表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桜田門ウィッチーズ  作者: しろいぬ
第二章 新生活開始
16/46

2−8

 閑静な住宅の中に埋もれた、古くも新しくもない一軒家は、サリこと西尾沙織(にしおさおり)たちが潜伏する雑音のアジトの一つだ。

 夜の街灯が窓をかすめるたび、部屋の影がゆらりと動いた。

 二階の寝室では、上半身を包帯で巻かれた男が、血の気の失せた顔をしてベッドに横たわっている。


 閉め切られた室内には、消毒液と乾いた鉄の匂いが混ざっていた。

 壁際の防犯カメラのモニターだけが、青白い光をぼんやりと滲ませている。

 空気清浄機の低い動作音が、何も言わない看護人のように部屋を監視していた。

 けれど、どれだけ機械を回しても、この空間の淀みは薄くならなかった。

 きっと、この男がいるかぎり何も変わらない。


「なんで先走ったの?」


 不機嫌を隠さない声が、自分のものだと気づくのに少し間があった。

 田仲恵一は、耳にはめていたワイヤレスイヤホンを外す。

 漏れた音楽ががしゃがしゃと安っぽく聞こえた。

 小さな機械音さえ、この部屋では耳障りだ。


「頑張ったら、サリちゃんがご褒美にやらせてくれるかなって思ったから」

「それは残念ね」

「次は絶対に仕留めるから、ご褒美の前借りできない? 溜まっちゃってさ」


 軽口を叩きながら、フードの下の糸目は全然笑っていなかった。

 むしろ、何も映していないようにも見える。

 その空虚さに、吐き気がした。

 公安の死神を殺して名を挙げたい――きっと、それがこの男の全てだ。


 雑な仕事をする田仲は、雑音の中でもすこぶる評判が悪い。

 人を殺すのを楽しんでいる節がある。

 もちろん、沙織もいくつかの暗殺に加担した。

 だが、ターゲット以外をわざわざ殺すような真似はしない。

 そういう人間が近くにいるだけで、部屋の空気が腐る。


 壁の棚に、配給の非常食や滅菌パックの水が雑然と積まれていた。

 救急セットの白い箱のフタは半開きで、包帯の端が垂れている。

 誰も片付けようとしない、無関心の匂いが充満していた。


 ボスから、勝井琉斗の勧誘を命じられたときには、心底嬉しかった。

 彼女(・・)は、自分の仕事をあまり他人に任せない。

 選ばれたような気がした。

 だが、組まされた相手が悪かった。

 公安への威嚇と琉斗が暴走したときの保険――そのはずが、結果は無様に足を引っ張られただけ。


 沙織は、このネチネチした暗い性格の男が嫌いだ。

 本当なら、視界にも入れたくない。

 けれど、一言だけ言わずにいられなくて寝室に来てしまった。

 どうせなら死んでしまえばいいのにとさえ思ったが、雑音としては戦力を減らすのは得策ではない。


「今度、いい風俗店(みせ)を紹介してあげるわ」


 捨て台詞を吐くと、足元のゴミ袋を避けて部屋を出る。

 一階のリビングに降りると、薄暗い照明の下で長いピンクの髪の少女が茶をすすっていた。

 その色は、暗がりの中でもひどく鮮烈だった。


 背中におもちゃの刀を背負ったキキは、沙織より年下なのにボスのお気に入りだ。

 机の上には白磁の湯呑が一つだけ置かれている。

 彼女はそれを両手で包むように持ち、黙ってこちらを見ていた。

 余計なことを一切しない。

 その静かさが、田仲とは正反対だった。


「ケイの様子はどうだ?」

「性欲があるくらいには元気みたいよ」


 一瞬、空気がひりつく。

 この少女が性に潔癖なのは知っている。

 親の借金で子供の頃から客を取らされた沙織には、それがひどく遠いものに見えた。


「ボスはなんて?」

「ケイは動けるまでアジトで待機。サリには手伝ってほしい仕事があるそうだ」

「勧誘なら、もう行けない。能力の欠点がバレた。公安と鉢合わせになるのは困る」

「安心しろ。“仕事”だ」


 仕事。

 雑音にとって、それは“暗殺”のことだった。


「誰と組むの?」


 相方を選べないのはわかっている。

 でも、もう田仲のような気味の悪い男とは組みたくなかった。


修星(しゅうせい)菜美(なみ)だ」


 菜美という名は初耳だった。

 修星は知っている。

 先日、相方を公安の死神に殺された人体操作系の魔法使い。

 公安が勝手に作ったタイプで分けると、修星は支援系のBタイプ。

 自分は補助系のCタイプ。

 なら、菜美は攻撃系のAタイプなのだろう。


 田仲のような殺人狂でないことを祈るしかない。


「決行日と詳細は追って連絡する。それまで、田仲の面倒を見ててくれ」


 嫌だけど、頷くしかなかった。

 まともに出歩くこともできない田仲は、放っておけば死ぬ。

 ここにしか居場所のない沙織には、他の選択肢など最初からない。


 必要なことだけを告げると、キキは立ち上がり、湯呑を持ったまま去っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、沙織はわずかに息を吐く。

 玄関には新しい物資が無造作に置かれていた。

 段ボール箱から漂う乾いた紙の匂いが、やけに冷たく感じられた。


「《魔具起動(ギア・エンゲージ)》」


 発現したスノードームを見つめる。

 子供の頃、父が買ってくれた、たった一度のクリスマスプレゼントに似ていた。


 ずっと、この中に入りたかった。

 この小さな家で暮らしたかった。

 毎日、キラキラ光る雪を眺めながら。

 自分も真っ白な体に戻りたかった。


 雪の粒がゆっくりと落ちる。

 あの頃は、まだ信じていた。

 この世界にも、自分を愛してくれる場所があると。

 ――でも、それはきっと最初から幻想だった。

 真っ白な雪に埋もれてしまいたい。

 そう思うたびに、今日もまた引き返せなくなる――。




◆◆◆




 郊外にあるアジトに戻ると、空気の質が変わった気がした。

 湿った冷気が、じわじわと肺に沈んでくる。

 玄関を開けたときには、もうわかっていた。

 ――あの人が来ている。


 薄暗いリビングに、白いワンピースの女が座っていた。


 雑音を作り上げた張本人。

 この人の言葉ひとつで、いくつもの命が失われてきた。


 表情は、いつもと変わらない。

 静かで、どこか欠けているような顔。

 呼吸の音すら、耳に届かない。

 けれどその視線を受けると、心臓が嫌な鼓動を打つ。


 彼女が視線を外し、ゆっくりと立ち上がった。

 白い裾が床を払う音を聞きながら、キキはふと、あの夜を思い出した。


 魔具が初めて発現した夜。

 家に帰ると、両親がもう息をしていなかった。

 リビングの床に転がる赤黒いものと、割れた花瓶の破片。

 強盗に襲われたと、後で知った。


 でも、あのときの自分には、そんな言葉は意味を持たなかった。

 ただ、壊れた家の中で、何かが心の奥を冷たく満たしていった。


 泣き声が出る前に、気がついたら手の中にそれがあった。

 おもちゃの刀。

 幼いころに父がくれた安い景品。

 何もかも終わった世界で、その玩具だけが不気味に光っていた。


 次の瞬間には、三人の男たちは動かなくなっていた。

 自分が何をしたのか、理解するまで少し時間がかかった。

 胸の奥がひどく静かで、ひどくすっきりしていた。


 ――そのとき、扉の向こうに立っていたのが”あの人”だった。


『終わったと思う?』


 赤いヒーローマントを身に着けた黒いドレスの女は、死体を一瞥もしなかった。

 ただ、目だけをこちらに向けた。


『彼らに命じた人間がいる。その手を汚さなければ、あなたの復讐は終わらない』


 声はとても穏やかだった。

 でも、何よりも深い場所にまで届いてきた。


『一緒に掃除をしよう。この世界の歪みを、片づけよう』


 伸ばされた手を、ためらわずに掴んだ。

 そのとき、自分はもう二度と別の道には戻れないとわかっていた。


 あれから何年経っても、その感覚は消えない。

 この人の声を聞くと、あの夜の冷たさを思い出す。

 だから、たぶん自分はもう、きれいな人間ではない。


 でも、それでいい。

 あのとき選んだのだから。


「帰ったのね、キキ」


 彼女は声を落としたまま、目線だけをこちらに向けた。

 それだけで、背筋にひやりとしたものが這い上がる。


「ケイは?」

「動けません。サリが看ています」

「……そう。きっと、もう長くないわね」


 言葉は淡々としていた。

 それが責める声か、ただの事実か、キキにはわからなかった。


「死神は、どうだった?」

「……噂よりずっと凡庸でした。拍子抜けするくらいに」


 本心だった。

 あれが公安の死神だというのなら、恐れる理由などどこにもない。


 ハッキングした公園の防犯カメラに映った死神は、場馴れした刑事どころか、ただの素人同然だった。

 しかも、田仲のナイフを腹に受けている。

 無鉄砲に飛び出したとしか思えない。

 あれでは、一歩間違えば相打ちだ。


「でも、その凡庸さにケイは負けたのでしょう」


 彼女は一度だけ目を伏せる。

 ひと呼吸置いてから、静かに視線を戻した。

 瞳には、やはり何も映っていなかった。


「油断したのだと思います。あの男は、いつもそうです」


 硬質の美貌を少し崩して、あの人が薄く笑う。


「あなたは違うわね。……私、あなたには死んでほしくない」


 それは命令のようでもあり、祈りのようでもあった。

 この人の祈りが、どれだけの血を流させてきたのか、キキは知っている。


 だが、自分もまだ死ねない。

 あいつらをこの手で斬り潰すまでは。

 あの日、すべてを奪った男はまだ息をしている。

 世界が腐りきったまま終わるなら、せめて自分で決着をつけたい。


「……私たちは“掃除屋”。腐ったものを払いのけることは、咎でも罰でもないわ。ただ、それが世界をきれいにする手段だと信じるだけ。ねじれたものを正すのは、いつだって美しい破壊から始まるのよ」


 彼女が両手で胸元に落ちていた髪をまとめ上げ、ゆっくりと肩越しに背へ送る。

 空調の風に白い裾が舞い上がる。

 まるでこの世に属していない幽霊のように見えた。


「次の仕事は無駄な死を出さない。菜美がいる。……あの子ならきっと、公衆の面前で、とても美しくあの男を終わらせてくれる」


 彼女は一歩近寄り、指先でキキの頬をそっとなぞった。

 それは優しさとも残酷さとも言えない温度だった。


「人はね、憎しみを手放すよりも、その熱に身を委ねる方がずっと楽なの。いつか冷たくなるだろうと願いながら、それでも火種を抱え続ける。そして気づけば――燃えていることが、生きている証になっている。私は……その業火を、正しさと呼ぶことにしたの」


 低く、静かな声だった。

 それが誰の話なのか、キキはもう知っていた。

 彼女の正義は、決して癒えない。


 白い影がゆっくりと歩き去っていく。

 その背に、いくつの死を積み上げてきたのか。

 キキには知るすべもない。


 けれど、ただ一つだけは確かだった。

 この人が命じる限り、自分は何度だって刀を抜く。

 それが雑音に生きる者の在り方だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ