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その後、俺たちは一度、六課に戻って報告書の整理と情報の共有を済ませた。
菜美の身元照会、蒲原の死亡確認、雑音関係者の関連リスト――無機質な書類の上に、彼らの断ち切られた人生が並んでいく。
本間さんたちが突入した一軒家のアジトは、“外れ”だった。
突撃したとき、家の中はすでにもぬけの殻だったという。
ただ、キッチンに残された紙袋、ソファの下に押し込まれていた菓子の袋、寝室に落ちていた包帯の切れ端といった細かな痕跡から、そこが確かに使われていた場所だったと分かった。
コードネームC21、A10、B3、B11。
あの一帯を震撼させた連中が交互に身を寄せていた拠点の一つだった。
アジトは定期的に移しているという情報もあり、そこはすでに“切り捨てられた場所”だったのかもしれない。
本間さんは「消化不良だ」と肩を落として帰ってきたが、久我さんは「ホッとした」とぽつりと漏らした。
無理もない。
石林菜美と遭遇していら、彼女だって冷静ではいられないはずだ。
久我さんの積み木は、敵の魔法や物理攻撃を跳ね返す特殊な魔具だ。
だが、それでさえA10の魔法は防げないとされている。
対象と視線を合わせただけで、“捻り潰す”魔法。
いや、暴走した彼女は無機質な物質まで捻り潰してしまった……。
彼女にとって”防げない”は、想像もできないような恐怖になることだろう。
日が暮れかけた頃、全体の動きは一段落し、「本日の業務終了」となった。
誰も、菜美の死を話題にすることはなかった。
口にはしなくても、公安の人間は、誰もが分かっている。
「雑音」である以上、その命はいつか誰かを殺し、誰かに殺されるかもしれないということを。
それが、たとえ――九歳の少女だったとしても。
(でも、俺は……)
胸の奥が重たい。
あの子を救えたかもしれない。
その“かもしれない”が、喉の奥でずっと引っかかっている。
たとえば、最初から銃を抜かなければ――。
もっと違う声のかけ方をしていれば――。
けれど、それは現場で動いた人間のエゴに過ぎない。
あの子が犯してきた罪。
人を“捩じって”殺した、その現実は変わらない。
変わらないのに、それでも――。
(……おごりだよな)
親に恵まれない子どもなんて、世の中にはいくらでもいる。
だが、彼女は魔法の素質を持っていた――それが、全ての分岐点だった。
(錫村Aなら、どうしてただろう)
知らず、そんな問いが浮かんでいた。
あいつだったら、あのとき撃てただろうか。
それとも――最後の最後まで、撃てなかったか。
どちらを選んでも、答えは苦しい。
ただ、今この体で生きている俺が下した選択だけが、真実だ。
考えが堂々巡りを始めたそのとき、背後から肩を叩かれた。
「錫村。藤城課長がお呼びだ」
「……え?」
「17階だ。すぐに行け」
真野さんが、短くそう言って去っていく。
その口ぶりに、特別な温度はなかった。
けれど、そこに込められているのはわかる。
“あの人に会えば、迷ってる時間は終わる”――そういう合図だ。
俺はゆっくりと立ち上がり、スーツの襟を正す。
無意識に背筋が伸びていた。
そして向かう。
警視庁の、幹部階層。
その扉の向こうに待っているのは、冷静で、正しくて、そして……厳しい現実だった。
◆◆◆
エレベーターのドアが、静かに開く。
17階――幹部職の個室が並ぶ、静寂の階層。
足音が、床の絨毯に吸い込まれる。
廊下の一番奥。重厚なドアの前に立ち、軽くノックをする。
中から、変わらぬ冷静な声が返ってきた。
「入れ」
ドアを開けると、藤城課長がデスクの椅子から立ち上がり、窓際のソファに腰を下ろしていた。
相変わらず、髪は一筋の乱れもなく、視線はまっすぐだった。
「座れ」
その声に従い、俺も正面のソファに腰を下ろす。
けれど、膝に置いた手に力が入る。
なぜか、彼女の顔を直視できなかった。
沈黙が、数秒。
やがて、課長が切り出す。
「報告書は読んだ。現場対応は的確だったと評価されている」
「……ありがとうございます」
「菜美という少女を、君が撃たなかったことも理解している。だが、それも含めて現実だ。受け入れることだな」
短い言葉なのに、冷たいわけではなかった。
ただ、真っすぐだった。逃げ場のない現実を突きつける、あの人らしい言い回しだ。
「……正直、分からないんです。自分が何をしたのか。何をしたかったのか。彼女を救おうとしたことが正しかったのか、甘かったのか……」
「正しさなど、誰にも定義できない」
藤城課長はそう言ってから、少しだけ背もたれに体を預けた。
「私も同じことを、かつて何度も考えた。正義、善悪、生と死。そのすべてを、何百人分と目にしてきた。だが、結局答えはひとつだけだ。『目の前の命に、責任を持つこと』――それが、公安の刑事の仕事だ」
その言葉に、喉が詰まる。
「君が見逃したとしても、あの子はまた誰かを殺しただろう。あるいは、自分が殺されていた。可能性で言えば、どちらも“現実になったかもしれない未来”だ。だが、真野が撃ち、君が撃てなかった。今の現実は、それだけだ」
「…………」
「迷うなとは言わない。だが、いつまでも迷っていることは罪だ。迷いは、次の判断を鈍らせる。判断の遅れは、仲間の死に直結する」
静かな声なのに、胸の奥に重く沈む。
その言葉を、彼女はずっと背負ってきたのだと感じた。
「君に任務を続けてほしいのは、君に価値があるからだ。君がどう生きようと、何を背負おうと、私は君を評価している。だが、忘れるな。私たちは感傷の中では生きられない。命令を果たす中でしか、生き延びられない」
胸の奥に、小さな針が刺さるような痛みを感じる。
この人は、ずっとこうして、戦ってきたんだ。
甘さも、優しさも、感情も――すべて心の奥に仕舞って、それでも誰かの背中を支えて。
「……B11に、会わせてください」
俺は、声が震えないように意識しながら言った。
課長は一瞬だけ、眉をわずかに動かした。
それでも表情は崩さないまま、うなずく。
「警察病院の特別病棟にいる。許可は出す。お前自身が、次に進むための判断をしてこい。……君の銃を、ただの暴力にするな。君が守るべき“誰か”のためにあると、私は信じている」
その言葉は、不思議とあたたかかった。
俺は席を立ち、深く頭を下げた。
その瞬間、ほんの一瞬だけ、課長の指先が俺の肩に触れた気がした。
だが振り返ると、彼女はもう元の冷静な顔に戻っていた。
――自分の“正しさ”を疑ったままでは、何も救えない。
心のどこかで、そう自分に言い聞かせていた。
◆◆◆
室内に、ページをめくる音だけが静かに響いていた。
警視庁17階、幹部専用執務室。外の喧騒など届かない、高層の密室だ。
デスクの上には一冊の報告書。
件名は「C2・蒲原彰史、死亡事案について」。
表紙の紙を指先でなぞるようにしながら、藤城早月はしばらく黙っていた。
(……これで、本当に終わった)
ゆっくりと、報告書を閉じる。
それはただの紙束――しかし、彼女にとっては“決着”そのものだった。
椅子から立ち上がり、窓際へと歩を進める。
外は朝の光が差し始め、街が日常の色を取り戻しつつある。
それを眺めながら、彼女はぽつりと呟いた。
「……ようやく、あの日に決着がついたぞ。刀矢」
その声に、感傷はなかった。
ただ、ひとつの因縁に終止符を打った者としての、淡々とした実感だけがあった。
彼は、もうひとりの“錫村刀矢”。
過去を知らず、だが同じ顔で、同じ魔具を手にしている、別の世界の存在。
──でも、違うのは“中身”じゃない。
変わるかどうかを決めるのは、環境でも記憶でもなく、その人自身。
(彼は、あなたとは違う。けれど、似ているわ)
だからこそ。
早月は、どちらの“錫村刀矢”に対しても、背を向けることはない。
報告書を腕に抱え直すと、早月は踵を返した。
次に向き合うべきは、過去ではない。
今を揺れる、もうひとりの彼――錫村刀矢だ。




