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「私……みんなに、隠していることがあります」
小野倉さんの言葉には、普段の彼女からは感じられない緊張が滲んでいた。
俺も宇田島さんも、言葉を挟まず、彼女の決心を静かに待つ。
やがて、小野倉さんは小さく息を吸ってから言った。
「……私、彼女に会ったことがあるんです」
「彼女?」と、頭の中に疑問が浮かぶ。
すぐに宇田島さんが確認するように問う。
「“始まりの魔法使い”のことか?」
小野倉さんは小さく頷いた。
「……ずっと前の話です。私が、まだ小学生の時。彼女は高校生でした」
過去を手繰るように、少しずつ言葉が紡がれていく。
「彼女は……私の義理の姉を殺しました」
その瞬間、俺は言葉を失った。思わず目を見開く。
だが宇田島さんは、淡々とした口調で言った。
「そうか。……あの事件の被害者の親族だったか。つまり、彼女は君の“敵”でもあるということだな」
だが小野倉さんは、静かに首を振った。
「そんな感情は……ありません。いなくなって、むしろ……ホッとしたぐらいです。……義姉はひどい人でした。家では私をいじめていて……それも、“兄弟喧嘩”なんて言葉では片付けられないほど、酷いやつでした」
声がわずかに震える。きっとその記憶は、今でも癒えない傷として残っているのだ。
「事件の後、警察の人たちに何度も事情を聞かれました。だけど、誰も私の話を信じてくれなかったんです。家はセキュリティがしっかりしていて、全部の窓や扉には鍵がかかっていた。外部の人間が侵入するなんて……『魔法でも使えなきゃ無理だ』って言われました」
「だが、魔法は存在していた」
宇田島さんが重く呟く。
「はい。私の証言が認められたのは、世界中に魔法使いが現れ始めて……そして、姉の他に三人の同級生が殺されたからです。姉は、学校でも特定の生徒を執拗にいじめていたようで」
「……その、いじめられていた生徒が、“彼女”だったのか?」
「……たぶん」
小野倉さんの視線が、どこか遠くを見ていた。
「公安に入ってから、何度も彼女のことを調べました。でも、彼女に関する資料は全て削除された形跡があって。名前も、経歴も、何もかも……なかった」
「よくあることだ。内部情報は、簡単には見られない。とくに公安の案件はな」
「そうだと思います。事件が報道されなかったのも、内容があまりに衝撃的すぎたからだと聞きました。当時は、警察も“魔法”という存在をまだ認めていなかったんです」
俺は言葉を失っていた。
その事件の一端が、小野倉さんの過去に繋がっていたなんて。
「……だから、私は知っているんです。いくら情報を隠匿しても、口を閉じさせても、当事者の記憶までは消せない。あの夜のことを、私はずっと覚えているから」
小野倉さんの声には、芯のある静けさがあった。
「……私、当時は姉の部屋の隣に寝ていたんです。だから、異変にもすぐ気づきました。最初は、またヒステリーでも起こして暴れてるのかと思った。でも、少し開いたドアの隙間から見てしまったんです。姉がもがきながら……確かに、こう言ったのを」
彼女は一拍置いて、言葉を口にした。
「――『まのの分際で……』と」
「まの……の、ぶんざい……?」
「当時は意味が分からなかった。でも、大人になってから思ったんです。“まの”って苗字なんじゃないかって」
「……真野」
宇田島さんが低く呟いた。
「もちろん、他にも“真野”って苗字の人はいます。でも私は……この間、“彼女”を念写したとき――」
そう。あの護送中の襲撃事件の時。
小野倉さんが“彼女”をカメラで念写していたという報告は聞いている。
だが、その写った姿は、能力に分類できないほど“曖昧”だったとされていた。
「……一瞬だけ、真野主任の姿が映りました。今の姿ではありません。あれはたぶん……高校生の時の真野主任でした」
沈黙が、夜の道に落ちた。
誰もが、その言葉の意味を飲み込もうとしていた。
「よく話してくれたな、小野倉。……黙っているのは、ずっと辛かっただろう」
宇田島さんの声は静かだったが、そこには確かな労りがあった。
小野倉さんは、ほんの少しだけ表情を緩めた。けれど、すぐにまた硬い色を取り戻す。
「……でも、私は……真野主任のことを疑っているわけじゃないんです」
「わかってる」
宇田島さんは断言するようにそう言った。そして、ちらりと俺の方を見る。
「……錫村。実は、公安の中に“雑音”に情報を流している者がいる」
「公安の人が……!?」
反射的に声が出てしまう。そんなこと、現実にあるはずがない――そう思いたかった。
「お前はどう思う? 司法で裁けない凶悪犯がいたら……どうする?」
まるで問いかけるように、宇田島さんは俺を見つめていた。
思い浮かんだのは、かつて見たドラマのワンシーンだ。
正義の名のもとに法を超える者。裁けない悪に、誰かが手を下す――フィクションの中の出来事。
「……そんなの、あってはならないことだと思います。だけど……」
でも、そう呟いてから言葉を止めた。
この世界では、“魔法”という現実が、それを非現実で済ませてはくれない。
「けれど、それが“真野主任”ではないことは、俺が保証する」
宇田島さんの瞳が、一瞬だけ鋭くなった。
そして、手を軽く掲げて、低く呟いた。
「《起動》」
空気が震えた。
その瞬間、彼の周囲に淡く光る魔法陣が浮かび上がる。
赤と青が交錯し、複雑な模様を描いた魔法陣はやがて一つの形をとった。
それは――おもちゃの聴診器だった。
けれど、ただのおもちゃではない。
まるで心の奥を“聞く”ために存在するような、異質で、それでいて洗練された造形。
「こいつの名は……《共鳴聴診》」
宇田島さんは静かに言う。
「俺の魔具だ。思考の振動を拾い、感情の揺らぎを“音”として聞き取る」
言葉が、夜気の中に染み込んでいく。
「もし、彼が不審な行動をしたなら――俺は迷わず、こいつで聞き出す。……たとえ、誰であろうと」
その眼差しは冷静で、しかし強く熱を帯びていた。
それが、公安としての“覚悟”の現れであることは、誰にでも分かった。
◆◆◆
警視庁の部屋に戻ると、部屋の中はしんと静まり返っていた。
テレビをつけると、どのチャンネルも年末特番ばかりが映っていた。
派手な照明に照らされた歌謡ショー。
豪華キャストのスペシャルドラマ。
賞金をかけたお笑いコンテストに、食レポだらけのグルメ旅。
どれも、騒がしすぎて、今の自分には合わなかった。
リモコンで音を消して、ベッドに寝転ぶ。
そのまま、天井をぼうっと見つめる。
(……俺でよかったのか)
小野倉さんが、あんな大事な話を、俺に打ち明けてくれたこと。
その重さが、今になってずしりと心にのしかかってくる。
あの人は、まだ誰にも話せていなかったのだろう。
真野主任のこと。幼少期の記憶。
そして、「彼女」が自分の人生に深く関わっていたという事実。
(……俺なんかが、ちゃんと受け止められたのか)
そして、宇田島さんの魔具。《共鳴聴診》。
もっと物理的な、破壊力のある魔法を想像していた。
ビル一棟を吹き飛ばすとか、敵を一瞬で消し飛ばすような……そんな“派手な”やつ。
でも彼の魔具は、まったく逆だった。
静かに、確かに、人の「心の音」を聞き取るもの。
嘘をついた時の微かな動揺。
悲しみのざわめき。
怒りの弾けるような心拍。
後悔の、しとしとと降る雨音のようなリズム。
心の震えを、音で知る魔法。
(人の中身を、見透かされるって……それが一番、怖いことかもしれないな)
ピコン、とスマホが震えた。
メッセージだ。
【明日、洋服買いに行こう。真野主任には承諾を貰ったから。護衛に私と宇田島さんと石巻君がつくなら外出してもいいって。12時に迎えに行きます】
……久我さんからだ。
文体が乱れている。
誤字もあるし、改行も変だ。たぶん、酔ったまま送ってきたのだろう。
(……洋服か)
浩はブランド好きで、仁は都会的で洗練されたファッションを好んでいた。
俺はというと……適当だった。
似たようなトレーナーにジーパンばっかりで。
浩にも仁にも、「もうちょい服に気を使え」って、よく怒られたっけ。
……そういえば久我さん、あんなに飲んでたのに、元気すぎないか?
俺なんて今にも寝落ちしそうなのに。
そんなことを考えながら、体を横に倒す。
久我さんにダメ出しされた白いトレーナーのまま、靴下も脱がず、
俺はベッドに沈み込んでいった。
意識が、ゆっくりと闇に沈んでいく。
夢も見ない、深くて静かな眠りだった。




