2−5
梅の花公園は、八ヘクタールもある広大な敷地を持つ、緑と花にあふれた場所だ。
六百五十本もの梅林が見どころらしいけど――今はそんな風情とは真逆の、物々しい空気に支配されていた。
盾を構えた機動隊。警察車両がずらりと道路を塞ぎ、非常線が張られている。
近隣住民には避難命令が出ていて、辺りに人影はほとんどない。
俺のいた世界なら、絶対に野次馬やマスコミが押し寄せてきて、スマホを構えて動画を撮りまくるところだ。
でも、この世界じゃそんな光景は一切なかった。
“魔法”――それはそれだけ人々を黙らせる恐怖の象徴らしい。
サーチライトに照らされる中、勝井琉斗は噴水広場の脇で立ち尽くしていた。
どう見ても気の弱そうな、普通の中学生だ。
制服は泥と枯葉でぐしゃぐしゃに汚れ、頬は青ざめて震えている。
「こんばんは。私は宇田島睦実。公安の刑事だ。君を捕まえに来たわけじゃない。保護しに来たんだ。だから、もう大丈夫だよ」
宇田島さんの声は不思議なくらい優しくて、胸にすとんと落ち着く響きがあった。
「僕達も、君と同じ“魔法使い”だ。でも安心してくれ。誰も君を傷つけたりしない」
琉斗は視線を何度も彷徨わせて、怯えきった小動物みたいに小さくうなずいた。
俺は少し離れた場所で待機させられていた。
隣には、口の悪い子供――本間さんと、山下さん、小野倉さん。
全員、緊張の色を隠さない。
「山下班長、念写完了しました。勝井琉斗の魔具は“ビー玉”。魔力を調整することで、一度に複数を掃射できます。けれど……これは人を攻撃するためじゃなく、自己防衛用の能力です。ビジョンを読みました。発現の直前、彼は危うく命を落としかけていました」
「被害者のスマホにも証拠が残ってるわ。大量の水を無理やり飲まされる動画。……“いじめ”なんて言葉じゃ生ぬるいわね。あれは、ほとんど拷問よ」
山下さんの声が震えていた。
中学生とは思えない。
ただの悪ふざけが、人を殺しかける暴力に変わる。
そして、それを止める大人もいなかった。
(こんなの、怖すぎるだろ……)
「……あの、これ、写真ですか?」
小野倉さんが手にしていたポラロイド写真を、ちらりと覗き込む。
そこに写っていたのは、何色ものモノクロの絵の具をぶちまけたみたいに、ぐちゃぐちゃに歪んだ絵だった。
「説明し忘れてたわね。彼女の能力は対象の魔具の本質を写し取る能力なのよ。すごいでしょう?」
山下さんが誇らしげに言うと、小野倉さんは顔を伏せて、かすかに首を振った。
「大した能力じゃありません。……私にしか読めないし……」
「でも、そのおかげで対応が変わることもある。とても重要な能力よ」
「……彼、すごく怯えています。“助けて”“怖い”“どうして”って。ずっと、その言葉ばかりです」
山下さんが通信機に声を落とす。
「宇田島さん、彼はこちらに攻撃する意志はありません。そのまま説得を続けてください」
「了解」
耳に着けたイヤホンからも、彼らの声が届く。
「学校でのことは、これからきちんと調べる。だけど、君はまだ未成年だ。裁判でもその点は考慮されるだろう。学校側もいじめを認めているし、彼らのスマホにも証拠が残っていた。……大丈夫だ。君の人生は、まだ終わっていない」
「……僕を、助けてくれるんですか」
琉斗の声はかすれていた。
「もちろんだ。私達は君を守るために来た」
琉斗の肩が小さく震え、やっと視線が定まった。
ゆっくりと、差し伸べられた宇田島さんの手に、彼の指先が触れる。
……その瞬間。
ドォォォォン!!
爆音とともに、地面が弾け飛んだ。
目の前に粉塵が広がり、俺は反射的に目を伏せる。
「な、何だ!?」
咳き込みながら視線を上げると、噴煙の奥――琉斗の背後に二つの影が立っていた。
「……人影?」
ありえないタイミングの“出現”。
マジックショーの幕開けみたいに唐突すぎて、現実感がなかった。
「雑音だ!!」
本間さんが叫ぶなり、俺の横を風みたいに駆け抜けていった。
(嘘だろ……!)
俺も飛び出そうとした瞬間、スーツの襟を強く引かれた。
「待機!」
振り返ると、山下さんが真剣な目で俺を見ていた。
「錫村君はまだ半人前。交戦許可は出せない。ここで待って」
「でも……!」
「現場に立つのは必要な経験よ。でも、雑音と交戦するのは訓練じゃない。命を落とすかもしれない」
わかってる。頭ではちゃんと理解してる。
でも――胸がざわついて仕方がなかった。
(何ができるわけでもないくせに、くそ……!)
俺は唇を噛んだ。
目の前の非常線の先で、別の世界の“現実”が蠢いていた。
◆◆◆
「《魔具起動》、《氷殻逆撃》」
鈴のような軽やかな声と共に、目の前にオーロラのような膜が降りた。
琉斗は、あまりにも急な展開に思考が吹き飛んでいた。
背後から、ひんやりとした腕が自分の体をがっちりと抱え込んでいる。
「危ない。危ない。……間一髪じゃん」
耳元に落ちてきた声は、女の子のものだった。
たぶん高校生くらいだろう。抱きしめている腕は細くて白く、それなのに力は大人の男みたいに強かった。
「いいか、少年。警察の言葉なんて信じちゃ駄目だよ」
甘い響きの声が、耳に絡みつく。
「……っ」
琉斗は戸惑って声が出せなかった。
視界の端で、宇田島と名乗った男が銃を構えているのが見えた。
さっきまで優しかった目が、一瞬にして鋭いものに変わっている。
「ほら、よく見てみな。あの男……君に助けの手を差し伸べていたふりをして、今は私達に銃を突きつけてる」
「……っ……」
「能力を封印されたら、君はまた弱い立場に逆戻りだ。今度は、どこまでもどこまでも、地獄が続くんだよ」
「琉斗君、そいつらの声を聞くんじゃない!」
宇田島の声が届く。
だけど、胸が苦しい。
少女の声は、どうしてか――心の奥の、いちばん弱い部分をなぞるようにしみてくる。
「私達と一緒に来なよ。搾取される側じゃなく、搾取する側に回るんだ」
少女が、柔らかく笑った。
その時、沈黙を破る鋭い銃声が公園を裂いた。
パン――!
撃ったのは、周囲を固めていた機動隊員の一人だ。
銃口は少女に向けられていた……はずだった。
「……え?」
けれど、撃たれたのは少女じゃなかった。
反対に、発砲した本人の肩口から血が噴き出していた。
顔面は真っ青になり、信じられないものを見るように目を見開く。
「ひ……っ……」
尻もちをついた隊員が肩を押さえ、ガタガタと震えながら呻いた。
恐怖で、引き金を引くことすら正しくできなくなっていた。
「私の魔法だよ。この子が守ってくれてる」
少女が小さく掲げたのは、雪が舞うスノードームだった。
中に入っているのは、小さな可愛らしい家のミニチュア。
「君と私、相性がいいと思わない? ――ね、仲良くしよ?」
琉斗の頭の奥で、何かがぱきん、と音を立てた気がした。
(た、助けて……誰か……)
けれど声は喉で詰まり、目の前の現実だけがぐしゃぐしゃに歪んで見えた。




