2−8
閑静な住宅の中に埋もれた、古くも新しくもない一軒家は、サリこと西尾沙織たちが潜伏する雑音のアジトの一つだ。
夜の街灯が窓をかすめるたび、部屋の影がゆらりと動いた。
二階の寝室では、上半身を包帯で巻かれた男が、血の気の失せた顔をしてベッドに横たわっている。
閉め切られた室内には、消毒液と乾いた鉄の匂いが混ざっていた。
壁際の防犯カメラのモニターだけが、青白い光をぼんやりと滲ませている。
空気清浄機の低い動作音が、何も言わない看護人のように部屋を監視していた。
けれど、どれだけ機械を回しても、この空間の淀みは薄くならなかった。
きっと、この男がいるかぎり何も変わらない。
「なんで先走ったの?」
不機嫌を隠さない声が、自分のものだと気づくのに少し間があった。
田仲恵一は、耳にはめていたワイヤレスイヤホンを外す。
漏れた音楽ががしゃがしゃと安っぽく聞こえた。
小さな機械音さえ、この部屋では耳障りだ。
「頑張ったら、サリちゃんがご褒美にやらせてくれるかなって思ったから」
「それは残念ね」
「次は絶対に仕留めるから、ご褒美の前借りできない? 溜まっちゃってさ」
軽口を叩きながら、フードの下の糸目は全然笑っていなかった。
むしろ、何も映していないようにも見える。
その空虚さに、吐き気がした。
公安の死神を殺して名を挙げたい――きっと、それがこの男の全てだ。
雑な仕事をする田仲は、雑音の中でもすこぶる評判が悪い。
人を殺すのを楽しんでいる節がある。
もちろん、沙織もいくつかの暗殺に加担した。
だが、ターゲット以外をわざわざ殺すような真似はしない。
そういう人間が近くにいるだけで、部屋の空気が腐る。
壁の棚に、配給の非常食や滅菌パックの水が雑然と積まれていた。
救急セットの白い箱のフタは半開きで、包帯の端が垂れている。
誰も片付けようとしない、無関心の匂いが充満していた。
ボスから、勝井琉斗の勧誘を命じられたときには、心底嬉しかった。
彼女は、自分の仕事をあまり他人に任せない。
選ばれたような気がした。
だが、組まされた相手が悪かった。
公安への威嚇と琉斗が暴走したときの保険――そのはずが、結果は無様に足を引っ張られただけ。
沙織は、このネチネチした暗い性格の男が嫌いだ。
本当なら、視界にも入れたくない。
けれど、一言だけ言わずにいられなくて寝室に来てしまった。
どうせなら死んでしまえばいいのにとさえ思ったが、雑音としては戦力を減らすのは得策ではない。
「今度、いい風俗店を紹介してあげるわ」
捨て台詞を吐くと、足元のゴミ袋を避けて部屋を出る。
一階のリビングに降りると、薄暗い照明の下で長いピンクの髪の少女が茶をすすっていた。
その色は、暗がりの中でもひどく鮮烈だった。
背中におもちゃの刀を背負ったキキは、沙織より年下なのにボスのお気に入りだ。
机の上には白磁の湯呑が一つだけ置かれている。
彼女はそれを両手で包むように持ち、黙ってこちらを見ていた。
余計なことを一切しない。
その静かさが、田仲とは正反対だった。
「ケイの様子はどうだ?」
「性欲があるくらいには元気みたいよ」
一瞬、空気がひりつく。
この少女が性に潔癖なのは知っている。
親の借金で子供の頃から客を取らされた沙織には、それがひどく遠いものに見えた。
「ボスはなんて?」
「ケイは動けるまでアジトで待機。サリには手伝ってほしい仕事があるそうだ」
「勧誘なら、もう行けない。能力の欠点がバレた。公安と鉢合わせになるのは困る」
「安心しろ。“仕事”だ」
仕事。
雑音にとって、それは“暗殺”のことだった。
「誰と組むの?」
相方を選べないのはわかっている。
でも、もう田仲のような気味の悪い男とは組みたくなかった。
「修星と菜美だ」
菜美という名は初耳だった。
修星は知っている。
先日、相方を公安の死神に殺された人体操作系の魔法使い。
公安が勝手に作ったタイプで分けると、修星は支援系のBタイプ。
自分は補助系のCタイプ。
なら、菜美は攻撃系のAタイプなのだろう。
田仲のような殺人狂でないことを祈るしかない。
「決行日と詳細は追って連絡する。それまで、田仲の面倒を見ててくれ」
嫌だけど、頷くしかなかった。
まともに出歩くこともできない田仲は、放っておけば死ぬ。
ここにしか居場所のない沙織には、他の選択肢など最初からない。
必要なことだけを告げると、キキは立ち上がり、湯呑を持ったまま去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、沙織はわずかに息を吐く。
玄関には新しい物資が無造作に置かれていた。
段ボール箱から漂う乾いた紙の匂いが、やけに冷たく感じられた。
「《魔具起動》」
発現したスノードームを見つめる。
子供の頃、父が買ってくれた、たった一度のクリスマスプレゼントに似ていた。
ずっと、この中に入りたかった。
この小さな家で暮らしたかった。
毎日、キラキラ光る雪を眺めながら。
自分も真っ白な体に戻りたかった。
雪の粒がゆっくりと落ちる。
あの頃は、まだ信じていた。
この世界にも、自分を愛してくれる場所があると。
――でも、それはきっと最初から幻想だった。
真っ白な雪に埋もれてしまいたい。
そう思うたびに、今日もまた引き返せなくなる――。
◆◆◆
郊外にあるアジトに戻ると、空気の質が変わった気がした。
湿った冷気が、じわじわと肺に沈んでくる。
玄関を開けたときには、もうわかっていた。
――あの人が来ている。
薄暗いリビングに、白いワンピースの女が座っていた。
雑音を作り上げた張本人。
この人の言葉ひとつで、いくつもの命が失われてきた。
表情は、いつもと変わらない。
静かで、どこか欠けているような顔。
呼吸の音すら、耳に届かない。
けれどその視線を受けると、心臓が嫌な鼓動を打つ。
彼女が視線を外し、ゆっくりと立ち上がった。
白い裾が床を払う音を聞きながら、キキはふと、あの夜を思い出した。
魔具が初めて発現した夜。
家に帰ると、両親がもう息をしていなかった。
リビングの床に転がる赤黒いものと、割れた花瓶の破片。
強盗に襲われたと、後で知った。
でも、あのときの自分には、そんな言葉は意味を持たなかった。
ただ、壊れた家の中で、何かが心の奥を冷たく満たしていった。
泣き声が出る前に、気がついたら手の中にそれがあった。
おもちゃの刀。
幼いころに父がくれた安い景品。
何もかも終わった世界で、その玩具だけが不気味に光っていた。
次の瞬間には、三人の男たちは動かなくなっていた。
自分が何をしたのか、理解するまで少し時間がかかった。
胸の奥がひどく静かで、ひどくすっきりしていた。
――そのとき、扉の向こうに立っていたのが”あの人”だった。
『終わったと思う?』
赤いヒーローマントを身に着けた黒いドレスの女は、死体を一瞥もしなかった。
ただ、目だけをこちらに向けた。
『彼らに命じた人間がいる。その手を汚さなければ、あなたの復讐は終わらない』
声はとても穏やかだった。
でも、何よりも深い場所にまで届いてきた。
『一緒に掃除をしよう。この世界の歪みを、片づけよう』
伸ばされた手を、ためらわずに掴んだ。
そのとき、自分はもう二度と別の道には戻れないとわかっていた。
あれから何年経っても、その感覚は消えない。
この人の声を聞くと、あの夜の冷たさを思い出す。
だから、たぶん自分はもう、きれいな人間ではない。
でも、それでいい。
あのとき選んだのだから。
「帰ったのね、キキ」
彼女は声を落としたまま、目線だけをこちらに向けた。
それだけで、背筋にひやりとしたものが這い上がる。
「ケイは?」
「動けません。サリが看ています」
「……そう。きっと、もう長くないわね」
言葉は淡々としていた。
それが責める声か、ただの事実か、キキにはわからなかった。
「死神は、どうだった?」
「……噂よりずっと凡庸でした。拍子抜けするくらいに」
本心だった。
あれが公安の死神だというのなら、恐れる理由などどこにもない。
ハッキングした公園の防犯カメラに映った死神は、場馴れした刑事どころか、ただの素人同然だった。
しかも、田仲のナイフを腹に受けている。
無鉄砲に飛び出したとしか思えない。
あれでは、一歩間違えば相打ちだ。
「でも、その凡庸さにケイは負けたのでしょう」
彼女は一度だけ目を伏せる。
ひと呼吸置いてから、静かに視線を戻した。
瞳には、やはり何も映っていなかった。
「油断したのだと思います。あの男は、いつもそうです」
硬質の美貌を少し崩して、あの人が薄く笑う。
「あなたは違うわね。……私、あなたには死んでほしくない」
それは命令のようでもあり、祈りのようでもあった。
この人の祈りが、どれだけの血を流させてきたのか、キキは知っている。
だが、自分もまだ死ねない。
あいつらをこの手で斬り潰すまでは。
あの日、すべてを奪った男はまだ息をしている。
世界が腐りきったまま終わるなら、せめて自分で決着をつけたい。
「……私たちは“掃除屋”。腐ったものを払いのけることは、咎でも罰でもないわ。ただ、それが世界をきれいにする手段だと信じるだけ。ねじれたものを正すのは、いつだって美しい破壊から始まるのよ」
彼女が両手で胸元に落ちていた髪をまとめ上げ、ゆっくりと肩越しに背へ送る。
空調の風に白い裾が舞い上がる。
まるでこの世に属していない幽霊のように見えた。
「次の仕事は無駄な死を出さない。菜美がいる。……あの子ならきっと、公衆の面前で、とても美しくあの男を終わらせてくれる」
彼女は一歩近寄り、指先でキキの頬をそっとなぞった。
それは優しさとも残酷さとも言えない温度だった。
「人はね、憎しみを手放すよりも、その熱に身を委ねる方がずっと楽なの。いつか冷たくなるだろうと願いながら、それでも火種を抱え続ける。そして気づけば――燃えていることが、生きている証になっている。私は……その業火を、正しさと呼ぶことにしたの」
低く、静かな声だった。
それが誰の話なのか、キキはもう知っていた。
彼女の正義は、決して癒えない。
白い影がゆっくりと歩き去っていく。
その背に、いくつの死を積み上げてきたのか。
キキには知るすべもない。
けれど、ただ一つだけは確かだった。
この人が命じる限り、自分は何度だって刀を抜く。
それが雑音に生きる者の在り方だった。




