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桜田門ウィッチーズ  作者: しろいぬ
第四章 雑音〜ノイズ〜
31/46

4−5

 四杯目のレモンサワーをちびちびと飲みながら、私はそっと視線を横に滑らせた。


 視界の端に映るのは、顔を赤く染めた錫村さん。

 彼は、あまりお酒が強くないらしい。大ジョッキ二杯で、もう頬が真っ赤だった。


 佐々木さんとテレビの話で盛り上がっていたのに、そこへ突然相葉先生が乱入してきて、そのまま拉致されていった。

 今は、はるか向こうのテーブルで、皆に囲まれながら笑いを取っている。


 ……どうしてだろう。

 彼は、まるで昔からこの場所にいたように、自然に馴染んでいた。

 私よりもずっと、六課の一員みたいに。


 自分の居場所を、見つけている。


 私はというと、こういう時、話題に入れない。

 笑顔も作れないし、冗談も言えない。


 話を合わせようとしても、どこかずれてしまう。

 言葉がすぐに口から出てこない。

 心の中にはたくさんの気持ちが渦巻いているのに、それを“ことば”にするのが、昔から苦手だった。


 ……母が、別の男を「お父さん」として家に連れてきたときも。

 その男の連れ子である義理の姉が、私に陰湿ないじめを繰り返したときも。


 私は、何も言えなかった。


 母は義父の顔色ばかりを気にしていて、私の声には耳を貸さなかった。

 だから、私は黙っていた。気持ちを押し殺して、ひたすらに我慢していた。


 そうすれば、きっとすべてが丸く収まる。

 そう信じていた。


 でも、本当はただ――怖かったのだ。

 人間が。

 感情が。

 “わからない”ということが。


 誰かの顔色を読んで、それでも読み切れずに裏切られることが、怖かった。


 だから私は、写真が好きだった。


 自分の目で見たものだけを写す写真の中には、“わからないもの”はない。

 そこには、私が切り取った世界だけがある。

 知らないことも、裏切られることも、なにもない。


 でも――あの夜だけは、違った。


 義姉の部屋に入ったとき、目の前の光景が理解できなかった。


 真夜中の静寂のなか、ベッドの上で少女が義姉の首にゴムチューブを巻きつけていた。

 義姉は口から泡を吹き、もがいていた。


 私は、声も出せなかった。助けようという思いも、湧かなかった。


 ただただ、“なぜ”を考えていた。


 なぜこの子が、義姉を殺しているのか。

 なぜこんなに静かに、微笑みながら……。


 そう、その少女は美しかった。

 静かに笑っていた。

 まるで、楽しんでいるように。


 怖かった。

 “わからない”が、怖かった。

 理解できないことが、心を凍らせた。


 気がついたときには、少女の姿は消えていた。

 そして私の首には、見覚えのない、ピンク色のポラロイドカメラがかけられていた。


 それが、私の魔具。

 私の運命。


 この力を手にしたあの日から、私の世界もまた、写真のように“静止”したままだ。


 でも今――

 錫村さんのように、前を向いて、自分の選んだ意味を生きる人を見て、少しだけ思ってしまう。


 ……私にも、そんなふうに歩ける日が来るのだろうか。




 ◆◆◆




 やっと、忘年会がお開きになった。

 時計の針は、すでに深夜十二時を回っている。


 俺たちは、追い出されるように店を後にした。

 最後には、店の主人に「帰っていただけないなら警察呼びますよ」とまで言われて、さすがにマジで焦った。

 ……まあ、あれだけ騒いでたら当然かもしれないけど。


 酔ってまっすぐ立てない久我さんを、石巻君が支えている。


「タクシーを捕まえて、コレ突っ込んできます」


 石巻君も、さんざん飲まされていたはずなのに、やけにクールだ。

 すでに酔いは抜けているのか、それとも最初から意識的に抑えていたのか。

 いずれにせよ、頼りになる後輩だと思った。


「じゃあ、私は本間さん送ってくから」


 山下さんは、自分のコートを本間さんにかけながら言った。

 どうやら、親子のふりをして一緒に帰るらしい。

 この時間、小学生を一人で帰すわけにはいかない。

 ……いや、本間さんが小学生というのもどうかとは思うが。


 佐々木さんは、みんなより一足早く、午後十時には先に帰った。

「明日も朝が早いから」と言っていたが、ほんのり上機嫌だったのが印象的だった。


 宇田島さんはというと、「俺が錫村を警視庁まで送る」と言い出し、ついでに小野倉さんも一緒に送ってくれることになった。

 ……正直、ありがたい。


「あれ? 真野さんと相葉先生は?」


 何気なく聞いた質問に、二人は揃って視線を外した。

 ……あ。なんとなく察した。

 これは深く詮索しない方がよさそうだ。


「宇田島さん、俺はすぐそこなんで、わざわざ送ってくれなくても大丈夫ですよ」


「……お前は、いつ襲撃されるかわからん身だ。人の多い時間はともかく、夜道は危険だ」


「……すみません」


 申し訳ないやら、情けないやら。

 二十七にもなって、付き添いが必要な立場になるとは思わなかった。


「小野倉さんも、ごめんね。すぐ帰りたかったでしょう?」


「……いいえ」


 短い返事。

 そのあと、少し間を置いて、小野倉さんはぽつりと付け加えた。


「私がいても、何の役にも立てませんけど……」


「そんなことないよ。公安のエリート刑事たちに守ってもらうなんて、俺、贅沢だなー」


 冗談交じりにそう言って、つい鼻歌なんかもこぼれてくる。

 寒さも、夜の静けさも、今は少しだけ心地いい。


 ふと隣を見ると、小野倉さんはピンクのカメラを胸元でぎゅっと抱きしめていた。

 あの、彼女の魔具。

 何かを守るように、あるいは何かを思い出すように。


 そして彼女は、立ち止まった。

 俺たちも、自然と足を止める。


「私……みんなに、隠していることがあります」


 静かな声だった。

 でも、その言葉は夜の空気を切り裂くように、重く、真っ直ぐに届いてきた。




 ◆◆◆




 窓ひとつない地下室の一室。

 シャー、シャー……と、鉛筆が紙を走る音だけが、かすかに響いていた。


「……あーあ、今夜、六課は忘年会なんだってさ。いいなー、僕も行きたかったなぁ」


 部屋の片隅、肘掛け付きの回転椅子に座る男が、天井を仰ぎながら呟いた。

 足を組み、背もたれに身を預けて、ぼんやりと空中を見つめている。


「――なんてね。呼ばれてもいないんだけどさ」


 自他ともに認める童顔の青年。

 黒の上下スーツを身につけているが、どこか頼りなく、まるで就活中の大学生にしか見えない。

 顔も仕草も、声色も。まるで子供のような無邪気さを纏っている。


「どしたの? 怖いの? そりゃそうだよねー。頭の中、引っ掻き回されてる感じなんでしょ?」


 ひょいと首を傾げて、にこりと微笑む。

 その笑みは、悪意というより、悪意を悪意とすら思っていない子供のそれだった。


「僕、自分に魔法かけたことないから、どんな感じかわかんないんだけどさー」


 彼の目の前には、椅子に縛りつけられた男がいた。

 目を見開き、涎を垂らしながら、焦点の合わない視線を宙にさまよわせている。

 拘束具の下には、まだ包帯が巻かれていた。傷は癒えていないのだろう。

 ときおり、聞き取れない呟きが口からこぼれる。


「傷、まだ治ってないんでしょ? そのままじゃ、体がもたないよ? ……死んじゃうかも」


 口調は軽やかだ。

 まるで雑談の延長のように、死を口にする。


「でも、上の人たちはそれでもいいんだよねー。だってさ、検挙率上げるためには、多少の犠牲は仕方ないって。ひどいよねー」


 芝居がかった動きで人差し指を立てて、にこり。


「……とはいえ、君も悪いんだよ。喋ってくれないから。黙秘なんて、今どき流行ってないし。ってかさぁ、僕がいる時点で、黙秘とか無意味なんだけどねぇ~」


 ふわりと浮かんだのは、ペラペラとめくられる“お絵かき帳”。

 その上を、淡く光る鉛筆が走る。

 シャー、シャーと、音だけが地下室に反響する。


 描かれているのは、人の顔。人の名前。能力。

 情報が、紙の上に”再現”されていく。

 それは――記憶をなぞる魔法。


「へえ~。雑音の仲間って、ほんとバラエティ豊かだよね。ほら、この人。データベースに載ってない。へぇ~、こういう能力なんだ。おもしろ~い」


 目を細め、何かを楽しむように、めくる。


「アジトの場所は……ん? えー、こんなとこ? 住宅地のド真ん中? えー、なんか意外~。……って、あ。気ぃ失っちゃった?」


 拘束された男は、がくりと頭を垂れている。

 もはや、自我が残っているのかもわからない。


「……ま、いっか。これだけ引き出せれば十分でしょ。上の人たちも、喜ぶだろうし」


 スーツの裾を払って、男は立ち上がった。

 最後に一度だけ、椅子の男に視線を落とす。


「それじゃあ――僕はこれで。……まったねぇ〜、田仲恵一くん」


 地下室の扉が、きい、と静かに開いて、静かに閉じられた。

 闇の向こうは、鉛筆の音すら響かない、完全な沈黙が満ちていた。

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