1−3
「錫村さん! 錫村さん、大丈夫ですか?!」
甲高い女性の声が、頭の奥に突き刺さるように響いた。まるでガラスが割れる瞬間を、耳元で再生されたかのような鋭い音だった。
「ん……あ?」
まぶたを無理やりこじ開けると、真っ白な空が視界に飛び込んできた。いや、空じゃない。薄雲の向こうから照りつける太陽。その眩しさに反射して、涙が滲んだ。
俺は、なぜか大の字で寝ていた。体の下には、ザラついたアスファルトの感触。首筋に冷たい風が吹き抜けていく。
「ど、ど、どうしよう! 錫村さん! 錫村さん!」
顔のすぐ上で、女性が半泣きで叫んでいた。俺の顔を覗き込むその女は、見たことがあるような、ないような……ショートカットで、制服のような黒いスーツを着ている。
だがそれ以上に目につくのは、首からぶら下がっているピンク色のカメラ。子供のおもちゃのような、場違いな装備だった。
(何だこの状況……)
「くそっ、錫村ー! 何やってんだ! B11に逃げられたじゃねぇか!」
がなり声とともに、倉庫の陰から現れたのは、またしても想定外の存在だった。黒いスーツに身を包んだ、どう見ても小学生。だが口調と目つきは完全にヤクザだ。
「本間さん、すみません。錫村さんが……私が飛び出したせいで、シャボン玉の攻撃をモロに受けてしまって……」
「だから言ったんだ。こいつじゃなくてB11を先に捕まえろって!」
(……ん? 撮影? ドラマ? それとも夢?)
思考が現実を拒絶している。脳が働かない。体は硬直し、心拍だけが早まっていく。
「どこか痛みますか?」
女性が心配そうに問う。
「……特には……」
とっさにそう答えたが、頭の中は真っ白だった。
鼻先を撫でる潮風。かすかに聞こえる、沖を走る船の警笛。アパートの玄関から一歩も出ていないはずの俺が、今いるのはどうやら、海の近くらしい。
杉並区のアパートの玄関にいた俺は、いったいどうやってここに来たんだ?
「医療班を呼びましたから。もう少し我慢してください」
「え……あのさ、これ……座っちゃダメなやつ?」
「頭を打ってるかもしれないので、できれば安静に……」
「んー……でも背中、すっごく痛いんだよね……」
(ていうか、そもそも俺、なんで地面で寝てんの?)
重い体を起こしてみる。筋肉が軋む。アスファルトの冷たさが、ようやく体の芯まで染みてきた。辺りを見回すと、工業地帯のような殺風景な景色。カメラもマイクもクルーもいない。これがどっきりだとしたら、ちょっと悪趣味すぎる。
そして次の瞬間、視界の端に――もう一人、倒れている人間が見えた。
「あの人は……?」
「たぶん即死です」
あまりにも即答すぎて、逆に聞き返してしまう。
「え? 今、何て……?」
「死んでます」
「ちょ、ちょっと待って……!」
わけがわからない。冗談かと思ったが、彼女の目は真剣そのものだった。
「錫村さん、落ち着いてください」
「いや、落ち着けるわけないでしょ!? 目の前で人が死んでるんだよ!?」
思わず叫ぶ。耳鳴りのように心臓の鼓動がうるさい。
まさか、冗談でも何でもなく、俺はいま、本当に死体のそばにいる?
そしてこの女は、それを冷静に「即死」と判断した?
(もしかして、この人が……?)
俺は恐る恐る立ち上がり、死体に近づいた。倒れている男は、目を見開いたまま、完全に動かない。そして頭部からは真っ赤な鮮血が溢れ出している。
(やばい、やばい、やばい……)
体が震える。冷や汗が、首筋をつつーっと伝う。
(……これって、事件……?)
もちろん葬式以外で死体を見るのは初めてだ。しかもリアルな死体は、映画やドラマのように”綺麗”に死んでない。
錆びた鉄の臭いが鼻につく。それがこの瞬間を”現実”だと突きつけてくる。
「錫村さん……」
「な、なに?!」
「さっきから様子がおかしいです。もしかして、記憶が……?」
「記憶? いやいや、俺は……ただの、コンビニバイトで……」
その瞬間、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
次々と現れるパトカーと救急車。黒スーツの男が車から降りてきて、こちらへ駆け寄ってくる。
「錫村、小野倉、お待たせ!」
その男の声を聞いた瞬間、再び、強烈な違和感が俺を襲った。
(なんで、俺……スーツ着てるんだ?)
白いトレーナーとジーンズだったはずの服装が、今や完璧なビジネススーツに化けていた。履いている黒いスニーカーも、左手の高級そうな時計も、どれも全部見覚えがない。
ぼーっとしていると、男に顔を覗き込まれる。
「お前、本当に錫村か?」
問いかけられて、俺は混乱したままうなずくしかなかった。
(本当に、何が起きてるんだ……!?)
◆◆◆
「これ、なんの冗談なんですか?……」
俺の声はかすれていた。冗談のつもりで口にしたはずなのに、笑いはどこにもなかった。
まだ状況を一切把握できていない。なのに、俺の目の前では、まるで現実が誰かにねじ曲げられたかのような光景が繰り広げられている。
俺は救急車に乗せられ、気がつけばどこかのビルの中に運ばれ、最先端の医療機器らしきもので全身をくまなくスキャンされた。MRIか何か知らないが、ずっと「ビー」とか「ガガガガ」とか鳴っていて、SF映画のワンシーンのようだった。
そして今、俺は医務室のような場所に座らされている。いや、医務室と呼んでいいのかも怪しい。壁には「公安七課 医療観測室」と書かれたプレートがかかっていた。公安? 観測? 何それ、観測されてるの俺?
室内にはさっきの黒スーツの男と、ボブカットの若い女性、それと小野倉と呼ばれていたピンクのカメラを首から下げたショートカットの女性がいて、さらにもう一人。
白衣を着た、年齢不詳の美人女性が、俺の胸元に「おもちゃの掃除機」を押し当てている。正確には、カラフルなプラスチックの筒の中で、無意味そうなカラーボールがカラカラと音を立てて回っているだけの代物。子供向けのトイザらスでよく見かけるやつだ。なのに彼女の表情は真剣そのもの。おい、冗談にもほどがあるぞ。
「特に、魔法をかけられた形跡は残ってないわね」
白衣の彼女——相葉先生とか呼ばれていた——が、真顔でそう言った。魔法? この期に及んでファンタジー設定が飛び出した。俺は大人四人に囲まれたまま、椅子の上で完全に固まっていた。これは何だ、コントか? ドッキリか? 俺をハメる壮大なイタズラか?
「そんなはずはないです。確かに、私の目の前でシャボン玉に取り込まれて、そこから様子がおかしくなったんです……」
と、小野倉さん。ピンクのカメラをぶら下げた彼女が、必死に訴える。
いやいや、ちょっと待て。シャボン玉って、攻撃手段なのか? 俺の知ってるのはせいぜい夏の縁日か公園の風景であって、戦闘道具じゃないぞ?
相葉先生は腕を組み、「ふむ」と唸る。だが、その格好がまた異常だった。白衣の下には胸元の大きく開いたセクシーなブラウス、ミニスカートに網タイツ、真っ赤なハイヒール。まるで夜の街にいそうな格好で、医者というよりグラビアの撮影中みたいな雰囲気を漂わせている。
しかもその美貌がまた、現実味を削ぐ。推定Hカップ。掃除機を押し当てるたびに、その胸がぷるんぷるんと揺れる。視線が吸い寄せられるたび、自分の理性を疑いたくなる。だがそれでも、彼女の発する言葉の内容が、俺の脳をさらに混乱させた。
「脳の検査もしたわよ。極めて正常。体は軽い打撲が少々。他は特に異常なし。私もこんなケース初めてで、ただの憶測になってしまうんだけど……一種の精神疾患としか言いようがないわね」
精神疾患って、さらっと言ったな。
「ちょっと待って下さいよ。俺、頭おかしくなってなんかないですよ」
「患者はみんなそう言うのよ」
「いや、あなたたちの方が十分おかしいですから。魔法だの、シャボン玉だの、おもちゃの掃除機だの。コントですか? これはコントなんですか? 俺、ロケットモンスターズのトーヤですよ? 今はコンビニバイトしてるけど、7年前は毎日テレビに出てた芸人ですよ? 見覚えないですか?」
四人とも、きょとん。ぽかん。
え、まじで? 全員、冗談抜きでテレビ見てなかった系の人?
「妄想にしては設定がちゃんとしてるわね」
相葉先生のふんわりした声に、俺の堪忍袋はとうに限界を超えていた。
「妄想じゃないってば! じゃあ、俺の相方に連絡とってくださいよ! 篠原浩と片岡仁って言います。あいつらなら証明してくれます。それにバイト先の店長にも連絡させてください。今日、代打で入るよう頼まれてたんです。連絡しないと」
誰も何も言わない。空気が、冷たい。
「小野倉さん、錫村くんのスマホある?」
そう言ったのは、さっきから俺達の会話をずっと傍観していたボブカットの女性だ。
「はい。これです」
渡されたスマホを見て、俺は固まった。
黒くて薄くて、まるで未来のガジェット。触ったことのない感触、軽さ。俺のじゃない。絶対に違う。
「これ俺のじゃないです」
「いいから、かけてみて」
……店の番号を手動で思い出し、なんとか入力。数回のコールの後、受話器の向こうから流れてきたのは――
『もしもし?』
聞き慣れない高齢の女性の声。
「あの、ゴーゴーマートですか?」
『いえ、違いますけど……』
……まさか。そんなバカな。
「……ちょっと待ってください。おかしい、絶対おかしい」
「それ、公安支給のスマホよ」と、ボブカットの女性。
「四段階のバイオ認証が入ってて、誰かが勝手に使える代物じゃないわ。つまり、あなたはその持ち主。声紋、指紋、眼球血管、顔認証、全部一致してる」
意味がわからなかった。だが言葉だけははっきりしていた。
「……おかしい、何かが、ずれてる……俺が間違ってるのか、世界が間違ってるのか……」
自分の声が震えていた。
そのとき、ふと、頭の奥底の記憶が蘇った。
「……あっ、小野倉美加さんだよね?」
彼女の表情が強張った。
「……はい、そうですけど」
「やっぱり……小学校の時、同じクラスだった小野倉さんだ。大雨の日に体操着、隠されたの覚えてるよ。泥だらけで探したもん。体育館の裏で、足跡ついてて……」
「してません!」
「……そう、忘れてるんだね。まあ、する方は忘れるよな。される方はずっと覚えてるもんだ」
「いい加減にしてください!」
「まあまあ、話を整理しようか」
黒スーツの男が割って入る。刑事というより、ドラマに出てくる刑事役のイケメン俳優みたいな美形の人だ。
その後の「住所確認」「学校の照合」「実家への電話」「死亡したパートのおばさんの情報」……すべてが、俺の記憶と食い違っていた。
俺が知ってるはずの現実は、ここにはなかった。
俺は、俺じゃない。けれど、俺であると証明される。
「山下班長、何か分かったか?」
山下班長と呼ばれたボブカットの女性は、腕を組み「う〜ん」と考え込んでいた。
「つまりーー私達にとってあなたは、“パラレルワールドの住人”だということかしら」
冗談では済まされない。ここは、冗談が通じない世界だ。だがーー。
「パラレルワールドって……そんな……」
「アルバイト先の志麻さんだっけ? 彼女は交通事故で亡くなったと聞いていたそうだけど、こちらの世界では10年間の闘病の末、病院のベッドで家族に看取られて亡くなった。コンビニでパート勤務をした経歴もない。そして、あなたは元芸人で今はコンビニのアルバイト。私達が知る限り、錫村刀矢は18の時から公安勤務でテレビになんて絶対にでないし、コンビニでバイトもしていない。ーーそういうことなのよ」
それで納得したといえば嘘になる。でも辻褄があってしまうような気にもなる。
それならばーー。
「なら、元の世界に戻るにはどうしたらいいんです?」
長い沈黙が続く。
俺の問に答えてくれる人は居ない。
ーーこうして、俺の異世界生活が静かに、確実に始まった。