ彼の顔が、くしゃくしゃになった絵画のように水面に映った。「フィル…」彼は水の中で指を握りしめながら、静かに呟いた。
（ニコラの出発後）
ニコラが出発してから30分後、別荘のオーク材の扉が勢いよく開かれ、山風が雪片を巻き上げてきた。最初に廊下に入ってきたのはマーゴ・ヴェルジェだった。彼女のキャメルのカシミアコートには、小さな氷の結晶がちりばめられていた。彼女がスカーフを解こうと手を上げると、首筋の淡いピンク色の妊娠線がはっきりと見えた。5ヶ月に及ぶ代理出産の証だ。彼女の後ろには、アラナ・ブルームが大きなショッピングバッグを3つ抱えていた。元FBIコンサルタントの鋭い視線がリビングルームを一瞥し、やがて柔らかな笑みへと変わった。彼女は手を伸ばしてマーゴットの腰を抱いた。「ゆっくり行って。階段が少し滑りやすいから」
コーデルが影から出てきた。血の混じった灰青色の瞳がクリスタルのシャンデリアの下でかすかに輝いていた。彼は滑らかに流れるような動きでショッピングバッグを受け取り、黒い革手袋をはめた指は、アラナが慎重に選んだベビーロンパースを慎重に避けた。「ご主人はスパにいらっしゃいます」彼の声は、凍った土をサンドペーパーでこする音のようだった。「私が伝えに行こうか？」
「いりません」マーゴットの声はスキーから戻ってきたばかりで、しわがれていた。彼女は膨らんだお腹を撫で、カシミアの手袋の下を指先で優しく叩いた。「まずは荷物を出しておきましょう。ヴィラ全体に彼の車椅子の音が聞こえるでしょう。」
彼が言い終わる前に、チタン合金製の車椅子が大理石の床を転がる音が廊下の端からこだました。彫刻が施された手すりの向こうにメイソンの輪郭が徐々に浮かび上がり、ネックブレースに反射した光が、彼の半分傷ついた顔を半分明るく、半分暗いように見せていた。「楽しかった？」電子喉笛の機械的な声はわざと優しく、車椅子は3メートルほど離れたところで止まった。「アルプスの雪はバージニアよりもスキーにいいの？」
マーゴットは眉を上げてコートのボタンを外し、下に着ていたマタニティドレスを見せた。「少なくともスキー場ではトラッカーを付けている人はいないわね。」彼女の視線は兄の首に巻かれた金属製のブレースに向けられた。「ニコラがまた会いに来たみたいね。」
アラナはテディベア柄のベビー用寝袋をコーデルの腕に抱きかかえ、メイソンの方を向いて微笑んだ。「山のふもとにあるマタニティショップを見て回ったの。あそこの手作りウールの靴下は新生児にぴったりよ」。左手はマーゴットの腰から離さず、薬指にはマーゴットと同じプラチナの指輪がはめられていた。
メイソンのロボットアームが突然上がり、コーデルの手に握られたショッピングバッグを指差した。「人魚の赤ちゃんの話、聞いたことある？」電子音の甲高い声が急に上がった。「深海で生まれた小さな生き物は、3歳で変態になるの。肌は真珠層のように白くなり、目は光るのよ」
マーゴットは立ち止まり、妊婦のようにゆっくりとスリッパを履き替えようと腰をかがめた。「もちろんよ。吸血鬼が100年に一度目覚めるのと同じようにね」。彼女が背筋を伸ばすと、カシミアのスカートの襞が腹部に優しくカーブを描いた。 「なんで急にそんなこと聞くの？」
「ただ気になっただけ」メイソンの車椅子が半円を描き、チタン合金の支柱が地面に浅い傷跡を残した。「出産予定日はいつ頃？」
アラナの指先が、マーゴットの妊娠中のお腹に優しく円を描いた。「お医者さんは数週間後だと言っていました」彼女の笑顔は抑えきれない期待に満ちていた。「私たちは混血だから、赤ちゃんは普通の赤ちゃんより早く成長するかもしれないから、こういうものを事前に用意しておいたんです」
「それに、女の子になる可能性が高いの」マーゴットは手を伸ばして、アラナの風になびいた髪を撫でながら付け加えた。「だから、ピンクのドレスをたくさん買ったの。コーデルは、そんな鮮やかな色は吸血鬼の赤ちゃんにはふさわしくないって言ってたのに」
すでに買い物袋の中身を整理し、ベルベットのベビーベッドを抱えて階段を降りていたコーデルは、それに軽く頷いた。混血である彼は、純血の慣習をほとんど本能的に敬っていたのだ。
メイソンの機械仕掛けの目が突然マーゴットの腹部に焦点を合わせ、レンズがかすかに振動した。「前は…君にとてもひどいことをしたよ」電子音声はいつになく低かった。「支配、傷つけ…ごめんなさい」
マーゴットとアラナは驚いたように顔を見合わせた。マーゴットの指はアラナのシャツの裾を握りしめ、彼女の指の関節は白く染まった。幼い頃から彼女を苦しめて楽しんでいたこの兄が、本当に謝っているのだ。
「謝罪は受け入れます」アラナが先に口を開いた。落ち着いた、毅然とした声で。「でも、済んだことは済んだことです」
メイソンの車椅子は金属製のペダルが床に擦れる音を立てながら後退した。 「部屋に戻る」彼の電子音が突然、いつもの機械的な感触を取り戻した。「コーデル、ナイトスタンドにある『血統遺伝学』を持ってきてくれ」
車椅子が角を曲がると、メイソンの機械の指がコントロールパネルを軽く叩いた。そのリズムは彼の心臓の鼓動と完璧に同期していた――まるで猫のような王子様。その考えは蔓のように彼の心臓に絡みつき、頸椎の古傷よりも彼を高揚させた。人魚の赤ちゃん、女の子、すくすくと育つ…すべての要素が完璧に一致していた。
廊下の突き当たりの影が車椅子を飲み込み、過負荷の電子喉がパチパチと音を立てる音だけが空気中に響き渡る。まるで何かが静かに醸成されつつある陰謀のようだった。マーゴットはお腹をさすり、突然身震いした。アラナは彼女をさらに強く抱きしめ、メイソンが消えた方向を警戒するように見つめた。
