あゆちのびと衆 第一章 その三十三
活動報告にも書きましたが、10月の終わりに、この編を書き上げ、最終チェックをしたら、投稿するつもりでした。ところが、操作を誤り、文章の、約半分が消失しました。心が折れて絶望しましたが、諦めきれず、復旧を目指し、かなり頑張って、やっと今日、復旧できました。
結果としては、書き直すうち、不備も多数見つかり、思うような内容になった気がします。
前回から、スランプの二カ月も含め半年以上が過ぎてしまいました。読者諸兄におかれましては、もう本作を御忘れの方もおいでと思っています。しかし、もし御気づきの際は、また是非のお読みを願ってます。よろしくお願いいたします。
木花と閃と鳩
六人衆は、広間入り口の、廊下に控える。
疲れた顔の資清は、広間に入ると胡坐座りし、手にしてきた平絹(平織りの絹布)に包んだ四角い何かを、信長に差し出して言う。
「遅滞いたしてもうて、甲賀人別帳にござりまする」
信長も、入り口近くに座り、頷いてそれを受け取り、脇に置く。
資清は平伏し、後藤らの討入りと、本所勢との事を言う。
「僭越ながら、討ち入りせし者共、本所の者共への御会釈は、まことに・・・」と、誉め、敵でも葬ってやった事などを、適切な処置だと思うと述べる。
「遺臣共は、天晴なる侍だったでよ、まあ相応にしたんだわ・・・」
信長は、そこまで言って、後藤らの霊との遭遇も語ろうかと一瞬思った。が、聞くべき事を優先し、時間があったらと思い直す。そこで話題を次に移す。
「本所の奴輩を、捕らまえたのはええけどよ、見張りや検分、飯の回しに手間がかかってまって、往生こいとる(困惑している)のが本音だがや。ほんでも黄白(金銀)で片を付けるしかにゃあもんな」
その言葉に頷いた資清は、更に、笹百合も含めた怪我人への見舞いを、丁寧に述べてから、普段より遅れた訳の説明を始めた。
通常より二日も遅れたのは、当時人々が、一般的に足弱と呼んでいた、女子を六名も連れて来たからで、その内五人は、信長が甲賀を訪れた時、接待を行った油日神社の巫女達。残る一人は、甲賀の筆頭とも言える望月吉棟の二女で、歳は十五。
望月家は元々、甲斐の出身なのと、甲賀での立場から、吉棟は通称を、甲と称している。
つまり、望月甲吉棟が、国で馴染まれた名で、目下の資清は、私的な場面では、甲殿と呼んでいると、年寄り特有の丁寧さで、細かく言う。望月の娘は、一益の嫁として連れて来ていて、巫女達はその侍女とする。
その娘の名は、木花で、望月は、最も美しいと言われる女神、木花咲耶姫に肖ろうと、その名にしたと言う。資清は婚期が遅れている一益の為、望月に頭を下げて、木花を嫁にと頼んだとも付け加える。
そして木花には、桜の意味も含まれると付け加える。
当時の、身分ある武家の婚姻は、恋愛からの発展は例外的で、親同士が政略的に決定したのは、世に知られた史実だ。木花も同様に、親に命ぜられれば否応もない。
「ほうか、左近の嫁に、女神と桜にあやかった名の望月の娘をな。嫁取りの時節(タイミング)はとっくに過ぎておるでのん・・・ええではなあか。に、しても、歳からして、左近に覚えがあるかのん」
資清は、まず信長の許しも得ず、木花達を連れてきた事を更に詫びる。そして歳が離れているから、一益に木花の見覚えはないはずと言う。
「十四も、離れておればなあ。伴ったは、なんぞ訳があろう、気にかけずともよい」
資清は、安堵の表情で、一度平伏した後、また説明を始める。巫女達を、木花の侍女と言ったのは便宜上で、信長が予測した通り、実は訳があると言う。
当初は、女達を連れてくるつもりはなく、信長の命に拠り、俸禄の受け取りと雲霞剣を見る為だけに、来蓬(尾張へ来る事)するつもりだった。
しかし、それをどこかで聞き付けた木花と、普段から彼女と仲の良かった巫女達が、どうしても一緒に連れていけと嘆願を始め、それは何回にも及んだ。物事の順序に従えと説得しても、彼女らは聞き入れず、最後には、叶わぬなら自害をほのめかす事まで言い立てたから、困り果てて、止むなく連れてきたのだと言う。
「まあ、めでたき事だでよ、大目でええがや。されど、巫女の女子共は、なにゆえそこまで」
資清は、苦笑いを浮かべて答える。
「せんどに(なんども)聞き正したならば、木花は、甲殿への内密を条(条件)に、白状いたしまいた。あの郎女は、山奥の甲賀に居るのは嫌で、一刻も早うに繁華な尾張に来たかったので。六名揃って自害までを匂わせたは、申し合わせた騙り(虚偽)にござりまいた。ほで、甲殿へは、一刻も疾く(早く)尾張に馴染む為と、これも偽りを言い立てたようで。甲殿は、木花には、甘う、緩緩に接して参られたようで・・・詮索もせず、手前に一任すると逃げはって・・・」
郎女とは、若い女を、親愛を込めて呼ぶ言葉である。
「あははっ、親爺殿、かなん事であったな」
「ほんまでおます・・・ほれで巫女共が、来蓬したき訳は、しかとはもうしませぬが、五名はどうも、想いをかくる御人が、ここに居らはるようで」
「んっ、遠く離れたこの尾張にか」
資清は続けた。
説得を続ける中で、巫女の一人が、聞きもしないのに、信長達の、油火神社での深夜の食事の様子を話しだした。
「その者が申しまするに、大殿様と、鏡の御小姓衆五名の御食し(食事)の様が、まことに爽やかにて、感銘を受けたとの事」
「爽やか・・・」
「手前もあの折りは、お側に居りましたゆえ、大殿様方の、物を召さるる様は、確かに作法を超えて、婉然(しとやかな美しさ)と見えた覚えがござります」
「ほうかな・・・あっ、山女魚や岩魚を、骨と鰭しか残さず食ったし、鹿の肋肉も、筋や薄皮まで食ったからかのう」
信長は、珍しくピントを外している。
資清は、それには触れず、上手に言い回す。
「ほれも確かに左様で、大殿様は、米粒一つも残されませなんだ。御小姓衆も、少食は止むなき事なれど、御同様にござりまいた。やけど、ほれだけではありませぬ。大殿様方は、箸で物を御口に運ばれたあと、その物を歯で噛まず、箸の先ごと口に御入れになってから、箸を抜かれまいた。その者も他の者も、その様に色気を感じたと申しまいた。そう聞いて手前も思い出し、言われてみればそうとも」
「うん、確かに物は常にそう食うがの、あれが色気とはの・・・あははっ」
「五名は、それ以上はしかとは(はっきりとは)申しませぬ。されど手前は、その言で気付きまいた。その事が、想いを懸くる事に繋がったに違いありませぬ」
「あんなのが、惚れる端緒になるのかの・・・あっ、思い出したがや。確かにあの折り、巫女共は飯の給仕をしながら、我等のほうを、ちらちらと見ておったわ・・・ほうだとしたら、巫女共のそれぞれの想い人が、たれかは判らぬが、五名は雪丸と不知火、柱助に右左次、春太郎の、いずれかに想いを寄せており、嫁ぎたいと言う事かの」
「じょうだい(多分)、ではおますが」
「ふふふっ、ならば、ほれも慶事だがや。甲賀油火神社の巫女ならば、忍びの由(事情)も存じておろう。鏡びとの嫁に、輪のびとに関わりある者とは絶好だがや」
「はっ。有り難き御諚」
「あっ、いかんがや。ほれはええのだがよ、ほうすると、風と鷹迅の嫁が・・・」
「ははっ、大殿様、手前もほれは、ちらと頭を過ぎりまいたが、御案じには及びませぬ。二人の武名は伊賀に限らず、内々にてはござりまするが、すでに我が甲賀にまで、ただけに聞こえておりまする。やがて、引く手数多になろうかと」
「ほうか・・・尾張での数多なる勲(手柄)が、すでに伝わりしか(伝わったか)。されば、伊賀か甲賀の名家から声が掛かるかな・・・ほしたら重畳だけどよ・・・んっ、親爺殿、今一つ、巫女共のかぞいろ(両親)共は承知か」
「はっ、親共へは、甲殿が五名を、木花の付き女中として、一旦は望月家で雇うと申され、祝いと称し、法外な銭を渡したようで、親共は喜んで送りだしまいた。じょうだい(多分)、木花が知恵を巡らし、甲殿にねだったのでありましょう。されば五名が嫁入りいたしたとしても、ほれは偶然の、事後の事柄となりまするゆえ、親共は、不服は申し立てぬどころか、喜ぶばかりと推察仕りまする」
資清は更に、巫女の一人は孤児で、親代わりは、油火神社の神官だと言う。
木花とは違い、巫女達の想いが叶い、今は上士の身分の雪丸達と、婚姻にまで至るのは例外的となる。しかし信長は、そんな事にはこだわらない。
伊賀へ、風と鷹迅の手柄が伝わっているのは、彼らが、百地らとの連絡を密にとっている事を物語っている。だがそれは機密漏洩でも、手柄を誇る為でははなく、尾張の現状を、ありのまま伊賀へ知らすのは、彼らの当然な役目だからだ。
風か鷹迅は、鳩便では書ききれないから、今は途絶えているが、伊賀からの硝石運びの仲間に、報告の手紙を託していたのだろう。
かたや、一益は、鳩を勝手に大量には使えないから、その手立てが無い。それなのに、資清が甲賀者も知っていると言ったのは、資清も百地らと連絡を常にとっていて、それらの情報を知り、甲賀の仲間にも伝えているという事だ。信長は当然それに気づいているが、もう当たり前だと思っているから、追及などはしないのだ。
「時に、木花は、忍びの業を心得ておるかな。賢えのは・・・あははっ、それらの手管で、ようわかったけどよ」
「大殿様、あやつは賢いと申すより、若年なれど、忍びの娘らしく謀(企)みに長けておるので・・・あははっ」
「うん、たしかに、あははっ」
「甲殿は、薙刀、小太刀、手裏剣、小具足術は、まずまずと申されまいたが、手前の観るところ、物の役には立たぬほどと。元々甲賀では、女子を忍びにはいたしませぬゆえ、修行も、それほどはしておらぬはずなので。ただ、足腰はしっかとして(しっかりして)おりまする。道中で、もう歩けぬと弱音を吐く巫女を背負い、山道を二里も参りましたゆえ。また礼儀作法も、田舎流儀なれど、六名が共、一通りは心得おりまする」
「ほうか、ほうか、あいわかった。弾正忠家は、礼儀など、さほど小煩き事は言わぬでよ。まあ僅かに、口煩き者も、居るには居るがよ、あははっ。ほしたらよ、女子六名は、織田の家風に慣れるよう、濃の傍に仕えさせようか。笹百合の事もあるでよ。一益の婚儀は、暫くの後といたそう。巫女共の想い人がたれか、見極めねばならぬしの・・・うははっ」
「ははっ」
資清が、長いやりとりで、国言葉をあまり使わないのは、信長への礼儀を考えての事だろう。
「たれかあるっ」
風がすぐさま顔を出す。
「親爺殿の配下共を呼べ。一益もそなたらもこれへ」
信長は、上段上座へ移動する。
風が先導し、一益と資清の配下達が入ってくる。五十人の余もいるから、さすがに汗の臭いが広間に広がる。
資清は入り口に立ち、彼らに何事かを指示する。
甲賀の男達は、揃って二十歳前くらいの若者だ。彼らは入る時、上座でにこやかに胡坐座りしている信長を、例外無くちらりと見る。するとその半分位が、見た途端、うっと呻いたり、すぐ視線を外したり、中には、冷汗をかいてしまう者もいる。
そうして驚いたのは、信長とは初対面の者達だろう。予め聞いてはいても、信長の五体から溢れる、光線のような気威が、想像以上に凄かったのだ。しかしそうなった者達も、声をたてる事はなく、すぐに平静を装う。
彼らは、広間入り口にある、刀掛けに、大刀を掛けてから入ってきていて、背負った大小の葛籠や竹籠を、広間の隅に下ろしてゆく。
そして、手にした笠を、その上に置いてゆく。十名ほどは、その他に藁包みの長い何かを、板壁にそっと立てかける。
信長が、風以外の五名を手招きし、いくつか指図をする。信長と資清の話が聞こえたのだろう、五名は頬を赤らめている。
それでも、五名は足早に出て行く。
輪のびと達は、信長の前に、整然と列を作って胡坐座りし、一斉に平伏する。
挨拶に頷いた、信長が言う。
「風之進よ、同朋衆らに、灯りと茶菓を持てと。ほれから戸を開け放てと」
風もすぐさま出てゆく。
広間上段の信長は、資清と一益を、己の左右下段に座らせる。
武器の抽選などの仕事が終わったのか、政秀に青山、祝、村井と島田らが、汗まみれの顔を、手ぬぐいで拭きながら入ってくる。
その中には、佐脇藤八郎良之の養父、佐脇藤右衞門與世もいる。彼は、那古野城の御蔵奉行だったのだが、信秀逝去の少し前から痺れ病になり、それ以来ずっと、臥せっていたのだ。それを最近知った一益が、薬を調合して与えたら、薬効があって急速に回復し、丁度この日に再出仕したのだ。
信長への復帰の挨拶は、互いに忙しいから簡単に済ましたが、那古野からの、引っ越し荷物の片づけに手間取り、遅れて今になったのだ。
ただ彼は、療養中の出来事は大体知っている。彼の家来達は、藤八について清洲城に詰めていたからだ。
信長が、それらを説明してから言う。
「・・・亡き父様も、左近の薬で一時は持ち直したでの・・・親爺殿、甲賀の薬はよう効くの」
その藤右衞門は、一益に深く頭を下げる。
資清も一益も、面映ゆい顔をする。
信長が続けて、資清の素性を政秀以下に説明する。笑顔になった彼らは、資清に旧知のよう、目で挨拶する。資清は一度立ち上がって、座り直してから、深々と頭を下げる。
一益が、資清に、小声で座る位置を移動するように言う。政秀を中心に、四人が身分順に左右に座り、資清は左端に座る。結果、左から資清、島田、祝、青山で、上段の信長をはさんで政秀、佐脇、一益、村井が座る。
佐脇はこの時から、清洲城の御蔵奉行となり、青山と並んで村井、島田の上司となったのだ。
一益は、三番家老だが、古参の佐脇よりは、一段下になる。役目は同じだ。
また政秀は、やむを得ず職は解かれたが、功績や、その威厳からして、やはり清洲の重臣筆頭だ。信長も含めた城方の者は、誰もがその認識を保っている。だから自然に席順もそうなる。
風が戻って、信長に何かを伝えてから端に座る。
茶菓の中身を伝えたのだ。
信長が、雪丸らに命じて呼んだのだろう、園田と根来の三人も来る。
一鶴達は、揃って麻の白小袖を着ているが、何故かサイズが合わないから、ごつい手足は丸出しだ。
四人並んで、広間の東南隅に胡坐をかく。
一鶴だけは、すぐ膝立ちになり、甲賀衆を見渡し、誰かを探している。
しかし、居ないようだ。
人探しを諦めた一鶴は、次に資清を前列に見い出し、懐かしそうにする。
少し、話は逸れるが、以前書きそびれたので、ここに記す。一鶴は元々、甲賀の地侍、旗指家の出身で、滝川家とは家格が違うが、姻戚関係にあるのだ。俗名は澤人。
在所は、甲賀郡大原庄櫟野(現在の甲賀市甲賀町櫟野)で、滝川城の城下(非常に狭い地域だが)でもあったから、一益とは親戚の幼馴染みだったのだ。
一鶴は、二男だったから家督は継げず、更に子供の頃から、何故か忍者には不向きな巨体だったから、十五年前に親が出家させて、根来寺の杉之坊へ、行人方(僧兵)として入山させたのだ。僧侶になれば、生涯、衣食住に困る事はない。
いつか、一益が信長に説明したように、行人とは、戦闘要員の僧兵の事だから、一鶴、翠海、満天星は経を誦することも、加行を行う事も出来ない。合戦稽古だけをやって、僧兵となり、傭兵稼業にも参加し、幾多の実戦経験を重ねてきたのだ。
更に、ついでと言っては、二人に無礼かもだが、翠海は根来寺近くの豪農の三男で、俗名は幹太。満天星は根来寺の寺域の外だが、寺と距離が近い、猫額の領地を持つ地侍の二男で、俗名は大滝宗之助だ。二人も似た理由で僧兵となったのだ。
また、一鶴の兄と弟は、親に似て普通の体格だったから、今は輪のびととなり、任務についているはずだ。
ただ今回は、この場にはいない。
一鶴が探していたのは、二人の兄弟だった。
一益は、信長にそこまで詳しくは告げていない。訳は言うまでも無く、主従共に忙しいから、隙無しだからだ。
一鶴は、思わず資清に近づこうと、立ち上がりかけたが、園田が先に動いたから諦める。
園田は、居並ぶ甲賀の仲間達に、笑顔で小さく頭を下げながら、腰を低くして、資清に近づいて座る。
一度、信長に平伏してから、尻を向けないよう、方向を変えて言う。
「旦那様、ご無事の御着到で」
「おう、力っ、一益の嫁も連れてきたんやで」
「わっ、そらめでたい事や」
園田は、それだけ言って、広間の隅に控える、根来の三人の隣に座る。
再び脱線して、根来の三人に続いて園田の素性を詳しく言えば、彼は、滝川家の郎党の子で、一鶴や一益より三つ下。三人は幼い頃から十代前半まで、共に一緒に遊んだ仲間だった。園田が清洲へ来て以来、二人はずっとすれ違いで、まともに顔を合わせたのは今が初めてだ。
二人は、他事に気をとられ、挨拶もしていなかったが、園田が戻ってやっと互いにそれに気がつく。しかし声を出すのは、信長や資清がいるから憚れる。そこで二人は、読唇術を使って、声を出さずに話をする。園田は忍びだから、当然に唇の動きで会話が出来、一鶴も翠海とのやりとりで、自然に覚えてそれができる。二人は嬉しそうに話を重ねる。
一鶴が、翠海と満天星を紹介し、以後は朋輩として、力を合わせようと約束する。
一鶴が「清洲四兄弟やと名乗るんじょ」と言ったから、園田は、思わず声を出して笑ってしまう。
一益が気づき、恐ろしい顔で睨んだから、無言の会話はそこで終わる。
信長が、資清に小声で何かを言う。資清は、配下達の後方に向けて声をかける。
「木花と五名、大殿様の御召しや。前へ参れ」
すると後列に居た、華奢な雰囲気の六名が立ち上がり、広間の左を回り込み、中腰で居並ぶ男達の前へと来る。
六名共に、藍色の麻裁付袴と麻小袖に、短い脇差しだけを差している。髪は男にしては長いが、後ろで括っているから、笠を被ればわからない。道中の安全を考えての、男装束なのだろう。
信長が、座れと手真似してから言う。
六名は、男のように胡坐座りしてから、両手をついて平伏する。
彼女らは、信長を間近で見ても、驚いたような態度は見せない。忍びの男達とは違い、気付く力を持たないから、異常な気威に気づかないのだ。ただ不思議な眩しさだけは、六人共、感じている。
「五名の者、油火神社では、心利いたる持て成しをしてくれたのう。よう覚えておるぞ。あははっ、ほれから(それから)、木花もよう参った(良く来た)」
資清が言う。
「木花、大殿様に御色代(挨拶)申し上げよ」
資清が呼び捨てにするのは、木花がもう、嫁と決まっているからだ。
そこへ、大勢の同朋衆や小者、女中達が、手に手に土瓶や茶碗、粽や切った瓜を山盛りにした、脚付きの折敷、燭台、行灯を運んでくる。お細もいて、両手に折敷を一つづつ持って運んでくる。睡眠薬入りの牛乳は、全く影響がないようだ。
信長が指図しなくても、その者達は、それらを手早く配ったり、適切な場所へ置いて行き、作業が終わると、また素早く退って行く。
広間は、少しだけ明るくなる。
そして、御殿四周の蔀戸が、小者達により、全て上へと開けられる。
広間に風が通り、汗の臭いも消え飛ぶ。
更に、御殿を取り巻くよう、多数の篝火が、足軽や荒し子達により焚かれる。それは蚊遣も兼ね、焔光は室内まで届く。
木花は、五尺と少しで一番の小柄だ。顔も丸くて小さい。目は一重だが切れ長で、よく見ると奥二重だ。鼻と口も小さいが、それぞれの配置バランスが良いから、非常に整って見える。
誰が見ても、大和の佳人の顔だ。
向かって一番右の彼女は、広間が静まるのを待ち、信長の顔を見ないよう、斜め下を向いたまま、少しだけ頭を上げ、挨拶を始める。
「大殿様には、御初の御目通り。ま、まことに身の誉れにござります・・・身共は、甲賀竜法師を在といたしまする、望月吉棟が二女、望月木花にござりまする。此度は御縁ありて、滝川様の嫁になるため来蓬いたしまいた・・・と、歳は十五にございまする。いまだ蕾にて、世風にも、な、慣れぬ不束者ながら、以後は、滝川様の御役に立ち、また支えとなれますよう、精進仕る所存・・・さ、されば大殿様におかれましては、向後(今後)は、身共をお見知り置き下され、諸事万端、御頼み申しあげまする」
「良う出来た。なかなかの色代だがや。万万(全て)あいわかった。左近を頼むでよ」
一益は頬を赤くして、下を向いている。
政秀達は、にこにことしている。
甲賀言葉を使わなかった木花は、きっと望月に、口上を教わって来たのだろう。
信長達は、それを察していて、少しつっかえても、健気に思えるから、誰もが笑顔なのだ。
資清が巫女達に言う。
「ほな、おまはんら、順に名乗りなはれ」
木花の横の女が、同様に名乗り、挨拶をし、素性を述べる。
内容を、順に記す。
芹澤月乃 神職の家系。十五歳。
水守楓 父は甲賀地侍。十六歳。
八笠藍 父は油火神社の神官。母は伊賀出身。十五歳。
葛城奈々(かつらぎなな) 父は在俗(出家しない事)の修験者。十六歳。
星山咲 孤児。嬰児の時、油火神社に捨てられ、その神官に拾われ娘として育てられた。十五歳。
信長が油火神社で感じた通り、五名の顔立ちは、当然にそれぞれ違うが、皆揃って美人顔だ。挨拶の文言や所作も、五人共、ちゃんと礼儀に適っている。
「ほうか、ほしたらよ、木花と五名は明日より、濃に仕え、織田の家風を知れ。多少は荒っぽいやもだが、尾張の国は身分に拠らず、皆、総じて朗らじゃ。恐れず疾く家中へ溶け込むを目指せ」
六名は、板敷きに額をこすりつけて平伏する。
信長は改めて、甲賀びと衆に言葉をかける。
「皆の者、炎暑の折り、役目大儀・・・その粽はよ、飴(穀物甘味料)が練りこんだるしよ、瓜も冷やしたるでよ。疲れた折りは甘物が一番だでよ。すごせ、すごせ(食べろ、食べろ)」
資清が頷いて、小声で指図する。木花達は元の位置へ戻り、食べ盛りの娘らしく、配られた井戸水で冷やした煎じ茶(比較的下級の茶。清洲織田家は常には信長でも煎じ茶)を飲み、冷たい瓜や甘い粽を、ぱくぱくと食べる。
五十名の男達は控え目に、瓜は一切れづつ、粽は一本を三つに千切って、一人がその三分の一しか食べない。莫大な砂金運搬の任務があるから、忍びの彼らは、やはり少量しか口にしないのだ。
一方、根来の三人と園田は、四人揃って、たちまち一人、五本もの粽を平らげると、瓜を両手に掴んで食べまくる。更に甲賀衆が残している、瓜や粽にまで手を出し、冷茶の入った土瓶を掴んで直に飲んでいる。
一益が気づき、口だけを動かして注意しようとしても、四人は飲食に夢中で気づかない。
政秀らは、茶を少し飲むだけだ。
雪丸達が戻り、政秀らの横に分かれて座る。
春太郎が信長に、小姓衆がすぐ来ると伝える。彼らも瓜や粽には手を出さず、茶を一口飲むくらいだ。六人衆は、当然、革手をはめている。
顔に、晒布を巻いたままの前田孫四郎を先頭に、甲賀行きに従った小姓衆三十名が、肩衣袴姿で足音をたてやってくる。
中川重政が、廊下に蹲踞し、代表して信長に聞く。
「い〜いっ、お殿様、御呼びきゃあも(御呼びでございますか)」
信長に呼ばれたら、控えの小姓衆はまず「い〜いっ」と答えるのが、織田弾正忠家の流儀だ。
信長は、粽を一口噛り、茶をがぶりと飲んでから言う。
「そなたらに、言うておく事がある。後ろを回り、その左手に座れ」
客を認めたからか、全員が姿勢をだだし、両手を膝に中腰で、信長の指示通りの場所に胡坐座りする。
「そなたらは、甲賀油火神社で我らを接待いたしてくれた、巫女五名を覚えておるか」
「あっ、あの折りの美形の巫女共」
と佐脇藤八郎。藤八の表情はいつもより更に明るく、言葉も弾むようだ。養父の復帰が嬉しいのだろう。
「覚えとるがね。尾張でも滅多に見ん、ぼうぼう眉(自然のままの眉)の、器量良しばっかだったがね」
これは福富貞家の惣領、平左衛門秀勝。
「そこに居らるる、滝川様の冗談、真に受けてまってよ、お殿様にどえりゃあ叱られたもん、忘れえへんわさ」
と服部忠次小平太が少し自慢げ言う。
「うぬらは、足軽に格下げじゃあ・・・とよ」
毛利新介秀高がそう真似たから、小姓達が一斉に笑い、資清も信長も笑う。
「滝川様の父上様が、とりなしてくれやぁたでよかったんだがね。その巫女達がどうかしやぁたきゃ(どうかなさいましたか)」
と中川重政が聞く。
「それっ、そなたらの斜め前に座っとるがや」
そう言われた木花と巫女達は、両手をついて身体の向きを変え、小姓達に一度頭を下げてから顔を上げる。
「一番左の御方は初見だわなあ・・・あっ、二人目は、ちょびっと陽に焼けとるけど、確かにあの折りの」
と佐々内蔵助成政。
「俺は、そこの三番目の巫女殿と、目で言い交わしたがや。俺を慕ってこやあたんか(来られたのか)」
これは政秀の三男、汎秀だから、政秀は顔をしかめる。
「たわけっ、三番目の御方には、なんべんも飯やら汁を装ってもらったわ。そのたび、この御方は俺を見つめておりゃぁたわ(見つめておられたぞ)」
そう言ったのは、作事と普請の奉行、祝重高の嫡男、弥三郎重政。
「困ずるわ(困る)。俺は許嫁が、先に決まってまった。遅かりし」
河尻秀隆が、一人合点でそう言ったから、広間は笑いに包まれる。
信長が、少しきつく言う。
「黙れっ、鈍くしゃあ。あの折りは五名。只今は六名おる。左端は木花と申し、近々に左近将監の嫁といたす者。五名は木花の付き女中とするが、暫くは濃に仕えさせる。まあ、行儀見習いだわ。あいわかったか」
「ははあっ」
「わざわざ、そなたらに言うたのは訳がある。五名はすでに、嫁ぎ先が決まっておる。そなたらではない、誰かだわ。ゆえに付回したり、無用な声かけなど、してはならぬ」
小姓達はきょとんとする。
「笹百合の折りのような、立ち合いなどはせぬ。嫁ぎ先が決まっておるのだ。あたりみゃあ(当り前)だがや。言うておかねば、おみゃあらは、必ず、なんぞしでかすでだわ。こと、容顔優れし女子(顔かたち、容貌が美しい女)となると、目の色変えよるのは判っておるでのう。ええか、きっと申し付けたぞ。ほれから、身分に関わらず、城方のそなたらが如き、傾奇の者共にもそう伝えよ」
「ははあっ」
「されば退がってよい」
小姓達は、気落ちした雰囲気で、とぼとぼと、一斉に広間を出てゆく。その大半は、美味そうな瓜や粽を横目にし、恨めしそうな顔をしている。
残った者達は、それを見て、声を出さずに笑う。
更に、小姓達の大半は、口にはしないが、皆、似たような事を思っている。中でも長く信長の傍にいる、前田孫四郎の思いはこうだ。
《傾奇者言やあてよ(と、おっしゃって)、ちょびっと前までは、お殿様がその頭目(大将)だったがや。先頭切って国中を走りまわって、悪戯しからかしとらしたのによ〜(悪さ重ねて、しまくってみえたのに)・・・髭丸の事くりゃあで、変改してまやあて、(髭丸の一件ぐらいで、これまでを、変わり改めてしまわれて)だちかん、だちかん(駄目だ×2)》
嫁ぎ先が決まっていると言われた、巫女五名は、真っ赤な顔を見られないよう、揃って下を向いている。
「いま、飯の回しをしとるでよ、皆、風呂を使うがええ。厠もなかなかだでよ。使え使え。ほうだ左近、皆に厠の使い方をよ」
一益が頷いて、同胞達の元へ説明に行く。一益は、木花達は見ないよう、聞こえる声で、厠の使い方を説明する。
すると山田彌右衛門が、広間右横の廊下に来て座る。
信長が、気づいて呼ぶ。
少し話した後、彌右衛門は退く。
「園田、賄所で手が足らぬようだでよ。合力して参れ」
八本目の粽を、口いっぱいに頬張っていた園田は「うっ、はっ」と答えてすぐに広間を出る。
一益は、怒り顔で見送る。
園田の様子に、信長は笑いを堪えているのか、少し苦しそうな顔だ。
すぐ立ち直った信長は、笹百合や負傷者に与える為、触れを出し、高値で鰻、鯰、鼈を買い集めたが、それを知った尾張中の川漁師が、争うよう、それらの獲物を城へ持ち込んだから、方五間(九㍍四方)もある二箇所の生簀代わりの舟溜まりは、すぐいっぱいになったと伝える。
信長のその指図は、やや過剰だったかもしれない。負傷者の数からしても、かなりだ。信長は、笹百合を助けたい一心から、がむしゃらでいたのだろう。彼自身は、まだそれに気付いていないようだ。
信長は更に、海の幸は、本所勢の後始末で、漁師達が、手一杯で皆無だから、次回は必ずそれを用意しておくと約束する。
「ゆえに、夕餉の菜は、鰻に鯰の焼き物と、汁は立田村の乙名が、鴨をようけ献上してくれよったで、鴨汁と鼈汁だと賄方差配が言うてきた。川の獲物ばっかでよ、珍しゅうもないけどよ、此度はしかたにゃあんだわ(しかたがないのだ)」
広間は静かだ。
信長は続ける。
「園田は、なにやら鰻を上手に捌くらしいで、彌右衛門が貸してくれとよ。あやつは何事も器用にこなすの。腕もなかなか。能がある・・・ほうだ、あやつは、僅かな費えと手間で、笹百合の養生小屋も、塩梅良う建ておった」
資清が、信長に向き直り笑顔で言う。
「大殿様、力(園田)を御褒め頂き、有難き事でござりまする。ほで(それで)、土産というほどではありませぬが、国よりなんぼか持ってきましたによって、御収め願うんでおます」
それを聞いた配下達が、隅へ移動し、葛籠や竹籠の中から何かを幾つも取り出し、資清の横へ運んで並べてゆく。
信長は、忘れていたかのように、また言う。
「園田はよ、笹百合が手負ったは、己の腕が未熟だで(だから)、一手遅れたでと悔やんでおった」
資清は、黙って聞いている。
「やり合い(戦闘)の仔細を聞いたがよ、園田に落ち度は無し。どころか、殊勲の働きだったでよ、親爺殿からも、後で気にかくるなとよ、言うてやってな」
資清は、目を潤ませ、両手を突いて平伏する。戻った一益も、目を瞬かせる。
「あやつは、大喰らいに大酒飲みが玉に瑕でおます。まあ、役目前には控えよりますが」
藁包みの、長細い何かも運ばれてくる。
資清が、鼻を啜り上げながら、手で指しながら言う。
「まずは、左近めに頼まれし薬をただけに(大量に)。主に、血止めと斬り傷の薬でおますけど。あっ、下り薬も、ぎょうさんおます。ほで、この甕には蜂蜜。長いのは自然薯に山牛蒡、(やまごぼう)にて。布包みは、山桃にござりまする。あとは山女魚に岩魚、鹿の肋肉を燻した物。蜂蜜は、御方様と笹百合殿に。その他は、お殿様が御気に召されたと推察いたせしもの。あと一つござりまするが、ほれは後ほど」
「おっ、確かに。よう覚えておられたの。薬も有り難し。蜂蜜は、園田も運んで来て、献上してくれたわ。野蜂に刺されなんだかの」
「大殿様、申し遅れまいたが、国ではつい、二年ほど前より、蜂飼いを成就しておりまする。携わる者は、我が郎党の子、橘矩之助。そやつは、目の細い白染め網を被りまする。すれば、何故か刺されはしませぬ。まあ、成就した言うても、また採れ高は僅かにござりまするが。そやからこれは、自然の野蜂を、煙で追い払うて集めた蜜にて」
「難儀だったわな・・・ほれにしても、野蜂を飼うとは」
資清は述べる。
平安の頃より、伊勢、備中、備後、能登、越後、甲斐、信濃には養蜂を生業とする者が、ほんの少数だが存在していた。資清の郎党の息子である、若侍の矩之助は、養蜂をして、蜂蜜を集め、それを薬に混ぜて売ろうと思いついた。彼は資清と父に頼み、五年前、十五の時に単身で、養蜂技術を学ぼうと旅に出た。
しかし各地にいる、養蜂を仕事にしている者達の居所は判らない。彼は、各地を廻り、その者達を苦労して探し出し、技術を習得してきた。勿論、易易とではない。やっと見つけても、当たり前だが、ほとんどの養蜂業者は技術を教える事を拒んだ。だから彼は、忍びの業を使い、何年もかけて各地の業者の近くに隠れ潜み、盗み見、盗み聞きしたりして技術を会得してきた。
彼は、蜜源植物の見分けと、土地ごとの花歴も、頭に刻みこんできた。彼が見た養蜂業者は、木箱は使わず木のウロや倒木に、穴を穿ったり、大龜を倒して、巣箱の代わりにしていたが、矩之助は木箱を巣箱にする事も考え出した。
今、彼は甲賀で主に、女子供、年寄りを集め、養蜂技術を教えている。また蜜源となる木や花、つまりビワ、梅、栗の木、ツバキやハギにレンゲや菜の花を増やそうとしている。ただ季節の移りと共に、巣箱を移動させる事は、当時の事として不可能だから、蜜が採れるのは年に一度だ。
「知らなんだ」
「おおかたの男衆は、忍び仕事をせねばならぬゆえ、女子供、年寄り共にやらせるのでござりまする。覚わらば、それほど難しくもないようで」
「ほらあ(そりゃあ)、ええことだわ。蜂飼いで甲賀は富む」
「はっ。矩之助が申しますには、蜜は一年に一度しか採れぬそうで、蜂を増やし、蜂小屋を甲賀中に作らねば、売り物にまでは至らぬと。ほれは、国を挙げて、段々と行って参る所存なれど、じょうだい、ほとといた事(多分気の長い事)になろうと。ほで、ほれは別に、蜜と共に採れる蜜蝋は燃えが強く、雨でも消えにくき事が、これも矩之助により判りまいた。使い道は、様々あろうと心得まする」
「ほうか・・・なんぞごとに使う勘考せなかんな」
「あっ、蜂飼いの事は近年の事で、些末な事でもありますれば、左近めには知らせておらぬので、御咎めは御容赦を」
「咎めなどと・・・親爺殿、案じ過ぎじゃ。ほれから燻した川魚や肉と申したな。なにゆえ燻すのかのん」
「塩に浸けた後、小さな小屋に燻す物を吊るし置き、下で桜やナラの木片を燃やしますれば、燻された物は、そのまま食えるようになりまする。また傷む事が、常より遅くなりまする」
「燻すと腐らぬようにか」
「御意。甲賀は土地が痩せておりますゆえ、物成り(田畑からの収穫)が悪しゅうて、大昔より、そうして糧を貯めて生きてきまいた。雪が積もるほど降ると、土山や設楽辺りの山から、猪や鹿が、ただけに(多数)下りて参りまする。大勢でそれを待ち伏せし、何日もかけ全てを狩りますが、燻す事で肉は傷まぬようになり、一冬の糧となるので。更に、塩に浸けた後に燻す事で、肉は三月は腐らず、我らの命を繋ぐので。塩の業は、我らが祖先が、他を様々試し、一番効があると伝えてくれし事。伊賀者も、勝手(事情)は同じやから、じょうだい似た経緯で、しはるようになったんやろと」
資清は、細かくは言わないが、それは低温燻製に近い方法だ。肉などを塩に浸け、数日かけて水分を抜き、乾燥させた後、低い火で長く燻し、風通しの良い梁などに吊るして置けば、冬の寒さも手伝って、肉の腐敗が防げる製法だ。
そうすれば夏場でも、保存期間は短くなるが、簡単には腐らない。
「ほうか。ほれも知らなんだ・・・尾張では燻す事はやらぬな。魚の干物作りは、盛んにやっておるがよ。なにゆえかな」
「そら大殿様、尾張は物成りが豊かやし、海の恵みもただけにおます。そやから干物作りも自在で、入り用(需要)を賄って余りあるからやと。ほれは、自然の理ですがな。わざわざ燻し、他の食い物を貯める要はないからやと」
「ほうだな。ほんだで左近も六名も、燻すについてはなんも言わんかったんか」
一益と六名が、小さく頷く。雪丸は、狼の為の猪肉の燻製は、簡単な製法だが、今も時々作っている。しかし信長には、それを知らしていない。狼の世話は、自分の職分と思っているし、特に不都合はないのだから、日々忙しい信長の手を、少しでも、これ以上煩わせるのは、避けたかったからだ。言えば、信長は何かと気を使い、雪丸を助け、便宜を図ろうとするに決まっているからだ。
「うん。されど稀には日照りやら大水に拠る飢饉もある。魚以外の食い物を燻し、長持ちさせるは、ええ事だもんな」
「はっ」
「燻し方を尾張にも、広めたいがや」
「ほれは、力之助が心得ておりまする。また鏡の方々も、きっと」
「ほうか。ほりゃあええ」
そこで信長は、神部小南が、硝石製造に必要な牛馬を送る事について、潰れたら食料にする、と言って頼んだ話を思い出す。あの時は聞き流したが、保存はどうするのかと、少し疑問に思った事も頭に浮かぶ。
資清に、その話をする。
「牛や馬は、肉がぎょうさん取れるし、味もええのでおます。伊賀では、その肉を燻して皆で分け合ってるんやと・・・」
六人の鏡びとは、信長が使いたいと言った今、初めて燻製法が、尾張でも有益だったと気がつく。
一益も、もっと早く信長に、燻製法を伝えるべきだったと反省し、後悔しているが、口は開かない。
信長は納得するが、また別を聞く。
「今更ながらだけどよ、塩を使うに、そなたらは、塩はどうして手に入れる」
資清は答える。山には当然、塩は無い。だから甲賀を通過して、伊勢や尾張へ商いに行く、保内商人などと呼ばれている近江商人に頼んで、各地の塩商人から仕入れてもらい、それを買っている事を説明する。
「ほうか、ほしたら伊賀も、同様だろうの」
資清が肯定したから、信長が言う。
「塩みてゃあよ(塩などは)、あゆち潟の東西に塩焼き職人がようけおってよ、租(税金)を、塩で収める者も大勢おるんだわ。ほんだで、城には塩が余るほどあるでよ、以後は、塩は贖わずともよい。折々に、ここから運べばええ」
「そら、大殿様、まことに有難き御諚。ほな、相場よりなんぼかは・・・」
「あははっ、親爺殿、ほんなら、贖う相手が変わるだけだがや。余るほどあるのだで、こなたは片付いて幸いなんだわ。要脚不要(銭、代金はいらない)だわ」
「そらまた、とひょうものう、有難き仰せ。さればそのように」
「此度は砂金があるでの、持てる限り持って戻られよ。ほれから、伊賀にも塩は、そうして調達いたせと伝えてちょう(下さい)」
「ははっ、しかと伝えまする。ほで、大殿様、御国でも蜂飼いをば、おやりになられませ。尾張は暖とうて、菜の花もぎょうさん育ててはる。矩之助が、国での指図を終えたら、尾張へ遣わすんでおます。ほで、手前は、伊賀衆にも伝えようかと案じておりまする」
「ええがや(良い事)、ええがや」
「御賛同有難し。山牛蒡と自然薯は、道中で、たびたび川や湧き水に浸し、乾かぬようして参りまいた。ほれから今一つはこれにて」
と、資清は竹籠を引き寄せ、中から布に包まれた何かを取り出す。
「これは、大地蜂の子。笹百合殿なら、好まれるやろと持参しまいた」
当時は、蜂の種類を、現在の様に細かく区別する知識はないから、多分、大雀蜂の幼虫だろう。
資清は布を取り、大きな蜂の巣を、輪切りにしたような物を信長に見せる。その断面に、白い大きな芋虫のような幼虫が、カサカサと音を立て、百匹ほど蠢いている。
大きさは三㌢から三.五㌢もある。
「わっ」
と、信長は驚く。
居並ぶ政秀達も、それを見て驚くが、風以下の六名は、一瞬、目を輝かせる。
「これを喰うのかの」
「滋養がありますゆえ、国では産婦や病人に与えまする」
「蛆の化物みてゃあな・・・まさか、このまま」
「煮炊きすれば、なかなかの美味。生きたままでもうみゃあので。あははっ、大殿様、お試しなされませ」
一益も笑顔で頷く。
「いや、ううっ、俺はええ。雪丸、笹百合が食うやもしれぬ。養生小屋へ運べ」
雪丸が、むき出しの蜂の巣を、また布で包み、広間を出てゆく。
「ほれから縫よ、賄所から何人か呼んで参れ。甲賀からの土産、夕餉に使える物は使えとよ、山桃は井戸で冷やせとな」
信長は、政秀達にも、甲賀の産物を食べさせたいから、そう言ったのだ。
不知火が作法通り、両手を膝、中腰で賄所へ向かう。
雪丸が、布包みを持ったまますぐに戻り、信長の元へ行き、耳元で囁く。
「笹百合は、回りに濃やら介護の者が大勢居るで、後にするそうだわ。親爺殿、家来共と風呂を使われよ。木花も巫女共も。風呂は男女に別れておるし、浴衣や手ぬぐいなど、諸道具もようけ置いたるでよ。ええように使え」
雪丸は、布包みを己の後ろに置く。
資清以外の、輪のびとと女達が、揃って平伏した後、木花達は、自分達の葛籠を担いで、静かに整然と、広間を出てゆく。
「あっ、その前に親爺殿、雲霞剣を御覧ぜらるるか」
柱助が懐から、唐花模様の緞子(厚手の絹織物)で包んだ物を取り出し、膝行して信長に渡す。信長が前もって、取りにいかせたのだ。
「そらあ、疾く(早く)見とうて、見とうて、歩かぬ女子共の尻を叩きながら、来たほどでっせ」
そこへ、賄方と同朋衆が、片付けと土産を運ぶため大勢で来る。
お細もいるが、やはり、折敷を幾つも重ねて、軽々と運んでゆく。土産も、次々と運ばれてゆく。その内の何人かは、灯火に菜種油を、手早く注ぎ足してゆく。全員が、素早く作業を済まして退ってゆく。
「時に、親爺殿、幾つになりゃあた(なられた)」
「あはっ、手前は五十路を、二つ三つ越えまいた」
「うん。ほうだ、佑殿(資清の妻、一益の母)は、御息災かの」
「婆の名を、よう御覚えで・・・有難き事でおます。佑は昨今、気鬱気味にござりまいたが、蜂飼いの話を、童の頃より愛くしんでおった、矩之助が成し遂げたと聞き、喜んで己も蜂飼いを覚える言うて、矩之助について、辺りを走り回っておりまする」
一益が母の消息を知り、顔を上げて笑顔になる。
「ほりゃあ、ええ事だがや。にしても、親爺殿は変わらず、赫灼としておみえだの。我が重臣の政秀に、どことのう似ておる気がする」
政秀がすぐ口を開く。
「お殿様は、滝川殿も、口やかましそうと仰せになりたいのでござろう」
「じい、正解、あははっ」
政秀は、そう言われても不快な顔にはならず、笑顔のまま頭を下げる。
資清も笑顔で言う。
「まだまだ、十里ほどなら疾く走れまっせ」
「十里もや(もか)。すげぇなあ。俺など五里も心許ないがや・・・まっと鍛練せねばなあ。ほうだ、そこな根来の三名、おぬしらも、雲霞剣は見ておらぬだろう、これへ寄れ」
資清は少し見栄を張ったのかもしれない。
彼はもう、現役の忍びではない。
一鶴達が、どしどしと音を立てて、座所の前に胡坐をかく。小袖が小さいから、褌が丸見えになる。
一鶴と翠海の口回りの髭は、瓜の汁で濡れ、更に、粽の小片がいくつもこびりついている。
満天星に髭はないが、口許は、瓜の汁で濡れているし、やはり粽の小片が、二つくっついたままだ。
一益は、一鶴らの衣服にも気づき、睨むが、三人はそれの意味が判らないのか、平然としている。
信長は、指で己の口の回りを指して、食べかすなどを知らせようとするが、三人は、信長と視線を合わせないよう、斜め下を向いているから、やはりきづかない。
信長は、吹き出しそうになっている。
一鶴は、すました顔で、目だけで資清に挨拶をする。
資清も笑いそうになるが、無言で懐かしそうに頷く。
信長は、堪えた表情のまま、緞子の包みを広げ、雲霞剣を取り出すと、柄の部分を資清に向けて手を伸ばす。
しかし途中で止めて言う。
「あっ、いかんがや。これなる重臣共も剣を見ておらぬ。親爺殿、暫し。まずはこの者共に観せるわな」
青山が向きを変え、雲霞剣を受け取り、順番に観てゆく。
剣を間近に観た、青山の顔は紅潮し、燭台の小さな光を浴びて、妖しく輝く剣に魅入られた如く、無言で舐めるよう、剣を観る。青山は放心したようになり、弱々しく佐脇に剣を渡す。
佐脇は、一瞬息を飲み、同じように熟視する。彼の顔は、少し蒼ざめている。佐脇の顔には、驚愕と言うより、畏怖の念が見える。
祝、村井、島田も、同様な反応を見せ、絶句して目を見開いて、ため息をついたりしている。特に、祝は慄いた表情で、剣を光に翳して、色が変化するの見定めようとしたりする。
五人が見終わるのには、小半時(三十分)もかかった。最後の島田が、剣を一旦信長に返す。
信長が、それを差し出したから、資清は膝行して、信長の前に進み、雲霞剣を受け取る。
両手で剣の柄をつかみ、緑色の剣の部分を観る。
現在の時間で五分ほど、資清も無言で、雲霞剣を舐めるように観た。
観終わった剣を、両手で捧げ持つようにして、小さく頭を下げてから信長に返す。
そして、独り言のように呟く。
「文の絵図は、見たのやけど・・・まあこれは、ほんまに・・・」
信長は、剣を貰った経緯と、その扱いについては手紙で知らせたが、それらを、再度そのまま繰り返して資清に伝える。勿論、狼達の曲者二人を噛み殺した働きなどの秘密事項は、伏せて言わない。政秀達もいたからだ。言わなくても、真実は、多分、一益がすでに教えているはずだ。
それでも、政秀以外の重臣達は、剣については全く何も知らなかったから、驚いた表情になる。特に佐脇は、余りにも話が複雑かつ突飛だからだろう、呆然としている。
信長が気づいて言う。
「そなたらにも教えるつもりがよ、毎日忙しかったろ。暇がなかったしよ、うかと(うっかりと)剣にまで気が回らなんだ。遅うなってまったでよ、赦せよ。佐脇は特段、唐突で度肝を抜かれたわな。飲み込めねば、また、じいに聞けばええ」
赦せと言われた青山達は、恐縮して平伏する。
信長が視線を送ったから、黙って聞いていた資清が言う。
「扱いにつきましては、文でも御伝えいたしまいたが、正に平手様の仰せの通りで。改めて、手前もそのように案じまする。真に見事なる珠石。魂を吸い取られそうでおます」
「ほうか・・・そなたらは」
と信長が青山らに聞く。五人は同意して頷く。資清がまた口を開く。
「大殿様、不躾ながら」
「うん」
「剣には、鞘を拵えたほうがよいと。滅多には折れぬとは存じまするが、珠石と申すからには、石でおますから。ほで、柄巻も、巻き直しなさったがええのでは」
柄巻が薄汚れているのは、そのままなのだ。
「おっ。親爺殿、いかさま。すぐにやらせるわ」
資清は頷く。
「次にそのほうども、しかとみよ」
と、信長が差し出したから、一鶴が膝行して剣を受け取る。
翠海と満天星は、身を寄せて、一鶴の手にある雲霞剣を凝視する。
一鶴は「う〜ぅっ〜」と獣のように唸る。
満天星は「う〜わ〜よ〜(なんてことだ)、けああるかよ(ありえない)」と繰り返す。
翠海は「・・・んっ」「うっ・・・」「ぐっ・・」などを連発する。
三人は、代わる代わる手にとって、やはり舐めるように観る。
騒がしい検分は、やがて終わる。
最後の翠海が、信長に剣を返し、元の場所へ座るが、急に激しい手真似を始め、口の動きも加えて、何かを伝えようとする。時々、信長の膝下の剣を指差す。
一鶴と満天星は、両側から覗き込んで、翠海の言い分を読み取ろうとしている。
資清、一益に六人衆は、翠海の口の動きをじっと見て、時々頷く。読唇しているのだ。
しかし、信長が欲しないから、全員無言でいる。
一鶴が、判ったとばかり、翠海の肩をぽんぽんと叩いたから、彼は動きを止める。
一鶴が伝えた翠海の考えは、雲霞剣の鞘と柄巻きについてだ。城出入りの鞘師、柄巻き師は、言わば一般人だから、剣を見せるのは不都合ではないだろうか。そこで、鞘と柄巻きは自分、つまり翠海にやらせて欲しいとの事だ。一鶴は、翠海は手先が器用だから、必ず上手く作れると保証した。
「うん。言われらば、確かにほうだな。馴染みの職人共とは言え、市井(一般)の者に観せるは芳しからず」
翠海が、笑顔で平伏する。
「されば、翠海、任せる。期日は」
翠海は、左手を広げ、右手の人さし指と中指を重ねる。
「七日だの。ほしたら剣は預けるでよ。されど鍛練を欠かしてはならぬぞ」
信長は、剣を緞子と共に翠海に渡す。
受け取った翠海は、また剣を緞子で包み、膝に置き、お任せとばかり、己の胸をドンッと叩く。
信長が言う。
「改めて、雲霞剣は、我、家宝と致す」
雲霞剣は、まだ百地達には見せていないが、正式な扱い方は決まったのだ。
ところが、翠海はまた手真似をし、口も動かし始める。先ほどとは違う手や口の動きだ。
暫くして、一鶴がそれを読み取ったのか、また翠海の肩を叩く。
彼は、動きを止める。
一鶴が説明する。
「こやつは、先に、お殿様が仰せのポンについてを言うておるんでのし。根来辺りにもそげな「まつろわぬ者」は、時折来るんでのし。わえらは「ヤマモン」と呼んでるけどのし。わえらが持って参じた蛍苔は、ヤマモンと僅かな米味噌で換えた物じょ。他にも塩を欲しがるんでのし、そげな物くれてやったら、蛍苔なんぞ、なんぼでも持ってきよるんじょ」
「ほうか。ほしたら、そなたらはウメガイも知っておろう」
「ウメガイ、あっ、あの、すいな(変な)道具かえ」
雪丸が振り返って、ウメガイの形を手でなぞる。信長が頷いたから、雪丸はすぐにでてゆく。
そこへ風呂から甲賀、輪のびと衆と木花達が戻る。
全員の髪は、まだしっとりとしている。
男達は同じ衣服だが、女達は着替えている。六人とも、麻小袖に麻の打掛を腰に巻き、長い翠髪も、結紐を外して後ろへ垂らしている。
広間が、ぱっと明るくなったようになる。
六人の小袖と、打掛の柄模様は、全て違う。白地に浅黄の花散らし。藍の麻の葉紋。細かな花唐草模様。萌黄色に流水紋。桔梗色には小花紋。薄鼠色に藍で唐草などだ。
木花の小袖だけには、身分を表すように、裾と襟に絹の縁取りがある。
とにかく、華やかで艶やかだ。
美しい衣装には、香が焚きしめてあるようで、いい香りも漂ってくる。
政秀以下の男達は、思わず見つめてしまう。
根来の三人も、口を開けてポカンと見惚れている。
「おおっ、六輪の大花が咲き誇るが如し・・・艶冶っ、艶冶っ」
と、信長が声をかける。
男女の群れは、元の位置へ戻って座る。
女達は、片膝座りになり、皆一斉に平伏し、入浴への感謝を表す。
雪丸が戻る。信長が一鶴を指さしたから、手に持った鹿革の包みを、彼に渡す。
一鶴は、包みを開けてウメガイを取り出す。
「こら(これは)、どえらい研ぎ減ってるけどのし、紛れもなしに、ウメガイなんじょ」
一益は、先ほどから、はらはらした表情でいる。一鶴の言葉使いが無礼に思えるからだ。
一鶴は、お構いなしに続ける。
「ヤマモンは、大人しい奴輩なんじょ。聞き慣れん、妙な言葉使いよるし、時折、あっぽけな(馬鹿な)盗みはしくさるけどのし。あやつらは、竹細工が得手(得意)なんじょ。ウメガイは、ほっちゃに(他に)、魚鳥を捌くのに使う、ただのだっしゃない(汚れた)道具で、得物(武器)ではないのでよし。せやけど、そん(その)「おやらま」のアヤタチたらは(とかは)、初耳やけどのし」
紀州人は、時としてdをrと発音する。おやらまとは親玉の事だ。
一鶴達の紀州弁は、尾張言葉に負けず劣らず、他国の者からは、ぞんざいで乱暴に聞こえる。しかし、彼等の「のし」「よし」は丁寧語だし、紀州には、昔から誰もが平等の思想が強くあったから、尊敬語はほとんど存在しない。
一鶴は、身についた紀州弁に加え、傭兵先で覚えた侍言葉を使い、信長達にわかりやすいよう、無礼にならないよう、ちゃんと忖度して話しているのだが、根来に、一年いただけの一益は、そこまでは判らないから心配が絶えないのだ。翠海は唖だから、会話は出来ないが、三人は阿呆でも馬鹿でもないのだ。
その証として、根来辺りで産まれ育った満天星と、翠海が話せるとして、二人が本気で紀州弁で会話したら、多分、他国者には、ほとんど意味が判らないだろう。
「あの家」は「あのえー」「そこらでよこになりなさい」は「そこたしこかってなあ」「しんどい」は「えだい」「漁師」は「おきいき」「明日」は「あいた」「遠い」は「とわい」「もうたべてしまった」は「もうくてもと」「豆腐」は「とふ」などで、関西圏だから、全体は上方風で、全ての単語が判り難い訳でもないが、上記の言葉などが混ざると、理解が難しくなるの事実だ。それでも全国的に見ると、難解度はそれほどでもない。
あくまで、筆者が調べた結果の印象としてだが、それを、十段階の数字にすると、尾張辺りから摂津、播磨までは四から五。
上野、武蔵、相模、伊豆も同じくらい。
常盤、甲斐、信濃、会津、紀州、四国、中国は五から七。薩摩以外の九州諸国、庄内、秋田、石川、越後が七から八。
津軽が九。薩摩が十で、津軽と並んで二つはもう、別世界の言葉だ。沖縄地方やアイヌ語は別言語だから、比べようがない。
紀州弁は、難解度的には中級なのだ。
「ほうか。ほしたら、最初から、そなたらに、ウメガイを見せれば良かったの」
信長は、一鶴達の言葉使いなどは、最初から全く気にしていない。
一益は、以前にその点は気にするなと、信長の明言を受けてはいても、場面や状況によっては、気がもめるのだろう。
資清が、ウメガイを見せろとばかり、一鶴に手を出し、受け取ってまじまじと観る。
「手前も、それらしき山人に、山中で出会うた事は、幾度もおます。そやけど、そやつらは、何でか、すぐ逃げてしまいよりまする。やから、道具を見る折りも無く、左近めの文の絵図見ても、なんや判らんかったんでっせ」
「親爺殿、ほんなもん、気にかくる要は無し。百地らも、しかとは申さず、多分と言うておったでよ」
資清は、畏まる。
「ウメガイについては判った。武田忍びは元はポンのようだで、得物としてではなく、道具として持ったが、仕舞に苦し紛れに使ったのだわ」
犬山の一件は、とっくに重臣達に伝えて、説明してあるし、ウメガイも見せてあるが、信長はやはり、どう使ったかまでは言わない。
政秀が聞く。
「さればお殿様、ポンについては、以前の申し合わせ通りにて、ようござりまするか(よろしいですか)」
「うん。ほかっとく(放置して関わらない)。ほれから、そなたの提言通り、今後、山中などでそれらしき奴輩と出会ったならば、黙って米味噌、塩など物をくれてやることも、そう致そう。改めて皆に伝えよ」
皆とは、家中の主だった者、全てに加え、伊賀甲賀のびと衆も含まれる意味だが、政秀と資清には理解出来る。二人はどうするべきかも判っているから、信長の下知は関係者にすぐに届く。
百地には、すでにポンの調査は不用と手紙で伝えてあるから、資清が戻って、信長の指示を言えば、鏡びとも、そのように対応するだろう。
「翠海、剣を輪のびと共にも観せ、謂れ(由来、事情など)も教えてやれ。ほれから後で、園田と彌右衞門にもよ」
翠海が畏まってから立ち上がり、後退りして、輪のびと達の傍へゆく。一鶴と満天星も続く。
五十人の若者達は、翠海が握る剣を順に観てゆく。
信長が大声で言う。
「手にとって観るがええ。されど落としてはならぬぞ。あははっ、折れては困ずるでよ」
若者達は、その通りにして観てゆく。一鶴が剣についての経緯を説明して教える。彼等は資清からも聞き、信長の説明も聞こえていたから、事情を知ってはいても、信長の好意だから、素直に黙って聞いている。
しかし、現物を間近に見て、全員が驚愕の表情になってしまう。それでも誰も長々とは見ない。小半刻の半分ほど(十五分)で全員が見終わる。
木花と五名は、互いに髪を拭い合ったり、衣装の不具合を直しあったりで、剣には見向きもしない。武器の類いには、興味がないのだろう。
信長は、そんな彼女達を、微笑ましく思うのだろう、暖かい目で見ている。
暫くして、信長が、何かを思いついたよう、一益に言う。
「左近、一鶴らの雑賀鉢の名は、どうなったかのん」
「うへっ、恐れいりまする。未だ」
「ほしたらよ、翠鉢はどうかの。女子共の髪を見て思いついた。竹の黄緑とは違うがよ。翠と緑だわ。一鶴、如何じゃ、聞こえたかあっ」
一鶴が、転がるようやってきて、また胡坐をかく。
「翠鉢っ、翠鉢っ、ええ名でよし。言い得て妙やのし・・・翠鉢や、翠鉢や」
一鶴は座ったまま、両手と上半身を動かし、踊る様にする。
翠海と満天星も、足音を立ててやってきて、そのまま全身で、似た動きをする。
それは、踊りと言うのは憚れるほどの奇妙な動きだ。
まるで、溺れた者が、水中でもがいているようにも見える。
一益が、さすがに真っ赤になって怒鳴る。
「こりゃあ〜、われんたらあぁ〜、何をしくさってるんやあぁ〜、御前やないかあ〜、やめんか〜いっ」
「左近、怒らずとも良いっ、上手ではないか。皆見よっ、これが根来の瓢げ踊りだわ。それそれっ、あははっ、それっ、それっ・・・」
輪の若者達は、声をかけたり手を打って、三人を囃す。訳は解らなくても、その場の空気を読んで、そうしているのだ。
信長は、彼等が暗くも陰気でもなく、普通の感覚を持っているのが判り、少し嬉しかった。
三人は、暫くそれを続ける。
賄所の方向から、大勢の気配がする。
信長が言う。
「三名、それまでと致せ。飯だわ」
三人は我に返ったよう、動きを止め、その場に這いつくばってから、元の場所へ戻る。
一益は、苦虫を噛み潰したような顔だ。
同朋衆と賄方が、手に手に、料理の載った折敷や膳、御櫃、塗り茶碗や土瓶などを運んで来る。汁の鉄鍋は担い棒を使い、二人がかりでいくつも運んでくる。
偶然だろうが、お細が先頭で膳を運び、中腰になって、真っ先に、信長の前へ据える。
お細は、特に意味はないのだろうが、信長をまともに見て、物怖じもせず、ニッコリ笑う。
彼女の身分では、信長を間近に見るのは初めてのはずだ。きっと、信長の座る場所で、主君と判断したのだろう。一番に運んだから、最初に信長の前に据えたのだ。
お細は、顔の肉も厚いから、判り難いが、笑ったのは信長にも判る。
信長は、頷いて返す。
お細は、縄で編んだ前垂れを腰に巻いている。
窮屈そうに、片膝を突いたお細が口を開くが、前垂れで、脚や太腿は見えない
「え〜、お殿様、御膳に鰻はありませぬ。何でかと言ったらよ(何故かと言えば)、鰻には、新たな味付けをしとるで間に合わんでだわ。只今よ、賄いの者共が、懸命にやっとるでなも(行っていますので)。御判りきゅあも(御判りでしょうか)」
お細の声は、やはり耳触りが良く、信長も初めて聞いたその声を、意外に感じる。
それは別に、信長はお細の、ごちゃ混ぜの言葉に吹き出しそうになるが、辛うじて堪え、答える。
「う、うん、相わかったがや」
「ほうきゃ(そうですか)、ほらあ(それは)良かったがね。ほしたらよ(そうならば)、お殿様、鰻は暫くはよ、お待ちになってちょうでゃああそわせよ(お待ちになってくださいませよ)、えか」
信長は、最後の一言で、遂に堪え切れず、ぶーっと吹き出す。
「えか」とは、尾張言葉で、大人が子供に言い聞かせる時など、最後に「よいか」と念押しするのと同義だ。信長に限らず、身分が上の者、目上に対して使う言葉ではない。しかし、お細は足軽の娘だから、まともな言葉使いは知らないのだろう。
信長が、怒るどころか吹き出した事で、富次の一件から、その辺りを察している事が判る。
無礼ではなく、いじらしく可愛げに思えるのだ。回りの政秀達も、咎めもせず、にこにこしている。皆、同じ気持ちを共有しているのだ。
お細には、その理由が判らないから、己には関係無いとばかり、すました顔で、後ろずさりしてその場を離れ、御櫃の置いてある場所で、また片膝を突き、塗り茶碗に白飯を装ってゆく。
甲賀衆の、お細に近い者が、自分達は米は少しでいいと、丁寧に小声で頼んだから、お細は不思議そうな顔はしても、それに従う。
汁は違う者が装っているから、その若者はその者にも、同じように頼む。
それらは、他の者が配ってゆく。
鯰は大きさにより、片身のそのままか半分が、塩味で白焼きにされて、塗り皿に載せてある。あとは、土産の自然薯をすりおろし、貴重な溜を垂らした物。大根や青菜の漬け物。飯は白米で、土瓶の酒は諸白の上酒だ。燻製の川魚と鹿肉は、一口大に切り、それらを混ぜて皿に盛ってある。一皿で、何人か分のようだ。
笑いをなんとか収めた信長が、同朋衆の一人を呼び寄せ、何事かを聞いてから、幾つかを命ずる。
彼は粗相をしたかと、一瞬、怯えた顔になるが、信長の言葉を聞いて、頬を緩め、作業を中断して広間を出てゆく。
すぐに戻った彼は、仲間と二人がかりで両手で持って、直径一尺三寸(約四十㌢)、高さ二尺弱(約六十㌢弱)もある、大きな甕を持ってくる。
他にも、御櫃や漬け物を大盛りにした鉢を、数人が運んでくる。
甲賀からの自然薯は、大鉢で四人分ある。
燻製品も、鹿肉は拳大、川魚は丸ごとで、これも大鉢に山盛りにある。
鉄鍋も、二種類を、二人づつが担い棒で運んできて、全てを一鶴達の前に置いてゆく。更に鯰の白焼きも、二尺近い特大を、半身にした一匹分を、一つづつ大皿に載せて四人が運んでくる。
信長が三人を向いて大声で言う。
「そのほう共、ほれは、そなたらの分じゃ。飯に汁、菜も足らねば頼め。余分はあるそうじゃ。ただし、甕には諸白が一斗(十八㍑)も入っておるでよ、園田が戻らば、四名で、酒はそれまでと致せ」
一鶴達は、嬉しそうに、何度も平伏する。
「皆の者、鰻はまだだが、もう始めよまい(始めよう)。味付けは、薄目にさせてあるでよ。さあ、手をつけよ」
宴会のような夕餉が始まる。
一鶴達以外は、皆が静かに慎ましく、食事をする。
既記だが、甲賀は、畿内に(関西圏)近いから、味付けは、尾張より薄目なのだ。信長は、あらかじめ、そう命じたのだ。
僧兵三人は、音を立てて食ったり飲んだりして騒がしいが、信長が何も言わないから、一益も諦めて、黙って飯を食べている。
信長が、自然薯料理を褒める。
「こりゃあうみゃあ。たまりがよう合っておるわ。飯にかけても、うみゃあぞ」
これも既記だが、たまりは、まだ高価で貴重なのだ。賄方が、奮発したのだろう。
皆が、一斉に自然薯を啜る。飯にかける者も居る。政秀達や一益、六人衆も、その味に笑顔になる。輪の若者達、木花達も驚いた顔から、笑顔になって食べている。
六人衆は、革手を外す。位置からして、政秀達からは見えないからだ。
食事が済めば、また嵌めるのは、言うまでもない。
僧兵三人は、一息で、大鉢一杯の自然薯を飲むように食べ、傍で給仕している賄方の女に、おかわりを頼んでいる。
三人は、鯰も手づかみにして、がつがつ食べてしまい、二種類の汁は、代わる代わる飯にかけ、かき込むように、数杯を平らげる。
燻製品も、少し硬いのに、ガリガリと噛じって、すぐに食べ尽くす。ときおり、漬け物を音を立てて噛む。酒も茶碗一杯を、一息にズズーッと飲んで、とにかく騒々しい。
信長は、にやにやと見るだけだ。
園田が、鰻の載った塗り皿を持って戻り、信長の膳にそれを置いて、小声で何かを伝える。
園田は、それで役目が済んだのか、一鶴達の隣へ戻る。
同朋衆と賄方が、また大勢で、鰻を同じように運んで来る。
お細は、飯を一通り装うと、もう手持ち無沙汰の様子だ。
「鰻はよ、白焼きだなしに(ではなく)、味噌に甘味をつけて、切り身に塗って、二度焼きしたそうだわ。美味そうな匂いだがや。それすごせ」
確かに、味噌が焼けた、香ばしい匂いがしている。
信長が、一切れを噛じる。
「おっ、うみゃあぞ。こりゃあ、どえりゃあええ(これはとても良い)味付けだわ。皆、早う早う」
また、全員がそれに従う。
大勢が思わず声を出し、信長の言葉に賛同を示す。
一鶴も満天星も、うみゃあを連発し、翠海は無言ながら、二匹分もあった鰻を、たちまち食べてしまう。
「園田よ、この味付けの、工夫凝らしたるはたれか」
「御台所差配、山田彌右衞門様にございまする。以前より、勘案しておみえやったと、仰せでおました」
「彌右衞門、なかなかだがや」
園田が、鰻は大量に用意してあるから、気にいったら追加して下され、と、つけ加える。
政秀が、信長に小声で聞く。
濃や三人の側妾達の食事は、どうしたかを聞いたのだ。
信長は笑って、もう養生小屋へ運ばせたと、今さっき、園田から聞いたと伝える。
政秀は、笑顔で頷いて食事に戻る。
酒をがぶ飲みしているのは、戻った園田と一鶴達だけで、信長や重臣達、資清は一口か二口、一益と六人衆は飲まないし、輪の若者達も飲まない。
木花達は、飲むはずもない。
園田の名誉の為に、少し説明するが、彼の忍びらしからぬ、やや油断とも見える野放図には訳がある。
彼はまだ、正式に言われた訳ではないが、これからは、一益の尾張滝川家、家中の家宰(主人に代わってその家中を司る者)が仕事となるはずだ。かと言って、一益の屋敷には、雑用をする信長から遣わされた小者がすでに五人いるから、炊事や掃除、洗濯などの家事をする必要はない。
今現在の、一益の直の家来は、灼柄巻衆の三人と、清洲異変で活躍した若者十人だけで、両組とも清洲城にはいないから、園田は、ただ一人の一益の城内での直臣(信長からは杉山同様、陪臣)となったのだ。
だから、園田の主任務は、一益の家老的な役、城外の二組との連絡役をすること、後は、金の管理と一益の支度など、細かい身の回りの世話をするくらいだ。それに今は、笹百合の看護が一番の任務だ。
それらの任務に、忍びの業は不用で、彼の表芸(忍術以外の武道その他の心得や業)だけで、充分務まる。また鏡びとが大勢いるから、園田に、急に忍び仕事が回ってくるとは思えない。
園田は、それらを深く考えてはいなかったが、少なくとも、暫くは忍術を使う必要はないと判断しているからの、だらしなさなのだ。
賄方は、一鶴達の追加注文をこなすのに、大わらわだ。お細もそれに加わる。
「親爺殿、泊まっていかれるわな」
資清は迷惑だから、城下の宿屋に泊まって、明日帰るつもりだと言う。
「遠慮は無用だわ。女子共は別に、皆でここで寝ればええがね。俺もここで寝るでよ。そなたらもそう致せ」
そなたらとは、政秀以下の重臣達だ。
木花達は、二之丸書院で寝るとなる。
最後に、山桃と梨のデザートが出て、夕餉の宴は終わった。
賄方が、また総出で片付けに来る。
資清と園田は別に、少食の忍び達は、前記の様に、米と汁を食うのを減らし、鰻と鯰は残さず食べた。漬け物も、出された分は残していない。自然薯は最初の小鉢だけで、おかわりはしていないが、最低限の礼儀は果たしている。六人衆も同じだ。
そこへ濃が来る。笹百合の手当てが済んだからだ。上段に立て膝で座る。信長以外が、一斉に平伏する。
信長が、木花達の処遇を説明すると、濃は笑顔で了承する。しかし、介護で疲れているのだろう、それが済むと、すぐに三之丸御殿へ戻ってゆく。
濃は、木花達の世話役として、奥女中を一人残していく。
「親爺殿、風呂へ行こまいか(行きましょうよ)。重臣共も、まだ汗を流しておらぬでよ。一益もそなたら六名も参れ」
信長は、奥女中に、木花達の案内と世話を命ずる。彼女は、女達を導いて広間から去る。
廊下隅には、同朋衆が一人来て、座っている。
次の用事の、タイミングを見ているのだ。
園田と一鶴達は、濃が去った直後に寝てしまい、四人揃って、もう大鼾の大合唱をしている。
「あやつらは、まあまだ童の心を残しておるのだわ。あははっ、気味がええがや」
信長にしてみれば、一鶴達の性格性質は、すでに把握して理解しているし、園田については、こんな席は、彼が来てから初めてだし、活躍もあり、叱る気には全然なれないから、特に寛容なのだ。
それに一鶴達の様に、武骨で自分を飾らず、不用意に素をさらけ出すが、しかし実は有能な者は、最も好むタイプで、信長は、園田にも、同じ匂いを感じているのだ。
信長は、残った輪の若者達に、声をかける。
「風呂から戻らば、役目を正式に伝えるでよ、それまでは、寛いでおればええ」
信長達は、半刻もせずに戻る。
六人衆以外は浴衣姿だ。討ち入りからまだ間がないから、六人は、交代で座ったまま眠り、警護をする。だから衣服がそのままなのだ。
資清が、風呂を褒め、自分の屋敷にも欲しいと言う。その言い方が子供じみていたから、皆が笑い、信長が言う。
「あははっ、藤林も、同様に言うておったわ。なんせ、地震のおかげだでのう。自然の事は、思うようにいかぬわさ」
廊下の同朋衆はもういない。
するとまた、大勢の足音がする。
夜間に飲む注子(取っ手と注ぎ口のある水容器)と、茶碗、掻巻、竹枕を運んできたのだ。お細は、掻巻を、山の様に抱えて運んでくる。信長達はそれを微笑んで見ている。
信長と政秀以下の重臣以外の者が、それらを受け取り配っては、掻巻を手早く敷いてゆく。
まだ暑さが残り、全く寒くはないから、掻巻は被らず、敷いて寝るのだ。
信長は、資清に隣に寝ろと言う。恐れ多いと遠慮しても、信長が、かまわないと重ねて言うから隣になる。政秀達は二人を囲むような場所をとる。
男達は、竹枕を使わず、片手で頭杖(筆者造語 片手で支えているのは頬ではなく頭だから)を突く。
話が、しやすいからだ。
信長は、輪のびとに課する任務を言う。
それは以前に、一益に言ったのと概ね同じ内容だから、ここでは省略するが、二つ付け加えたのは、摂津石山本願寺の内情探索と、当時は、公然と行なわれていた、人買いへの対策だ。
本願寺は、まだ敵対はしていないが、将来にはきっと脅威となると判断したから、教団中枢の本音や、教義のあり方、組織の仕組みなどを調査させるのだ。
[筆者よりお願い。人買いについては、他の指令もある事なので、それらの結果が出た時に、まとめて詳細の説明をいたします]
資清は了解し、迅速な手配を約束する。
これで甲賀への指令は、政秀達も共有した。
言うまでもないが、大鼾の四名はその間中、ずっとそのままで、とても喧しい。園田は、意味の判らない寝言まで、時々呟いている。
だが、信長が、やはり全く意に介さないから、一益も黙っているより他はない。
その後も細かい話をしたから、真夜中近くになり、もう寝るかとなった時、資清が大事を忘れていたと、慌てて起き出し、一つの葛籠から、何かを持ってくる。
持ってきたのは、丸くて厚みのある、直径四寸弱(約十二㌢)の、木製の皿のような物だった。座った資清は、その片側部分を掴んで、くるりと半回転させる。
木皿は、ぱかっと、二つに分かれる。開いた片方の内部を、信長に見せる。
そこには、顔がまともに映るほど、綺麗な鏡が填め込まれている。
鏡の中からは、信長の右目が、自分を見返している。
これまでに、水に映ったり、研ぎ澄ました刃物に映る、己の顔を見た事はあっても、写真のように、こんなにはっきりと、一部でも自分の像を見たのは初めてだ。
日本刀は、鎬地の辺りが、鏡面仕上げになっているから、顔などの対象物は映るが、これほどシャープには映らないのだ。
信長が、飛び上がるように起き、回りも習う。
輪のびと達も、起きて座る。
当時の日本には、ガラスはポルトガルなどから輸入した、僅かな物しかなく、それも貴重で、一般にはほぼ存在しない。またそれらも板ガラスではなく、吹きガラスだから、ゆがみや気泡があって、写す鏡としては使えないから、資清の持つような鏡は、誰も見たことはない。
また上流階級には、手鏡はあったが、銅か真鍮を磨いた物だから、顔などは、ぼんやりとしか映らない代物だった。
さすがに信長も、ギョッとした顔をしている。
資清は言う。考案したのは、主筋の伴長信。
資清は、更にその鏡を、傍らの灯火に翳す。
すると、約四間(七㍍)ほど離れた広間の暗い板壁に、孔を穿ったような、灯火の色と同じ橙色の、丸い輝点が見える。
大きさは、二寸六分(約七.七㌢)くらいだ。
信長達には、極小の夕陽の様に見える。
何人かが、思わず「うっ」「あっ」「おおっ」などと声を出して驚く。
資清は次に、鏡を上に向ける。
すると折上天井に、距離が近いせいで、壁より小さい輝点が映る。
資清は、手を円を描くよう動かす。
一寸(三㌢)くらいのその輝点は、資清に操られ、天井を妖しく、ぐるぐる回って動く。
信長以下、輪のびと以外は驚愕の表情だ。六人衆も一益も同様で、もう誰も声もない。
資清は動きを止めて、鏡を灯火から外す。輝点は消える。
信長は思わず叫ぶ。
「親爺殿、なんじゃ〜、そらあ〜」
その声に、園田が気づき目を覚ます。彼は、しまったとばかり顔をしかめるが、声は出さず、静かに起き上がって座る。一鶴達を順に揺さぶるが、誰も起きずに、ずっと大鼾だから、諦めて耳を凝らす。
甲賀の若者達は、すでに起き上がってはいるが、鏡は該知だからだろう、平静でいる。
信長に資清、一益、六人衆は、園田の動きに、すぐ気づくが、誰もそれどころではない。
「これは、近頃拵えし、白昼に合図を送る、道具でおます」
資清は、鏡を信長に渡してから、更に説明する。補足も加え、それは以下の事だ。
鏡は純銀製。直径は三寸弱(約八㌢)、厚みは三厘強(約一㍉)、重さは十四匁(約五十三㌘)で、鏡の中央が、ほんの少しへこませてあり、なだらかな球面凹がある。
木枠は、銀鏡を曇らせない為と、柔らかい銀の変形を防ぐ為に、鏡は片側に填め込まれて固定されていて、上蓋は、回転させると外せるようにしてある。
伴は、油火神社の青銅鏡が、偶然、朝日を反射し、ぼんやりとだが、本堂の壁に輝点を生んだのを見て思いついた。
神社の青銅鏡は、神の依代として光を宿す神器だ。
伴は、神前に並ぶ鏡の一つが、光の輪を生んだのを見て、道具に使う事が閃いたのだ。
輪のびとの自分が、光の輪を見て、その道具を思いついた事で、伴は更にそれを、神の啓示だと確信した。
当時、銅鏡を所持していたのは、天皇の宮中(皇居)、公家貴族、神社、寺院、武家、富裕な商人職人、郷村の長などで、富か権威、もしくはその両方を持っていた者達で、一般庶民には縁遠い物だった。目的は儀式や祭祀に使う為だ。
しかし、そうだとしたら、日本中に、長信と同じ経験をした者が、大勢いたはずだ。
その中で、長信だけが閃いた理由は、合図の方法をずっと模索していた事もあるが、彼が現実的な観察眼を持った、一種の天才だったからだ。
当時、金属を磨き、その反射を利用する事は、発想自体が無い。
更に、青銅鏡は神の器、信仰の為の道具なのだ。
長信は、不敬も恐れず、発想の転換をして、神具を道具として見直したのだ。
彼は早速、手に入り易い青銅で、鏡を作り磨いてみた。しかし、銅は酸化が早く、すぐにくすんでしまう。
次に鉄で試したが、鉄は反射率が低く、すぐに錆びる。
そこで彼は、手元にあった銀の小粒を溶かして作ったみた。しっかり磨くと、銀は反射率が高まり、より鋭い輝点を生む。
それで伴は、鏡は銀を使って拵え、合図の道具にしようと決断したのだ。
鏡の中央のへこみは、試してみて集束率を高め、更に強い光りを放つのが判ったからだ。
勿論、そこに科学的根拠があるはずもないが、試行錯誤の実験を重ねて得た、努力の結果だ。
磨いた銀も、そのままにしておくと、空気の成分で曇り、指で触ると皮脂や汗ですぐ曇る。双方、硫化が原因だが、炭粉や灰で磨くと、すぐ輝きを取り戻す。
忍びの頭分として、実戦経験を重ねた長信は、戦闘中、声や合図が届かない事で、苦労した体験から、これまでとは違う合図方法を、ずっと考えてきていた。
当時の戦場での合図道具は、狼煙に鐘太鼓、拍子木や法螺貝、笛、旗や小旗、松明、火矢、鏑矢などだ。他の連絡方法としては、使い番や母衣武者が、実際に駆ける事もある。
通常の野戦では、距離や場面により、それらの道具を使い分け、松明や火矢は、夜間に使われた。しかし、狼煙は風に散らされるし、旗や音の道具は、見える位置や届く距離が限られる。また夜間、松明や火矢を使えば、敵の目にも留まる。
忍びの合図も、上記の道具に加え、物を置いて目印にするとか、枝を折って方向を示す、鳥獣の鳴き真似などはあるが、こんな道具を使う方法はなかった。
鏡の形を整え、試してみた所、この銀鏡なら、時間と場所を選び、忍び同士が使えば、数キロから十数キロまでくらいは、見える光点は小さくなっても、光った事がはっきり判る。
そして最も有益なのは、鏡の光を使えば、合図が音を発しなくても出来る事だ。この威力は計り知れない。
長信は、神々の器を、閃きにより、とてつもない道具に変えたのだ。
そうなると、当時の日中の合図としては、革新的とか画期的などの言葉が当てはまらないほどの新発明だ。更に銀鏡の大きさや厚み、凹みの具合などを変えて幾つも作れば、性能の改良もありうる。
また資清は、白昼用と言ったが、彼はいまさっき、薄暗い広間で小さな灯りに鏡を翳し、輝点を見せたばかりだ。
それは、夜間も認識距離は短くなっても、使い方を考えれば、道具は有効だと言うことなのだが、資清は、そこまで考えが及んでいないのだろう。
夜戦は、敵味方の判別がつきにくいから、同士討ちの恐れがある。
暗ければ、地形の把握も難しいから危険だ。
また旗や小旗は見えず、音の道具や火の合図は使い辛い。
だから当時、大軍同士の夜間の戦争は、ほとんどなかった、と言うより、正しくは出来なかったと言うべきだが。
一方、夜討ちと呼ばる行動は、確かにあったが、それは奇襲、待ち伏せ、攪乱、放火、騒ぎ立てて相手を眠らせないなどの、ゲリラ戦を挑む事で、攻め手は退路を確保した上、一撃すれば欲張らず、すぐ退却するのが常道とされていた。
また、夜討ちとは言うが、実際には結果がすぐ判る、黎明が近い夜に行うのがよしとされていた。
雪丸達の馬分捕りや、大和守遺臣の真夜中の討ち入りは、それには当てはまらない、正に夜戦だが、各条件や手法、実行者が特殊な例外だ。
そうは言っても、信長には、優秀なびとに狼、数々の新兵器がある。鳴海戦はまさしく黎明の戦いだったから、信長なら、その経験を活かして常識を覆し、夜戦で勝負をつけようとするかもしれない。その時が来て、この銀鏡を使いこなせれば、それは本当に鬼に金棒となるだろう。
話の間中、銀鏡を動かし、その効果を試していた信長が、興奮気味に言う。
「親爺殿、これが一番の土産ではにゃあか。こりゃあ、どえりゃあ道具だぞ。閃光が飛びゃあ、鳩より早えしよ、ろ棒や焙烙、鉄砲と新道具、びとの力とこれをあわせやあよ、まあ・・・」
余りの事からか、信長は、途中で黙ってしまう。
政秀が、助け舟を出す。
「合図が無音ということだでなも。ほしたら、威力は、計っても計り切れんくりゃあだわなも。用い方は勘考しないかんけどが、皆で知恵を出して、やりゃあよ(やればね)、他国は知りえぬ、恐ろしき道具だがね」
資清は言う。以前なら、貧しい甲賀で銀を使った道具を持つなどは、考える事すら出来なかった。
この銀鏡は、言わば試作品で、二つ作り、一つは長信が持っているが、その一枚分、十四匁の銀は、この頃の価値が大体、金の十分の一だから、一㌘七文と少し(千百円)でも、約三百九十文(約五万八千円)もするのだ。
それを大量に作ろうとしても、以前の甲賀なら絶対無理だった。それがやろうと思えば可能になったのは、信長からの莫大な報酬があればこそだ。
だから伴は、もっと改良した後、それを大量に作るつもりでいると言う。
「ほしたらよ、鏡に使う銀は、俺が給するでよ。銀は値打ちが下がるで、使い難いで、ようけほかったるでよ(大量に放置してある)。蔵に積んどくよりよ、鏡にしやあ(すれば)、やり合い(戦争)の折り、声ではなしに、光で伝える新たな口ができるようなもんだでよ。ちゃっと(早く)試しを重ねて具合みてよ、ええやつを、ようけ(性能のいい物を大量に)作らなかんわさ(作らなくてはならない)。力はすげえけどよ、まあ、それほどの細工なら、俺んとこの(清洲城の)、鉄砲鍛冶ならやれるのではなあか」
資清が平伏し、最後の言葉を肯定はするが、恐縮した顔で言う。
「ほれは余りに・・・銀はわれらが」
「ええの、ええの、伴の、その思いつきだけでよ、価千金だしよ、使わん(使わない)銀が生きるんだで、遠慮は無用だわ」
回りの者達も頷いて、賛意を示す。
資清は、また平伏する。
「伴は、手柄も手柄、大手柄だがや。鏡の事も話したいでよ、早めに、いっぺんここへとよ」
「ははっ、戻りましたれば、早速」
「あっ、ほうだ、道具に名がいるの」
「はっ、されば卒爾ながら、伴は
「閃」はどうやろ、と言うておりまいた」
「おっ、伴が閃き、雷が如く、閃光放つ道具だもんな。二つの由(理由)が当てはまり、至極の名案だがや。親爺殿、決まり。されば皆の者、この道具は以後、閃と呼称致すぞ」
そうして、皆が寝静まった頃、と言っても、大鼾の大合唱はそのままだが。
雪丸が静かに立ち上がり、あの蜂の巣の包みを開く。
広間の灯りは、そのままだから、薄暗いのは変わらない。
巣を引っ掻く、微かな音は、ずっと聞こえているし、薄暗くても、雪丸には見えるから、幼虫がまだ生きているのは判る。
彼は、幼虫を五匹ばかり摘み上げて、懐から出した懐紙に包む。
雪丸は、養生小屋へ向かう。
ほんの少しで戻った雪丸は、包んだ懐紙を広げ、起きていた風に見せて、ニッコリ笑う。笹百合が五匹を食べたのだ。
雪丸と風も、御相伴とばかり、嬉しそうに、幼虫を一匹づつ食らう。
次の朝、衣服を整えた信長は、一益と六人衆と共に、朝餉や支度を終えた資清を、まず笹百合の養生小屋へ案内する。
小屋へ上がった資清は、笹百合を見舞って敢闘を激賞する。
笹百合の回復は順調だ。
次には、配下も呼んで、本所勢が働く現場や城内を見学させる。
園田は、信長達より前に、笹百合の手当てを済ましている。
その後は、けろっとした顔で、荒し子達を使い、養生小屋の屋根に登って、下からリレーで上がった手桶の水を、屋根に敷き詰めた、杉や竹、檜の葉にじゃぶじゃぶかけている。
実は園田は、早朝、昨夜の醜態について、一益に小言を言われているが、めげた様子は無い。
一鶴達も、早朝から元気一杯で、鉄砲組の鍛練を見ている。翠海は、園田と彌右衞門に剣は見せていない。忘れている。
射撃場からの銃声が凄まじい。
本所勢の働きぶりは、昨日より格段に良くなり、でっぷりとひょろ黒も、鍬を振るって土を掘っている。
償金額を書き足した、請求の書状は、すでに信長の手元にある。
本所勢の急変は、信長の威しが効いたのだろう。
資清が途中で、荒地の土を手で掴み、臭いを嗅いだり揉んだりして、一益に何かを伝える。一益は笑顔になるが、信長はどんどん歩いてゆく。それは朗報なのだが、後でと思ったのだろう、一益は信長に駆けよったりはしない。
信長は、資清を案内するのが嬉しいのだ。
資清に、信秀の面影を重ねているのかもしれない。
弾むような歩き方で、一益には信長の喜びが解るから、慌てては知らせないのだ。
最後に、鉄砲の鍛冶場を外から見て、見学は終わる。
資清達は、砂金と塩、更に、鏡に使う銀を持てるだけ持って帰ってゆく。
信長以下の主だった者に、木花達も、正門前に並び、彼等を見送る。
信長は、閃も気になるが、とりあえずやるべき事をやる。そして、資清に霊との接触は言わず終いだったと気付く。が、話す機会はまたあると思い直す。
市川大介は、まだ戻らない。
信長は、一益に様子を見にいかせようかと迷うが、医師は派遣済だから、その意見を聞いてからでも遅くはない。
二之丸書院へ、一益、六人衆と共に行き、右筆役には任せず、自ら筆を取って富次への感状を書く。上質の美濃紙に書かれたのは、以下の内容だ。
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泰之
右者富次先年之戦 我重臣危難救 忠節勇戦
尋常不比 功積赫々 誠可賞也 茲功積賞 以感状表之 仍 今後亦忠勤励之
天文二十二年歳次癸丑九月十五日
平朝臣織田弾正忠上総介三郎信長
印 花押
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実際は縦書きで、読みにくいが、要するに、富次良くやった。だから感状をやる。今後も頑張れ、といった意味だ。
信長は、紙の墨が乾く間に、風に命じ、彌右衞門と富次を呼びに行かせる。
二人は、笑顔でやってくる。
富次の上司となった彌右衞門は、肩衣袴。富次もまだ新しそうな小袖を着ている。
信長は、感状に息を吹きかけ、墨を乾かしている。
「まあ乾くでよ、しばし待て」
すると、廊下に鉄三が来て座る。
六人衆は、気配で振り向く。
鉄三は口を動かすだけで、鳩が来た、と伝える。雪丸が信長に断って、鳩の文を取りにゆく。
やがて、信長は感状を両手で持ち、向きを変えて富次に渡す。信長は内容を読み上げない。それが作法だからだ。富次は受け取ったままの姿勢で、頭を下げる。
「富次、改めて、よう致した。ここに賞する。以後は彌右衞門を輔け、職掌を怠りなく励むべし」
彌右衞門が、満面の笑顔で、丁寧に礼を言う。
富次は、どう言っていいのか判らないのか、何度も平伏するだけだ。
「感状は、賄所へ貼り出して置くがええ。汚れたなら、何枚でも書いてやるほどにのう」
二人は、嬉しそうに賄所へ戻ってゆく。
雪丸が遅い。
「柱助、見て参れ」
柱助は、すぐ戻って事態を報告する。
「何っ、雪丸がっ。皆、参るぞっ」
鉄三は、取り次いだだけだから、己の務めに戻って行って、すでにいない。
向かったのは、二之丸北東隅にある鳩小屋だ。切妻造り、高床式の小屋は、幾つも立ち並び、小屋の前面の竹格子には、番号が木札に書いて打ち付けてある。
小屋の中は、更に分けられ、個々の行き先、つまり、各城、砦、屋敷などで区別して、鳩が十羽づつ入れてある。
小屋の並びは、土壁のすぐ横に在り、裏には竹林が残されている。鳩の離着の時、風向きを一定にする為だ。小屋は六つ。一つの小屋には、五十羽から七十羽の鳩が飼われている。
信長達が着くと、一つの小屋の前に、雪丸がだらしなく座り込み、肩を震わせている。
回りには、鳩守り役の小者達、十人が居て、やはり、啜り泣いている。
「雪丸、如何したっ」
信長の声に、雪丸は、ハッとして立ち上がり、向きを変え、片膝を突く。
雪丸は、両手で小型の鳩を捧げるように持っている。いつもの革手は、足元に投げ捨てたように、置いてある。
あきらかに痩せている、その鳩は動かない。雪丸は、涙をぼろぼろこぼしながら、答える。
「お、お殿様、こ、こやつは、今さっきに、こ、こ、ここへたどり着いんやけど、つ、着いたと、時を、お、同じゅうして、し、し、死によったんで、お、おます」
「うっ、ほうか」
信長は、普段、明るく朗らかな、雪丸の取り乱した泣き顔や話し方を、見聞きするのは初めてだから、少し驚いている。
雪丸が涙声で、小者の一人に命ずる。
小者は、懐から小さな紙片を取り出し、信長に、うやうやしく差し出す。
広げてみると、忍び文字の報せが書いてある。
信長は風に渡し、読めるよう、書き直す事を命ずる。
風は矢立てと懐紙を一枚取り出し、忍び文字を、精確に一字づつ、漢字に書き直す。
風は素早くそれを終え、信長に懐紙を渡す。
そこには、こう書いてあった。
当九月朔日
信濃川中島辺 甲越千曲川対峙開戦 景虎破武田先鋒 荒砥城遂落 三日青柳城亦陥 交戦甚烈死傷多矢音山鳴雖隔遠境 御留意
今年、天文二十二年の九月一日、信濃の川中島辺りの千曲川に、越後の長尾(上杉)と、甲斐の武田が対峙した。上杉景虎(謙信)は、武田晴信(信玄)の先鋒を打ち破り、武田方の荒砥城を落とし、三日には青柳城も落とした。戦いは激戦で、死傷者多数。遠隔の地ながら、注意なされたし、との意味の報せだ。
これは、現在、史実での、第一次川中島の戦いで、更科八幡、または布施の戦いとも呼ばれている、戦の事だ。
そこに至る詳細は、事態が複雑で錯綜しているし、非常に有名な出来事だから、説明は、またする機会があればとするが、この時点で織田家には、ほとんど影響はない。しかし、信長が知っておく価値はある。
言うまでも無く、鳩を放ったのは、甲斐武田を見張っていた、津島びとの誰かだ。
その彼は、武田軍の出陣に気付いて追跡し、信濃まで行って、両軍の交戦を見たのだろう。
そしてそれを、任務として報せたのだろう。戦の終結には触れていないから、そのびとは、まだ監視を続けているのだろう。
信長は、中身を読んでも、「うん」と言っただけで、後は何も言わない。
雪丸が、鳩を、信長に差し出すようにして見せる。雪丸は、途切れ途切れに言う。
「おっ、お殿様、こ、こやつは、手負うておりまする」
雪丸が鳩を動かし、怪我した何箇所かを見せる。血は滲んでいるが、軽傷に見える。
「き、傷がちいこいから、ト、トビかノスリに襲われたんやと・・・」
雪丸は泣きながら、含もった声で続けた。
それは以下の内容だ。
この鳩には見覚えがある。尾張産まれで、身体は小さいが、清洲でも指折りの飛行能力が高い鳩。これまでにも、甲斐や駿河から何回も飛んで帰って来ている。と言って当然だが、信濃から帰って来るとは思っていなかった。自分は(雪丸)、ただ、放ち手の探索役が相手次第で、遠国に移動して放っても、この鳩なら戻れるだろうと判断した。だから、甲斐武田の探索組に、小者に運ばせ、わざわざ託した。
当時、武田晴信(信玄)は、すでに信濃に触手を伸ばしていて、信濃の大名、豪族達との戦を繰り返していたから、その可能性があったのだ。
「お殿様、こ、こやつは、お、襲われた折り、や、やり返しておりまする」
雪丸が、鳩の片脚先に装着されている、あの、両刃逆刃の小さな刃物を、脚ごと掴んで見せる。
「うん、血糊が僅かに残っておるの」
「日付からして・・・ああっ・・・は、放たれたのは、い、今から、ううっ、十日より、、もっと前でおます」
「うん」
「こ、こやつは襲われたけど・・・これで抗い、お、襲ったト、トビかノスリは、ほ、ほれに驚き・・・は、刃物の光にも、怯んださけ、うううっ、な、なんとか逃げたんやろと」
雪丸の言いたい事を、もう少し詳しく言えば、信濃から清洲までは、高い山脈を幾つも越えて来なければならない。
山越えは、鳩の体力を奪う。
更に山には、猛禽類が多数生息している。
しかし、猛禽類に限らず、野生の鳥は、自然界にはない、金属光沢を嫌がる。
鳩は、急降下して襲ってきた相手に対し、急旋回やジグザグ飛行、急上昇などで逃げようとしたのだろう。
しかし体力が続かず、最後には掴みかかられ、怪我を負ったと思われる。
それでも、鳩は必死に反撃し、脚を蹴り上げたから、刃物が相手に当たり、それと共に、刃物の光沢が、相手を怯えさせ、鳩の命を護ったようだ。
「そやけど・・・こ、こやつは、て、手負うたから、とと、飛っびょる(飛ぶ)力が、の、のうなってもうて(無くなってしまって)。どど、どこぞの木陰やらに隠れて、ち、力溜めて、溜まったら、まま、また飛んでを繰り返してしよったと・・・ああっ、なんでや・・・け、けど、手負うてるから、え、餌も、お、思うようには得られへんから、こ、こげに痩せてもうて、ううっ・・・」
事態が判ってきたから、信長達も目を潤ませている。雪丸は、鳩に頬ずりして、号泣しながら続ける。
「こ、こやつは、ここへ、も、戻んりたい一心で、つ、常なら、四日か、い、五日の、ご、五十里(約二百km)の、み、道程を・・・と、十日かより、もっとかけて、ようよう、た、たどり着いたんで、お、おます」
「うん、健気であったな」
「ほ、ほんまに健気でおます・・・せ、せやけど、こやつは・・・お、己の性にし、従うただけ、だけなんでっせ・・・やから(だから)褒めるほどの事ではおまへん。やけど(だけど)、こ、こやつは、し、死によった。それも哀れやけど、そ、それだけやおまへん・・・た、たどり着いて・・・ああっ、あと少し、ほ、ほんの僅かでええから、い、生きてて欲しかったんで・・・うううっ・・・い、生きてたら、撫でて、それを褒めて、励まして、き、疵も手当てして、え、餌かて、ぎ、ぎょうさんやって、まま、また飛べるようしてやれたのに・・・ああっ、なんで、なんで、あっ、あと、ひ、ひと踏ん張りっ、出来んかったんやと、ほ、ほれが、ふ、不憫で哀れで、む、無念や・・・口惜しい、こ、堪えられへん・・・」
雪丸は、一層激しく泣く。
一益も五名も、泣いている
鳩守り達も、大泣きしている。
信長も、含もる声で、途切れがちに言う。
「うん。確かに・・・哀れであった・・・さ、されど雪丸、こっ、この鳩はよ、命は、な、無くしたが、や、役目は果たしたがや。こ、ここへたどり着き、あっ、安堵して、ちっ、力が尽きたので、あっ、あろう」
雪丸は、ハッとする。
しかし涙は止まらない。
信長も、涙をぼろぼろさせながら、つかえつかえ言う。
「名も無き鳩ながら・・・け、健気に闘いもし、耐えて隠れてよ・・・ち、力を蓄え・・・腹が減っても、あ、諦めずになあ・・・そなたは性と言うがよ、俺とは立場が違うでのう・・・俺は、ま、まことに天晴だとよう・・・き、鬼神すら哭かしむるほどの働きだとよう・・・されど雪丸、悼む思いは同しじゃ、こ、堪えずともよい・・・泣いてやればええ・・・我らも皆で泣いてよ・・・奇特なる鳩を送ってやろまい(やろう)」
誰も何も答えられず、皆がひとしきり泣く。
暫くして、信長が、涙を堪えて冷静に言う。
「この事は、この場の我らだけの心に留め置こう。話が広がれば、鳩を放ったびとの誰かが聞き知り、責め(責任)を覚えるやもしれぬでのう。その者は務めを果たしたまでだでよ」
皆が「ははっ」と答えるが、声が乱れて聞き取れない。
信長は、構わず言う。
「雪丸、鳩はそなたの手で葬ってやるがええ」
雪丸は考えているようだ。
少しして、雪丸は片手で、乱暴に涙を拭い、信長に言う。
「ほ、ほな、お殿様、影を一晩、御貸しくださりませ。鳩は、どこぞの山の頂きで、荼毘に付し、骨灰を空へ撒いてやりまする」
「承知」
暫くして、鷹迅が来て、都行きの使者の選別が出来たと伝える。信長は、渡された名を連ねた書状を、今は読む気にはなれない。しかし、それでは鷹迅の不審を招くから、ざっと目を通す。
信長は、津島の頭の鷹迅にこそ、鳩の事は言えないから、哀しみを悟られないよう、普通に振る舞ったつもりだが、彼は、信長の泣き腫らした目を見て、当然に聞く。
「お殿様、御目が御赤う見えまする。なんぞおましたか(なにかありましたか)」
信長は、即答できない。
一益が、とっさに、夕べ、閃の事があり、信長は夜更かししたから、目は、寝不足のせいだと言って、閃についても、簡単に説明する。
そう言う一益も、雪丸以外の五人も、目は赤く充血しているが、鷹迅は、彼等が常に、信長と行動を共にするのは判っているから、珍しいとは思っても、それ以上は聞かない。
閃を知った鷹迅は、目を輝かして喜び、納得して帰ってゆく。
鷹迅の笑顔を見て、信長も、少し気を取り戻した。
課題は山積みで、ぼんやりしている暇はない。
六人と共に、作業現場を見たり、射撃訓練、槍弓組や騎馬組の鍛練を見て回る。
鉄砲の鍛冶場にも、改めて行く。
恒蔵達は、半裸で汗塗れで鉄を叩き、丁度、銃身を製作していた。銃身は、当然もっとも重要で、精密さが要求される重要部品だ。
簡単に言えば、芯金に、帯状の鍛鉄を、きつく巻きつけてから加熱して、鍛接していくのだ。また銃身内部に、歪みや凸凹、段差があってはならない。
だから内部は、磨き上げ、弾を銃口から入れたら、自重でストンとではなく、スーッと落ちるほどに仕上げなくてはならない。
ストンの場合は、隙間がありすぎなのだ。
これが、鉄砲鍛冶の腕の見せどころと言って過言ではないほど、非常に手間がかかる、困難な作業だ。
無論、全体的には、それだけではないが、鉄砲製作の全てを書けば、きりがないほど、完成までには、複雑で難しい工程が必要なのだ。
信長は、当然、大体の製法は知っていたが、間近に見るのは初めてだ。
挨拶しようとする、恒蔵達を手で制し、作業を続けるように言う。
信長は、半刻ほど、興味深げに見学し、六人と共に、笹百合の養生小屋へ向かう。
笹百合は、首に、晒し布を巻いたまま、掻巻に座って、信長を迎える。
顔色は良く、少しふっくらした様に見える。回りには、濃に、傍妾の三人、奥女中が四人、木花達六人もいるから、小屋は一杯だ。
信長は外から、声をかけただけで、二之丸書院へ戻る。
もう夕方だ。
信長と六人は、無理に抑えていた哀しみがまた込み上げたのだろう、黙って、ただ座っている。飯も運ばれたが、誰も手を出さない。
沈黙に耐えかねたように、一益が聞く。
「お殿様、卒爾ながら、昼間、雪丸に、立場が違うと仰せにならはりましたな・・・」
「うん・・・ああ、あれはよ、つまりは、こう言う事だわ・・・」
と続けた信長の考えは、こうだ。
鳩は、雪丸の直臣の様な存在。その鳩を信長の前で褒めれば、それは雪丸自身を誇っているようにも聞こえる。雪丸はそれは出来ないから、少し無情とも思える事を言ったのだ。信長は、それが判るから、雪丸の言葉を完全には否定せず、立場が違う、と言い方を変え、鳩を強く褒めたのだ。
六人は納得する。
雪丸は、深夜になってから、忍び装束で、信長に出発を告げ、鳩の亡骸を懐に、油も大量に持って出て行った。
雪丸が出てから、約一刻。
北西の方向から、微かに狼の吠え声が聞こえる。
「ゥォ〜ㇽㇽㇽㇽゥ〜ゥゥゥゥ〜・・・ォゥゥ〜・・・ゥヮォ〜ㇽㇽㇽㇽ〜・・・」
信長達は、部屋を飛び出し、西側が見渡せる物見櫓に駆け登る。
吠え声は、繰り返して聞こえてくる。
星月で薄明るいから、松明は不用だ。
夜間は、櫓は無人だ。
すると、城の北、五条川の葦原辺りからも、二つの吠え声が聞こえる。白と剋だ。
「クヮォォォォ〜ッ・・・オオオァァァァァ〜ウゥゥゥ〜ㇽㇽㇽㇽㇽ〜・・・」
「オオオオオオゥゥゥッ〜ゥゥゥゥゥゥゥッ・・・ウゥッ〜ウオ〜ㇽㇽㇽㇽㇽㇽㇽㇽ〜・・・」
西に、巨大な屏風の様な鈴鹿の山々。その北端前に、南端が重なるように見える養老山地。暗くても、その輪郭は黒線となって判る。
養老山地が途切れ、関ヶ原辺りから、盛り上がる様に高く見えるのは、標高四百四十一丈(千三百三十七㍍)の伊吹山だ。
最初の鳴き声が、伊吹山の方から聞こえたのは間違いない。
空は晴れ、星が無数に瞬き、高い月の光と共に、清洲城を淡く照らしている。
城内には夜通し、篝火が焚かれているが、数は少ない。
風は北西からの微風だ。
伊吹山方向からと、近くの狼の二つの吠え声は、いつもの恐ろしい咆哮ではなく、何かを訴えるような遠吠えだ。
その声は、細く、長く、揺れて震え、大きくなり、小さくなって、尾も引いて、哀しみに満ちているように聞こえる。
信長達は、その声に、胸が締め付けられるような気がしている。
伊吹山からの遠吠えも、微かではあるが、同じように、哀愁を帯びて聞こえている。
三匹の遠吠えは、いつしか共鳴し、遠く木霊となって連なり、繰り返し繰り返しを続けている。
城内が騒がしくなる。近くの遠吠えが聞こえたからだろう。それはすぐ、城下にも波及するだろう。
信長達には、どうする事も出来ない。
しかし、放置は出来ないから、信長は一計を案じた。
正体不明の獣の遠吠えとして、信長も驚いた振りをし、一益に命じ、城中の家来を全て起こし、警戒するように伝えさせる。また城下には、使い番を走らせ、騒ぐ事を止めさせる。
各門は閉めてあるから、そのままでよい。
一益が走って、出陣太鼓を鳴らす。
即座に、足軽達が長屋から繰り出し、最初に、篝火を、多数持ちだして焚く。
侍達も、刀や槍を持って、飛び出してくる。
政秀達、幹部や、一鶴達、園田も出てきて集まる。城外に住む家来達も、一斉に駆けつけて来る。彼等を入れる為、正門だけが開かれるが、入ったと同時に閉められる。
各組が武装し、表広場で隊列を整え、揃うまでに小半時もかからない。
騎馬組は、城外へ出るかは、まだ判らないから、徒立ちでいる。
大勢が松明を掲げているから、城内は、更に明るくなる。
一益は、小姓の何人かを指名して、町へ走らせる。門の開閉はその都度だ。
櫓にも、弓や鉄砲を持つ足軽達が、片手に松明を掲げて、駆け上がってくる。彼等は、信長達が、いち早く来たと理解して片膝を突く。
信長は、ここは、自分達がいるからと、他を見張るように命じる。
暫くすると、直線で約十五里(六十㌖)の伊吹山、山頂辺りを見つめていた風が言う。
「お殿様、伊吹の御山の頂き辺りに、ちいこいちいこい灯りが見えまする」
信長も目を凝らす。
「うん。見えた。真砂がごとき、ちっせえ光(小さな光)。雪丸だわ。影に乗り伊吹を登り、鳩を油で燃やしておるのだわ」
戻った一益が言う。
「あかん、わてはまた涙が・・・」
「影は、雪丸の思いを感じ取り、哀しみを一にしてよ、白と剋にも、影の声でそれが判るのであろう、あのように、哀しげに、な、長く、い、いつまでもよ・・・ううっ・・・」
と信長もまた泣いて、五人も一益も、声を上げて泣いている。
雪丸は、鳩を荼毘に付し、その骨灰を、空に撒いてやるのだろう。
伊吹山を選んだのは、風向きを見ての事だろう。
鳩は灰となり、空へ帰る。
灰は、北西の風に乗り、生まれ故郷の、尾張の空へ戻ってくる。
自由の身になった、勇敢だった鳩の魂は、それに似つかわしくない、愛らしい鳴き声を上げ、いつまでも、いつまでも、尾張の空を舞い飛ぶだろう。
未だ止まない、狼三匹の遠吠えは、小さな鳩への鎮魂歌だ。
ミスが多いので、またチェックしておりましたら、大変な致命的なミスを犯しましたのが判りました。濃の方様の、懐妊を、かなり前のその15に、描きましたが、時間経過の管理がとても不十分でした。ですから、濃様の出産時期は、とっくに過ぎていました。物語は破綻しています。訂正は不可能です。それでやむなく、濃様の懐妊はなかった事にしました。関係各編は、只今訂正中です。本当に恥ずかしく、顔から火。穴があったら入りたいほどです。その他にも、書きっぱなし。未処理の課題も沢山ありましたので、加筆、訂正しております。もうすぐ、訂正は終わりますので、読者諸兄におかれましては、どうか御理解くださいませ。申し訳ございません。




