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「失礼。錫村君、ちょっといいかな?」
呼びに来たのは真野さんだった。黒スーツがやたらと似合ってて、ほんとこの人ずるい。
「います。……なにか?」
「藤城課長がお呼びだ」
「……課長?」
初耳の名前に首を傾げていると、横にいた宇田島さんがすぐにフォローしてくれた。
「公安六課の課長だよ。すぐ行ったほうがいい」
俺はよくわからないまま立ち上がり、真野さんに続いて廊下を歩く。
公安六課があるのは警視庁の12階らしいが、課長室はなぜか17階。
どこの世界でも偉い人ってのは、上の階に陣取ってるんだな。物理的にも心理的にも遠い存在ってわけだ。
真野さんがノックすると、扉の向こうから「入れ」と低い声。
てっきり課長ってくらいだから、偉そうなオジサンを想像していたんだけど。
「藤城課長、錫村刀矢を連れてきました」
「真野主任、お前は下がっていい」
「はい。では、失礼します」
扉が閉まったあと、俺は思わず見惚れていた。
そこにいたのは、冷たい美しさをまとった女性だった。
タイトスカートの黒いスーツにまとめ髪。ピンと背筋が伸び、整った顔立ちに隙がない。
クールビューティーって言葉が、たぶんこの人のためにある。
「そこに座れ」
応接セットのソファを指差され、俺は素直に腰を下ろす。
視線を向けられた瞬間、背筋がピシッと伸びた。なにこれ、反射?
「真野主任から事情は聞いている。……本当に、別次元から来た人間という認識でいいのか?」
「えっと……たぶん。俺も説明がうまくできないんですが……魔法? みたいなもので、気づいたらこっちにいて」
「そうか」
口調も淡々としていて、表情はあまり変わらない。でも、なんかちょっと落胆してるようにも見える。……え、もしかして期待外れ?
「何か困っていることは?」
「えっ、困ってること、ですか? 困ってることしかなくて……何から言えばいいのか……」
藤城課長は「ふむ」とだけ言い、軽く息を吐いた。
そのまま沈黙が流れたが、俺は意を決して口を開く。
「……ひとつ、特に困ってることがあって」
「言ってみろ」
「えっと……住んでたアパートがこっちの世界にはなくて。寝る場所がないんです」
その瞬間、藤城課長がじっと俺を見た。
そのまなざしに、俺はなぜか息を飲んだ。強いとか冷たいとかじゃない。
言葉にできない、懐かしさのような、胸をざわつかせる何かがある。
「錫村刀矢には複数のセーフハウスがある。私が把握しているだけで三箇所。他にもあるが、彼はそれらの場所を誰にも教えていなかった」
「そんなに……?」
「彼は常に命を狙われる存在だった。誰にも気配を読まれないよう、親ですら居場所を知らない」
そこに宿っているのは、厳格な“職務上の語り口”……のはずなのに。
ほんの一瞬だけ、“寂しさ”のようなものが混じった気がして、俺は言葉を詰まらせた。
「しばらくは、警視庁の一室を私室として使ってもらう。セキュリティも整っている」
「……すみません、なんかホテル代わりみたいで」
「非常事態だ。必要な生活物資はこちらで用意する。口座も新しく開設しておくといい。給料もそこに振り込む」
「至れり尽くせりで助かります。……っていうか、元の俺、金どうしてたんですかね?」
「それは私にもわからない。彼がどうやって金を動かしていたのか、誰にも明かしていない。……あの人は、そういう人間だった」
その言い方に――明らかに、感情がにじんでいた。
わずかな“距離感”と、“過去形”が混ざる口調。思い出を語るような声。
(……もしかして、俺の“もう一人”とこの人……)
そんな妄想がよぎって、心臓がドクンと跳ねた。
「何から何まで、ありがとうございます」
俺は、なんとか笑顔を作ってごまかした。
でも、気持ちはごまかしきれなかった。
この人は――何かを知っている。
もう一人の“俺”に関わる、何かを。