1−1 現実
客が来店したときのチャイムが、無遠慮に店内に鳴り響いた。
「──いらっしゃいませー……」
俺はやる気のない声で、気だるげに顔だけを自動ドアの方へ向ける。
その瞬間、目に飛び込んできたのは、真っ黄色のカーディガンだった。
まぶしい。派手すぎる。場違いにもほどがある。
推定年齢、七十歳。背は低く、小太り。
無駄にツヤのある白髪と、猫背気味の肩。
黄色い服を着ているせいで、俺たちの間では【黄色ジジイ】という不名誉なあだ名で呼ばれている男だった。
思わず俺は目をそらし、無意識に視線をカウンターへ落とす。
(うわ、来やがった……)
このコンビニで働く人間なら誰でも知っている。
黄色ジジイは、モンスタークレイマー界の生きる伝説だ。
その伝説を塗り替え続けて今日もやってくる。
毎回、何かしらの文句をつけては、店員を恫喝し、理不尽な正論を振りかざすのが日課らしい。
「弁当を温めたらポテトサラダも熱くなった」
「缶コーヒーを買って家で飲んだら冷めていた」
──それ、こっちの責任か?
怒鳴り散らすわりに手は出さない。
だが、怒声が人の神経を蝕むことを、このジジイは本能的に理解している。
嫌がらせのプロだ。
(頼むから今日は……大人しく、何も言わずに帰ってくれ……)
心の中で念仏のように唱えていたが、願いは通じない。
黄色ジジイはビールのロング缶と、裂きイカの袋をカウンターに放り出した。
その動作だけで、今日も面倒な日になる予感がした。
俺はできる限り無害な雰囲気を醸し出しながら、引きつった笑顔を貼り付ける。
「恐れ入ります、年齢確認の画面にタッチをお願いいたします」
「……あ?」
低くて乾いた返答。
ぞっとするくらい、嫌な“間”を含んでいた。
「年齢確認に……タッチを……」
絞り出すように声を繰り返した瞬間、黄色ジジイの目がギラリと光る。
それはまるで、「待ってました」と言わんばかりだった。
「客に手間を取らせるんじゃない! そんなもん、店員がやれ!」
「……失礼しました……」
俺はもう抵抗する気力もなく、自分で画面に手を伸ばした。
この段階で抵抗するのは、火に油どころか火にナパームだ。
するとジジイは、得意げに腕を組んでふんぞり返る。
「ほれ見ろ。最初からそうすればええんじゃ。なんでやらん?」
「規則でして……」
「なにが規則じゃ! 若造がマニュアルで頭を固めるな! これだから今の若いもんは!」
はい、テンプレ入りました。
「規則なので……」
俺が言うと、まるでその言葉が引き金だったかのように、ジジイの怒りが炸裂する。
「規則で通じると思っとるんか! 20年しか生きとらんガキが! お前みたいな奴がいるから、世の中が悪くなるんじゃ!」
ちなみに俺は27歳だ。
訂正する気はないが、ジジイは「聞いとるんか!」と叫びながらバンバンカウンターを叩き始めた。
その時、店内奥からパタパタと足音が聞こえる。
「どうかされましたか?」
バックヤードから現れたのは、パートの志麻さんだった。
50代後半、誰よりもこの店に詳しく、店長よりも権力を持つおばさんである。
彼女の登場により、空気が一瞬で変わる。
「……ちっ」
黄色ジジイは舌打ちしながらも何も言い返さず、ポケットからくしゃくしゃの千円札を投げるようにカウンターに叩きつけた。
無言で会計を済ませる俺。
ジジイは釣り銭をねじ込むようにポケットへ突っ込み、そのまま踵を返して店を出ていった。
「ありがとうございました……」
俺はすべての感情を捨てた声でそう言い、心の底から解放感を味わった。
──が。
志麻さんが、今度は俺に雷を落とし始めた。
「で、何があったの?」
「お客様が年齢確認にお怒りになって……」
「こっちで押しとけばよかったのに。私ならそうするわよ」
「……はぁ」
ここからが地獄の第二章だ。
志麻さんは【“後出し正論”の王者】。
正義の仮面をかぶったダメ出しの鬼。
「錫村くん、挨拶の声も小さいし、反応が遅いのよ。だから怒鳴られるの」
「すみません……」
「あなた、クレーマーの扱い方がなってないのよ。接客ってのは、予知よ。地雷の場所くらい、先に察しなさいっての」
「……すみません……」
すでにメンタルは焼け野原だ。
(助けてもらっておいてなんだけど、ほんと、いない方がましだった……)
モンスタークレーマーに怒鳴られ、パートの女王に延々と説教される。
この短時間で、俺のHPは1どころかマイナスに突入している。
(……コンビニ、辞めたい)
何度も何度も頭の中でその言葉がこだまする。
でも、辞めたら生活ができない。
バイトの賃金が、俺のすべてだ。
そして何より、どこに行ったってクレーマーはいるし、志麻さん的な人もいる。
そういう理不尽から逃げるには、たぶんこの世を辞めるしかない。
──交代の時間になった。
俺は休憩室で私服に着替え、裏口からそっと外に出る。
路地に吹き抜ける突風が頬を叩いた。
身をすくめる。都会の風は、冷たい。
そして俺は思う。
この世は、黄色と灰色でできてる。
まぶしい色の奴ほど、ろくなもんじゃない。