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「ねぇ、サリちゃん。もう行こうよ。公安相手にするの、めんどいし」
ぼそっと呟いたのは、少女の隣に立つ黒ずくめの青年だった。最初からそこにいたはずなのに、まるで空気みたいに存在感が希薄だ。黒いパーカーのフードを深く被り、その奥の顔は暗がりに沈んで見えない。
「ダメだってば。ボスから言われたでしょ? 連れていくなら、自分の意思でって」
「でもさ、こんなの――時間のムダじゃん」
「ムダじゃないよ。無理やり誘拐なんてしたら、後がめんどくさいの」
少女が、笑いながら琉斗の肩に手を添える。その細くて白い指が、やけに冷たく見えた。
通信機に、真野の声が割り込む。明らかに焦りの滲んだ声だった。
『発砲許可は出していない! 機動隊は全員撤退! 立入禁止区域を半径一キロに拡張! 絶対に誰も近づけるな!』
続いて、小野倉の緊迫した声が届く。
『念写完了。少女の魔具はスノードーム。能力は自動反撃――攻撃を加えた者にすべて跳ね返る。範囲は半径一・五メートル。青年の方は釣り竿。能力は……空間操作。注意してください。そいつは犯罪者コードB3です』
「B3……!」
その名を聞いた瞬間、背筋が氷のように冷たくなる。
「……山下さん、B3って……」
「雑音の中でも、最も残酷な手口で人を殺す殺し屋。滅多に姿を見せない……本当に厄介なのが来たわね」
吐き捨てるような言葉に、誰も返さなかった。――それほど、この青年が危険だという証拠だった。
「僕は……」
琉斗が掠れた声を吐く。
「もう……誰も傷つけたくない。でも、もう二度と、いじめられたくなんてない……!」
「ふふっ、いいね、その目。やっぱり合格点かな?」
少女が唇を歪め、琉斗の背中に腕を回す。
このまま連れていかれたら、彼はもう二度と戻れない。
機動隊が撤退を始める。
少女の横に立つ黒いフードの男と目が合った。
感情が読めない死人のような糸目。
ーーどくん。
その時、俺の中で何かが鼓動した。
『刀矢……』
誰かが頭の中で俺の名前を呼ぶ。
『うちに泊まるの久しぶりだよな。今夜は、朝までゲーム対決だぞ』
柔らかそうな栗毛、リスのような小動物の顔立ち、少年にしては高い声、人懐こい笑顔、コロコロと変わる表情、赤く染まった体、動かない手ーー。
『予定外だけど、めんどいからコイツも殺しちゃった』
黒いフードの奥の糸目。『まだ、居たのか』という気だるそうな声。
震える手で、発射された銃声。
遠くから聞こえるサイレンの音……。
(誰だ……?)
そう思うのと同時に、俺の体は――勝手に動いていた。
「琉斗君! ダメだ!」
宇田島さんが横目で睨む。戻れ、そう言っている。
通信機には真野さんと山下さんの声が重なっていた。
『錫村、戻れ!』
『錫村君、止まりなさい!』
「そいつと一緒に行ったら駄目だ!」
……無理だ。足が止まらない。
「《起動》」
右手に、黄緑色の水鉄砲が現れる。
これしかできない。けど――
「その子を離して」
俺は銃口を少女に向けた。
少女とB3が、同じ角度で首を傾ける。
「まさか……死神?」
少女の声に、初めて怯えの色が混じった。
B3も、薄い緊張を纏う。
「ここでコイツを殺したら……ボスに褒めてもらえるかな」
青年の声は、熱の抜けた氷みたいに冷たかった。
「《魔具起動》」
黒いフードの青年が、釣り竿をゆらりと持ち上げる。
「《捕縛釣竿》」
その声と同時に、空気が重く沈む。
世界がねじれたように視界が歪む。
「――ッ!?」
刹那、強い力に引きずられた。
気づけば、俺はB3の目の前に立たされていた。
「なっ――」
声が出るより早く、腹に衝撃が突き刺さる。B3のナイフが、無造作に突き立てられていた。
「ぐ……ぁ……ッ!」
鈍い痛みが、内臓をかき回すように広がった。
(死ぬ……!)
反射的に右手を持ち上げる。黄緑色の水鉄砲が震える手に握られていた。
少女がいる。琉斗がいる。B3の手がナイフを握ったまま動かない。
考える暇もなかった。
もう、どうせ逃げられないのなら――。
「その子を……離せ……ッ!」
叫ぶように引き金を引いた。
乾いた破裂音。
(跳ね返される……?)
覚悟したが、反撃は来なかった。
弾丸はB3の肩を撃ち抜いた。青年の体がわずかにのけぞる。
「……チッ」
少女が舌打ちをする。
琉斗の目が恐怖に見開かれる。
血が喉を伝い、息が荒くなる。けれど、言わなければならなかった。
「琉斗君……人殺しにだけは……なるな……」
言葉が血の泡になって零れる。
その刹那、宇田島が駆け出した。スノードームの内側――反撃できない唯一の範囲に、躊躇なく飛び込む。
少女が反射的に琉斗を放し、後退した。
「今だ!」
真野がスケボーを地面に叩きつける。車輪が火花を散らし、一直線に琉斗の元へ滑り込む。
腕を伸ばし、琉斗を抱え上げる。
「本間! 預かれ!」
「チッ、了解だ!」
本間が駆け寄り、琉斗を引き受ける。
少女は一瞬だけ、無表情でこちらを見た。瞳の奥に感情はなかった。
「もういい。撤退する」
低く呟く。
少女が地面に何かを叩きつけた。
重低音の爆発が、世界を真白に染める。
空気が振動する。
次の瞬間、少女とB3の姿が、白い光に融けるように滲んだ。
「待て――!」
真野の声が届くより先に、二人の輪郭は完全に消失した。そこには何も残っていなかった。
(く……そ……)
視界が暗くなる。
血が流れていく音だけが、やけに遠くに聞こえた。
最後に、琉斗が泣きながら本間にしがみつく姿が見えた。
そこで、俺の意識はぷつりと途切れた――。




