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桜田門ウィッチーズ  作者: しろいぬ
第五章 逆光
37/46

5−3

蒲原彰史は、焦っていた。


まさか南川修星が、勝手に単独行動に出るとは思ってもいなかった。


雑居ビルの監視カメラ――

そのひとつに、映っていたのは“あいつ”だった。公安の死神。

映像を確認した途端、修星は顔色ひとつ変えずに言った。


「屋上に逃げろ、彰史。俺は……あいつのとこ行ってくる」


そのまま止める暇もなく、修星は走り出した。


(たしかに、“復讐は一人でやれ”って言ったけどよ……なんでこうなるんや!)


彰史は、息を切らしながら階段を駆け上がっていた。

その腕の中には、小さな身体――菜美。


昨夜、修星が紹介してきたばかりの、まだ幼い少女だ。

年齢はたったの九歳。


『こいつ、菜美。今、俺が面倒見てる』


そう説明されたとき、彰史は一瞬、耳を疑った。

あの南川修星が、“子守り”をするような人間だとは思っていなかったからだ。


『魔法使い、なんか?』


訊ねると、修星はポケットに手を突っ込みながら答えた。


『ああ。潮見坂の事件、知ってるだろ? あれやったのが菜美だ』


潮見坂――

ネットに拡散された、頭部が引きちぎられた遺体の動画が脳裏をよぎる。


あれを? この子が?


信じられるはずがない……が、実際に菜美と対面すれば、納得せざるを得なかった。


彼女の目を見た瞬間、背筋が冷たくなった。

感情が欠け落ちているというより、“感情の輪郭すら知らない”ような目。

その奥に、空っぽの深淵があった。


最初、彰史が話しかけても、菜美は一言も返さなかった。まるで人間の言葉が耳に届いていないように。

だが、修星がナポリタンを皿に盛りつけると、菜美はそれをがっつくように食べはじめた。


フォークもうまく握れず、ケチャップを口の端からこぼしながら、テーブルの上もべたべたにして。

その姿は、野生動物の食事風景としか言いようがなかった。


『コイツ、たぶん今までコンビニの菓子パンとかおにぎりしか食ったことねーんだと思う』


その一言で、彼女がどんな環境で育ってきたのかが想像できた。


家庭の中で、“人間扱い”なんてされていなかった。

教育も施されず、愛情も注がれず、ただ命だけを繋いできた。

文字も読めず、言葉も知らず、喜怒哀楽さえ欠けている。


哀れだと思う。

だが、それ以上に――怖い。


人間の“形”をしていながら、人間として“育てられなかった”存在。


その小さな恐怖を、今、彰史は抱きかかえていた。

冷えきった体温が、服の内側にじわじわと染み込んでくる気がする。


「しっかり、しがみついとけ……」


思わず口にした言葉に、菜美は反応を示さない。

生きているのに、ぬいぐるみを抱いているような感覚だった。


修星が、この少女を託したということは、相打ちを覚悟なのか?

そんな思考が頭をよぎる。


階段を駆け上がるたび、心臓の音が激しくなる。

背後からは警報の音が鳴り響き、何かが“終わりに向かっている”空気を感じる。


彰史は、屋上の扉に手をかけた。


逃げなければ――


彼自身も、もう“戻れない場所”まで来てしまったことを、薄々感じていた。




◆◆◆




屋上に飛び出した瞬間、宇田島は空を見上げた。


先日の事件で見た――あの“クレーン”が、また浮かんでいた。


空中に突き出た、まるでゲームセンターのクレーンゲームのアームのような異形。

現実離れしたその魔具が、ゆっくりとビルの上空から降下していた。


その先端には、ふたりの人影。

ひとりは男。もうひとりは、その胸にしがみつくように抱かれた小さな少女。


(……あいつか)


展望台でB11と共に逃走した男。

テロ集団《禍結社》の残党――犯罪コード、C2。蒲原彰史。


ビルの周囲にはすでにパトカーが集まり、サイレンが鳴り響いていた。

避難誘導が始まり、このエリアは半径1キロ圏内で封鎖される手筈になっている。


「……厄介だな」


思わず漏れた声に、苛立ちが混じったのは、単に逃走される可能性があるからではない。


蒲原の腕の中にいたのは――間違いなく、A10=石林菜美だった。


公安がその名を把握してから、まだ日は浅い。

だが、“捻殺事件”を引き起こした魔法の正体はすでに記録にある。


魔具は子供向けの魔法ステッキ。

能力は、人間の身体をネジのように捩じ切る致死性の魔法。


制圧には、石巻のように魔法が無効化できる体質でもなければ、下手に近づくことすらできない。

視線が交われば、それだけで命取りになる。


――石林菜美。

彼女に接近することは、すなわち“死”と隣り合わせであることを意味する。


その危険を、宇田島は現場で見てきた。

だからこそ、口から出たのは冷静な作戦用語ではなく、本音に近い呟きだった。


屋上に風を切る音が響く。


振り返れば、スケボー型の魔具が音を立てて屋上の床を滑っていた。


「真野主任……」


遅れて到着した真野が、宇田島と同じ方向――上空のクレーンを見上げる。

視線の先にいる者が誰なのか、彼もすぐに理解したのだろう。


クレーンの動きは遅い。だが、今のあれは“無敵状態”だと六課では共有済みだ。

魔法による干渉も、銃撃による迎撃も、届かない。


だが、それでも――


「ためらっている暇はない」


真野は即座にターンし、スケボーを反転。

屋上から地上へ向かって、滑るように姿を消した。


その判断の速さに、宇田島は無言のまま頷く。


すぐに通信が入る。


《宇田島、錫村、地上だ。一階に降りてこい!》


「了解」


踵を返した宇田島は、非常階段へと走り出した。

階段を下るたび、周囲の空気が戦場のように張り詰めていく。


重力に逆らうような速さで、非常階段を飛ぶように駆け下りていった。




◆◆◆




真野さんからの通信を受け、俺はすぐに無線で報告を入れた。


「B11を確保しました。応援を要請します」


『了解。すぐに回収部隊を手配する。逃走の可能性は?』


応答したのは、藤城課長の低く沈んだ声だった。


「両肩と右足を撃ち抜いています。現在、意識はなく、その場に倒れています」


『よし。回収はこちらで行う。錫村は至急、ビルの正面へ回れ。C2が逃走を開始した』


「了解」


俺は短く返し、B11に手錠をかけたことを確認してから、階段を駆け下りた。


途中、黒いスーツに身を包んだ複数の男たちとすれ違う。六課のメンバーではないが、装備や動きからして、公安の刑事たちだとすぐにわかる。


(動きが早い……さすが、藤城課長の指揮下だ)


冷静に状況を分析しながらも、心臓は次第に高鳴っていた。


逃げたC2――蒲原彰史。

あの男が何をしでかすか、わからない。


このままいけば、何かが“起きる”。

その予感が、足元を急がせた。




◆◆◆




正面玄関を飛び出すと、ビルの周囲にはすでに公安の車両が並び、バリケードが組まれていた。緊急封鎖の実施中だ。野次馬や通行人は、警官によって遠巻きに押さえられている。


その中央、わずかに空けられたスペースに、真野課長と宇田島さんが並び立ち、拳銃を構えていた。


その銃口の先にいたのは――C2、蒲原彰史。そして、彼の腕に抱えられた幼い少女。間違いない。あの子は石林菜美だ。


「降参や〜」


蒲原が、のんきな口調で笑った。


「やっぱ、この子抱えて逃げるん、無理やわ」


そう言って、彼はゆっくりと菜美を地面に下ろした。

だがその直後、少女の耳元に口を寄せ、ささやく。


「どーする、菜美ちゃん? 逃げる? それとも、この怖〜いおっさんらに捕まる?」


菜美の肩がぴくりと動いた。


「この人たち、ニャーミーのこと……ぶったりする?」

「……もっと酷いことされるかもしれへんな。お兄ちゃんも菜美ちゃんも、殺されちゃうかもなぁ」


菜美――A10の瞳に、一瞬、揺らぎが走る。


「……しゅーせーは?」


その声は、か細く、掠れていた。


「さあな。ここまで合流せんってことは……もう死んでるんちゃうか?」


――完全に、焚きつけている。


俺はふたりの背後に回り込み、拳銃を構えた。


「菜美ちゃん。修星は死んでない。まだ生きてる。……俺たちは、君に怖い思いも、痛い思いも、絶対にさせない。だから、もうやめよう。君が本当はやりたくないって、わかってるんだ」


菜美が振り返った。

その瞳が、まっすぐに俺の銃口を見据える。


一瞬だけ、沈黙。


「錫村、止めろ!!」


真野課長の怒声が飛ぶと同時に、俺の右手に衝撃が走った。


――水鉄砲が、ぐにゃりとねじ曲がる。


「っ……!」


慌てて手を放す。遅れていたら、腕ごと潰されていたかもしれない。


(……魔具にすら干渉できるのか、この魔法)


菜美の小さな手には、あの“ねじねじステッキ”が握られていた。目には、もうさっきまでの戸惑いはない。


それは、敵意ではない。

けれど明確に、“守ろうとする覚悟”が宿った目だった。


「ねじねじ……」


その一言は、まるで子どもの遊びのように軽やかだった。


だが、次の瞬間、世界が悲鳴を上げた。


バリバリバリッ――!


菜美が振るったステッキの先、ビルの壁面が歪んだ。分厚いコンクリートが“ねじられ”、ぐにゃりと折れ曲がる。電柱が悲鳴のような音を立てて千切れ、信号機が吹き飛ぶ。地面が隆起し、舗装されたアスファルトが渦を巻くようにねじれ、亀裂が走る。


「下がれッ!」


真野課長が叫び、周囲の刑事たちが一斉に後退する。


だが遅かった。


ひとり、公安の若い刑事が後方誘導の途中で振り返ったその瞬間――


「ねじねじ……」


菜美のステッキが再び振るわれ、ビルの外壁から飛び出した鉄骨が、蛇のようにその男を包み込んだ。


「ぐっ……あ、あああッ……!」


男の体が、鉄と共にねじれ、悲鳴が空を裂いた。


(……殺された!)


俺は思わず一歩、彼女の方へ踏み出した。


「菜美ちゃん、やめろ! それ以上やったら、君も戻れなくなるぞ!」


届かない。


菜美は、ただステッキをぎゅっと握り、泣きそうな顔で――それでも、なお守ろうとしていた。


「……しゅーせー、いなくなったら……ニャーミー、独りぼっちになっちゃう……」


その時だった。


「はは、すげぇな……」


蒲原彰史が、崩れたアスファルトの上に立ちながら笑った。


「俺の見込んだ通りや。菜美ちゃん、お前は最高や」


蒲原は、ふらふらと歩み寄り、菜美の肩に手を置いた。


「なあ、もう一回やってくれ。あの黒スーツの連中、全部グッチャグチャにしちまえよ」


……あまりにも無防備だった。


「ねじねじ――」


その言葉が終わるより早く、蒲原の体が“ねじれた”。


ごぎりっ、ごりり――!


骨が砕け、皮膚が裂け、背骨がねじを巻かれるように回転し、やがて彼は地面に、グニャグニャになって崩れ落ちた。


誰もが、息を飲んだ。


菜美のステッキが、静かに下ろされた。


(……見えてない。菜美には、“敵と味方”の区別がついていないんだ……)


真野課長が、ゆっくりと手を上げた。


「全員、銃を下ろせ。視線を逸らせろ」


「でも――」


「いいから! 目を合わせるな! あの魔法は“目視”が必要だ!」


周囲の刑事たちが、一斉に目線を外す。

もはや“発砲許可”の問題ではない。魔法は銃よりも早く、無差別に対象を破壊する。


(このままじゃ、もっと多くの人が……!)


俺は一歩、彼女へ近づこうとした。


「菜美ちゃん……俺は、君の敵じゃない。お願いだから――」


「しゅーせー……いない……」


目に涙を浮かべながら、菜美がステッキを再び構えた。


「やめろ!」


俺は叫び、駆け出す。


撃てない――この子を、俺は撃てない!


この子は、自分の意志で暴力を振るっているんじゃない。ただ“失われたもの”を取り戻したくて、誰よりも必死で、誰よりも悲しいだけだ。


「やめるんだ! 菜美ちゃんッ!」


「錫村、下がれ!」


真野課長の声が響いた。


「――下がれって言ってるんだ!」


その声と同時に、乾いた銃声が響いた。


パンッ!


空気が一瞬、静止した。


菜美の額に、小さな赤い点が浮かび、そして……そのまま、音もなく崩れ落ちた。


ステッキがカラリと地面に転がり、静かに消えた。


沈黙。


誰もが、何も言えなかった。


俺は、崩れ落ちた菜美の姿を前に、ただ拳を握りしめたまま、立ち尽くしていた。


(……これで良かったのか? 本当に……)


真野さんが、銃を下ろしたまま、ひとつ息を吐いた。


「市街地での被害、負傷者一名。死亡確認一名……収束だ。全員、検証と撤収に移れ」


誰の声にも、張りがなかった。


誰もが、勝者ではなかった。


ただ、ひとつの命が終わり、ただ、街にひとつの傷が刻まれた。


俺は、胸の奥に、凍てついたものが張りついていくのを感じていた。


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