あゆちのびと衆 第一章 その四
がおとがお
秋だ。寒蝉が鳴いている。
熱田の浜の大網元、丸熱。いつか信長達が、海の幸を飽食したその大きな網蔵。
今日は約束の日だった。
網蔵の頑丈な大木戸は開け放たれている。
辺りに、人影はない。服部金之助の一族や、大瀬子村の人々は、こぞって津島神社へ参詣に行っている。
伊賀の百地と藤林に隠密に会う為に、前もって信長が過分な費用を普段の忠勤への褒美を名目として支払い、彼等を遠ざけたからだ。金之助にも、真実は知らしていないが、ある内密で重要な会見の為の人払いとだけは言ってある。信長を敬愛する彼は、それを他には漏らさない。今日が津島神社の祭礼の期間の日だったことも手伝って、滅多にない幸運に、人々は喜び勇んで早朝からでかけたのだった。
刻限の四つ(午前九時四十分頃)の鐘が近くの寺から聞こえる。
海からの砂混じりの風が強い。
褐色(かちいろ=黒に近い濃い藍色)の肩衣袴姿の一益が、網蔵から出てきた。彼は早朝から何度も出入りを繰り返し、辺りを探るように歩き回っている。その腰には、扇が一本差されているだけで、普段にはない緊張の面持ちだ。
大木戸を出て砂浜を少し進み、左手を見渡し、右に首を振ると、伊賀の二人はまるで風に乗って来たかのよう、すでにそこに立っていた。
二人とも遊行僧の格好をしている。古びた坊主笠を被り、墨染(すみぞめの裳付衣に袈裟を巻き、わさづの(鹿の角を差した杖)杖を持っている。
一益は、その突然の出現にも驚いた様子も見せず、見覚えのある二人の人影に、膝に手をやり、腰を折って頭を下げる。二人もそのままで、小さく頭を下げる。双方無言だ。
二人を中に案内する。
三和土には、濯ぎ桶が二つおいてあり、段差の有る三和土上の板敷は一間ほど奥まって引き戸があるが閉まっている。
一益が、手で桶を示す。
二人はまず、武器になりそうな、わさづの杖を板敷に置き、坊主笠を取ると裏向けに三和土上の板敷に置く。
向きを変え板敷に並んで座ると、草鞋を脱ぎ、汚れた足を濯ぎ、たもとの手拭いで足を拭き板敷に立つ。二人はするすると裳付衣を脱いだ。
膝までの麻の小袖一枚の姿になった二人が、脱いだ裳付衣を手早く畳んで、坊主笠に入れる。二人が身に、目につく程の武器を持っていないのは明らかだ。
百地は、背が五尺一寸、逞しい身体で、禿頭、細い目に鷲鼻、唇が薄く酷薄な印象だ。特に日焼けもしていないのは、忍び仕事の現場には出ていないせいか。
藤林は五尺六寸、長い手足と細い身体だが、筋骨はたくましい。彼は額が突き出ているのが特徴的だが、顔は一見優しげだ。
髪は総髪を後ろで結っていて、百地と同じに激しい日焼けはしていない。歳は二人とも四十から四十五位か。
一益が、三和土から板敷にあがり、膝をついて引き戸を開ける。
火の入れていない囲炉裏の向こうに、信長がいた。
この網蔵には似合わない正式の姿だ。
彼は深紅の直垂に折烏帽子姿で床几に座っている。いつもの茶筅髷はほぐして、藤林同様、総髪に結っていて、腰には扇が一本差してあるだけだ。信長の足元には、大きな革袋が置いてある。信長も強い緊張を強いられている固い表情だ。
信長の右後ろに一つと、囲炉裏のこちらが側に床几が二つ置いてある。
二人が部屋に入り、膝をつこうとすると、信長が言う。
「いや、その床几にお座りくだされ。本日は、遠路よう来てまって、祝着と心得まする。まずは、茶など」
引き戸を閉めた一益が、部屋の隅で茶の用意を手早く行う。
二人は、信長の言葉に従い床几に座る。座った二人の膝に置いた手は不気味だった。
両手の五本の指全部が黒っぽく変色し、指先が潰れて、鏨の刃先の様に見える。更に手の筋肉が異様には発達しているのが一目瞭然だ。だが彼等はすぐに、変色した両手の指を下向きに握りこんだから、信長には一瞬しか見えなかった。
信長は視線を外して何も言わない。だが信長は他の何かに驚いている表情だ。
一益が、小皿に載せた瀬戸物茶碗を二人に運ぶ。
一益が小声で「宇治の本茶でっせ」と囁いても、二人とも、無表情に頷くだけで茶碗を受け取らない。
一益はしかたなく板敷に二組の小皿ごとの茶碗を置く。
部屋の空気が張り詰める。
気まずい雰囲気を無視して、二人が立ち上がり板敷に胡座座りして両手を突く。信長にまた不気味な四つの手が見えたが、己の眼を見上げる百地の強い視線に己の視線を合わせているからか、はっきりとは見えない。
百地が先に言う。
「御言葉だっけど、床几に座ってでは、ご無礼と心得ますよって・・・お招きにより、参上いたしまいた、わてが百地三太夫丹波守でおます」
と、信長と初めてまともに視線を合わせた三太夫が、驚いた顔になったのを一益は見逃さなかった。三太夫はそれと両手を隠すよう、頭を、ついた両手に擦り付ける。
続けて藤林が言う。藤林はいつの間にか両手を握り込んでそのままだ。顔に表情はない。
「わてが、藤林長門守保豊だす・・・こたびは、なんやらわてらに御用がおありになるそうで、かしこまって伺いまっせ」
信長が表情を変え、満面の笑顔で答える。
「さようか。拙者が織田弾正忠家棟梁、織田信秀が嫡男、織田三郎信長である。本日は、大儀である。これを尾張言葉で申さば、ありがてゃぁ~、ありがてゃぁ~でござる」
緊張を解そうとの信長の言葉に二人は特に反応しない。だが、藤林が、信長と視線を交わして百地三太夫と同じ反応を示した。
それを見ていた一益は内心でほくそ笑む。
挨拶が終わり、二人は床几に戻り、一益は信長の背後の床几に座る。二人の四つの手は当然、握り込まれている。二人の表情からは何事かへの驚きが消えていない。
一益には彼等が手を握り込んだ意図が解る。そしてこの時は興奮からか彼等が茶を飲まない事に腹がたった。
(手ぇ隠すんは、お殿様が厭う(いとう=嫌がる)思てるからかいな・・・業の証やないか・・お殿様はそんなん厭われへんがな・・・茶も飲みやがらんで、無礼やないか。百地は橡(どんぐり)面、藤林は、おがみと~ろ(かまきり)ごたる(みたいな)面しくさって。ほんまにご~わく(腹立つ)がな)
一益は二人の素顔は初見なのだ。
「されば」と、信長があゆちの伝説を語る。
二人は握り込んだ手を膝に、聞いている。
語り終わった信長が厳しい表情で言う。
「拙者は、この尾張の説をこの世に広めたいのでござる。あゆちとは破邪顕正を成すことと心得まする。その為には、伊賀の衆の合力が要るのでござる・・・拙者は己の栄華が欲しいのではござらぬ。あゆちの為のたてば(立場)が欲しいのでござる」
藤林保豊が高い声で聞く。
「ほんなら、お殿様には、みぃらいに、尾張だけやの~て、この日の本の国中の民草(一般民衆)の安穏を先途(目標)としはるんでっか。
それがあゆちの話を成す事(実現)やと言わはるんでっか」
「米を作る者が、米を満足に食えぬのが、今の世の有り様だがや・・・そうかと言って年貢の納めは、国の成り立ちの基であるから、無くす事は出来ぬ・・・・だが俺はせめてその割合を先々には低くしたいのじゃ。そしてそれを日の本全部に広げたいのじゃ。それがまずは、あゆちの始まりではないのかと思うのじゃ。如何にすれば低くできるか。それはまだ俺にも確とはわからぬが、それを探り、その為に勤めれば、多くの民百姓がせめて米の飯くらいは満足に食えるようになろう。されど、その為には、己や自国の栄華だけを望み、あゆちを解せぬ他国の者どもとの戦いが否応なしに避けられんがや。長き時、戦が続くであろう・・・それは致し方ない・・・談(話し合い)通じねば、やむを得ないではないか・・・血の大河を渉らねばあゆちは成らんであろう。それは実にやむを得ない事ではあるが、俺はせめて流れる血の計を減らしたいのじゃ。そのかんこう(工夫)を父の問で一つ思いついたんだわ。成せるかはわからぬが、それをお主らとやってみたいんだわ」
三太夫が信長の熱弁が聞こえぬように聞く。
「ちいと、飛びょった(飛躍した)事でっけど。ずっと先の事だっけど・・・お殿様の先途が成ったとして、あゆちの風が吹いたとして、戦ものうなった(なくなった)時、わてらはどう生きるんでっか」
「それはよ、もう案じ済み(考え済み)じゃ。
商いをすればええがや・・・米や作物、産物の価は各地で違う。その由(情報)を、お主たちの力使えば、得るのは易(簡単)な事だがや。僻事(ひがごと=悪事)となるほどの業使わずとも、他の知りえぬ得た由で、素直(正直)なる商いいたせば、必ず商いが成り立ち利も上がるがや」
一息入れて信長は続ける。
「・・・・他にも案あるがや。みぃらいにあゆちが成ったとしても、この世から邪心抱く者は消えんがや。お主たちはその曲者どもから民草を守る事を生業とすればええがや。お主たちの眼から逃れられる者はおらんだろう・・・あゆちは俺が生きとる間には成らんだろうけど、もし、お主たちが俺に従ってくれるなら、俺を継ぐ者に伝えて、お主たちの扱いは永劫に必ず疎かにはせんのだわ。半ばで織田が潰れたらそれまでだけどよ、俺は命賭けて励むでよ。共に破邪顕正の刃を振るうてくれぬか」
一益は、信長の深い考えに心底驚いた。
(そがな先の先まで・・伊賀衆のみぃらいもちゃんと思うてはる・・・こら、一時の思いつきなんかと違うわ。百地らも魂飛ばした(仰天)やろ・・・このお方ほんまに十七かいな)
一益が思った通り、思いもかけぬ百地の突然の問に即答し、その内容も、言われて見れば確かに実現出来て自分たちに適合していると思われる内容に、三太夫も藤林も、一瞬ぽかんとし、揃って身を折り頭を下げる。三太夫が言う。
「へへ~っ、恐れいってござります。そがいな事までお思いくれはって・・・思い重ね(思慮を重ねている)はってるのが、ほんまによ~分かりまっせ・・・素直(正直)に言うて、芯から驚いてまっせ・・・・その思い伺っただけで、なんやら、わては心決まりそうだっせ。そやけど、も一つよろしおまっか」
信長が頷いて三太夫が聞く。
「なんでそないに、わてらを高う評(評価)されるんだっか」
「俺は、お主たちの業については何も知らん。ほんだけど、こたびの望みは、この左近が伊賀衆を評して言った言葉を信じたでだわ」
「滝川はんは何て言わはったんでっか」
「・・・闇の采配者・・・・」
「・・・ほんで、お主たちは一度約せば、必ず裏切らずと聞いたでだわ」
三太夫が初めて少し笑う。
「闇の采配者・・・そらちいとおおさわ(大袈裟)だっけど・・・それを信じはって、だっか」
「左様である」
三太夫は一瞬呆れた様子だが、表情を正して言う。
「・・・わてらには、抜忍成敗言う掟があるんでおます。これは伊賀では、何事にも勝る掟ですわ。抜忍(忍者組織から脱退する)もやけど、約、違えたらあかんいう掟でっせ・・・そやから、一度約したら、お殿様が、約破らん限りわてらは斬られても突かれても約は守るんでおます。よ~わかりましたで・・・わてはお殿様に合力しまっせ。おまはんは」
聞かれた藤林が答える。
「わてもや・・・ほな、お殿様、わてらどないしたらよろしおすか」
二人はもう両手を隠すのを止めている。
「それはそれは。心底ありがてゃあがや。
ほしたらよ、今言える約事の条を述べるわな。あっ、ほんだけどよ、俺も今この場で約してゃあ。約してゃあけど、いっぺん伊賀衆全部で申し合わせやってまいたいんだわ。お主たち二人の力強えぇのはわかっとるけどよ、先は長ぎゃあし、険しき命(危険な命令)頼まなかんことも、必ずあるがや。ほんだで皆の心一つにならな、やり遂げれんことだ思うんだわ。国で皆の衆に、まっぺん俺の話し聞かして、伊賀衆全部が俺の手の者になるかどうか、だんがう(談合)して、皆の衆の同ずる(賛成する)意がありゃあ、この事は成る思うんだわ」
百地と藤林がお互いを見交わしながら、しばらく考える様子だ。
藤林が「う~ん」と唸り、三太夫が答えた。
「そら、御念の入った御配り(配慮)で。けど、忍び仕事は、はなから険しいもんやし、わてらんとこは、わてと、この藤林が決めたことに逆らいよるもんはおりまへん。そやけど、わてらんとこにも、滝川はんのこうか(甲賀)同様、惣がおます・・・まことしゅう(正式に)言うたら、そうせなあかんし、お殿様の御言葉やさかい、そのようにしまっせ」
信長が笑顔で頷く。
三太夫が続ける。
「あと、ついで言うたら御無礼やけど、服部んとこでっけど、滝川はんにはちいと話ししたんやけど、半蔵保長はんが伊賀ほかしておらへんのはほんまでおます。半蔵の縁者の子ぉが、形ばかりの棟梁やってまっけど、若年やから、あんばよう束ねられとれへんのでおます。ほいて、今、服部党はばらけてるんでっせ。けど、伊賀に残る服部党の主だつもんは、わてらと懇ろやさかい、もんたら(戻ったら)、一緒に呼んで談じますわ。それでよろしゅうおますか」
「うんうん。されば条を・・・」
と、信長が述べたのは、現時点で、話せる事だけだった。
一、 この盟約は、全て隠密に行う 織田弾正忠家内にも当分は秘密にする
一、 連絡交渉窓口は滝川一益
一、 約定の発効は信長が弾正忠家の家督を継いだ時点
一、 伊賀衆は織田弾正忠家の侍帳には載せないが、伊賀衆(忍者)の伊賀国内での身分、氏名年齢、得意分野、能力の高低を記した一覧表を作り、信長が管理する
一、 報酬は金銭で支払い、領地は与えない。金額は信長の家督相続の時点で取り決めるので、金額に不満あれば、その時点での破約も可
一、 伊賀衆を野戦場に行かせ、敵と直接闘うことは当分、原則的にはさせない
一、 時期を見て、伊賀から、尾張とは限らないが織田弾正忠家領内へ移住する
一、 同じく時期を見て伊賀衆と言う呼び名を変更する
一、 現在他国へ派遣済みの人員はそのまま勤める
一、 盟約成ったら、盟約秘匿の為、他国からの派遣要請には最低人数でこたえる
一、 伊賀衆への采配賞罰は百地藤林を通して信長が行う
藤林保豊が聞いた。
「お尋ねしまっせ・・・ほな、お殿様が家督継げなんだらどうなりまっか」
「俺んとこはよ、織田言っても、まんだ清洲の三奉行の一人でよ、てて御のおかげで、今のたてば(立場)だけどよ、身分で言やぁあ守護様の家臣のそのまた家臣でよ、陪臣だがや。そんな家も継げな、なんともならんわな。家継げな、無念だがそれまでだわ」
今度は三太夫だ。
「領地ない言うんわ」
「領地あったら、お主たちが表に立たないかんがや。伊賀でならばともかく、それでは隠密に事が運べんがや。ほんだし領主なったら、百姓どもやらを束ねて、年貢集めてと、様々煩わしい事ばっかだわ・・・米集めて、おおかた銭に替えるんだで、手間無しでええんだにゃあの。扶持の銭の多寡(多い少ない)が今、言えんのは無念だけどよ。ほんでもよ、先々に領地欲しい者出たら、そのときまた談じりゃあええがね」
三太夫と藤林がまたしても驚愕の表情だ。三太夫が聞く。
「は~っ、言わはる通りだんな。ほな、戦場行かせへんゆうんわ」
「それが一番の肝事(きもごと=大事な事)なんだわ。約成らな細かには言えんけどお主たちには、いくつか修業(研究)、開発してまいたいことがあるんだわ。それが出来たら、使う時は戦場行ってまわなかんけど、常の野戦には出さんのだわ。まあ、他国への探りにはちいとは行ってまうけどよ」
「そのいくつかが聞きとうおすけど、こらえますで。今、遣っとるもんは、そのままいうんわ」
「急に戻したら怪しい思われるだでだけど、今、大勢行っとるのきゃ」
「そうでんな。わてらのしのぎやさかい、今わてんとこは、あちいこちいで百人くらいだすわ。おまはんとこは」
「わてんとこは百五十程ですわ」
「雇主から暇だされたら、戻って、今度は俺の手の者としてその家探るなら、掟には叛かんのだにゃあの。おんなじ家からまた請いあったらあんばい(具合)ええがや」
信長は、その場合があれば自分との約定が優先し、派遣される忍者が雇われ先を欺き自分の為に働いても掟破りにはならないだろうと言っているのだ。
二人が深く頷く。
信長が続ける。
「ほんだで先はよ、他家からの請いをうみゃあ事使って、探りを易くする勘考して欲しいんだわ。(盟約後は他家からの忍者派遣要請をうまく逆利用して、その他家の探索が容易になる工夫をして欲しい)。伊賀の名、変えるのも、隠密の為で、領内のいずれかへ来てまうのは、側におったほうが、なにかとええでだわ」
三太夫が笑みを浮かべて答えた。
「そげな勘考はかなな(簡単)な事ですわ。承りましたで。変える名ぁも聞きとうおすけど、ま、こらえまっせ」
「ははっ、赦せ。ほんだけど、その名の基となるは俺のこの装束なんだわ。名はすでに案じ済みなんだわ」
と、信長は着ている深紅の直垂の袖口を両手で掴むと、手を伸ばして「ぱっ」と張って見せた。
意味がわからない二人はまじまじと見る。しばらくして、三太夫が藤林と目を交わし、頷いてから二人を代表して言う
「新名のほかは全部の条に得心しましたんで、御言葉通り、国へもんて(戻って)皆の衆と談合してまいりまっせ・・・もんたら(戻ったら)、皆を集めるんに一日半、だんがうに、二~三日やから、五日後には否応報せられると心得ます。そん時は、わてか藤林はんの手の者走らせまっさかい、滝川はんに何べんも足運ばさしたら、せつろしい(わずらわしい)事やさかい」
聞いていた一益が割り込む。
「いや、百地の旦那はん、わいもまた、こうか行く用ありますんや・・・五日で用済まして、念入れて今日から六日目に、伺いまっさ。旦那はんの御館でよろしおまっか」
「ほうでっか。ほな六日目にわてんとこで」
藤林長門守保豊が初めての笑顔で信長に別れを告げる。
「ほな、お殿様、もんりまっせ。(帰らせてもらいます)わてらの返事はもう決まったようなもんでっけど、今日はええ話し、ただけに聞かせてもうて、ほんまにおおきにどした。約成っても成らんでも、わてはまたお殿様にお会いしとおます・・・いつかまたお尋ねしてもよろしおまっか」
信長が頷いて言う。
「ええがね。いつでも来てちょう・・・礼言うのは俺だわ・・・ほうだ、滝川、それを」
言われた一益が、信長の足元の革袋を持ち上げ、二人の足元に運ぶ。
「色代(挨拶)代わりだで、取ってちょう・・・砂金二貫目(7.5㌕=約八千三百万円)だわ」
「・・・そ、そがいなお宝・・・・」
三太夫が呻くよう言って、藤林は真っ赤な顔で唇を噛み締めている。
「ええから、取ってちょう・・・俺んとこは領地は少にゃあけど、熱田と津島があるでよう。黄白(金銀)はあるだわ。出来るなら、伊賀の衆、皆で分けてまいたいんだわ」
「ほんまに今日は恐れ入りっぱなしで、憂い(恥ずかしい)事でおます。いかい(大きな)お宝やけど、お殿様の御志やから、ありがたく頂きまっせ。下のもんにも分けまっせ。わても藤林同様の気ぃですわ。お尋ねするときは、二人で寄せてもらうんでおます」
二人揃って板敷に座り直し、額を擦り付けて挨拶すると、藤林が砂金の革袋を手に持ち、二人とも元の衣装を身に付けて出ていった。一益が見送る為に出ていく。
信長も立ち上がって頭を下げて見送る。
(二人とも、入った時の背中は真っ黒だったがや。今は一益とおんなじくりゃあ黄金色だったがや)
信長は急須の冷えた茶をそのまま飲み、口をゆすいで三和土に吐き出す。茶の液体に血が混じっている。
戻った一益が聞く。
「お殿様、どないしなはったん」
「慣れんことのは無理に使ったら舌噛んでまったんだわ・・・言葉混じって聞き苦しかったろ。長ぎゃあ話しは不得手だがや。話しがあちいこちいだったがや」
一益が笑いながら言う。
「いや、お殿様の御懸命さが返って伝わりましたで。ははっ、そうでっか・・・舌を、あははっ、よう御気張りだしたな。そやけど、あはは・・ちいとあちいこちいやったけど、ええ御話しだしたえ。伊賀の合力は決まりでっせ。笑うてかんにんだっせ」
「いや、俺も舌噛んだ己が笑えて笑えて。
こらえるのにおうじょうこいたんだわ(苦労した)。うはははは」
しばらく二人で笑い合い、信長が深紅の装束を脱ぎ、一益が手伝う。
手伝いながら、一益が呟くように言う。
「それにしてもや、あれら出張ってる手下の人数もすらすら言いよったし、素顔曝しましたな。顔や人数の事は、肝事やのに」
信長が頷く。
「ほんまにびっくらしましたで。わいが伊賀で、かにここ(やっと)に会えた時は二人とも覆面姿やったのに、先は七放化もしよらんようやったし。なんでやろ。伊賀者はいつでもどこでもなるたけ顔は曝さんようしよるし、人数の事に限らず、肝心は殺わされても言わへんのが掟のはずやのに。お殿様の威ぃかいな」
信長は黙って聞いている。
「まあ茶ぁ出したんは、わてらの落ち度だしたな。あれらが初見の場ぁで、茶ぁなぞ飲むはずないことはもっともでおました。失念言うやつでんな」
信長が笑って頷く。
「茶飲まんかったのは、まあ嗜みだわな。俺に顔曝したのはよ、どぉもないでだわ(不都合が生じないからだ)。人数の事もだわ」
信長も忍者の彼等が毒殺を恐れて茶を飲まなかった事が当たり前で、二つの事は信用してくれたからだと言っているのだ。
「茶ぁはそうだっけど、顔や人数の事はそうやろか。う~ん、ま、ほれはきっと、二人が御殿様に按配よう絡め取られたゆう事でんな。あははっ。それより、あげなお宝はお城からだっか」
「城には銭ばっかで砂金は少にゃあし、あんだけだと政秀に判ってまうで、違うとこで整えたんだわ。ほんだでそのまわしに(準備に)一月の間置いたんだわ。津島と熱田の商人で、俺を見込んでくれとるのに、借りたんだわ。大ぼらこいて(言って)」
「偽ったんでっか」
「ちゃうちゃう(違う違う)。いつか倍返ししたる言ってだわ・・・・あははは・・・いつかが肝だがや」
一益も連れて笑う。
「あはは・・・お殿様は軍師や・・・わははは、わはは・・・」
一益が、信長が脱いだ装束を畳みながらさらに聞く。
「あれらに会うてどうだっか」
「うん、二人入ってきた時は、背筋がぞわっとしたがや・・・お主が言う通り、業極めた達人なんであろう・・・俺の顔に出とっただろ。暑くもにゃあのに汗、汗だがや・・・始め隠しとったけど、あの手の様も尋常ではないがや。麻小袖一枚で、無腰示してくれたけどよ、あの手は真剣とおんなじだがや。あれらこそ、お主のいう、がおだがや」
「そうだっせ。あれらは、あの手ぇで、人の身体突き破りよるんでっせ。こうかにも何人かはいてますが、伊賀者の修業納めたもんは、皆、あんな手ぇでっせ。あれらはあんな手ぇをお殿様が厭わらへんか思うて隠しよったんちがうかな」
一益は話しを続ける。
「・・・万一思うて、わても手裏剣隠し持ってましたけど、あれらが本気なったら多分通じへんかったやろな思うんでっせ。ここも、あらかじめ調べよって、こっちが人数隠しとらへんの確かにして来よったんですわ。四~五町離れたとこに、あれらの手下が大勢隠れてましたえ。そやけど、お殿様、あれらもお殿様のこと、がおや思ったんでっせ。それがあれらの心決める一番の基やと思いまっせ。最初に目線交わした時のあれらの顔言うたら。わてもしてやったりと笑うのこらえてたんでおます」
一益は、信長の特異な力に気づいていることを思わず告白しているのだが、会見成功の嬉しさの余り、それに気づいていない。
「ほうか、俺もがおか・・・がおでもなんでもええんだわ。とにかくあゆちだわ。手勢がおったんか。なんか妙な気配覚えたけどよ。ま、初見だし、ここも他国だで、しゃあないわな」
「色々ただけに聞いてすんまへん。伊賀の変名の基が今日の御衣装の色いうのも、まだ訳聞いたらあきまへんか」
信長が答える。
「伊賀のこたふ(答え)が応なら教えるわな」
一方、網蔵を出て西に向かう二人は、普通の足取りで歩いていく。
三太夫が藤林に聞く。
「ど~や、見たか・・・あのお方は持ってはるで。武道の業前もとひょうもないで。滝川はんが会うたら解る言わはったんはこのことやがな。まだ坊(ぼん=年少者)やけど、わいはあの見たことないような、いかい威ぃと思い深いのに打たれたがな。言わはった言葉に嘘はないで。わいはあの方の心読んだがな」
三太夫が続ける。
「・・・あれは生まれながらのがおやで。それに偉ぶらんと、腰低ぅなさって。わいらを山者やと下に見ることもなしに、器大きいで。六角や松永の殿さんとは、えらい違いや・・・・伊賀の伝説はほんまやったんや。会う前から、あの威ぃに、もう心絡め取られとったんや・・・おまはんも、わいも七放化(伊賀の変装術)も使わず素顔曝してもうてるがな。初見のもんに曝すやなんて・・・綿含んで顔相変えるくらいはもっともな(当たり前)事やけど、なんでか思いもせなんだし、今の今まであかんとも思わへんかったんが、その証や」
藤林も目を輝かせて言う。
「そやがな・・言われたら、七放化なんぞ、どこぞへ飛びょって(飛んで)たがな。達人言われるわいらがな・・・・・わいもそう思うで・・・わいかて、あのお方の心底みたで・・・とさいが(~としたら)家督相続は力まんでも、転がって来よるし、尾張統一も間ぁ無しや・・・あげな威ぃあらはったら、誰にも負けへん・・・十倍の敵でも討ち破るで」
いつの間にか、人影がなかった街道に、色々な装束の大勢の人々が現れ、二人を遠く取り巻くよう、西へ向かう。
その姿は、百姓、商人、山伏、荷担ぎ、高野聖、浪人などで、彼等は、一益が気付いた通り二人の警護の人数だった。彼等は熱田の網蔵からは五町も離れた、めだたない場所に別れて隠れ、万一に備えていたのだ。
「手下の者ども隠れてんのも、お気づきだったに違いあらへん・・・最初に無腰には驚いたが、またよ~け肝潰されたもんや。初見やのに、あの網蔵の十町(千百㍍)四方に手勢どころかだぁ~れもおらへなんだがな。肝も太いで。わてはあのお方についてくで。一人でもや」
「わてもやがな、おまはんが鎌掛けて聞いた伊賀のみぃらいの返答に、わてはほんまにたまげたんや」
藤林は、百地が、信長の思案の程を試すため聞いた事を言っているのだ。
藤林が手に持つ砂金の革袋を、百姓姿の手下の一人が静かに近寄り受けとると、藤林が口の動きだけで声を出さずに中身を伝える。手下は一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに無表情になって静かに離れていく。
藤林が百地に聞く。
「そや、あの真っ赤な装束が、名ぁの基や言わはったけど、なんやろな」
「わからへんがな・・・・」
二人は歩みを続ける。
「わての背中触ってみぃ。汗どぼどぼやで」
「おまはんもか・・・わても小袖濡れてんの覚られんよう、向き変えるのになんぎしたがな・・・うははは・・」
百地も笑う。
「そやそや・・・なんぎしたがな・・・わはははは・・・・」
伊賀の国。
伊賀一宮の敢国神社。祭神は、大彦命、少彦名命、金山比咩命の三柱だ。
天王坊の二倍はあろうかと見える社域の、神社本殿前の広場が人々で埋まっている。四~五千人もいるだろうか。
百地らが、熱田を立って三日目の早朝だ。
本殿の階上に立つ百地が片手をさっと横に振ると、ざわめきが一瞬でやみ静寂が広がる。
百地と藤林が、忍者特有の低いがよく伸びる声でこの度の信長との盟約についてを、代る代る、あゆちの話から始めて全てを話す。大勢で距離が離れている者がいても、集まったのは全て聴力優れた忍びの者だから、話は伝わった。
話は一刻に及んだ。最初の一般民衆の安穏を目指すあゆちの話と伊賀衆の未来についての段に及び、信長の考えを二人が代わる代わる述べた時には、静寂だった伊賀衆が大きくどよめいた。
話し終えて、百地と藤林が、竹筒の水を飲み座り込む。
「皆の衆、どないや・・・なんやら言いたいもんは言うてくれ」と、百地が聞く。
「ほな、大旦那はんお二人は、どない思ってはるんだっか」
藤林が応ずる。
「誰や、おう、城戸はんか・・・わいらの心は決まってるで・・・・・そやけど今は言われへん・・・織田のお殿様の御意向やさけ、皆の了簡を聞かなあかんのや」
「藤林はんの旦はん、よろしか」
「道順はんか、ええで」
「お扶持はなんぼくらはるんだっか」
「そこはまだ決めてへん」
「そこが肝違いまっか」
「そやな、やけど、決めてないもん言われへん・・わいと百地はんは銭の多寡(多い少ない)やない思てる。心意気やがな。志やがな」
「百地の大旦那はん、わいは国変わる言うんが、なんや気がのらへん」
「小猿はんよ、それはまだ先々の話しやがな」
質問したのは、伊賀十二人衆と呼ばれる、それぞれが一手を率いる百地藤林直下の忍び名人ばかりだった。
百地が思いだしたように言う。
「そや、あかんがな。初めに言わなあかんこと忘れとったがな・・・かんにんやで、皆の衆」
「なんでっか・・・はよ言うとくなはれ」
「おっ、孫はんか、かんにんかんにん・・・ほな言うで・・・・皆よ~聞くんやで。織田の三郎信長様はな、持ってはるんや・・・生まれながらにや。伊賀に伝わるあの話はほんまやったんや。わいと藤林はんでそれは見極めたさけ、違いはないんや」
一同がまたざわめく。
若い忍者が隣の者に小声で聞いている。
「小頭、あの話ってなんでっか。わいは知らへん」
小頭と呼ばれた、聞いた若者より少し年上に見える若者が答える。
「あんな、何百年かに何百万人かに一人、生まれながらに通力もった御方が現れるいう話のことや。わいらの頭かて、死ぬ程の修行しはって、山になんべんも籠らはって、それでも通力使えるとこまではいってへん。こんなかで通力使えるのは大旦那の百地はんと藤林はんに・・・あと何人いてはるやろ。そうはいてはらへんで。百地はんは、その尾張の旦那はんが、その方や言うてはるんや・・・そんなら話は決まりやがな」
「なんでだっか」
「あほ、そがいな御方に率いてもらえばどげな相手にも負けへんがな」
若者は「ふ~ん」と判断しかねる顔をして、小頭に睨まれた。
「他にないか・・・ないなら、皆の衆、今日はこれで別れや。今晩一晩、よう思うて(考えて)、明日の朝またここへ。そや、言うとくけど、この約に否言うても、なんも咎めとかはないんやで。ほんまの心持ちにならな、お殿様の思いに応えられへんさけ」
「そやけど、否応で別れたらどないするんでっか」
「町井はん、明日もしそうなったら、また皆で案じたらええことやないか」
解散したはずの広場に何人かが残っている。
藤林が声をかける。
「服部はんとこの千賀谷の与三はんか。どないした」
「すんまへん。わてらどないしたらええか伺いたかったんだす・・・保長はんとは、便りもあらへんし、こっちから繋ぎもつけてまへん。党首の元助はんは、わいは知らへん言わはるし。三河の松平言うたら今は今川の一手ですやろ。ほな、織田様といつか戦さしはるんやないやろか。わてら織田様の手下なったら、松平とやりあわなあかんくなりまへんか。そしたら、保長はんに刃向けなあかんくなりまへんか。そら出来へんから、お尋ねしとるんでおます」
「元助はんは、相も変わらずでっか」
「へえ、連歌と囲碁双六の事しか思うてられへん。忍びなんぞ嫌や言わはるから、わてらもう・・・」
聞いていた百地が言う。
「元助はんは帰らはったんか」
与三が答える
「はなから来てはらへん。触れまわったさけ(召集が触れ出された)、行かなあかん言うたんやけど、どうせ荒事の申し合わせやから行くの嫌や言わはって」
「なんやて、そらほんまか」
与三が項垂れる。
「折がええがな(いい機会だ)・・・・与三はん、今日の寄り合いの訳わかったやろ。伊賀の先決める大事な寄りやったんやで。元助はんは終いや。わいと藤林はんの名ぁで、げじ紙(下知紙=指令書)だして、伊賀からほかす(追放する)・・・服部の名ぁに免じて、ゆわし(殺わし=殺す)はせ~へんさけ案じん(心配しなくても)でええ・・・おまはんが、服部党の寄り子の頭(服部党党員の責任者)やったな」
厳しい表情の百地の顔がさらに、鋭く改まる。
「あんな、保長はんが伊賀出て柳宮(りゅうえい=足利将軍家)仕えた時はな、伊賀全部の暮らしがくろしい(苦しい)時やったやろ。そやから保長はんは、掟破りやとは言われなんだがな・・・食い扶持減らしてくらはっておおきにやったやろ・・・そん時に、保長はんは一家一族、皆連れて行かはった。ほいでも今も、伊賀で服部の名ぁがあるんは、そん時のわいらのおおきにの気持ちが今もあるからやで。それは知ってるな」
与三が頷く。
「そやけど、保長はんはもう二度と伊賀へは戻れんのやで。他家やから、今までは黙ってたけどな、保長はんは、もう伊賀者でも、服部の党首でもないんやで。跡継いだ元助はんは掟破ったんや。残った服部党の衆で何でも決めたらええがな。聞いた通り近々には伊賀衆の名ぁも変わるんやから。それに尾張織田のお殿様は、わいらを常の戦には出さへん言われてるがな。仮に保長はんと顔あわせてやりあう事あってもそれは伊賀者でも服部の大頭でもない、ただの松平の侍やさけ遠慮せんでええがな。どうや、わかったか」
わかりはったかではなくわかったかと言った百地の言葉には、伊賀を束ねる大旦那としての威厳があった。
「へえ、おおきに。ようわかりました」
「まあ他にも困たっらいつでもわてら二人に言うてきなはれ。伊賀者皆で一緒に働くんや」
与三は深く頭を下げて去った。
次の日の朝、伊賀は濃霧に包まれている。
敢国神社も霧の中で、本殿のシルエットすら見えない。
霧を裂いて音もたてず、黒い人影が次々と現れ広場を埋めていく。
しばらくして百地が言った。
「集まったようやな・・・どや、皆、心決まったか。否むもんおったら、言うてくれ」
誰も無言だ。
「ほな、約受けるで。今よそ(他国)行ってるもんには、もんてきよったら(戻ってきたら)わいらから話しするさけ、文なんぞで知らしたらあかんで。漏れたらかなん(いやだ、辛い)からな。それでな、せつろしい(わずらわしい)事やけど、なんで応と決めたか、誰ぞ一人でええから聞かして欲しいんや。誰ぞ言うてくれへんか」
「百地の大旦那はん、わいでええなら言いまっせ」
「おう、小南はんか。頼むわ」
「まず、そのあゆちがええですがな・・・民草の暮らし思わはるような武家の棟梁、わいは見た事も聞いた事もあらへん。この辺りなら、六角も松永も、筒井かて、己の栄華図る事しかしてへん。民草なんぞ人やと思ってへん。そやけど民草敵にしたら、戦には勝てへん。尾張の旦那はん(身分が高い人への尊称)がそこまで思ってはるかは知らへんけど、民を労って悪い事はなんもあらへん。六角らはそれがわかってるようでわかってへん。わいはあれらは直に滅ぶあほうや思うてますんや・・・あと、伊賀は土地が痩せてるから、わいら、外出て働かな生きていけへんのは言うまでもない事やけど、同じ働くなら、そげなきんまい思い持ってる方んとこで働きたいですがな・・・ほいて、お扶持の多寡で、破約でもええ言わはったけど、その尾張の旦那はん、まだお若こ~て、家督も継いではらへんなら、ただけには出せんでもしゃ~ないやん・・・はなから扶持の多寡で事決めたら、ええ事ないんとちがいまっか」
それ以外の人々は静寂を保っている。
「まだあるで。わいらの事蔑まん言うんが気に入りましたんや。皆もあちいこちい出張って、蔑すまれてもべんちゃら(お世辞)言うておちょばいて(媚びへつらって)ほれでも堪えてるやないか・・・わいはもうそんなん、ご~わいて(はらがたって)いやなんや。一番は、尾張の旦那はんが持ってはる事やがな。あゆちの旗と五つ木瓜の旗に従って行ったら、甲斐あるん違いまっか」
「そやな、わいと藤林はんもそげな思いやったんや・・・小南はん、よ~言うてくらはった。ようやなほん(ありがとう)やで・・・それからな、尾張のお殿様は、なんやら己では、力持ってはるの、気づいてはらへん御様子なんや。そやから、この先お殿様と直に会う事あっても、わいらからそれ言わんでもええんやで。驚ろかはるだけで、いずれは覚らはるさかいな。皆ええな。わいらは織田三郎信長様について行くんやで。服部の衆もええな。伊賀の守り神の敢国の神さんも見てはる・・・ええなら皆、声上げなはれ」
「おぉ~っ、おぉ~っ、おぉ~っ」
濃霧を吹き飛ばすほどの、大歓声が辺りに響き渡る。
笑顔の百地が、足元に置いてあった砂金の革袋を頭上にかざして言う。
「これはな、尾張のお殿様が、色代代わりや言うてくれはった砂金二貫や・・・このまま皆に分けよとも思ったんやけど、この人数に分けたら、わずかになってまうよって、藤林はんと談じて、不作やらのひんず(不意)に備えて、わいと藤林はんで一旦預ることにしたからわかってや・・・」
落胆の為か皆の返答が小さくなる。
「お~、お~、ぉ~」
百地と藤林が仰け反って笑った。
七日間が過ぎ、一益が戻った。
一益はいつもの旅装束だ。揃いの竹笠を被り、同じく黒筒袖に藍染めの野袴姿で、それぞれが大きな葛籠を担ぎ、脇差しだけの小者のような若者を三人伴っている。
炎暑はすでに和らぎ朝夕は涼しい風が吹いたが、四人とも汗まみれだ。馬番の木下藤吉朗が那古野城へ信長を呼びに行く。
すぐに信長が馬で駆けて来た。
馬から飛び降りながら聞く。
「首尾はっ」
一益が、満面の笑顔で答える。
「成りましたで」