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桜田門ウィッチーズ  作者: しろいぬ
第五章 逆光
35/46

5−1

 出来上がった調書を、藤城早月は黙って見つめていた。

 手の皺に沿うように、書類の端が微かに震える。蛍光灯の冷たい光が、彼女の眼鏡のレンズをかすかに反射する。


蒲原彰史(かんばら あきふみ)か……懐かしい名だな」


 まるで遠い記憶を手繰るように、目を細めて呟く。

 声には懐かしさというより、憎悪でも同情でもない、乾いた感情の混じらぬ響きがあった。


「『禍結社(かけっしゃ)』が壊滅した後は、事務所荒らしをして食いつないでいたようです。各地方に、彼の犯行と思われる事件が数件確認されています」


 対面に立つ真野は、淡々と報告を重ねる。感情を抑えた声だったが、その目は書類ではなく、早月の表情を注視していた。


「その男が、雑音に加入か」


 言葉を区切りながら、早月が書類から視線を外す。

 眉間に皺を寄せながら、唇の端だけをわずかに歪めた。


「ええ……。面倒なことになりましたね」


 しばし、室内には静寂が落ちる。

 紙のめくられる音だけが、やけに大きく響いた。


「国家の転覆を目的としていたテロ集団の残党が、暗殺組織に手を貸すとは……」


 早月は書類を机に乱暴に放り投げた。

 書類の一枚がふわりと浮き、机の端で止まる。


「思想も理念もないやつめ。人を殺す理由すら、自分では選べんのか」


 口調は低く、怒気を露骨には出さない。だがその言葉の裏には、確かな軽蔑と苛立ちがあった。


 真野は何も言わずに受け止める。言い返す理由もない。

 ただ――心の中には、ほんの僅かな違和感が残っていた。

 蒲原彰史という男の“気配”が、以前と明らかに異なっている気がしてならない。


 だが、それを今ここで言葉にするには、根拠が曖昧すぎた。


「……だが、計画は予定通りに行う」


 思考を切り上げるように、早月が短く命じた。

 その声には、指揮官としての鋼の意志が戻っていた。


「六課を集めろ」


「了解です」


 真野は小さく頷き、背を向けて歩き出す。

 その足音すらも、沈黙の中に溶けていった。




 ◆◆◆




 俺と宇田島さんは、昨日の事件の詳細を確認するため、渋谷警察署に呼び出されていた。


 雑音に殺人を依頼した疑いがある朝池志絵(あさいけ しえ)は、現在、渋谷署に勾留されている。

 一方、被害者である度会由梨奈(わたらい ゆりな)は、魔法の影響による健康被害がないかを確認するため、公安七課の保護下にあるとのことだった。


 担当刑事の話によれば、朝池の自宅はすでに家宅捜索が実施されており、雑音と接触した形跡――通信履歴や契約を示す証拠――が発見されれば、彼女は殺人教唆の罪で起訴される可能性が高いという。


 署を後にした俺たちは、そのまま事件現場の実況見分に立ち会うことになった。


「宇田島さん、度会さんはこれからどうなるんですか?」


 歩きながら俺が問いかけると、宇田島さんは視線を前に向けたまま答えた。


「朝池が依頼を撤回しない限り、次の刺客が彼女を狙うことになる」


「……つまり、これからも命を狙われ続けるってことですか?」


「その通りだ」


「公安で保護できないんですか?」


「もちろん、保護対象にはなるだろう。だが、そうなれば彼女は一般社会と切り離された生活を強いられる。仕事も辞め、身元を伏せ、関係者とも接触できなくなる。……ある意味、どちらに転んでも、朝池の目的は達成されることになるな」


 朝池の事件に関する捜査は渋谷署が担当し、実行犯である雑音に関しては、公安七課が捜査に当たることになった。


 宇田島さんの言う通り、この事件は、どちらの道を選んでも当事者を追い詰める構図になっている。


 昨日、度会が飛び降りようとしたビルは、展望台部分の営業を一時停止しており、

 テナントフロアも三日間の営業自粛措置が取られている。


 現場検証、防犯カメラ映像の解析、各関係者の供述調書作成のため、多くの署員が出入りしており、現場は今も混乱の最中にある。


 宇田島さんがスマートフォンを手に取り、画面に視線を落とす。


「真野主任からだ。至急、本庁に戻れとのことだ」


「……もう帰っていいんですか?」


「大方の説明は済んだし、現場検証も所轄の仕事に移ってる。問題ない」


 そう言って歩き出す宇田島さんの背中を追い、俺も足を速めた。




 ◆◆◆




 渋谷署を後にし、本庁に戻る。

 六課の会議室に入ると、すでに馴染みの顔ぶれが席についていた。


「宇田島、錫村、戻りました」


「よし。席に着いてくれ。これより緊急会議を始める」


 真野さんの声が、会議室の空気を引き締める。

 淡々とした口調だが、その言葉には独特の重みがあった。


 壁際のモニターに、2枚の画像が映し出される。

 ひとつは古びた雑居ビルの外観。もうひとつは、住宅街の中にぽつんと建つ平屋の家だった。


「雑音のアジトが特定された。ひとつは豊島区の雑居ビル、もうひとつは世田谷区内の一軒家だ」


「情報元は?」


 と、誰かが尋ねる前に、真野さんが答える。


「先日確保されたB3の供述だ」


 思わず心の中で声が漏れた。

 ……B3が? あれだけ黙秘を貫いていたはずなのに。


「情報の信憑性は高い。解析班が集めた情報によると、今も潜伏している可能性は高い」


「久々の、アジト突入ってやつか」


 本間さんが機嫌良さそうに、口元をほころばせる。

 その一方で、山下さんが眉を寄せて尋ねた。


「今回も応援要請は……?」


「藤城課長の判断に任せる形になる」


 真野さんの即答に、室内が一瞬静まり返る。


 誰も異論は挟まなかった。

 ここにいる全員が、何度も同じ決断を経験してきた顔ぶれだ。


「豊島区のアジトは、俺、宇田島、錫村で対応する。世田谷区の一軒家には、本間、石巻、久我が向かう。突入は、明日午前七時。六時に本庁集合だ。両班とも、同時刻に踏み込む」


 真野さんが指示を終えると、部屋には張り詰めた緊張感が漂った。

 一斉突入の作戦は、一発勝負だ。どちらか一方が早く動けば、もう片方は無駄足になる。慎重さと大胆さが試される場面だ。


 雑音の構成員は、基本的に二人一組で小規模に行動する。

 過去の例を見ても、一カ所に大人数で潜伏するパターンはほとんどない。

 とはいえ、B3の逮捕以降、アジトが移動されている可能性は高い。

 “当たり”があるなら、“外れ”もあるというわけだ。


 なお、小野倉さんは今回は解析班と共に待機となった。

 突入後、押収されたデバイスの解析を担当することになっている。


 会議が終わる頃には、俺の掌にはじっとりと汗が滲んでいた。

 アジトへの強制捜査――“ガサ入れ”は、俺にとって初めての経験だった。


 ……いや、厳密には違う。

 あの日、俺と“もうひとりの錫村”が入れ替わったのも、アジトへの突入だった。


 それを思い出した瞬間、胸の奥がざらついた。

 あの日と同じように、何かが――決定的に変わる予感がしていた。




 ◆◆◆



「錫村さん!」


 会議室を出ようとした俺を、山下さんの声が呼び止めた。

 振り返ると、彼女は手に資料を抱えたまま、少し息を切らしながら近づいてくる。


「錫村さんにとっては、今回が初めての“アジト突入”になりますよね。補足として、いくつか説明しておきます」


 その口調には柔らかさもあったが、目の奥は真剣だった。

 俺は静かに頷く。


「突入後、私がすぐ所轄に連絡を入れます。アジト周辺にいる住民や通行人には、緊急避難要請を出してもらう手はずです。ただ……当然ですが、逃げ遅れる人も出てくるかもしれません」


 山下さんは言葉を切り、真っ直ぐ俺を見た。


「もし現場が魔法戦になった場合、最優先されるのは民間人の安全です。これだけは、絶対に忘れないでください」


「……はい。分かりました」


 そう答えながら、自分の手のひらに無意識に力が入るのを感じた。


「もちろん、最終的な目的は“逮捕”です。でも――状況によっては、強引に制圧せざるを得ない場面も出てきます。相手が魔具を使用し、即座に民間人に被害を及ぼす恐れがあると判断された場合、射殺は正当な判断とされます」


 静かな語気だったが、その言葉の重さが胸にのしかかる。


 雑音には、俺の知らない構成員がまだ多く潜んでいる。

 その中には、過去に甚大な被害を出したとされる魔法使いも含まれているという。

 ――もし、明日それと対峙することになったら。


「私たちは警察官です。正義を語る前に、市民の命を守らなければいけません。状況がどれだけ厳しくなっても、それだけは最優先事項です」


 言葉の最後に、山下さんの表情がわずかに緩んだ。


「……だからこそ、焦らないでください。何かあったら、必ず“誰かがフォローする”体制になっています。ひとりで抱え込む必要はないですから」


「……ありがとうございます」


 俺は深く頭を下げた。

 その背中に、何かが静かに染み込んでいくような感覚があった。


 責任、恐れ、そして――覚悟。

 明日、初めての“現場”に立つ。


 ここからは、ただの新人ではいられない。


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