6−1偶像
1月4日。
昨日まで休みをもらっていた俺は、久しぶりに自室のドアを開け、重たい足取りで出勤の支度をはじめた。
眠った気がしない夜だった。
目を閉じるたび、浮かんでくるのは、あの顔だ。
南川修星。
とても穏やかな表情だった。
まるで眠っているかのように。
(……絶対に、後悔だけはしちゃダメだ)
胸の奥で繰り返す。
あれは俺の選択だ。誰かに命じられたわけでも、誰かの代わりでもない。
自分で、引き金を引いたんだ。
そう言い聞かせながら、右手を見つめる。
何も持っていない、ただの手のひら。
けれど詠唱すれば――この手には、人の命を奪える魔具が宿る。
子供のころに遊んだ、おもちゃの形をした道具が、今は法の名のもとに「魔法」と呼ばれている。
おかしいと思う。
あれは本当に魔法なのか?
俺達が使っているのは、ただの得体のしれない力だ。
心の奥にある「何か」を引きずり出して、他人に向けて放つための、暴力の形。
それを制御できる者だけが、正義を語る。
果たしてそれが、正しい世界なのか。
(俺は……試されているのだろうか)
そう問いかけてから、ふと思った。
俺だけじゃない。
この世界に生きる人間すべてが、何かに試されているんじゃないか。
力に支配されるのか、力を支配するのか。
魔具に選ばれた者は、ただその答えを――問われているのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は制服の襟を正す。
気がつけば、もう出勤の時間だった。
重たいドアを開けて、部署へと向かう。
冷たい廊下の空気が、わずかに肌を刺した。
階段を上がり、六課のあるフロアの角を曲がると、ちょうど出くわしたのは小野倉さんだった。
「錫村さん、おはようございます」
いつもの調子だ。声に抑揚はなく、表情も読みにくい。けれど、こうして挨拶を交わしてくれるだけで、どこか救われる気がする。
「……おはようございます」
声を返すと、彼女は静かに一礼して通り過ぎていった。
六課のドアを開けると、見慣れた景色が広がっていた。
デスク、書類、コーヒーの匂い、そして――
「おー、錫村君、正月はきちんと休めたか?」
隣の席から、佐々木さんが湯飲みを手にぬるっと話しかけてくる。
その気の抜けた声に、俺の肩の力が少しだけ抜けた。
「錫村さん、おはよう。書類仕事、鬼のように溜まってるから頑張ってね」
山下さん、それは笑顔で言うことじゃない。
ーーえ?
俺は昨夜からずっと胃をキリキリさせていたというのに、みんなの反応があまりにも普通で、思わず足が止まる。
「おう、錫村。休み中、ちゃんと飯は食ってたか?」
「宇田島さん……えっと、おはようございます。食事は、売店でなんとか……」
「それはちゃんととは言わないぞ。昼は美味い寿司屋の弁当買ってきてやるよ」
「お願いします……」
そのやり取りを終えて、俺はスーッとスマートに入室してきた真野さんを、半ば反射的に捕まえた。
「あ、あの、真野さん。みなさん、俺のやらかしたこと、知らないんですか?」
「ん? 知ってるぞ」
さらっと返される。
「お前が拘置所ぶち込まれたぐらいで、誰も驚かないっつーの」
真野さんの陰に隠れて見えなかったが、本間さんが後ろに立っていた。
「私は、ちょっと驚きましたよ」
久我さんが、ためていた書類仕事をしながらデスクから顔を上げる。
助かった、まともな感覚の人がいた。
「逮捕した容疑者殺しても、一日で拘置所から出れるんだーって」
……そっち?
「久我、それは誤解だ。何事もなかったかのように出来たのは、みんなに“錫村刀矢だから仕方がない”という耐性があったからだ」
どんな耐性なんですか……。
「とりあえず、錫村さん、初詣は行きました? 僕、まだ行ってないんで、よかったら付き合ってくださいよ」
石巻くん、あいかわらず話の脈絡が迷子。
みんな、もっと俺を見る目が変わるんじゃないかと思っていた。
冷たくされるんじゃないか。
責められるんじゃないか。
避けられるんじゃないかって――。
そんなふうに思い詰めて、昨日はろくに眠れなかった。
けれど、蓋を開けてみれば……そんなことはなかった。
あんなに悩んでたのが、嘘みたいだ。
どっと、肩の力が抜けた。
空回りしていた緊張が、ようやくほどけたような気がした。
そのときだった。
「正月明けで悪いが、緊急ブリーフィングだ」
その声が響いた瞬間、六課の空気が一変した。
入り口に立っていたのは、藤城課長。
珍しくノックもなく、迷いのない足取りで部屋に入ってくる。
その鋭い目に、全員が自然と背筋を伸ばした。
「警備部から応援要請が来た。全員、会議室へ」
淡々とした声が、かえって場に緊張感を漂わせる。
新年のゆるんだ空気は、一瞬で吹き飛んだ。
俺たちは顔を見合わせ、すぐさま現場モードへと切り替わる。
◆◆◆
「警備部の保護対象となっている人物は、篠原浩。二十七歳」
会議室でホログラフが起動され、男性の顔写真が映し出される。
その瞬間、俺は思わず椅子から立ち上がった。
「……浩?」
「錫村、知り合いか?」と宇田島さん。
「芸人時代の仲間です。今はもう辞めてますけど……」
けれど、画面に映る浩は、俺の記憶の中の浩とはどこか違っていた。
頬がふっくらし、肌の艶もいい。目元は穏やかで、どこか育ちの良さすら感じる。
「この世界の篠原浩は、篠原財閥総帥・篠原貴信の孫だ。いわば、大財閥の御曹司というわけだ」
あまりの情報に、言葉が出なかった。
俺が知っている浩の実家は、ごく普通のサラリーマン家庭だったはずだ。
「彼に殺害予告が届いたのは、昨年の九月三十日。それ以降、犯人と見られる人物によって、二度の騒動が発生している」
課長の言葉に、山下さんが手を挙げる。
「その騒動って……もしかして、週刊誌に載った熱愛報道の件が関係してますか?」
「……熱愛報道?」俺が訊き返すと、
「バツグンガールのセンター、マナカとのスキャンダル。イタリアのホテルで同じ部屋に泊まったって。二人は偶然出くわしただけ、と釈明してたけど……ファンの間じゃ“篠原が連れて行った”って話になって、炎上してるのよ」
「そのアイドルって……」
山下さんが手持ちのパソコンの画面に女の子の画像を映し出す。
「この子。19歳。成人ではあるけど、あまりにアイドル顔すぎて、逆に問題視されてるの」
……うん。冷静に考えて、これは確かにアウトだ。
浩は、昔はアイドルにまったく興味を示さなかった。「使い捨てのホッカイロみたいなもん」なんて言って、小馬鹿にしてたのに。
それが、よりによって国民的アイドルとスキャンダルを起こすなんて――。
「騒動を起こしたのは、不和正隆。四十五歳。マナカの熱狂的なファンだった」
藤城課長が、再び映像を切り替える。
「一度目の事件は、動画サイトに篠原を誹謗中傷する動画を投稿。その後、篠原の自宅マンションで“不可解な爆発”が発生している」
映された写真には、ガラスが粉々に砕け、リビングの一部が激しく破壊された室内が映っていた。
「こちらが、防犯カメラの映像だ」
画面には、帽子とマスクで顔を隠した不審な男が、マンション前に佇んでいる姿。
「篠原財閥の意向により、事件は報道されていない。“ガス漏れによる事故”として処理されたが、現場検証では爆発物の痕跡は一切確認されていない」
「じゃあ……爆発の原因が、わからないってことですか?」
「その通りだ。不自然に割れたガラス。不自然に吹き飛んだリビング。だが、決定的な物証は何も見つかっていない。そして不和は、事件当時現場付近にいたことから、現在“爆破事件の重要参考人”とされている」
「……容疑者ってことですね」
山下さんが腕を組み、低く呟いた。
「だが、不和が実際に爆破に関与したという証拠は、いまだに掴めていない。魔法を使った可能性も否定はできないが、それも含めてすべて“可能性”の域を出ない」
「つまり……魔法による犯行だったとしても、不和が魔法使いだとは断定できない、ということですか?」
俺の問いに、課長は小さく頷いた。
「その通りだ。映像には不和が映っていたが、犯行の瞬間を見た者はいない。魔法を使ったという記録や証言も存在しない。断定できない以上、強制捜査も難しい」
「不和本人は、何か供述を?」
「『天罰が下っただけ』とだけ話している。自分が関与したとは、明言していない。そして今は逃亡中だ。警察が行方を追っているが、潜伏先は不明。 ネット上での動きも完全に途絶えている」
誰もが息を呑んだ。
爆破という大事件が、物証も証言もなく処理されている。
しかも、容疑者は魔法を使ったかもしれない――そんな事態に、背筋がじわりと冷たくなる。
「でも……殺害予告は、今も続いてるんですよね?」
久我さんが沈黙を破るように訊いた。
「ああ。SNS上では現在も、篠原浩への脅迫文が断続的に投稿されている。警備部は彼の護衛を24時間体制で続けているが……もし相手が魔法使いであるならば、通常の警備では対応できない可能性がある」
その言葉に、誰もすぐには反応できなかった。
――魔法で爆発を引き起こす。
そんな能力が実在するとしたら、それは俺たちがこれまでに対峙してきたどの事件よりも――危険で、破壊的だ。




