5−3
蒲原彰史は、焦っていた。
まさか南川修星が、勝手に単独行動に出るとは思ってもいなかった。
雑居ビルの監視カメラ――
そのひとつに、映っていたのは“あいつ”だった。公安の死神。
映像を確認した途端、修星は顔色ひとつ変えずに言った。
「屋上に逃げろ、彰史。俺は……あいつのとこ行ってくる」
そのまま止める暇もなく、修星は走り出した。
(たしかに、“復讐は一人でやれ”って言ったけどよ……なんでこうなるんや!)
彰史は、息を切らしながら階段を駆け上がっていた。
その腕の中には、小さな身体――菜美。
昨夜、修星が紹介してきたばかりの、まだ幼い少女だ。
年齢はたったの九歳。
『こいつ、菜美。今、俺が面倒見てる』
そう説明されたとき、彰史は一瞬、耳を疑った。
あの南川修星が、“子守り”をするような人間だとは思っていなかったからだ。
『魔法使い、なんか?』
訊ねると、修星はポケットに手を突っ込みながら答えた。
『ああ。潮見坂の事件、知ってるだろ? あれやったのが菜美だ』
潮見坂――
ネットに拡散された、頭部が引きちぎられた遺体の動画が脳裏をよぎる。
あれを? この子が?
信じられるはずがない……が、実際に菜美と対面すれば、納得せざるを得なかった。
彼女の目を見た瞬間、背筋が冷たくなった。
感情が欠け落ちているというより、“感情の輪郭すら知らない”ような目。
その奥に、空っぽの深淵があった。
最初、彰史が話しかけても、菜美は一言も返さなかった。まるで人間の言葉が耳に届いていないように。
だが、修星がナポリタンを皿に盛りつけると、菜美はそれをがっつくように食べはじめた。
フォークもうまく握れず、ケチャップを口の端からこぼしながら、テーブルの上もべたべたにして。
その姿は、野生動物の食事風景としか言いようがなかった。
『コイツ、たぶん今までコンビニの菓子パンとかおにぎりしか食ったことねーんだと思う』
その一言で、彼女がどんな環境で育ってきたのかが想像できた。
家庭の中で、“人間扱い”なんてされていなかった。
教育も施されず、愛情も注がれず、ただ命だけを繋いできた。
文字も読めず、言葉も知らず、喜怒哀楽さえ欠けている。
哀れだと思う。
だが、それ以上に――怖い。
人間の“形”をしていながら、人間として“育てられなかった”存在。
その小さな恐怖を、今、彰史は抱きかかえていた。
冷えきった体温が、服の内側にじわじわと染み込んでくる気がする。
「しっかり、しがみついとけ……」
思わず口にした言葉に、菜美は反応を示さない。
生きているのに、ぬいぐるみを抱いているような感覚だった。
修星が、この少女を託したということは、相打ちを覚悟なのか?
そんな思考が頭をよぎる。
階段を駆け上がるたび、心臓の音が激しくなる。
背後からは警報の音が鳴り響き、何かが“終わりに向かっている”空気を感じる。
彰史は、屋上の扉に手をかけた。
逃げなければ――
彼自身も、もう“戻れない場所”まで来てしまったことを、薄々感じていた。
◆◆◆
屋上に飛び出した瞬間、宇田島は空を見上げた。
先日の事件で見た――あの“クレーン”が、また浮かんでいた。
空中に突き出た、まるでゲームセンターのクレーンゲームのアームのような異形。
現実離れしたその魔具が、ゆっくりとビルの上空から降下していた。
その先端には、ふたりの人影。
ひとりは男。もうひとりは、その胸にしがみつくように抱かれた小さな少女。
(……あいつか)
展望台でB11と共に逃走した男。
テロ集団《禍結社》の残党――犯罪コード、C2。蒲原彰史。
ビルの周囲にはすでにパトカーが集まり、サイレンが鳴り響いていた。
避難誘導が始まり、このエリアは半径1キロ圏内で封鎖される手筈になっている。
「……厄介だな」
思わず漏れた声に、苛立ちが混じったのは、単に逃走される可能性があるからではない。
蒲原の腕の中にいたのは――間違いなく、A10=石林菜美だった。
公安がその名を把握してから、まだ日は浅い。
だが、“捻殺事件”を引き起こした魔法の正体はすでに記録にある。
魔具は子供向けの魔法ステッキ。
能力は、人間の身体をネジのように捩じ切る致死性の魔法。
制圧には、石巻のように魔法が無効化できる体質でもなければ、下手に近づくことすらできない。
視線が交われば、それだけで命取りになる。
――石林菜美。
彼女に接近することは、すなわち“死”と隣り合わせであることを意味する。
その危険を、宇田島は現場で見てきた。
だからこそ、口から出たのは冷静な作戦用語ではなく、本音に近い呟きだった。
屋上に風を切る音が響く。
振り返れば、スケボー型の魔具が音を立てて屋上の床を滑っていた。
「真野主任……」
遅れて到着した真野が、宇田島と同じ方向――上空のクレーンを見上げる。
視線の先にいる者が誰なのか、彼もすぐに理解したのだろう。
クレーンの動きは遅い。だが、今のあれは“無敵状態”だと六課では共有済みだ。
魔法による干渉も、銃撃による迎撃も、届かない。
だが、それでも――
「ためらっている暇はない」
真野は即座にターンし、スケボーを反転。
屋上から地上へ向かって、滑るように姿を消した。
その判断の速さに、宇田島は無言のまま頷く。
すぐに通信が入る。
《宇田島、錫村、地上だ。一階に降りてこい!》
「了解」
踵を返した宇田島は、非常階段へと走り出した。
階段を下るたび、周囲の空気が戦場のように張り詰めていく。
重力に逆らうような速さで、非常階段を飛ぶように駆け下りていった。
◆◆◆
真野さんからの通信を受け、俺はすぐに無線で報告を入れた。
「B11を確保しました。応援を要請します」
『了解。すぐに回収部隊を手配する。逃走の可能性は?』
応答したのは、藤城課長の低く沈んだ声だった。
「両肩と右足を撃ち抜いています。現在、意識はなく、その場に倒れています」
『よし。回収はこちらで行う。錫村は至急、ビルの正面へ回れ。C2が逃走を開始した』
「了解」
俺は短く返し、B11に手錠をかけたことを確認してから、階段を駆け下りた。
途中、黒いスーツに身を包んだ複数の男たちとすれ違う。六課のメンバーではないが、装備や動きからして、公安の刑事たちだとすぐにわかる。
(動きが早い……さすが、藤城課長の指揮下だ)
冷静に状況を分析しながらも、心臓は次第に高鳴っていた。
逃げたC2――蒲原彰史。
あの男が何をしでかすか、わからない。
このままいけば、何かが“起きる”。
その予感が、足元を急がせた。
◆◆◆
正面玄関を飛び出すと、ビルの周囲にはすでに公安の車両が並び、バリケードが組まれていた。緊急封鎖の実施中だ。野次馬や通行人は、警官によって遠巻きに押さえられている。
その中央、わずかに空けられたスペースに、真野課長と宇田島さんが並び立ち、拳銃を構えていた。
その銃口の先にいたのは――C2、蒲原彰史。そして、彼の腕に抱えられた幼い少女。間違いない。あの子は石林菜美だ。
「降参や〜」
蒲原が、のんきな口調で笑った。
「やっぱ、この子抱えて逃げるん、無理やわ」
そう言って、彼はゆっくりと菜美を地面に下ろした。
だがその直後、少女の耳元に口を寄せ、ささやく。
「どーする、菜美ちゃん? 逃げる? それとも、この怖〜いおっさんらに捕まる?」
菜美の肩がぴくりと動いた。
「この人たち、ニャーミーのこと……ぶったりする?」
「……もっと酷いことされるかもしれへんな。お兄ちゃんも菜美ちゃんも、殺されちゃうかもなぁ」
菜美――A10の瞳に、一瞬、揺らぎが走る。
「……しゅーせーは?」
その声は、か細く、掠れていた。
「さあな。ここまで合流せんってことは……もう死んでるんちゃうか?」
――完全に、焚きつけている。
俺はふたりの背後に回り込み、拳銃を構えた。
「菜美ちゃん。修星は死んでない。まだ生きてる。……俺たちは、君に怖い思いも、痛い思いも、絶対にさせない。だから、もうやめよう。君が本当はやりたくないって、わかってるんだ」
菜美が振り返った。
その瞳が、まっすぐに俺の銃口を見据える。
一瞬だけ、沈黙。
「錫村、止めろ!!」
真野課長の怒声が飛ぶと同時に、俺の右手に衝撃が走った。
――水鉄砲が、ぐにゃりとねじ曲がる。
「っ……!」
慌てて手を放す。遅れていたら、腕ごと潰されていたかもしれない。
(……魔具にすら干渉できるのか、この魔法)
菜美の小さな手には、あの“ねじねじステッキ”が握られていた。目には、もうさっきまでの戸惑いはない。
それは、敵意ではない。
けれど明確に、“守ろうとする覚悟”が宿った目だった。
「ねじねじ……」
その一言は、まるで子どもの遊びのように軽やかだった。
だが、次の瞬間、世界が悲鳴を上げた。
バリバリバリッ――!
菜美が振るったステッキの先、ビルの壁面が歪んだ。分厚いコンクリートが“ねじられ”、ぐにゃりと折れ曲がる。電柱が悲鳴のような音を立てて千切れ、信号機が吹き飛ぶ。地面が隆起し、舗装されたアスファルトが渦を巻くようにねじれ、亀裂が走る。
「下がれッ!」
真野課長が叫び、周囲の刑事たちが一斉に後退する。
だが遅かった。
ひとり、公安の若い刑事が後方誘導の途中で振り返ったその瞬間――
「ねじねじ……」
菜美のステッキが再び振るわれ、ビルの外壁から飛び出した鉄骨が、蛇のようにその男を包み込んだ。
「ぐっ……あ、あああッ……!」
男の体が、鉄と共にねじれ、悲鳴が空を裂いた。
(……殺された!)
俺は思わず一歩、彼女の方へ踏み出した。
「菜美ちゃん、やめろ! それ以上やったら、君も戻れなくなるぞ!」
届かない。
菜美は、ただステッキをぎゅっと握り、泣きそうな顔で――それでも、なお守ろうとしていた。
「……しゅーせー、いなくなったら……ニャーミー、独りぼっちになっちゃう……」
その時だった。
「はは、すげぇな……」
蒲原彰史が、崩れたアスファルトの上に立ちながら笑った。
「俺の見込んだ通りや。菜美ちゃん、お前は最高や」
蒲原は、ふらふらと歩み寄り、菜美の肩に手を置いた。
「なあ、もう一回やってくれ。あの黒スーツの連中、全部グッチャグチャにしちまえよ」
……あまりにも無防備だった。
「ねじねじ――」
その言葉が終わるより早く、蒲原の体が“ねじれた”。
ごぎりっ、ごりり――!
骨が砕け、皮膚が裂け、背骨がねじを巻かれるように回転し、やがて彼は地面に、グニャグニャになって崩れ落ちた。
誰もが、息を飲んだ。
菜美のステッキが、静かに下ろされた。
(……見えてない。菜美には、“敵と味方”の区別がついていないんだ……)
真野課長が、ゆっくりと手を上げた。
「全員、銃を下ろせ。視線を逸らせろ」
「でも――」
「いいから! 目を合わせるな! あの魔法は“目視”が必要だ!」
周囲の刑事たちが、一斉に目線を外す。
もはや“発砲許可”の問題ではない。魔法は銃よりも早く、無差別に対象を破壊する。
(このままじゃ、もっと多くの人が……!)
俺は一歩、彼女へ近づこうとした。
「菜美ちゃん……俺は、君の敵じゃない。お願いだから――」
「しゅーせー……いない……」
目に涙を浮かべながら、菜美がステッキを再び構えた。
「やめろ!」
俺は叫び、駆け出す。
撃てない――この子を、俺は撃てない!
この子は、自分の意志で暴力を振るっているんじゃない。ただ“失われたもの”を取り戻したくて、誰よりも必死で、誰よりも悲しいだけだ。
「やめるんだ! 菜美ちゃんッ!」
「錫村、下がれ!」
真野課長の声が響いた。
「――下がれって言ってるんだ!」
その声と同時に、乾いた銃声が響いた。
パンッ!
空気が一瞬、静止した。
菜美の額に、小さな赤い点が浮かび、そして……そのまま、音もなく崩れ落ちた。
ステッキがカラリと地面に転がり、静かに消えた。
沈黙。
誰もが、何も言えなかった。
俺は、崩れ落ちた菜美の姿を前に、ただ拳を握りしめたまま、立ち尽くしていた。
(……これで良かったのか? 本当に……)
真野さんが、銃を下ろしたまま、ひとつ息を吐いた。
「市街地での被害、負傷者一名。死亡確認一名……収束だ。全員、検証と撤収に移れ」
誰の声にも、張りがなかった。
誰もが、勝者ではなかった。
ただ、ひとつの命が終わり、ただ、街にひとつの傷が刻まれた。
俺は、胸の奥に、凍てついたものが張りついていくのを感じていた。




