第30話 帰れる準備を
「お疲れ様」
揺莉がニコリと微笑むと、ルーミルは驚いたように片眉をあげ、揺莉を見つめる。
「この言葉も、おじい様から聞いたのですか?アノーリオンくん達はこの言葉を知らないと言っていたので、エルフ内では使わないのですよね」
「そうだ。祖父はよくこの言葉を俺にかけてくれていた。今も使うのか分からなかったが、一か八かで言ってみたが…揺莉さんも使っていたのか?」
「使ってました。ふふっ」
「そうか、それなら良かった」
揺莉とルーミルは、互いに顔を見合わせたまま笑う。
「…あの…おじい様は今は…」
笑顔がひき真顔になったルーミルは小さく頷くと、顔を上げ青い澄み渡った空を見つめる。
「亡くなっている。今は俺には家族は1人もいない。1人だ」
「…寂しいですね…」
「まぁ…そうだが、仕方ないな…。だが、俺は祖父も祖母も母のことも、今でも尊敬しているよ」
「あの…お父様は…?」
「父は誰かは不明なんだ。ここで、またハイエルフお得意の隠蔽体質だ。俺の母と結婚させておいて、俺が生まれたのを確認し瞳の色が正常だと分かると、その後はすぐに別れたらしい。俺は父親に会ったことはないよ」
「……そうなんですね…なんだか…エルサリオンさんがハイエルフの方々を嫌う理由が、なんとなく分かった気がします…」
「ははっ。まぁ、な…。ちなみにだが、俺の出生を知っているのはハイエルフだけだ。エルサリオンは知らないし、今後も必要に迫られなければ誰にも言うつもりはない。だから…」
「分かってます。私も言いません」
「すまない」
「いえ…!むしろ、私に話してくださり、ありがとうございます」
ルーミルは揺莉を優しい眼差しで見つめた後、園庭に顔を向けフフンと鼻で笑う。
「エルサリオンは俺が戦闘に参加しないことを不服に思っているしな、言ってしまった方が色々と解決はするのだが」
「そのことですが、どうして、ルーミルさんは行かないのですか?魔法は使えるのに…」
「あ!サーク!だめだよ〜!!」
ララノアの声とともに、サークがルーミルに飛びかかってきた。
「お」
ルーミルがサークを受け止めると、サークは嬉しそうにサークの首元や腕の中で戯れつく。
「もー!サークー!そこに逃げるのはずるいよ!」
駆け寄ってきたアノーリオンとクルゴンが、サークをルーミルから引き離す。
「ははっ、サークは3人の鬼から逃げて怖かったのか」
ルーミルが笑うと、サークは拗ねたようにクーンと鳴いた。
「サークー!もう一回行くよーー!」
アノーリオンの掛け声で、また全員が園庭の中心に向かって走り出す。
揺莉は思わず笑顔になり、椅子から立ち上がりその様子を見届けた後、ルーミルの方に向き直る。
「——あっ!ルーミルさん、腕…!血が出てます…!」
ルーミルの腕からは、3本の引っ掻き傷のようなものから、血が腕の筋肉を伝うように滴り落ちていた。
揺莉はルーミルの前で膝立ちをし、腕の傷を見る。
「あぁ、サークの爪が当たったな」
そう言ってルーミルは手のひらを傷の上に当て、魔法で治癒していった。
数秒たっただろうか、傷跡はなくなり元の綺麗な腕に戻った。
「わぁ〜!すごいですね!」
揺莉は目を輝かせ小さく拍手をすると、ルーミルは傷があった腕に触れ、うーん、と唸る。
「この程度の傷なら、通常、手をさっと一瞬動かすだけで治せるのだが、俺は人間の血が入っているせいか、傷の治りが遅い。ハイエルフにも傷の手当てをされたこともあるが、ハイエルフの手に掛かっても結果は同じだった。俺の体質なんだろうが、これが厄介でな」
「…あ…もしかして…それが原因で里の外の戦闘にも行かなかったり…?」
「そうだ。治りが遅いことを隠すために、体の内部が負傷していることにしている」
ルーミルは、深く溜め息をつく。
「俺は時々、自分が何者か分からなくなることがある。エルフでもなくハイエルフでもなく、人間でもなく…」
揺莉は暗い表情で俯くルーミルを見つめる。
「…全てを…本当のことを伝えられたら、少しは楽になりそうですけれど…」
「それは、なかなかハードルが高いな。ここに来たときに経験しただろう?エルフがどれだけ排他的か」
「それは…」
「それに、エルフ全員が知らないわけではない」
「えっ?」
「ラエルノアも知っている」
園庭では、アノーリオン、クルゴン、ララノアが笑いながらキャーっと叫び、サークから逃げ回っている。
「知っている…って…」
「俺の正体だ。まだ祖父が生きていた頃、まだ俺も子どもだった頃だな、一度祖父を連れて、ハイエルフ地区を脱したことがある。そのとき、出た先でラエルノアに会った。それで祖父を見て秘密を知ってな、それからだ、彼女が俺の秘密を盾に俺をこき使うようになったのは」
「じゃあ、ラエルノアさんは元々人間という存在を知っていた…もしかして、私のことも最初から人間だと検討はついていたのかな…」
「おそらく分かっていただろうな。彼女は何が理由かは分からないが、最初から、人間である君を排除したがっていたようだ。ラエルノアにとってはそれが運悪くとでも言えばいいのか…俺の正体を知っていることがハイエルフにバレ、それが今回の拘束時間の長さにも影響している」
「ララノアさんは、ルーミルさんの正体を知っては…?」
「あの子は知らない。知らない方がいい、自分の身を守るためにもそれが一番だ」
「でもクルゴンくんは…」
「知っている。ハイエルフだからな。だが、あの子は賢い、知っている事実を簡単に他の者に話すようなことはしない」
ルーミルは立ち上がり、園庭に背を向け、揺莉を真っ直ぐ見つめる。
「先日、記憶が欠けていったことで、元の世界に戻らずこの里に留まるというようなことを言っていたが、その気持ちは一時のものか?それとも今でもまだ、そう思っているのか?」
「…それは…正直…今も…まだ自分がどうしたいのか…分かっていません…」
「気持ちは、どちらかに必ずまとめるんだ。分かっているだろうが、もし元の世界に戻るとなったとき、意志を強く持たないと転移の際に分離する」
「はい…分かっています…」
「……もう少しで転移の魔法が仕上がると聞いた」
「えっ…」
ルーミルは微笑んだ後、揺莉に背中を向け園庭の方に顔を向けた。
「もう少しで帰れる。良かったな」
(帰れる…そっか…でも、なんでだろう…少しガッカリした気持ちも…)
揺莉はズキッと胸が痛み、胸に手を当てて眉間に皺を寄せ目を瞑る。
「そろそろ日が暮れる」
ルーミルの言葉に目を開けると、いつの間にか振り返っていたルーミルと目が合う。
ルーミルは、ずっと自分のことを見ていたんだろうか、と思ったそのとき、アノーリオン、クルゴン、ララノアが、勢いよく園庭から教室になだれ込んできた。
「いちばーん!!」
「え〜私のほうが、はやかったよ〜!」
「…僕が最初に床にタッチした…」
「いや、俺だよーー!」
「ちがう、ぜったい!私っ!」
「…ケンカはだめだよ…」
3人のワチャワチャする様子に、揺莉とルーミルは目を合わせ、プッと吹き出す。
「は〜い!わかった、わかった。3人とも、そこまでにしましょう。3人とも、いっぱい園庭で遊べたかな?」
「遊べたー!!!」
3人は大きく口を開け、手を挙げてピョンピョンとその場で跳ねる。
いつもならただ可愛く見える3人の姿も、帰る時期が迫っていると分かった途端に、急に切なくなってしまう。
「ゆり…?」
「ゆりさん、泣いてる…?」
「大丈夫…?」
揺莉は目を指で拭うと、ニコッと笑う。
「あっ、ごめんね。さっ、帰りの準備をしちゃいましょう!」
揺莉がパンと両手を叩くと、3人はベランダで靴を脱ぎ急いで教室へと入る。
「大丈夫か?俺が急に帰れると言ったから——」
「いえ、違うんです、大丈夫です」
揺莉は、赤く染まり出した空を見上げる。
「…少し、ここが…居心地が良くなり始めていただけです…ちゃんと、帰る気持ちは固めますので…」
揺莉はルーミルに視線をうつし、微笑む。
「エルサリオンさんにも伝えてください。帰れるときがきたら、すぐに準備しますと」




