3−3
扉を開けると、琉斗がベッドの縁に座っていた。
窓から差し込む光が彼の横顔を照らしている。
「刑事さん……」
「よっ」
明るく声をかけると、琉斗の視線が俺の腹の位置で止まった。
「今日、退院したんだ。走れないし、背筋も伸ばせないけど、歩くのには問題ないよ」
「生きてて……良かった……俺……」
声が小さく震え、視線が床に落ちた。
俺はそっと微笑む。
「とりあえず座ろうか。ずっと立ってるの、こっちもしんどいし」
「す、すみません。そうですね。椅子を……あの、ベッドが楽なら、ここで寝てもいいですよ」
「椅子で大丈夫。君も座って」
琉斗はおそるおそる隣の椅子に腰を下ろした。
瞳には、まだ怯えた色が残っている。
それでも、公園で見たときより顔色はずっと良かった。
「君をいじめていた子たちは、三人とも鑑別所送りになったよ」
「……そうですか」
琉斗が遠い目をしている。
あの日のことを思い出しているのかもしれない。
「あと、公園で攻撃しちゃった女性と犬なんだけど、軽症だったから示談で済んだ。心配しないで」
「……良かったです。心配事が一つ減りました」
琉斗は小さく頭を下げる。
短く切られた髪が静かに揺れた。
「実は俺、あんな騒ぎを起こしたのに、まだ能力を封印するか迷ってるんです。……こんなこと相談できる相手いなくて、悩んでたら、あなたの顔が思い浮かんで」
「そっか。相談してくれて嬉しいよ」
「でも……まだ辛そうなのに、こんな遠いところまで来てもらって……ごめんなさい」
「気にすんな。ヘリコプター乗ってきただけだし。楽しかったしな」
少し大げさに肩をすくめると、琉斗が微かに笑った。
琉斗は、膝の上で指を組み、しばらく視線を彷徨わせてから、静かに俯いた。
何かを言いかけては飲み込む仕草を、何度も繰り返す。
「……能力を封印しても、元の学校には戻れないって言われました」
「そっか……」
「でも、通信教育で卒業はできるそうです。高校だけは、どうしても出ておきたいので」
「それはいいと思う。学歴は、ないよりあった方が絶対いい」
「それと封印しなくても、卒業したら訓練を受けて就職もできるらしくて。警備関係とか、企業のボディガードとか……魔法使いでも働ける場所はあるって」
「へえ、そんな仕事があるんだな」
「……でも、公安にも声をかけられてるんです」
琉斗は小さく息を吐く。
その肩が、細く震えていた。
「ただ……公安で働くなら、覚悟がいるって……。俺にそんな覚悟、あるのかって考えたら、よくわからなくなって……」
「うん」
「正直、もう誰も傷つけたくはないんです。自分があんなふうに、何も考えずに人を攻撃する存在になるのが……とても怖いです」
「琉斗君……」
きっと彼は、ずっと自分を責めているのだろう。
魔法使いになってしまったことも、その力を暴走させてしまったことも。
「ここの施設の人に、訓練をすれば能力をコントロールすることができるって言われました。でももし、また力が暴走して誰かを傷つけてしまったら、俺、一生後悔するような気がして。そのくせ、”普通”に戻るのも怖いんです」
この少年は、真面目で純粋で、本当にいい子だと思う。
もしかしたら、能力なんてないほうが幸せに生きられたのかもしれない。
でも一度、反撃する力を手に入れてしまうと、それを手放すのも怖い。
きっと、俺も同じだーー。
「刑事さんは、どうやって覚悟を決めたんですか?」
不意にそう言われて、言葉が詰まった。
……覚悟、か。
この世界に来てから、ずっと目の前のことに振り回されて、考える余裕なんてなかった。
気づいたら命を賭けるような場所に立たされていた。
「……俺も、正直に言うと、最初は全然覚悟なんてなかったよ」
「そうなんですか……?」
「うん。怖くて仕方なかった。自分が何者なのかもわからなくて。……それでも、目の前で誰かが泣いてるのを見たら、助けたいって思った」
そう言いながら、自分でも意外だった。
こんなふうにちゃんと口にするのは、初めてだった。
「……でも、本当に覚悟なんてあったのかはわからない。ただ、少しずつ自分が変わっていくのを感じたんだ」
琉斗は黙って頷いた。
小さく揺れる前髪の奥で、瞳が真剣にこちらを見ていた。
「ごめん、偉そうに言える立場じゃないのに」
「いえ……話してくれて、ありがとうございます」
琉斗が小さく息を吸い込む。
それから、また口を開いた。
「……刑事さんは、昔からそういう……正義感の強い人だったんですか?」
「いや、全然。むしろ真逆だった」
つい笑いが漏れた。
苦笑いしながら、背もたれに体を預ける。
「自分の意見を言うのが苦手で、笑ってごまかしちゃうタイプ。違うなって思っても、口にも行動にも出せなかったな。俺、弱かったから」
「刑事さんは、変われたんですね。僕は、なんて強い人なんだと思いました。あの時は気が動転していて、頭が真っ白になってましたけど、この人は本気で僕のことを助けようとしてくれてるんだって気持ちが伝わりました」
「俺もあの時は夢中だったんで。体が勝手に動いた……みたいな……」
俺は照れくささで、頭をかく。
「でも、本当に刑事さんが助かって良かった。僕のせいで死んじゃったらどうしようかと」
「君にまで心配をかけてたんだね。ごめんね」
「僕もあなたみたいな立派な大人になりたい。変わりたいです」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ痛んだ。
そうだ。俺はいつも逃げていた。何者にもなれないまま、ずっと夢を見ていたんだ。
いつか何かで成功して、気がつくと人生が逆転していて……なんて都合のいい夢だ。
お笑いの世界で頂点を目指すこともなく、新しい挑戦をするわけでもなく、『どうせ無理だ』を繰り返して。
「俺ね、本当はお笑い芸人で食べて行こうと思ってたんだよ」
琉斗に言うつもりじゃなかったのに、口をついて出てしまった。
琉斗は不思議そうに目を見開いている。
「刑事さんが、お笑い芸人ですか……意外ですね」
「大学生の時、友達に『お笑いの世界で天下取ろうぜ』なんて、誘われて。コントが中心のトリオ編成だったんだけど……俺は二人が仲悪くなっていくのを、ただ見続けることしかできなかった。仲裁するのを諦めてたんだ。どうせ俺が言っても、世界は変わらないんだろうなって」
これ以上トリオを続けても、二人が苦しいだけだ。そう思ったら、俺はもう傍観することしかできなくなっていた。
探せば、解決の方法があったのかもしれないのに。
「で、挫折を味わってからの、第二の出発ってわけだよ。人生何が起こるかわからないよね」
琉斗は黙って聞いていた。
けれど、その目はどこか優しくて、俺の言葉を否定しようとしなかった。
「だからさ。焦らなくていいと思う。覚悟なんて、一晩で決まるもんじゃないし。俺だって、いまだに揺れてるし」
「……はい」
琉斗が、少しだけ笑った。
「刑事さんがそう言うなら……俺、もう少し考えてみます」
「うん。それでいい」
少しの間、二人で黙っていた。
どこかで機械の低い駆動音が聞こえる。
この地下の施設は、まるで生き物みたいに静かに息をしていた。
『錫村さん、時間です』
突然イヤホンから石巻さんの声が聞こえてきて、俺は飛び跳ねるように驚いた。
「は、はい。分かりました」
返事をしてから、改めて琉斗を見た。
「じゃあ、時間だからもう行くね。それと俺のことは錫村って呼んでいいから」
「わかりました。錫村さん。僕が言うのもなんですが、体には気をつけて下さいね」
「はは……」
乾いた笑みが、自然とこぼれた。
こんな一回りも年下の少年に、変な気を使わせてしまった。




