0−0 プロローグ
「悦男、起きろッ!」
ソファに沈み込むようにうたた寝しながら、悦男は夢を見ていた。
夢の中では、ビルの最上階にあるスイーツブッフェで、イチゴのショートケーキを両手に持って幸せに笑っていた。
その甘い時間を、腹に炸裂した本気の蹴りが、無惨に破壊する。
「いったァ……なにすんのさ……」
よく通る高い声が、体のどこかから漏れた。
太った腹をさすりながら顔を上げると、モニターに向かって舌打ちしている修星の姿が見えた。額には汗。目は鋭く、全身が戦闘態勢に入っている。
「急げ! 逃げるぞ! 公安だ!」
その言葉に、悦男はソファから跳ね起きた。
文句のひとつも言いたかったが、今はそんな悠長な場合じゃない。
部屋の隅で点滅している警告ランプは、今にも爆発しそうな勢いで赤く点滅していた。
建物の周囲に取り付けた監視モニターには、既に三人の侵入者の姿が映し出されている。
一人はショートカットの痩せた女。
もう一人は、あどけなさを残す子ども。
そして――最後の一人。
「……死神だ。修ちゃん、あいつ、死神だよ……!」
悦男の声が、裏返る。
黒いスーツを着た長身の男が、カメラ越しにこちらを見つめている気がした。画面の中にいるはずなのに、その目だけは現実に滲み出して、肺の奥を凍らせた。
まるで――画面から射抜くような視線だ。
噂だけの存在。見た者は皆、死ぬ。
それが“公安の死神”。
修星の手には、小さなブリキの人形が握られていた。
「くっそ、どこから嗅ぎつけやがったんだ」
このアジトは、倒産した倉庫の二階を改造して暮らしていた場所。
長居しすぎたかもしれない。
悦男が顔面蒼白になって叫ぶ。
「《魔具、起動》!」
悦男の瞳が、黄金色に染まる。
魔力の波が、空気を震わせた。揺らぐ空気に、針を擦るような高周波音が混じる。
温度が数度下がり、吐息が白く染まった。
体の周りに、いくつもの魔法陣が浮かぶ。
それらは呼吸に合わせて収縮を繰り返し、周囲の光を吸い込みながら脈動する。
それは大小様々な大きさで、複雑な文様や文字が描かれていた。
魔法陣の消滅と共に、悦男の手には黄色いシャボン玉の容器と、ストローのような発射口が握られている。瞳の色も戻っていた。
「逃げ道は裏口だ。悦男、泡玉で俺を飛ばせ。下の連中の注意を引く。その隙にバイクを回してくれ」
「そんなことしたら、修ちゃんが捕まっちゃう!」
「構わない。時間を稼ぐ。あの子どもを操って牽制する。バイクで拾ってくれれば逃げ切れる」
「……わかった。行くよ――!」
悦男はストローを構え、息を吸い込む。
魔力を流しながら吐き出すと、泡の膜が空中に膨れ上がり、修星の体を包み込んだ。
ふわりと浮いた修星の体が、窓から滑るように夜へ溶けていく。
悦男は裏口へ駆ける。階段を一段飛ばしで駆け下り、道路を挟んだ茂みへ。
そこにバイクは隠してある。
(間に合え……!)
その時だった。
「お、やっぱこっちか」
冷たく乾いた声が響いた。
足が止まる。
目を上げると、そこにいたのは“奴”だった。
黒スーツ。表情のない顔。
背後に、光と影がゆらめくように脈打っていた。昼と夜が混ざるような、現実と悪夢の境界が滲む。
そして漂う、圧倒的な“死の予感”。
悦男の全身から、音を立てて血の気が引いていく。
「君の魔法、便利だね。だけど、自分は飛ばせないんだろ? 二人で飛んで逃げられたら楽だったのにね」
まるで日常会話のように語るその口調が、却って不気味だった。
「魔法ってさ、結局“人間の願い”から生まれてるから、どこかに必ず欠点がある。……完璧なもんなんて、ないんだよ」
悦男は確信した。
この男は、人を殺すための訓練を積んできた“公安の死神”なんかじゃない。
もっと、根本から違う。――“殺しを迷わない存在”だ。
「頼むから動かないでくれよ。最近、つい殺しちゃうからさ。怒られてんだよ、上に」
ふわりと笑うその口元に、悦男の心が凍りつく。
「君の仲間のこと。いろいろ聞かせてもらわないと」
死神が一歩、踏み出した――その瞬間。
「錫村さん! 本間さんが!」
女の声。ショートカットの女性が裏口から飛び出してくる。
一瞬、死神の目線がそちらに流れる。
(今しかない!)
悦男は、全身の魔力を振り絞る。
(飛んでけ! お前なんて飛んでけッ!!)
巨大なシャボン玉が炸裂する。
それは白く輝きながら一直線に、死神へと向かっていった。
同時に、黄緑色の水鉄砲が構えられ、発射音が響く。
悦男の視界に、水が迫る。
それは、弾丸と遜色ない速度と精度で、額に向かって真っすぐ。
最後に見たのは、口元だけで笑った死神の顔だった。
(やっぱりこいつ……死神だ)
◆◆◆
ろくでもない人生だった。
親ガチャに失敗して、悦男は母親から虐待を受けて育った。
母親は酒に酔うと暴力を振るい、パチンコに負けてはタバコの火を押し付け、度重なる折檻で体の傷がどんどん増えていく。
新しい男ができると子供を放ってどこかに行ってしまうし、別れるとふらりと戻ってきて、悦男を八つ当たりの道具にした。
父親の顔はあまり覚えてない。
物心付く前に、薬物中毒で逮捕されて刑務所の中で死んだらしい。
学校ではさんざいじめられた。
だから五年生になる頃には、ほとんど学校に行かなくなった。
家出をしたのは、13の時だ。
繁華街のごみを漁り、公園で寝泊まりをし、ガラの悪い連中のパシリをした。
スリに万引き恐喝と、犯罪を強要されたのは嫌だったが親に殴られるよりはましだった。
どこにいても、ろくでもない人生だ。
だから人間の最底辺という位置で、少しでも座りのいい椅子に座った。
でもそこは汚く醜く、結局、地獄だった。
要領の悪い悦男はいいようにコキ使われて、ボロボロだった。
そんな悦男の人生が、初めて変わったのは――魔法が使えるようになった日だった。
シャボン玉。それが悦男の魔具だ。
最初はただ小さな物を浮かせるだけ。だが、やがて人をも飛ばせるようになり、雑音に拾われた。
組織は、悦男を人間扱いしてくれた。
暖かい布団。菓子。テレビ。普通の“生活”をくれた。
そして、修星と出会った。
同じように壊れた過去を持つ修星と、悦男はすぐに打ち解けた。
任務も、日常も、二人で分かち合った。
誰かを殺すことすら、息を合わせてこなしていった。
「俺たちみたいなはみ出し者が、寿命を全うして死ねるわけない」
それが、修星の口癖。
だから――なんとなく分かっていたんだ。
こんな生活、いつまでも続くわけないんだって。
悦男の心臓はとっくに止まっていたが、僅かな時間、意識はあった。
その僅かな時間で悦男は考えていた。
空ってこんなに青かったんだな――そう思った瞬間、世界は音もなく白く霞んだ。