4−5
四杯目のレモンサワーをちびちびと飲みながら、私はそっと視線を横に滑らせた。
視界の端に映るのは、顔を赤く染めた錫村さん。
彼は、あまりお酒が強くないらしい。大ジョッキ二杯で、もう頬が真っ赤だった。
佐々木さんとテレビの話で盛り上がっていたのに、そこへ突然相葉先生が乱入してきて、そのまま拉致されていった。
今は、はるか向こうのテーブルで、皆に囲まれながら笑いを取っている。
……どうしてだろう。
彼は、まるで昔からこの場所にいたように、自然に馴染んでいた。
私よりもずっと、六課の一員みたいに。
自分の居場所を、見つけている。
私はというと、こういう時、話題に入れない。
笑顔も作れないし、冗談も言えない。
話を合わせようとしても、どこかずれてしまう。
言葉がすぐに口から出てこない。
心の中にはたくさんの気持ちが渦巻いているのに、それを“ことば”にするのが、昔から苦手だった。
……母が、別の男を「お父さん」として家に連れてきたときも。
その男の連れ子である義理の姉が、私に陰湿ないじめを繰り返したときも。
私は、何も言えなかった。
母は義父の顔色ばかりを気にしていて、私の声には耳を貸さなかった。
だから、私は黙っていた。気持ちを押し殺して、ひたすらに我慢していた。
そうすれば、きっとすべてが丸く収まる。
そう信じていた。
でも、本当はただ――怖かったのだ。
人間が。
感情が。
“わからない”ということが。
誰かの顔色を読んで、それでも読み切れずに裏切られることが、怖かった。
だから私は、写真が好きだった。
自分の目で見たものだけを写す写真の中には、“わからないもの”はない。
そこには、私が切り取った世界だけがある。
知らないことも、裏切られることも、なにもない。
でも――あの夜だけは、違った。
義姉の部屋に入ったとき、目の前の光景が理解できなかった。
真夜中の静寂のなか、ベッドの上で少女が義姉の首にゴムチューブを巻きつけていた。
義姉は口から泡を吹き、もがいていた。
私は、声も出せなかった。助けようという思いも、湧かなかった。
ただただ、“なぜ”を考えていた。
なぜこの子が、義姉を殺しているのか。
なぜこんなに静かに、微笑みながら……。
そう、その少女は美しかった。
静かに笑っていた。
まるで、楽しんでいるように。
怖かった。
“わからない”が、怖かった。
理解できないことが、心を凍らせた。
気がついたときには、少女の姿は消えていた。
そして私の首には、見覚えのない、ピンク色のポラロイドカメラがかけられていた。
それが、私の魔具。
私の運命。
この力を手にしたあの日から、私の世界もまた、写真のように“静止”したままだ。
でも今――
錫村さんのように、前を向いて、自分の選んだ意味を生きる人を見て、少しだけ思ってしまう。
……私にも、そんなふうに歩ける日が来るのだろうか。
◆◆◆
やっと、忘年会がお開きになった。
時計の針は、すでに深夜十二時を回っている。
俺たちは、追い出されるように店を後にした。
最後には、店の主人に「帰っていただけないなら警察呼びますよ」とまで言われて、さすがにマジで焦った。
……まあ、あれだけ騒いでたら当然かもしれないけど。
酔ってまっすぐ立てない久我さんを、石巻君が支えている。
「タクシーを捕まえて、コレ突っ込んできます」
石巻君も、さんざん飲まされていたはずなのに、やけにクールだ。
すでに酔いは抜けているのか、それとも最初から意識的に抑えていたのか。
いずれにせよ、頼りになる後輩だと思った。
「じゃあ、私は本間さん送ってくから」
山下さんは、自分のコートを本間さんにかけながら言った。
どうやら、親子のふりをして一緒に帰るらしい。
この時間、小学生を一人で帰すわけにはいかない。
……いや、本間さんが小学生というのもどうかとは思うが。
佐々木さんは、みんなより一足早く、午後十時には先に帰った。
「明日も朝が早いから」と言っていたが、ほんのり上機嫌だったのが印象的だった。
宇田島さんはというと、「俺が錫村を警視庁まで送る」と言い出し、ついでに小野倉さんも一緒に送ってくれることになった。
……正直、ありがたい。
「あれ? 真野さんと相葉先生は?」
何気なく聞いた質問に、二人は揃って視線を外した。
……あ。なんとなく察した。
これは深く詮索しない方がよさそうだ。
「宇田島さん、俺はすぐそこなんで、わざわざ送ってくれなくても大丈夫ですよ」
「……お前は、いつ襲撃されるかわからん身だ。人の多い時間はともかく、夜道は危険だ」
「……すみません」
申し訳ないやら、情けないやら。
二十七にもなって、付き添いが必要な立場になるとは思わなかった。
「小野倉さんも、ごめんね。すぐ帰りたかったでしょう?」
「……いいえ」
短い返事。
そのあと、少し間を置いて、小野倉さんはぽつりと付け加えた。
「私がいても、何の役にも立てませんけど……」
「そんなことないよ。公安のエリート刑事たちに守ってもらうなんて、俺、贅沢だなー」
冗談交じりにそう言って、つい鼻歌なんかもこぼれてくる。
寒さも、夜の静けさも、今は少しだけ心地いい。
ふと隣を見ると、小野倉さんはピンクのカメラを胸元でぎゅっと抱きしめていた。
あの、彼女の魔具。
何かを守るように、あるいは何かを思い出すように。
そして彼女は、立ち止まった。
俺たちも、自然と足を止める。
「私……みんなに、隠していることがあります」
静かな声だった。
でも、その言葉は夜の空気を切り裂くように、重く、真っ直ぐに届いてきた。
◆◆◆
窓ひとつない地下室の一室。
シャー、シャー……と、鉛筆が紙を走る音だけが、かすかに響いていた。
「……あーあ、今夜、六課は忘年会なんだってさ。いいなー、僕も行きたかったなぁ」
部屋の片隅、肘掛け付きの回転椅子に座る男が、天井を仰ぎながら呟いた。
足を組み、背もたれに身を預けて、ぼんやりと空中を見つめている。
「――なんてね。呼ばれてもいないんだけどさ」
自他ともに認める童顔の青年。
黒の上下スーツを身につけているが、どこか頼りなく、まるで就活中の大学生にしか見えない。
顔も仕草も、声色も。まるで子供のような無邪気さを纏っている。
「どしたの? 怖いの? そりゃそうだよねー。頭の中、引っ掻き回されてる感じなんでしょ?」
ひょいと首を傾げて、にこりと微笑む。
その笑みは、悪意というより、悪意を悪意とすら思っていない子供のそれだった。
「僕、自分に魔法かけたことないから、どんな感じかわかんないんだけどさー」
彼の目の前には、椅子に縛りつけられた男がいた。
目を見開き、涎を垂らしながら、焦点の合わない視線を宙にさまよわせている。
拘束具の下には、まだ包帯が巻かれていた。傷は癒えていないのだろう。
ときおり、聞き取れない呟きが口からこぼれる。
「傷、まだ治ってないんでしょ? そのままじゃ、体がもたないよ? ……死んじゃうかも」
口調は軽やかだ。
まるで雑談の延長のように、死を口にする。
「でも、上の人たちはそれでもいいんだよねー。だってさ、検挙率上げるためには、多少の犠牲は仕方ないって。ひどいよねー」
芝居がかった動きで人差し指を立てて、にこり。
「……とはいえ、君も悪いんだよ。喋ってくれないから。黙秘なんて、今どき流行ってないし。ってかさぁ、僕がいる時点で、黙秘とか無意味なんだけどねぇ~」
ふわりと浮かんだのは、ペラペラとめくられる“お絵かき帳”。
その上を、淡く光る鉛筆が走る。
シャー、シャーと、音だけが地下室に反響する。
描かれているのは、人の顔。人の名前。能力。
情報が、紙の上に”再現”されていく。
それは――記憶をなぞる魔法。
「へえ~。雑音の仲間って、ほんとバラエティ豊かだよね。ほら、この人。データベースに載ってない。へぇ~、こういう能力なんだ。おもしろ~い」
目を細め、何かを楽しむように、めくる。
「アジトの場所は……ん? えー、こんなとこ? 住宅地のド真ん中? えー、なんか意外~。……って、あ。気ぃ失っちゃった?」
拘束された男は、がくりと頭を垂れている。
もはや、自我が残っているのかもわからない。
「……ま、いっか。これだけ引き出せれば十分でしょ。上の人たちも、喜ぶだろうし」
スーツの裾を払って、男は立ち上がった。
最後に一度だけ、椅子の男に視線を落とす。
「それじゃあ――僕はこれで。……まったねぇ〜、田仲恵一くん」
地下室の扉が、きい、と静かに開いて、静かに閉じられた。
闇の向こうは、鉛筆の音すら響かない、完全な沈黙が満ちていた。




