あゆちのびと衆 第一章 その一
出会い
天文十七年、信長の父、織田弾正忠信秀は、美濃の斎藤利政(道三)と和睦した。
その関係強化を願う平手政秀の進言と奔走により、信長は十五歳で、一つ年下の利政の娘、帰蝶と婚約した。
輿入れは翌年と決まる。
そんな事は我関せずとばかり、信長の日常と出で立ちは相変わらずで、馬を責め、刀槍を振り回し、弓と鉄砲を放ち、弾正忠家領内を大勢で駆け回っている。
ただ、この頃は心中に強い猜疑心と、訳もない怒りが沸き上がるのを自覚していた。そのせいか、顔からはあどけない笑みは消えている。生来の苛烈な性分が頭をもたげてきていたからだ。
吉良大浜での一戦で家中評価は上がったが、それも一瞬で、変わらない行状に、今は家中のほとんどがそっぽを向いてる。
信長は敏感にそれを察する。
それに信長は吉良大浜で血の洗礼を受けている。
血が流れるなどの表現は当てはまらない。
巨大な入れ物に入れた膨大な量の血液が、何者かの見えない大きな手で辺りにぶちまけられたとしか思えない惨状に、足が震え歯が鳴った。
戦闘規模が小さめだったから、味方の戦死者は、騎馬武者で四名、徒雑兵が十三名だったが、相手の今川勢はその四倍ほどが討ちとられている。
それらの遺体は見るも無残で、吐き気と涙を抑えるのは至難だった。
顔の真ん中を槍で突き通された騎馬武者は、陥没して鼻が無くなり両目が飛び出し、気味の悪い透明の筋でぶら下がっている。
顔色は真っ白で、血が激減した身体全体が縮んでいるのが良く判る。
何かで頭を叩き割られた雑兵は、桃色の脳味噌が半分ほど無くなっていて、粉々にされた残りの頭蓋骨がやけに白い。
薙刀か長刀で肩から斬られた槍組の男は、臍下辺りまでが綺麗に切断されて、白い骨や、まだ赤黒い内臓が切断図を見るようはっきり見え、身体が重さでちぎれかけている。
辺りには鉄さび臭い血の臭いと死者の骸から流れて出した糞便の臭いが強く漂っている。
他にも、折れた旗差し物、曲がった刀、折れた槍、斬られた手足の破片、赤黒い不気味な肉片が、そこら中に転がっている。
医学らしい術は、傷を水で洗い、傷口を縫い、膏薬を塗り血止めの薬を飲ませるくらいしか出来ない頃だから、怪我人もひどい様子だった。
矢が刺さったままで抜けない時は、矢篦を切り落として引き抜くしかないのだが、刺さって時間がたつと、肉が締まって抜けなくなる。
だから、怪我人の身体を足で押さえつけて何人かで力任せに引き抜くしかないのだが、それは激痛を伴う。当然、絶叫が辺りに響く。
突き抜けていればまだしも、運悪く鏃が胴体部分に残ってしまうと厄介だ。
手足なら切断か引き抜いて血止めすれば助かることもあったが、胴体ではそれではすまない。
重要な内臓に鏃が深く食い込んで、傷つけられた者は、矢を引き抜いてもやがて死んでしまうから、介抱する者は見ているしかない。
肉親知己なら、助けたいと思う。
だが、身体を切り開いて鏃を出したくても、切り開いた時点で死が早まるばかりだし破壊された臓器は治す方法がない。
だから介抱する者は、少しでも痛みを和らげる事を念じ横たわる身体を撫で擦るくらいしか出来ない。
また、戦闘中、動脈を斬られたり突かれれば、出血多量や、出血性ショックで死んでしまうし、急所なら即死だ。
この合戦では使われなかったが、鉄砲傷は更に悲惨だ。
当時の火縄銃は重さ約三㌕。銃長は、約百三十㎝。口径は三匁が標準的で、その三匁弾(弾重量十・五g口径十ニ・三mm)なら、五十㍍で、一㎜位の鉄板なら軽く貫通する。しかし、六匁弾(弾重量二十ニ・五g口径十五・五mm)になると、威力が段違いになる。
口径によらず、鉛の弾が人体に着弾すれば、鉛弾は潰れて傷を広げる。
それに弾は直進しない場合もある。着弾後、骨や内臓に当たると、身体の柔らかい箇所を瞬間的に探るような動きもするのだ。
射入口は小さくても、射出口は潰れて広がった鉛弾で大きくなる。
六匁弾で、額にぽつんと穴が空いた者の後頭部は半分が吹きとばされてしまう。
首を貫いて頚椎に当たれば、骨とともに首は千切れることもある。
手足の関節にまともに当たれば、そこから手足はちぎれ飛ぶ。
胴体なら内臓を縦横に破壊し、切り裂いて肉片に変えてしまう。
火縄銃の鉛弾は、現在のダムダム弾やソフトポイント弾と同じだ。
それは現在世界中で、猟以外での使用は禁止されている鉛を剥き出しにした恐ろしい銃弾のことだ。
今多くの国の軍隊や警察、法執行機関での使用弾丸は、原則的に弾頭の鉛を銅で覆ったフルメタルジャケットである。貫通力が強いから、人の身体を必要以上に破壊しない。と、言っても、当たれば痛いでは済まないが。
火縄鉄砲のメカニズムは旧式で連射性や射程は劣っても、弾そのものの特性は変わらない。さらに、六匁以上の弾は、恐ろしい殺傷力を持っている。
だから鉛弾を使う鉄砲傷はより悲惨なのだ。
このように、戦場は涙と悲哀に満ちていた。 信長はこの地獄の有り様が、これから己が突き進む道に常に付きまとうことを思い描き、一瞬は戸惑った。だが、首実検を終え、勝ちどきを上げたとき、迷いは消えた。
血の川でも海でもわたりきって見せる。
具体的なやり方はまだわからなくても、あゆちの風の実現には、それが必要なのだと。
途中で死んでも、万全を期した上なら仕方ない。
敵に負けない努力と工夫をして、それで負ければ潔く死ぬだけだと。
それなのに、家中は今一つ緊張感にかけてかいる。
岩倉も清洲、犬山も、名前だけは織田でも、みな敵と言って過言ではない。
全てが虎視眈々と、お互いを狙い合っている。
なぜそれがわからないのか。
弾正忠家の武力を高めなければ、明日にも討ち滅ばされるかもしれない。
そんな危機感が信長を焦らせ、自分の行動原理を理解しない、回りの家臣らのだらしない普段の姿が、余計に苛立ちを覚(おぼ、)えさせるのだった。
信長は、そういう思いを重ねながら、何故己が、これほどあゆちの説に拘り、実現を目指そうとするのかと自問した。何度か自問しても解らないが、身体の中から突き上げてくる強烈な思いは消えない。だから、この頃は、それが己に課せられた使命なのだと考えるようになっていた。
真夏の今朝もまた政秀が苦情を言ってきた。
平手政秀は、那古野城の二番家老で、信長の傅役だ。
彼は、尾張春日井郡(現在の名古屋市北区平手町)にある志賀城のれっきとした城主なのだが、信秀の命により、今は那古野城内の屋敷に住んでいる。この時の歳は五十六だから、当時としてはもう老人だった。だが鍛え上げた身体は逞しく、ギョロリとした眼で、顔の半分を覆う髭に少し白いものが混じっていても、全体に威厳があり、その立ち姿はまるで武神のようだった。
そんな政秀が、目を怒らせて言う。
「三郎様、あ~もよ~け(あんなに大勢)の者達を、子細も言われず召し抱えられては、どもならんがね(どうしようもない)」
「召し抱えだっ・・・飯食わして、小屋に住まわしたっとるだけだがや・・・銭はやっとらんがや。あれんたらぁ(彼等は)はよ、惣領だ無ゃあの(長男ではない)ばっかなんだわ。家に居りゃあ肩身狭ゃあし、身ぃ立てるには外出るしか無ゃあ。ほんだでみんな励んどるんだがや。無理矢理だ無ゃあぞ、己で決めて来とるんだぞ。先々にはよ、身分を問わず引き立てて、俺の馬廻りにする見込みのあるやつを見極めとるし、鍛えな強よならんだろうがや」
信長は領内の土豪や地侍、家臣の二男以下の者や、庶民でも、同じように二男以下の役に立ちそうなものを三百名ほど、自分の直の家来として那古野の城へ入れていてた。
この頃は、長男以下の男は、武家でも庶民でも、家督は継げない。
よくて少しの財産を分けてもらって独立するのがせいぜいで、大部分は、武家なら家来、庶民ならその家の従業員、ひどいと奴隷のように扱われるのが普通だった。 信長はそういう事情を利用し衣食住を提供して家臣を募っていたのだ。
勿論、以前から引き連れていた童たちの中からも大勢が応じている。
政秀は、その若者達の世話を任されて苦労していたので信長に抗議したのだ。
「ほんな事せんでも、普代が大勢おるがね」
「その普代がなにやっとる・・・城と家行ったり来たりしとるだけだがや・・・日々の己の調練や、家の子郎党を鍛えるのまめまめと(真面目に)やっとるのが何人おるか知っとるか。馬は厩に繋ぎっぱなし、刀も滅多に抜けへん。言われた事だけやって、飯くって、糞して昼寝しとるのばっかだかや。美濃はまあええかもしれんけど、清洲や岩倉は険しいんだで(危ないから)・・・じいはそう思わんのか」
「これは慮外な事を言わっせる・・・某の家では、家中、皆揃いての鍛練は欠かしませぬ。清洲や岩倉に険しき様子あるなどとは聞いとりませんわなも」
「様子あったらもう遅せえーんだわ・・おみゃあの家のことは言っとらん・・・力蓄えないかんで、その為になることやっとるんだで、とろくしゃあこと言っとるな・・・この頃は津島や熱田の上納増えとるの知っとるぞ・・・」
「ほれはほうですがなも・・・某が言うのは、銭のことばかりではにゃあがね・・・家中の和だがね。和した後に皆をひれ伏させないかんがね」
「笑わしたらいかんわ、俺が恐ぎゃあ(おそぎゃー=怖い)思わせな、だぁれもひれ伏さんわ。俺がつおならな(強くならなくては)、惣領言うだけでは、だぁれも腹から恐ぎゃあ思わんがや。あれんたち(彼等)は、俺の手足になってくんだで、あれんたちは俺の力の大元の宝になるんだで、俺はもう行くでよ」
言葉で的確な説明をしようとしても、頭に血が登りうまく出来ない。
だから、益々腹が立ってくる。
最後はいつも「だぁっとれぇーっ(黙っておれ」で終わるのがこの頃の常だったから、今日は比較的穏やかだった。
そう言う口喧嘩をしても、信長は政秀を真から憎んではいない。
政秀の深い愛は、信長にちゃんと伝わっていた。
幼い頃から、時々、信長が疲れて居間で寝てしまうと、政秀は奥女中の手を借りず、自ら黙って信長を抱き上げ寝所へ連れていく。
夏なら蚊帳にいれ、冬なら分厚い布団をかけ、常に傷だらけの手足や顔に馬の脂薬を優しく塗る。
薬を塗りながら、政秀は呟く。
「おみゃあさまは、ええこなんだでよう
おみゃあさまは賢てつおい(強い)御子なんだでよ
わしがちゃんと守ったるでよぉう
おみゃあさまがほんとは優しいのはわしは知っとるでよぉ
怪我をしたらいかんぜぇも(いけませんよ)
病になったらいかんぜぇも
織田の頭領はおみゃあさまだでよ
五つ木瓜の旗を押し立てるのはおみゃあさまだでよう
はよ大きなってちょうよ(くださいよ)」
政秀は唄うように繰り返す。
信長は照れくさくて、気付いて目覚めても寝たふりをしているが、そのうち本当に寝てしまう。
そういう事が物心ついてから、何度もあったし、感受性の強い信長は常日頃の政秀の挙動の節々に滲み出る優しさ暖かさを感じていて政秀を信頼していた。だが公式の場での説教と叱責には辟易として、面と向かうとつい憎まれ口をきいてしまうのだった。
当時、津島は木曽川支流の佐屋川、天王川の川湊で、尾張随一の賑わいを見せ、熱田はそれに次ぐ。津島商人の頭役の七人衆は大橋清兵衛を筆頭に弾正忠信秀の父親、信定の頃からの被官だった。
信定は彼等の一人に信秀の異母妹を嫁がせている。それほど彼等を大事にしていたのだ。
信秀は彼等を手厚く保護し、特権を与えて上納金を受ける。定期的な課税はしないが、時々の事情により、冥加金、運上金の名目で徴収する。金額は常に莫大だが、商人達は守って貰う立場だから払うしかない
この頃は、戦を予感した信秀の命で徴収が増やされ、古渡の金蔵は根太が抜けそうになるほどで、その入りきらない分が那古野の蔵に運ばれていて信長はそのことを言ったのである。
炎暑の中、広い於台川での水練は心地良い。
川水は青く澄み切って、場所に寄ってはエメラルドグリーンに輝いている。
今日は百人ほどで泳ぎ回る。
以前からの池田恒興と津田佐馬允に、前田犬千代と佐々蔵之介が加わっている。
二人は勝三郎と佐馬允より二歳歳下だが、勇猛果敢なのは劣らない。
他にも、武家の子弟で、手のつけられない暴れ者ばかり、十人ほどが小姓になっている。
褌一枚の彼等は、手に短めのヤスを持ち、勇敢に澄みきった深みに潜ってゆく。
岩陰でじっとしている鯉やうなぎ、鯰などを刺しては上がってくることを繰り返す。
一刻ほどすると、沢山の獲物は放り出したまま、那古野へ戻る。
獲物は城の賄い方が、台車を引いて取りに来る。勿論、それは信長の若者達の食い扶持となる。調練と食料確保を兼ねているのだ。
城へ戻ると、城横の広い馬場に集まり、信長の采配で槍衆の練習をする。
信長は、演習を繰り返すうち、槍の長さは長い方が有利と気付き、最近それまでの二間半を三間半柄に変えていた。
三間半は、六㍍三十㌢である。演習にも同じ長さの模擬槍を使う。
戦さ場での戦いは、最初に弓鉄砲や印地打ち(縁を鋭くした石を投げる事)をお互いに放ち合い、その後槍足軽衆が槍で戦うのだが、その時は最初は突くのではなく振りかぶって叩き合う。叩いてから、突くのだが、槍の柄が長ければ、こちらは届いても相手の槍は届かない。
相手の槍衆を蹴散らせば、最後の騎馬武者の突撃の際、味方の騎馬武者は相手の騎馬武者だけに集中できるが、相手はこちらの槍衆に下から突き上げられるのを警戒しなければならない。
馬を突かれても深刻だ。落馬すればより攻撃を受けやすくなるからだ。
信長としては鉄砲をもっと増やしたいのだか、並の日本刀が現在価格に換算して、一振二十万〜三十万円くらいのこの頃、鉄砲は一挺百五十〜二百万円もしたし、大量生産が近江国友村等で可能になるのはずっと後のことだったから、信長は今出来るだけの最善を尽くしていたのだ。
信長は、槍衆を五十人一組を最低の人数とし、二十五人に一人づつの小頭と五十人に一人の組頭を定めた。
五十人が百人、百五十人と増えたりまた離れて五十人になる訓練を続けた。
組頭や小頭になっても立場はすぐに変わる。
信長の課題がこなせない者は、組頭は小頭に、小頭は平へとすぐ落とされる。
目敏い動きをする者は小頭や組頭に引き上げられる。
徒組に引き上げられた者も何人もいたし、落とされたままの者も何人もいる。
その時点での己の役割を正しく理解出来るか出来ないかが選択理由だった。
信長は叫ぶ。
「五十人が疲れたら二列目と入れ替わる。
その時三列目めも続いて一緒に前に出る。
一列目は出て来る二列目と三列目の邪魔にならんようにちゃっと(早く)下がる。槍で味方傷つけたらたわけ(愚か者)だがや。それが、うみゃあこと出来るよーなりゃ、例え三百人の組になろうと千人になろうと同じだがや・・・入れ替わりゃあまた力湧いてくるがや」
信長自身も駆け回りながら、配下を指導する。
「丸なったり、横に広がったり三角に尖って突っ込んだり、ほんでも五十人の組は、決して離れたらいかんぞ。五十人がしっかり固まっとりゃあ、そうちゃっちゃっ(簡単には)とはやられえせんの。誰かが倒れても、戦の最中は、ほかっとかな(放置しておく)いかんぞ。勝ちゃあ後から助けたれる。負けたら皆殺しになると思えぇ~、おみゃあ、今のが本物の槍なら頭割られとるぞっ。おみゃあ、そんな殴り方では相手倒れえへんぞおうっ(倒れないぞ)」
それは繰り引きと呼ばれる戦法で、西国でよく使われていたが、信長はその事は知らず自ら訓練の中から編み出していたのだった。
暑さと過酷な訓練で、全員が水をかぶったように汗だくになっている。帷子や小袖は汗でぐしょぐしょだ。
信長自身も百人ほどの若い騎馬侍を率いての訓練を繰り返す。
使っているのは、真剣や真槍ではなく、木刀やたんぽ槍と呼ばれる演習用の模擬の道具だが、殴られたり、突かれれば痛いし、皮膚が破れることも多々あった。
しかし、大勢が、血塗れになっても、砂煙を上げての訓練は続く。
全員が目をいっぱいに開きふいごのような呼吸で喚声を上げて走り回る。
「それっ、おいぬっ、くらっ、遅れるなあぁっ。頭を下げて走らんと、敵にたどり着く前にやられてまうぞおうっ・・・矢弾も飛んでくるんだで敵勢を広く見とらないかんのだぞおうっ。相手の頭辺(あたまへん=頭の辺り)狙えぇっ。突いてもえーけど、突いて抜けなんだら、槍無くすか、己も引っ張られて落馬だがやあぁっ。殴れ、殴れ、殴られやあっ、おおかたぁ(大体、概ね)落ちるわぁ・・・ほーだほーだ(そうだそうだ)」
まだ三十挺しかないが、鉄砲衆の訓練も怠らない。
「鉄砲はよ、一挺づつ癖あるでよ、それを早よ覚えなかんのだわ・・・自分の鉄砲でゃあじ(大事)にしてよ、弾込めもちゃっちゃっと(迅速に)やれるようならなかんのだわ・・・角(的)に当たるのは、もっとも(当たり前)と思わな、だちかん(どうしようもない)のだわ」
信長は、まだ全国の大名が誰も成しえていない、兵農分離をこの時点での三百人で果たしている。
信長はその重要性にまだ気付いていない。
朝の水練から三刻(約六時間)もたった。
「おーし、今日はこんで仕舞やあ(終了しなさい)、えらかったがや(よく頑張った)。皆水浴びて飯食え・・・怪我はちゃんと手当てせないかんがや」
日に二食が当たり前のこの頃、信長は三食食わせる。
今日のような川狩の獲物、野駆けの時に弓鉄砲で射ち止めた鳥獣も全部与える。
飯はさすがに白米ばかりではないが、玄米に粟や稗を混ぜたものを望むだけ食わせた。粥や雑炊は薄いのが普通だったが、那古野のは、どろりと濃くて、味も味噌や塩で調えられていたから、皆満足していた。
若者達の身体は逞しく大きくなっていく。そういう噂を見聞してまた若者がやってくる。
信長も、小姓どもと、井戸で水を浴び飯を食う。
今日は天王坊での勉学はない。
いつもは、馬であちこちへ行く。
津島や熱田、岩倉に清洲、たまには犬山までも足を伸ばす。
「今日はよ、生駒屋敷行こみゃあか(行きましょうか)」
犬山へ向かう途中の郡の在所にある、生駒家長、通称、八右衛門の屋敷。
八右衛門は、信長の叔母の兄。
河内生駒の出で、馬借業を主に、灰と油を商う土豪で、極めて富裕だった。
大きな土蔵が四つも並ぶその広大な屋敷は、幅三間もある深い濠が回りを囲んでいて、厚い土屏と頑丈な木戸が外敵の侵入を防いでいる。
屋敷内部は母屋に厩、作業用の小屋が幾つもで、井戸は三ヶ所、使用人の住む長屋が二棟もあり、他には客が泊まる離れの客殿(きゃくでん、)まである。
八右衛門は、温厚だが勇猛だし、武芸の鍛練も怠らない。
屋敷の者には、下働きの者まで武芸鍛練を毎日行わせる。そんな八右衛門を慕って屋敷には大勢の男達が逗留している。
兵法者、牢人、修験者、修行僧、旅商人、旅芸人等だが、八右衛門は身分は問わない。
諸国を廻る彼等の話しを聞く為に、門戸を広げてもてなしているからだ。
だから八右衛門は諸国の事情に通じていて、信長はそのような話を聞くのが好きだったからよく通っていたのだ。
八右衛門は、犬山城主織田信清の家臣だったが、この頃は、バサラでも、不思議な「威」を身体から発し、何かを懸命に成し遂(と、)げようとする信長に、強い期待を内心で抱いていたから、信長が来れば歓待する。
「まあ、三郎様、よ~来てちょ~だいたなも(よくいらっしゃいました)・・・きんのう(昨日)村のもん(者)が鶴持ってきたでよ~晩げ(夜に)に鶴汁食べてってちょ~よ、ほんで、津島で購なった金平糖もあるでよ」
金平糖は当時、高価で貴重である。
信長は甘い物も好きだったから、相好を崩して答える。
「八右衛門、かたじけないがや・・・かつやら、さまやら、供も大勢来とるで、さっき(自分より先に)食わしたってちょ(食べさせてやってくれ)」
そして信長はいつものように逗留者達のもとへ行った。
誰かれ構わず色々な話をして情報を得る為だ。特に初顔を見つけると迷わずそこへ行き話をするのが常々だったから、まずそういう者を探す。
一人見つけた。
二十歳半ばくらいの侍が、部屋の隅で横になって酒を飲んでいる。
信長を見ると微笑んで起き上がる。己の前の酒器や食器を手早く片付け、背後に廻して隠す。
紺麻の筒袖とたっつけ袴は清潔だし、顔も端正に整っている。髪は総髪を後ろで束ねて、手入れしているのが判る。
長めの脇差しの拵えは、かなり立派で、バサラ姿の信長を見ても、驚きや嘲りは表情にない。身長は六尺(百八十㌢)近く、身体は細身でも逞しいのが判る。
少しの動作も、無駄なく所作が爽やかだ。武芸の心得がかなりあると信長は見た。
信長はこういう人間が元々好きだから、一目で気にいって近寄る。
胡座座りに座り直して、軽く頭を下げた若侍が言う。
この頃は、正座ではなく、胡座と言い、膝を大きく広げ、右足を左足の前に出して、あぐらをかくよう座るのが当たり前だった。
見た目には意外な優しい声だ。
「これは、お初でおます。わては、こうか(甲賀)から流れて参りまいた、滝川左近一益いうもんでおます。きんまい(美しい、立派)坊(ぼん=幼いあなた)はんはどなたはんだっか」
信長は甲賀の地名は知っていたが、甲賀出身の者に会うのは初めてだったから、意味のわからない言葉が、あって当然だった。
一益は信長の、バサラ姿を勇ましく美しいと褒めたのである。
その感覚は尋常ではない。 信長の装束が理にかなっていると評価したのだ。
初めて自分を正しく理解した男の甲賀言葉のきんまいの意味がわからない信長はそうとは知らず答えた。
「俺はよぉ、那古野の三郎信長だがや。」
「は~、ほうでっか・・・お噂はここにおるもんやら、生駒の旦さんに聞いてまっせ。よう精進してはるそうでんな。わてはいっぺんお会いしたい思うてましたさかい、嬉しゅうおすがな」
信長の頬が赤らみ、それを隠すような厳しい問いをする。
「聞いたらいかんかも知れんけどよ、おんし(あなた=おみゃあよりは丁寧な呼び方)は、なんで流れ歩いとる」
一益は不快な表情もせず答える。
「わては、国元で、ちょかって(調子にのって)色々やらかしてもうて、ほやさかい、おられんようなって、しょ~ない(仕方ない)よって、あちいこちい(あちらこちら)してたんですわ。言うたら阿呆ほですわ」
生駒出身の八右衛門が時々使うから、阿呆だけはよく解って、信長が少し笑う。
「ほうかね。俺もよぉー、国中で大うつけだ言われとるでよぉ、おんしとおんなじだがや。ほんでおんしは、どこを巡ってこやあた(こられましたか)」
「最初に根来で一年ほど、縁者の坊主んとこおって、次は京に摂津、河内丹波、若狭加賀、越中越後に信濃から甲斐で相模駿河、遠江でしまいに三河からここ来たんでっせ」
「ほうきゃあ(そうですか)、ほりゃえらかった(大変でしたね)がや・・・どんだけかかりゃあた」
「ほれは時のことでっか、ほれやったら五年ほどでんな」
「根来は何で長かったんきゃ」
「ほら、根来の寺ゆうたら、ぶえんしゃ(金持ち)ですさかい、毎日ごっつぉ(ご馳走)で、酒もうもうて(美味で)、そやさかい、居心地がよ~て(良くて)、よ~て、ほれに鉄砲教わっとったんどす・・・わての縁者は根来の僧兵で、鉄砲放ちやさかい、色々仕込んでもらいましたんや」
「根来の鉄砲放ちは巧みきゃ」
「ほらもう、坊主のほんまの仕事はな~んもせんと、朝から晩まで鉄砲燻べて(発射して)ますさかい、腕上がって当たり前ですわな。ほやけど、西の雑賀の衆も、なかなかのもんやそうでっせ」
そういう話を二刻も続け、信長は主に根来僧兵と雑賀の鉄砲衆の事情を大まかに知った。
「おんしはいつまでここに居りゃあす(みえますか)」
「ここも居心地、え~さかい、しばらくは遊ばしてもらお思ってまっさ」
信長は、それ以来、生駒屋敷を頻繁に訪れ、一益から話を聞いた。
各地の軍勢、民情、物成り、領主の政治姿勢、財源、税制等々。
一益は、知る限りを丁寧に答える。
彼は近江言葉だから、少し意味が通じないこともあったが、そんな時は、信長の表情を見ただけで、察して言葉を変え、信長か解るまで説明をする。
また、余計なことは言わず簡潔的確に解りやすく話をする。
諧謔のある一益の話に、信長は時々声を上げて笑う。
信長は、そういう一益がますます気に入る。
一益も、まだあどけなさの残る信長の、物事の核心を突く鋭い質問に、畏敬の念を強める。
(この坊は並やないわ・・・身のこなし、歩き方見たら判るがな・・武道の業前も恐ろしい程の達人や。未だ十五やて、どげな鍛練したらこがいになるんやろ。がお(化け物)みたいや・・・話しても何事も肝心な事がなんなんか、よ~分かってはるわ。歳は九つも下やけど、なんや不思議な威があらはるわ。先はわからへんけど、この坊なら、弾正忠家率いて、ええとこまで行くんちがうやろか。こういう方のねき(傍に)おったら、ええん違うやろか)
その日、一益は、信長の求めに応じて鉄砲の腕を見せた。
生駒屋敷内の射場で、八右衛門の愛銃を借りると、手慣れた動作で弾薬を込め、銃を放つ。
一町(百十㍍)先の厚さ一寸のスギ板の的には命中したが、真ん中の直径五㌢程の黒点は外れている。
三発撃つと信長と一緒に見ていた八右衛門に尋ねる。
「これは、ちいと、右に寄りまんな」
八右衛門が頷く。
「癖わかりましたさかい、見とってくなはれ」
火縄銃の発射準備には、熟練者で二十五秒程がかかるが、一益は二十秒でやってのける。
四発目が、的の黒点を撃ち抜いた。ど真ん中ではない。五発目、六発目と、だんだん真ん中に寄っていく。
一益は、発砲時、何故か片目を瞑らず両目を開けて狙い撃ちをしているが、信長は気付かない
「遠いさけ、よう見えまへんよって、わかりやすう黒んとこだけ撃ち抜きまっさ」
そう言った一益は、手早い操作で、発砲を繰り返す。
十発撃つと、銃を下ろし、的に向かう。信長も続く。
的の黒い部分だけが、刃物で抉りとられたようにきれいに消失していて、他の部分は試射三発の弾痕以外はそのままだ。信長と八右衛門が思わず感嘆の声をあげる。
「大きい声では言えんけどよ、おんしは、一巴様よりうみゃあがや」
一益は、その後、那古野城内の角場(射撃場)でも、信長の愛銃を撃って何度も腕前を示したが、橋本一巴に遠慮してか、教えめいた事は何も言わなかった。
信長の聞き取りは続いた。
ある日、思いだしたように信長が聞いた。
「色々聞いたけどよ、おんしの国の話はまんだ(いまだに)だったがや」
「そうでおましたな・・・わてとこは、伴の旦那とこの、まあ家来言うたら、ちいとちゃい(少し違う)ますが、一党でんな。こうか(甲賀)五十三家ちゅうのがおまして、ほんなかにまた二十一家があるんだす。伴は中山城の主でおます・・・城言うても、那古野のお城みたいに大きゅうはありまへん・・・砦ですわ・・・こうかには、そんなんが百八十からあるんですわ。 他に、中山と望月、言うんがいてまして、まあ三家が、こうかの頭分ですわな・・・ほやけど領主ではおまへんさかい、こうかでは「惣」言うて何事も皆で寄って話し合いで決めるんでおます・・・細いもん(身上が小さい者)が、助け合おうて暮らしとるんですわ。けど人が多いさかい、話はなかなか纏まらんし、いさかいもようあるんでっせ・・・血ぃ見るまではいかんのでっけど、まあ、年中なんやかんやとやっとるんだっせ。」
「ほうか(そうか)、甲賀は忍びの国だと聞いたがや。おんしも忍びきゃ」
と、信長が唐突に聞く。
一益が少し照れくさそうに答える。
「まあ、よう知ってはりますな・・・忍び言うても、わてらのは、山ん中での戦の仕様でおまして、並みの侍が学ぶ武芸と、それほど違わへんのでっせ・・・使う道具はこうか流だっけど」
そう言うと一益は懐から革袋を取り出した。
「これは十字手裏剣でおます」
袋から五枚の切っ先鋭い手裏剣を取り出す。
「ザザッ」と金属が擦れる音がする。
鈍く輝くその手裏剣は、かなり使い込まれている。
「わては、この手裏剣五枚のおかげで、あちいこちい廻れたんでおます・・・山ん中でこれで鳥や獣撃って、凌いどったんでっせ。塩は多めに持っとりましたんで、焼いて食ろうて、ですわ」
信長は驚いて聞く。
「弓鉄砲でも仕損じあるがや・・・おんしは、達人だかや」
「いや、ちゃいます・・・三間くらいなら、人の目玉狙って外しまへんけど、こうか者はみなやりまっせ。肝心なんは、そ~っと傍行くことですわ。それ出来な、けぶら(気配)消して獲物近寄るの待つんですわ。達人やなんて、そんなん、かなん(困ります)」
信長は、それを今やってみろとは言わない。例え一益が流浪の浪人だとしても、ひとかどの侍の、しかも鉄砲などの表芸ではない、隠すのが当然の忍びの業が見せ物ではない事を理解していたからである。
一益もそれは当然だと思うが、年少の信長の深い覚悟に内心舌を巻いている。
その日、二人は逗留者の雑居部屋ではなく、八右衛門の居室にいたから、気兼ねなく話せた。
「そのけぶら消す言うのが、なかなか出来んわな。おんしは、忍びの者だがや」
「こうかちゅうとこは、昔から、そこら中、ただけに(沢山)薬草成っとりまして、わてらんとこは、昔からそれで薬こさえて、それ売ってたっき(生活、暮らし)たてとったんだす。そら、傭われ行って稼いだりもしまっけど、たいがいは田畑やってまっせ」
信長は以前の会話で「ただけ」や「けぶら」の意味は知っていた。
柔らかく否定する一益に、信長がまた鋭く聞く。
「薬か。毒も毒薬ちゅう薬だがや」
「お~怖っ・・・三郎様は冴えてはりまんな。そうだす、毒使うて、どなたはんかを仕物にかける(暗殺する)んわ、まあ、よぞい(おぞましい)ことでっけど、雇主はんに言われたら仕様おまへんわな」
毒薬での暗殺仕事を咄嗟に認めて答えてしまった一益に、顔色も変えず信長がまた聞く。
「今は何処へ仕えとる」
一益は己や甲賀の情報を隠すのは諦めた。隠そうとしたのは、信長を気に入ってはいても、いまだ主でもない、将来的に敵味方もわからない相手だったからで、我と我が故郷の秘事を全て打ち明けるのには危惧があったからだ。だが、ここでの会話を重ねるうち、一益は悟った。
(あかん、この坊にはなんも隠されへん。問いが鋭すぎて、案ずる間ぁがあらへん。それに知らん事かて、己の知ってる事組み立てて、分かってまう賢い方や。聞かはる事がいちいち、真ん中や・・・どうせ悟らはるんや。聞かはることみな答えたろかい)
「まあ五年も帰っとりまへんさかい、今はどうやろ、でっけど・・・六角はんに松永はん、筒井はんと、足利の公方(将軍)はんとこも、ちいとは(少人数)行っとる思います。そやけど、多分、六角はんとこが一番人数ただけや思いまっせ」
六角とは六角定頼、義賢親子。義賢は後の丞禎。筒井は筒井順昭(順慶の父親)、松永は松永久秀、足利将軍とは足利義輝である(この頃の名乗りは義藤)。
「何で六角へよおけ行っとる」
「六角はんとこが、付き合い昔から多て」
「ほうか。ほんなら行っとる甲賀衆の扱いはどうでゃあ(如何ですか」)
「それはもう、わてら侍帳にも載らへん銭雇いの山者ですよって、はなから蔑んどりますわ・・・どこの家でも侍どもは口もききよりまへん・・・禄かて、よう貰うて十石(現在価値で、約五十万円)位ですわ・・・常にはせつろしい(煩わしい)仕事ばっかやらされておるんだす。そやけど、勤めせんと仕様おへんよって皆堪えて勤めとります」
「ほうかね、ほしたらよお、甲賀衆の一番の得手はなんでゃあも(なんですか)」
「そら、脚でんな・・山ん中でおますから、やぁでも(嫌でも)足腰つおなります(強くなります)がな。それに、忍びの家のわてら、もう、五つ六つから、山ん中、走り回りさせられますねん・・・忍び仕事言うたら、そら、走ることが肝やさかい、仕様おへんけど。わてでも、日に二十里は走りまっせ」
一益は嘘をついた。一益が、一日に走れる距離は軽く三十里(百二十㌖)だったが、最後に少し残った自己防衛本能が、そう言わせたのだ。
「二十里。馬でも走れんがや・・・ほんならよう、甲賀衆で、今すぐ険しい命やれるのは(危険な任務を果たせるのは)何人くりゃあだ」
「千人くらいですやろか」
「一万石か」
一益にその意味はすぐには解らない。
信長は少し考える様子だ。
「隣の伊賀も、忍びの国だろがや・・・伊賀はどんな風でゃ」
「伊賀は、喰代の百地、湯船の藤林、千賀谷の服部言うんが、頭分だす・・・伊賀も「惣」あるんやけど、甲賀と違って、三家の言い分がつよぉおます。
まず、伊賀は人数が多いんだす。五千は、働けますわ。三郎様のさっきの問いなら五万石だんな」
一益は、信長が甲賀衆全部の仮の経費が一万石と言った真意を見破っていた。
信長は薄く笑う。
「されば、伊賀者の力は如何に」
質問が、核心に及んだ為の緊張か、尾張言葉が消えている。信長は甲賀や伊賀について、これまでに、一益以外の逗留者におおよそは聞いていて、総合的な戦闘力が、伊賀の方が勝っているらしいのを知っていたのだ。
「よそ(他所)やから、わての知る限りでっけど、伊賀者は、はなから、修行が違うんだす。三つや四つから、酷い事させますんや。言うたら切りおまへんけど、修行の途中で死ぬもんやら、不具になるもんが、ただけにおるそうでおます。その代わり、業修めたもん等は、そら、がおですわ。こなた(味方)なら、こがいに頼りなるもんは、いてまへん・・・かなた(敵)なら、こげに、とひょ~もない(とてつもない)もん、おりまへんな。わてらは、雇い先に顔曝してまっけど、伊賀者は、顔隠すし、七方化、言う術つこうて、なんにでも化けよりますんや・・・顔から、背格好から歩き方まで他のもんに成りきりよります・・・そやから、雇い主でも、あれらの素の顔知らんのでっせ」
「見分けられんかったら、どもならんがや(どうしようもないじゃないか)」
「それは、符丁言うか、あれらの独特な合図があるんでっせ。その中身は、わてらは、知らんのどす。あれらの掟はきつうおますから、漏れてこんのでっせ。そやから、あれらは皆、闇に生きとるんでっせ・・・・闇を采配しとるんでっせ」
普段、冷静な一益の声が、最後にやや上ずった。