1−7
修星は、握った拳からぽたぽたと血を滴らせていた。
爪が食い込むほど強く握りしめた拳。皮膚が裂け、血が地面に落ちるたび、心の奥がじわじわと冷たくなっていく。
「……嘘だろ。悦男が……悦男が死んだなんて……」
声がかすれる。地面に膝をつき、髪をかきむしる。
まとわりつく喪失感に、何かを吐き出さなければ正気を保てなかった。
目の前には、場違いなほど艶やかなピンクの髪をした女が立っていた。
おもちゃの刀を背負い、脚を組んで壁にもたれているその姿は、どこか不気味なほど落ち着いている。
「公安に潜り込んでいる仲間から連絡があった。悦男は、もう戻らない。確かな情報だよ」
まるで天気を告げるかのように無感情な声で、女が言い放つ。
修星はその言葉に怒りをぶつけることもできず、ただ地面に爪を立てて唇を噛み締めた。
この女は「キキ」と呼ばれている。
本名も、過去も、素性も一切不明。
だが、修星を含む暗殺集団「雑音」の全員が、彼女を畏れ、従っていた。
悦男――修星の相棒。相棒以上の存在。
彼がいなければ、今の自分はここにいなかった。
修星は悦男に助けられ、生き延びた。悦男の泡玉がなければ、自分はあの場で公安に捕らえられ――いや、殺されていたかもしれない。
あの時、敵は子供の姿をした刑事だった。修星は自分の魔具――ブリキのロボットの人形を使ってその体を操り、脱出に成功した。が、それは悦男が命と引き換えに作ってくれた一瞬の隙間だった。
修星の魔法は、対象の身体を一体だけ乗っ取る力。
一対一の戦いなら無類の強さを誇るが、複数に囲まれれば手も足も出ない。悦男との連携があって初めて成立する戦術だった。サポートしてくれる悦男がいたからこそ、自分は任務をこなせていた。
悦男が後方で援護し、タイミングを合わせ、二人で動く。
それがいつものスタイルだった。
だからこそ、成功できた。殺せた。生き残れた。
そして何より――ただ、楽しかった。
くだらないバラエティ番組を一緒に見て、くだらないことで笑って。
コンビニで適当に弁当を買ってきて、夜中に二人で食べながらゲームして。
暗殺者のくせに、そんな日常が、修星にとって何よりも大切だった。
普通なんてものに縁がなかった修星が、初めて「人間」らしくいられる時間だった。
その悦男が――もういない。
「悦男の……復讐をしたいか?」
キキが、何の感情も込めずに尋ねてくる。
修星は歯を食いしばって顔を上げた。
「当然だ……! あいつの仇は、俺が絶対に取る!」
「死神に向かう覚悟はあるのか?」
「ある……殺す。俺の手で、確実に仕留めてやる」
その瞬間、キキの唇が僅かに持ち上がる。笑ったのか、それとも皮肉なのか。
「なら、この娘の教育をしろ。菜美、おいで」
部屋の奥から小さな足音が響いた。
やがて、ふらりと現れたのは、少女向けのアニメに出てきそうな魔法のステッキを握った、小さな女の子。
年の頃は……どう見ても幼稚園児か、小学校低学年。
「……は? ちょっと待てよ。そのガキに仕事を手伝わせる気かよ?」
修星は目を見開き、椅子を蹴って立ち上がる。
「そのまさかだよ」
「ふざけんな! こんな小さい子どもに、暗殺なんて――」
「もう手遅れさ」
キキは淡々と告げる。
「菜美はすでに四人殺してる。その中には、両親も含まれている」
「…………!」
背筋に冷たいものが走る。信じたくなくて、でもキキの言葉は嘘ではない。
菜美の表情は、どこか人形じみていた。
貼り付けたような笑顔。虚ろな瞳。呼吸をしているだけの器のような雰囲気。
その身体には、ピンクのフリルがついたワンピース。
だが、よく見ると腕や脚には無数の傷跡。
手首には、古い火傷のような痕。
顔の輪郭には、殴られてできたと思われるあざの跡が、薄く残っていた。
「……保護されかけた時に、組織が彼女をスカウトした。警察に渡れば、ただの保護案件。でも、我々には逸材だ」
「逸材って……この子は、まだ7歳とかだろ……」
「9歳だよ、ちゃんと自己紹介もできる」
「ニャーミーです。お兄ちゃんは……ぶったり、しない?」
か細い声で、菜美が尋ねる。
修星は息を呑んだ。
「……ああ。しない。しないよ。絶対に」
「そっか。じゃあ、優しくしてね。お兄ちゃん」
にぱっと笑った顔は、天使のように無垢で――同時に、どこか壊れていた。
目の奥に、光がない。
その少女は、すでに人を殺している。
たった9年しか生きていないのに、もう取り返しのつかない場所に立たされている。
キキは淡々と修星に言い放った。
「これからお前の任務は、菜美を一人前の“殺し屋”に育てること。悦男の代わりになるには、まだ時間がかかる。だが……この子は、伸びるよ」
修星は返事をしなかった。
自分が何を見せられているのか、理解するのに時間がかかった。
悦男を失い、代わりに得たのは――壊れかけた子どもだった。
心の奥で、何かが軋む音がした。