5−2
突入の朝。
俺は、不覚にも寝不足だった。
昨夜はあれこれ考えすぎて、眠りにつけたのは空が白み始めた頃だ。
シャワーを浴び、冷たい水で顔を洗って、無理やり意識を引き戻す。
――今日は、絶対に失敗できない。
鏡の前に立ち、ぼんやりとした自分の目を見据える。
「行くぞ、錫村刀矢」
両手で頬を叩き、気合を入れた。
黒いスーツに着替え、指定された集合場所――本庁地下の駐車場へと向かう。
さすがは公安六課。
集合時間の10分前には、全員が揃っていた。
「では、それぞれの車両に乗り込み、定刻まで待機地点で待て」
真野さんの指示に従い、俺たちは無言で動き出す。
乗り込むのは警察車両ではなく、目立たないシルバーのセダンだ。
俺と宇田島さんは、真野さんの運転で池袋方面へ。
アジト近くの高層ビル街にある地下駐車場で、突入の時を待つことになった。
車内は、エアコンの微かな音だけが響いていた。
「錫村、顔色が悪いな。大丈夫か?」
宇田島さんの問いに、心臓がひとつ跳ねる。
「……寝られなかったんです」
「前にも言っただろ。お前はまだ“背負う”立場じゃない。俺たちの背中を見ていればいい」
そう言って軽く笑う宇田島さんの優しさが、かえって胸に響いた。
けれど――緊張しないはずがない。
相手は、魔法を使う犯罪者。
しかも、あの“水谷キキ”がいるかもしれないのだ。
「……A10のことが気になるのか?」
運転席から真野さんが横から口を挟んだ。
俺は視線を伏せ、曖昧に頷く。
「はい……」
「あの子供は確かに脅威だ。今まで出会ってきた攻撃型魔法使いの中でも、群を抜いている。だが、動きは鈍いし、隙も多い。命令の意味すら、どこまで理解しているのかもわからない。あの子供は“殺人鬼”じゃない」
――それは、俺も感じていた。
怖かった。でも、“楽しんで人を殺す”ようには見えなかった。
……けれど、一番怖いのは、何が起きるかわからないことだ。
「錫村、突入前に話しておきたいことがある」
真野さんがふと声を低くした。
「なんですか?」
「B3が口を割った件についてだ」
「口を割った……? もしかして……拷問を?」
「拷問、か。そう言えなくもないが……正確には、“七課の人間が聞き出した”んだ」
七課――
名前は知っているが、実際に誰が所属しているのかはよく知らない。
相葉先生や石巻くんのような、特殊な能力者の集まりだとは聞いているが。
「まさか……魔法を使って?」
真野さんは、わずかに間を置いて頷いた。
「七課には、普段は一般人に紛れて生活している者がいる。必要な時だけ呼び出して協力してもらう、“非常勤の魔法使い”だ。……その中に、極めて特殊な能力を持つ人物がいる」
「……心を読むような?」
「違う。相手の“頭の中のイメージ”を強制的に視覚化させる魔法だ。能力自体は珍しくないが、魔力量が高いため、かけられた側の負担も非常に大きいとされている」
「でも……B3は重傷で入院中ですよね?」
「……ああ。たぶん、相当無理をさせたんだろう。下手をすれば……死ぬよりも辛い状態かもしれない」
言葉を失った。
死刑判決が下されたのなら、受け入れる覚悟もできる。
けれど、情報を引き出すためだけに“それ以上の苦痛”を与えるなんて――
「……そんなこと、警察がしていいんですか……?」
思わず声が震えた。
怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からない。
もし、水谷キキを逮捕できたとして、彼女も同じ目に遭うのか。
「真野さん、それを……錫村に伝える必要があったんですか?」
助手席で、宇田島さんが静かに言った。
彼の視線が、ルームミラー越しに俺を気遣っているのがわかる。
……宇田島さんも、知っていたんだ。
七課の魔法によって、B3が“壊された”ことを。
「……もしかして、だから錫村刀矢Aは……被疑者を“殺していた”?」
あの正確な射撃――
一発で。苦しませないように?
「……どうだろうな」
真野さんは、視線を前に向けたまま、ゆっくりと言った。
「彼の心の内までは分からない。だが俺は……彼が噂されているほど冷酷な人間だったとは思っていない」
車内に、重苦しい沈黙が流れる。
もしそれが本当なら、俺は……俺も、いずれ――。
ふと思い出す。
あの日、訓練場でひたすら射撃を繰り返していた彼の姿。
その眼差しの中に、わずかな“優しさ”のようなものがあった。
あの弾に込めたものは、ただの殺意ではなかったはずだ。
「……時間だ」
真野さんの短い声で、会話が終わった。
俺たちは無言で車を降りる。
池袋の早朝はまだ静まり返っていた。
空気の温度も、街のざわめきも――
すべてが、“その瞬間”の到来を、息を潜めて待っているようだった。
◆◆◆
突入作戦は、単純かつ迅速さを重視したものだった。
午前七時ちょうど、対象ビル全体の電源が遮断される。
その10秒後には、住人に避難を促すための警報が建物内に鳴り響く手筈になっている。
俺は屋内階段から、宇田島さんは外側の非常階段から、そして真野さんは――魔具を使ってビルの外壁を駆け上がる。
目標は、七階にあるとされる“雑音”の潜伏アジトだ。
真野さんの魔具――通称“スケボー”を使えば、七階まではわずか数秒。
先陣を切るのは、真野さんひとり。
突入後、もし内部で逃走や異変が起きた場合は、俺か宇田島さんが鉢合わせする可能性が高い。
その場合の指示は、ひとつ。
――“ためらうな、撃て”。
“公安の死神”と呼ばれる俺の存在は、敵もすでに把握しているはずだ。
だからこそ、逃げるとしても、俺とは鉢合わせしないよう慎重に動くはずだ。
階段前の踊り場で、俺は通信機に指を添え、静かに秒針を見つめていた。
緊張のあまり、呼吸すら浅くなる。
そして――
《突入開始》
通信機から響いた真野さんの声が、張り詰めた空気を切り裂いた。
◆◆◆
午前七時、ぴたりと秒針が揃う。
ビル全体の電源が落ち、瞬間、街の喧騒から切り離されたような静けさが訪れた。
《突入開始》
通信機から響いた真野さんの声と同時に、スケボー型の魔具が風を裂き、ビル外壁を一気に駆け上がっていく。
強化ガラスが砕け、朝の陽光を受けてガラス片が舞った。
真野さんはそのまま七階の窓を突き破り、室内へ侵入した。
数秒後――
《アジト内部、誰もいない》
真野さんの短い報告に、全身の神経が警戒態勢に切り替わる。
《非常階段に人影を確認。屋上へ逃走中》
今度は宇田島さんの声だ。
ビル内に、避難命令の警報がけたたましく鳴り響く。
《追う。真野、屋上へ向かえ》
《了解》
スケボーが滑る音が、階段を駆け上がる足音に混じって通信に混線する。
俺も屋内階段を駆けながら、通信機を握り直した。
アジトが“もぬけの殻”だったということは――情報は正確だったが、雑音が一枚上手だった可能性もある。
あるいは、最初から“おびき寄せ”だったのか。
このまま屋上で交戦になるかもしれない。
真野さんと宇田島さんが挟み撃ちにすれば、敵に逃げ場はない。
そう思っていた――廊下の角を曲がるまでは。
「――っ!」
七階の廊下を抜けた先、突き当たりにふたりの人影が見えた。
ひとりは、中年の男。だらりと突っ立っているが、まるで意識がない。
その背後に、ぴたりと張りつくように立つのが――B11だった。
B11は片腕で男の首元を抱え込み、もう一方の手で拳銃を構えている。
銃口は、中年の男の肩越しにまっすぐ俺を捉えていた。
「……その人を、操ってるのか?」
問いかけると、B11がにやりと笑った。
「当たり。こいつは俺の“お人形”。便利だろ?」
その声と同時に、中年の男の体がぎくりと震えた。
ロボットのようにぎこちなく首をかしげると、B11は男の背中にぴたりと体を密着させ、肩越しに銃口をさらに安定させる。
「こいつは……逃げ遅れた、不幸なおっさんさ」
B11の左手には、小さなブリキのロボットが握られていた。
無骨な鉄の玩具――それが、彼の魔具。
この魔具を通して、B11は他人の肉体を操る。
動かすだけでなく、精神すら切り離したように、人間を“傀儡”に変える。
盾にもなり、人質にもなる。
最悪なのは、相手に情が移る前に“使い捨て”にされることだ。
俺は銃に手をかけた。
だが、すぐに動きを止める。
――撃てば、あの男もろとも吹き飛ばすことになる。
しかも相手は、すでに構えている。
こちらがほんの一瞬でも判断を誤れば、先に引き金を引かれる。
B11は、それを承知でこちらを挑発している。
盾を使い、優位をとりながらも――どこか余裕がないように見えた。
そんな俺を、B11がまじまじと見つめてきた。
だが――その目には焦りとは別の、奇妙な違和感がにじんでいた。
「……お前、誰だ?」
「……は?」
「お前は、公安の“死神”だろ。顔も、声も同じ。だけど……」
B11はうっすらと笑い、銃口の先をわずかに下げた。
「俺の知ってる“死神”なら、俺はもうとっくに死んでる。なのに、まだこうして話してる」
心臓がどくん、と大きく跳ねた。
――俺は、俺の体のはずだ。
だが、この男は“違う”と断言してきた。
もしかすると……俺の正体に気づき始めている?
「……なぜ撃たない、死神」
確かに俺なら、遮蔽物の“隙間”を縫って、水の弾丸を通せる。
B11もそれを知っている。だからこそ、混乱している。
「……だったら、何だって言うんだ。まさか、見逃してくれるとでも?」
乾いた笑いが口を突く。追い詰めているのは、こっちのはずなのに。
「いや、殺すさ。お前が悦男を殺したように、俺もお前を殺す」
――悦男。
あの男の放ったシャボン玉で、俺は“パラレルワールドの俺”と入れ替わった。
だがそれを、B11は知らない。ただ、何かが違うと感じ取っているだけだ。
「ごめん。俺も公安なんだ。だから、お前を捕まえなくちゃいけない」
B11の魔具は、視界に入った人間しか操作できない。
そして俺の水弾もまた、“見える”なら必中だ。
「……行くぞ」
次の瞬間、俺は床を滑るように腹ばいで飛び出し――
三発の銃弾が、B11の両肩と右足を貫いた。
B11が発射した弾は、虚空を彷徨った。
中年の男の拘束が解け、バランスを崩しながら悲鳴を上げて階段へと逃げ出す。
B11は肩と足から血を流し、膝をついた。
床に転がるのは、彼の魔具――ブリキのロボット。
「……やっぱり、お前……死神じゃねぇじゃないか……」
そう呟いたB11は、意識を失ったように崩れ落ちる。
ロボットは、ふっと掻き消えるように消えた。
音も、重さも、まるで幻だったかのように。




