3−2
ーー入院してから、一ヶ月が過ぎた。
酉越さんの言った通り、俺は無事退院できることになった。
お腹の傷は、まぁまぁ綺麗な縫い目だ。
縁が赤く盛り上がっていて、触れるとまだ熱が残っているのがわかる。
ガーゼを換えるたびに、こつんと鈍い痛みが走る。
病室の窓を少しだけ開けると、秋の乾いた風が白いカーテンを揺らした。
もう一度この空気を吸えるんだと思ったら、それだけで胸の奥が少しだけ軽くなった。
仕事は無期限の謹慎中だ。
しばらくは警視庁の部屋に戻ることになる。
けれど、前の自分と同じようには戻れないのだろう。
六課のみんなは何度も見舞いに来てくれた。
本間さんだけは顔を出さなかったけれど、宇田島さんは毎週欠かさず来てくれた。
手に提げた紙袋の中に、温かい肉まんや資料や、差し入れにしては場違いな観葉植物が入っていたのを、なんだか今も鮮明に思い出す。
特に山下さんと一緒に揃えてくれたという、この世界についての資料はありがたかった。
分厚い封筒に詰まった書類やパンフレットは、どれも手触りが硬くて、開くたびに現実の重さがひやりと伝わってくる。
外国人が日本に観光に行くときに読むガイドブックみたいに、わかりやすく書かれたものもあった。
でも、行方不明者の統計や未解決事件の報告は、ページをめくるだけで胸の奥が冷えていく。
事件性の高い行方不明者は、東京だけで年間千人を超える。
そのうち三割は魔法使いが絡んでいるとされていた。
つまり、表に出ない”事件になっていない事件”が山ほどあるということだ。
道を歩いていた人が、突然姿を消して、近くのビルの屋上で滅多刺しの死体で見つかる。
看板が落下して死亡したはずが、調べると老朽化ではなく鋭利な刃物で切られていた。
刑務所に収監されていた服役囚が、独房で首を吊って発見される。
けれど、死亡直前に「殺される」「助けて」と叫ぶ声を、看守も囚人も何人も聞いていた。
読んでいるうちに、魔法使いが世間で恐怖の対象になっているのも無理はないと、嫌でも思い知らされた。
もし俺が一般人なら、きっと近づくのも怖いと思っただろう。
迎えが来るから病室で待っていろと言われ、公安支給のタブレットで”東京グルメガイド”を読んでいた。
ページをめくるたび、珍しいラーメンやハンバーグの写真が目に入る。
美味しそうだなとぼんやり思う一方で、どこか現実感がなかった。
まるで知らない外国の街のガイドブックを読んでいる気分だ。
コンビニもファーストフードも、似ているのにどこか違う。
流行りのファッションもどこか個性的だ。
知ってるアニメや漫画もない。
それにーー追いかけていたお気に入りのアイドル、ハッピー・パッピーのキキちゃんも。
「キキちゃん、元気かな……」
もちろん、元気なのだろう。
俺がいなくなったって、彼女の世界は変わらない。
推しが一人減った所で、彼女は認識さえしないのだ。
悲しいけれど。
感傷に浸っていると、ふいに画面に影が落ちた。
顔を上げると、いつの間にか黒いスーツの青年が立っていた。
病室の天井の蛍光灯が、彼の色素の薄い髪を青白く照らしている。
青年にしては高い声で「迎えに来ました」と告げられる。
「公安七課の石巻です」
相葉先生が言っていた。
七課は全員が特殊な能力を持っている、と。
彼もそうなのだろう。
線が細く、中性的な顔立ちで、どこかふわりとした雰囲気があった。
白い病室に立っているのに、不思議と違和感がなかった。
「着いてきて下さい」
なぜ六課ではなく七課の人間が迎えに来たのだろう。
疑問を抱えたまま荷物を抱え、病室を出る。
廊下を歩くと、足音が規則正しく響いた。
長いエレベーターに乗り込むと、石巻君がようやく口を開いた。
「警視庁に行く前に、お連れする場所がありますので寄りますね」
「お連れする場所?」
どこだろうと首を傾げると、石巻君が短く答えた。
「七課保有の施設です」
「あー……」
俺は小さく手を打った。
きっと、勝井琉斗が保護されている施設だろう。
藤城課長が言っていた。
彼が、俺に会いたいと伝えてくれていると。
病院を出ると、空気が少し冷たかった。
昼の陽射しは柔らかく、ビルのガラスに反射して白く光っていた。
駐車場を通り過ぎ、屋上への階段を上がると、本格的な冬を知らせる風が頬を撫でた。
「ヘリコプター?」
屋上には三機のヘリコプターが並んでいた。
プロペラがゆっくりと回り、風が吹き抜ける。
その音が、世界の色を少しずつ奪っていくように思えた。
「こちらです」
石巻君が指したのは、二台のドクターヘリよりも小柄な白い機体だった。
白い塗装に薄いグレーのラインが走っている。
近くで見ると、想像以上に無骨で、どこか獣のような存在感があった。
「きちんとシートベルトをして下さいね」
「俺、ヘリコプターに乗るの初めてなんですよ。ちょっと緊張するなぁ」
「安心してください。僕はまだ一度も墜落したことはありませんから」
そんな笑顔で言われても、安心はできない。
苦笑しながらシートに体を預ける。
シートベルトを締めたとき、腹の傷がひりりと痛んだ。
プロペラが音を強め、機体がゆっくりと浮かび上がる。
地面が遠ざかり、病院の屋上が小さな四角になった。
助手席のモニターには、地上の様子が映っていた。
道路の車が玩具のように小さく並び、街の輪郭が遠ざかっていく。
雲の切れ間から、陽光が水面に反射するのが見えた。
「……海?」
「はい。七課の施設は孤島にありますので」
なるほど。
ヘリコプターで移動する理由が、やっと腑に落ちた。
三十分ほど飛んだだろうか。
広がる海に、小さな島がひとつだけ浮かんでいた。
島の輪郭は歪で、ジャングルのような濃い緑に覆われている。
近づくにつれて、その中に不自然に整えられたヘリポートが見えた。
着陸すると、機体ごと地面がゆっくり沈んでいく。
無音のエレベーターに乗っているようだった。
「……すごいですね。秘密基地みたいだ」
「よく言われます」
石巻君が淡々と答えた。
それが冗談ではないのが、この世界らしい。
地下に降りたはずなのに、天井の照明は太陽光のように柔らかくて、影が穏やかだった。
廊下の壁には白いタイルが貼られ、足音が吸い込まれていく。
所々に光を取り込む窓があり、外の緑が揺れて見えた。
「地下なのに、なんでこんなに明るいんです?」
「光の屈折を利用して、地上から太陽光を取り入れているんですよ」
「へーっ」
感心しながらキョロキョロしていると、廊下の先にエレベーターがあった。
「ここから、地下に降ります」
石巻君が操作パネルに手を当てると、認証の電子音が鳴った。
扉が開き、冷たい空気がふわりと肌を撫でる。
「ここのセキュリティーもすごそうですね」
「とても厳しい管理人がいますからね。それに、この建物はかなり複雑な形をしているので、僕も全部は把握していません」
乗り込むと、エレベーターは音もなくすっと動き出す。
「地下五階まで行きます」
「ずいぶん深いですね」
「それだけ守られている、ということです」
エレベーターの中は狭くて、石巻君と向き合うと目線が重なる。
彼は相変わらず表情を崩さないまま、まっすぐこちらを見ていた。
「面会時間は三十分以内でお願いします。僕は施設長と話がありますので、終わったらこの通信機で知らせてください」
小さなイヤホン型の通信機を渡される。
耳に装着すると、ひそひそとしたノイズが鳴った。
「これ、会話が筒抜けなんですか?」
「いえ。緊急通信用なので、通話中以外は音声は拾いません。ご安心を」
少し安心して、息を吐いた。盗聴されるのは、正直少し嫌だ。
廊下の左右には部屋がずらりと並んでいた。
「こちらです」
金属製の扉で、銀色のプレートに”5032号室”と細い文字で数字が刻まれている部屋だ。
俺がドアノブに手をかけると、指先に微かな震えが走る。
(……何を話そう)
けれど、答えは決まっていた。
まずは、彼を安心させてあげたい。きっと不安でいっぱいのはずだから。




