あゆちのびと衆 第一章 その十七
藤吉郎の奮闘
清洲へ帰る信長勢。
鳴海から清洲城までは直線で五里。実際の距離は七里程。
勝って帰る道も、軍勢は静寂に列を乱さず進む。軍勢中程の信長を六人衆が取り囲み、その外側を旗本、馬廻り、小姓衆がまた囲み、政秀、一益が馬を続ける。
清洲へ戦勝を報せた森可成以外の黒母衣衆十騎が駆け戻り、軍列に加わる。
戦死者を載せた馬は軍列先頭に騎馬衆に守られて進む。
熱田の森が見えてくると、進む道の両側に人が大勢いて、その歓声が聞こえてくる。
金之助以下、刺青の漁師達の姿も見える。
信長が大声で下命する。
「皆の者、列を乱すな」
鳴海辺りでの勝ち戦がすでに伝わり、領民達が信長勢を讃えるため参集しているのだ。
人々は直接声をかけるのははばかり、わ~わ~お~お~と叫びながら、手を振ったり鳴らして栄誉を讃える。
その群衆の人垣は、古渡、那古野を過ぎても途切れず清洲まで続いている。道が狭い箇所では、田畑の中に大勢が立っている。作物は踏まれて形もない。
信長は時々、軍配を上げて歓声に応える。
ゆっくり動いたから、清洲へは一刻半後に着いた。
正表櫓門。
堀にかかる橋の袂の左右に、折り目の効いた肩衣袴姿の侍たちがずらりと並んで迎える。
信長が軍配を振って軍列を止める。
青山与三右衛門信昌が、鎧兜姿で駆けつける。
片膝を突いた青山に信長が言う。
「留守居大儀。入城は、戦死の者からと致す。其方が先導せよ」
信長の声は枯れている。
青山が畏まり、城の城兵を手招きして大勢を呼びよせる。
軍列が開き、戦死者が載った馬を足軽たちが曳いてくる。
その三十八頭を、青山以下の将兵が取り囲んで動き出す。
信長が大声を出す。
「先駆けて戦場に散った武勇忠義の誉れ高き者共じゃっ・・・迎えの者共っ、頭が高いっ、膝を突けいっ、頭を垂れよっ」
迎えの侍たちが片膝を突き、頭を深く下げる。
戦死者は湯殿で湯灌された後、本丸御殿広間に並べて寝かされる。身分の低い足軽、徒武者は、一段下がった廊下に並べられる。
当然だが、全員が新品の布団に包まれている。
鎧兜のまま、信長以下主だった者が死者を囲んで座る。
信長が死者に向けて言う。
「よう働いてくれた・・・其方達の遺族、縁者に不自由はさせぬ。仕官望む者おれば取り立てる。されば、されば・・・安らかに、安らかに」
涙で詰まり言葉にならない。
両手を合わせ、頭を下げる。
「ここで通夜とする。灯りを点せ・・香を焚け・・遺族はここへ通せ。飲食の接待も抜かりなくの」
信長は仮小屋に向かう。
濃が表で、鉢巻襷姿のまま、つかえる腹に片膝で迎える。
「お殿様、此度は、此度は・・・・」
濃は笑い泣きしている。
「勝ち戦を寿ぐ者共が大勢、大勢」
「うむ。そのようだの」
信長の声を聞き、濃がまた涙ぐむ。
「お殿様、御声が・・・ようけ下知されたんずら・・・それに、寝てないん。御顔色が」
「顔色か・・・声ものう・・・お濃、俺はよ、ようけ殺めた・・・数えれんくらいよ・・・此方も三十八人も討ち死にした。馬も、馬も」
「御辛いんやね・・ほやからひずがねえんやし(元気がない)」
信長を暫く見つめて、濃が続ける。
「・・・わっちには戦はわからへん。ほやけど、お殿様、武者やし。御覚悟の道やし。お殿様には先途が御有りやし。堪えてやて。御堪えしまいか(堪えましょう)。祝いの者等が待ってるずら」
濃は、信長を抱きしめ、背中を優しく擦る。
「・・・ほうだな。覚悟の道だもんな・・・お濃、あいわかった・・・もう言わぬ。着替える。手伝え」
濃の方が畏まり、鎧兜を脱がせる。
鎖帷子はそのままで、麻小袖と袖無し羽織を着て、麻袴を穿く。
「戦に赴いた者共は休息させよ。
酒など幾らでも飲ませてやれい。食い物も惜しまず与えよ」
濃の付女中が、信長の命を伝えにゆく。
青山信昌と政秀が肩衣袴姿で来る。
「祝いの者共の顔ぶれは」
信昌が笑顔で答える、
「それが、守山の孫三郎様が改めての御色代なさりたいとの仰せで、更に岩倉の伊勢守の惣領、信賢に、なんと犬山の十郎左衛門まで。これまでの行き掛かりは水に、お殿様に臣従したいと。お殿様は僅かな日にちで弾正忠家が宿願、尾張統一成し遂げられまいた」
政秀が続ける。
「尾張中の土豪、地侍は言うに及ばず、商人、坊主、神官、百姓共も乙名、村長、村役等、数も判らぬ程」
「岩倉に犬山か、ふんっ・・・変わり身早いのう・・・叔父御と二人は談合して参ったのかのん」
「いや、参られたも別々にて、談合した気配はなきよう心得まする」
「ほうか、まあ、犬山岩倉の彼奴らが笠上げれば(降伏)、尾張の侍同士が殺し合わずともええで、良かったには違いないの。侍共は俺が左近将監と相手いたす・・その他はじいと青山でやってくれい」
二人がにこやかに「承りました」
と答える。
そこへ肩衣袴姿の林秀貞が足音を鳴らしてやってくる。
「新五郎、大儀。信行葬儀の準備は」
「さ、それが・・・・」
「如何した。申せ」
「口にするも憚る事にて」
信長が軽く笑ってまた聞く。
「言わねば判らぬ・・おおかたの事には驚かぬ故、申せ」
「さ、されば、御前様には御狂乱の態にて」
「さもあろう・・・母様は信行一途だったでの。御哀しみはもっともだがや・・・ほんでも弔いはせねば成らぬ」
「そこが・・・」
「続けよ」
「はっ。御前様は、勘十郎様は、死んでおらぬ、気を失っておるだけじゃと仰せになり、御自ら、勘十郎様の咽疵を御縫になり、火鉢を幾つも部屋に入れ、身体を温め、水や重湯を口に流し込み、身体擦りて、わらわが気を呼び戻すと」
「ほうか、ほれは・・・」
「戦慣れせぬ勘十郎様に深手負わせた咎は、宿老の手前とお殿様にあると。手前には何故すぐ腹を切らぬと御怒りで・・・なんとかおなだめしようといたしましたが、腹も切れぬ腑抜けた顔を見せるなと仰せられて、近寄ることも相成らず」
「致し方ない・・・母様が気が済むまで、したいようにさせてやれ・・ただ火だけは出さぬ事と、万一御自害図られれば、力づくでも御止めすることはやってくれい。信行は傷を養生しておる事にいたす。新五郎、辛い役だがの、母様を頼む」
秀貞が畏まり、古渡へ帰る。
本丸御殿は使えないから、御殿前の広場に侍共が信長を待っている。
床几に座った信長の横には一益が片膝で控える。六人衆は背後で同様に控える。
叔父の守山城主、織田孫三郎信光が、折り目高い肩衣袴姿で最初に進み出て片膝を突く。後ろに居並ぶ大勢もそれに習う。
「お殿様、此度はまた、鬼神も恐れる御働き。その素早さたるや、僅か三日で今川勢、謀叛の者共の数多を討ちとられ」
信光は長々と信長を讃える言葉を連ね、最後にこう言った。
「お殿様の武威に並ぶ者はおりませぬ。されば手前は、本日只今より、お殿様との叔父甥の仲は無きものと心得、一人の家臣として御仕えいたしまする」
「左様か。叔父御様とは、てて様の頃より仲睦まじくして参った故、それ程の御覚悟は要らぬとも思うが・・・いち早くの御言葉、それは有難し。されば手前も只今より仰せの如く心得まする。左兵衛(織田信賢)、十郎左衛門(織田信清)も叔父御と同様かのん」
いとこで犬山城主の織田十郎左衛門が引き締めた表情で答える。
「これまでの行き掛かりは多々あれど、此度の戦の様子聞き及び、最早、尾張を率いる御方はお殿様しかおられぬと覚え、臣従誓う七枚起請を書き上げ、ただちに参上仕った次第。何卒の御聞き届けを願い上げ奉りまする」
「うん。聞き取った・・・左兵衛は如何に」
「ははっ。手前の親父殿と談合し、親父殿は隠居し、手前も孫三郎様、十郎左衛門殿同様、お殿様に付き従うと決めました故、高き敷居を越えて参った次第」
「そは、重畳・・・其方達の家臣共にも異存はないな」
三人が声を揃えて「御座りませぬ」と答える。
「俺に従うならば、様々(さまざま)とやることがある・・・それは追々知らせるがの、真っ先にやるは、関のとっぱらいだわ・・・其方達の領内の関は全て無くせ・・・口上は聞き取った故、すぐそれぞれに立ち戻り、ただちに行え」
即刻に口調を変えた信長の下命に、三人が頭を下げ、慌ただしく去る。
(叔父御は別に、彼奴ら二人の光りは以前より、暗さが取れておる。此度の戦のせいか)
後に続く、土豪、地侍たちが入れ替わって、次々と祝いの言葉を述べ、臣従を誓う。
小六もやって来た。
小六と仲の良い、前野将右衛門や郡村の生駒八右衛門。坪内宗兵衛、草之井長兵衛等、川並衆の頭達もいる。
話し込む暇はない。
臣従には触れず、祝いの言葉を短く述べて小六達は去る。
信長は、時々白湯を少し飲むだけで、ずっと笑顔で接する。
政秀、信昌は、一般領民の身分ある者達の挨拶を同様に受けている。
全部が済んだのは、真夜中過ぎだ。
祝賀の品が山になっている。
政秀から、熱田の金之助が羽織姿で来賀し、大量の、干し鮑、わかめ、海苔、干魚等を祝いの品として献上したことを知る。
「通夜の席へ参る」
信長に続き、一益、政秀、信昌、六人衆、近習小姓衆が続く。
線香の煙り漂う広間には座りきれず、大勢が玄関まえの広場に座る。沢山の篝火が焚かれ、寒さ凌ぎの焚き火も随所に焚かれる。
「皆の者、大儀・・・俺もだけどよ、皆もまだ何も食っておらぬであろう・・・ここで先駆けた者共と一緒に飯としよう・・・酒も飲め。騒いで朗らに送ってやろうぞ」
全員が「はは~っ」と畏まり、賑やかな通夜が始まった。
賄い方が、握り飯や煮物、焼き物、酒を大量に運んでくる。金之助からの献上品も調理されて運ばれる。
信長と一益、六人衆は死者達の枕元に丸く座る。
枕元には供物や花が備えてある。
犬千代が、酒の土瓶を手にして加わる。
茶碗を女中が、運んでくる。
酒が行き渡る。
「よし、飲むぞ。供養じゃ」
「あのようお殿様」犬千代が聞く。
「うん」
「一つ聞いてもええきゃあも」
「うん」
「笠寺砦に火が上がった時によう、北の森からどえらけにゃあ(物凄い)吼え声聞こえたでしょう」
「うんっ、そうだったかのん・・・其方らは聞いたか」
七人は首を振る。
「いや、間違ゃあ無ゃあ。俺は聞いた・・・吼え声した途端、馬が泡吹いて飛び出して来て、鳥がようけ飛び立ったがね」
「お犬はなにが言いたい」
「吼え声の正体だがね・・・お殿様たちは知っとらっせるんだにゃあの」
「いや、知らぬ・・全く判らぬ」
一益が助け船を出す。
「前田はん、あん時は風がきつうに吹いてましたからな。風の音、それか風で木が擦れた音やなかったんでっか」
「俺は同じ吼え声を那古野で、馬の夜慣らしの時にも聞いたんだわ」
「あん頃は・・・冬の最中やったから、ほれこそ、伊吹颪しの風音でんがな。鳥は風音にびっくらしたんやおまへんか」
「お犬、それより、其方が家来にと俺に頼んだ、杉山は如何しておる」
「あやつは、手前の郎党とし、我が手勢の頭分やらしとるがね。そのうち馬乗りにするんだわ。ほんな事は置いといてよ、風音だ言われても得心いかんがね」
「ほしたらよ、他にそれらしき音の素、なにがある」
そう言われた犬千代は不満の表情だったが、返す言葉が無い。自棄た態度で酒を飲み、手当たり次第にあれこれ食うと、やがてその場に丸くなって寝た。
「杉山で思いだした。蔵を最後まで守った足軽六人は」
一益が笑顔で答える。
「六人共になかなか骨のある者等でおまして。今は足軽二十人づつ率いる小頭さしてます。鳴海でも、ろ棒でただけに敵を討ち取り、見事な働きしたんだっせ」
「ほうか、いずれ士分に取り立てなかんな」
話は死んだ者等の思い出話になる。
やがて信長も、その内にその場で眠る。他の全員もやがて眠った。
翌朝、目覚めた信長が命ずる。
「死者を荼毘に付する・・骨は遺族が望めば、分骨して渡す・・残りは城内に墓を建立して葬る。場所は守護様御一党の墓隣。かかれっ」
城奥に木材を組んで、遺体焼却の設備が整えられる。
天王坊から、沢彦が、故信秀使用の輿でやってくる。
沢彦の読経が始まり、遺体が焼かれる。
信長以下、清洲城の全員が手を合わせ、成仏を祈る。
焼却の炎は、大量の木材と蒔かれた油で物凄い。
やがて火はおさまり、拾骨される。
木製の骨箱に入れられた遺骨は、白絹で包み、また御殿広間に安置される。
立派な僧衣に身を包んだ沢彦が読経し、信長から順に焼香する。
葬儀は昼で終わり、遺族が引き取った分以外の遺骨は、墓建立の予定地横に仮埋葬された。
政秀が来て聞く。
「御下知仰ぐ事ようけあるのでござりまするが、まず山口勢の千人程は如何様に」
「足軽小者、荒し子共は、見張りをつけて、なんぞ仕事をさせよ・・武具の手入れや小屋などようけ建てればええ。士分の者共は、ほうだな・・・まずは、わが軍勢に加わるかを聞き正し、応じる者は各組の望む組に入れて鍛練させよ・・・各組頭に見定めさせる。その上で俺が見定める・・・否めば、放逐でよい」
「大高城、鴫原(重原)城は変わらず水野と山岡に守らせればよろしゅうござりまするか」
「てて様の頃からの忠臣だでの・・・鳴海との繋ぎを密にせよと伝えればええ」
「ははっ。ほれから鳴海城で養生の怪我人共は」
「此方の深手五人はそのまま。山口勢の身分低き怪我人共は、動けるようになれば、身体具合で小者で雇う。やれる仕事をさせ、暮らせるよう計らえ。士分の者共の不具になった者共は祐筆、勘定方等の闘わずとも務まる文官にして、同じく暮らせるよう計らえ。全く働けぬ者は身分に応じて捨て扶持あたえ、これも暮らせるようにいたせ」
「ははっ。ほれから、三の山辺りから逃げた山口勢は」
「ほかっとけ」
「されば、ろ棒の事が、他国へ知られませぬか」
「うん。俺も一時はそう案じた・・・ほんだけどよ、ろ棒に肝心は、ころ棒だがや。ころ棒なくば、ただの尖った棒だわ・・・鳴海では彼方とは隔たりがあり、草に隠れての投擲だったし、桜中村で教継ら百騎を討ち取った折も、城兵どもは、鉄砲に怯え顔も出さないなんだで、投げる刹那を見ておらんでのん・・・手だけではありえぬ威力を不思議に思っても、ころ棒は気づかれておらぬ・・使ったろ棒は、一本残らず集めて帰ったしよう・・ほんだでその事はええ。ただころ棒の扱いは慎重にせねば成らぬ。左近将監も承知だが、じいもそれを軍勢皆に再度伝えよ。無くしたり落としたりすれば厳罰に処す」
相談は続き、決まったのは以下の通り。
笠寺砦跡の塚は、今川塚。桜中村城跡の塚は山口塚。三の山の草原の塚は、信長の発案で、強風下の闘いであったから風塚とするに決まった。焼香や供物が出来るような立派な塚を築く。
鳴海城前の山口親子の首と、十一本の磔柱は見せしめのためそのままにする。
出陣した信長軍勢には、褒美として、身分、働きに応じ金銀を与える。
戦死者の遺族には、貰った者が腰を抜かした程の莫大な弔慰金。家督を継ぐ者が絶えても、俸禄はこれまで通り。継ぐ子弟が居て、仕官奉公望めば、採用。
手厚いとかのレベルではない。前代未聞の処置だ。
政秀と信昌が財政を憂う。
「死んだ者の扱い誤れば、次に死ぬ者はおらんようになる・・・・面目立てて遺族が恙なきようしてやれば、それを国中が知る。さすれば死ぬるを恐れんようになる。山口勢に手厚いのも、それが伝われば、敵は降りやすうなるか(降伏しやすくなる)、はなから手向かわず俺に従いたなるでだわ。案ずるな、じい、青山・・・銭など俺が幾らでも集めてやる」
二日後、鳴海城で治療中の五人の内、二人が亡くなったと早馬が報せる。
信長は嘆くが仕方がない。
「鳴海城にて荼毘に付し、骨は清洲へ送れ。同じく葬る」
大体の戦後処理が済み、信長は日常に戻る。
午前中の鍛錬が終わり、一息入れながら一益を呼ぶ。
「お呼びで」
「うん。戦を省みて、諸々(もろもろ)の改める事を案ぜねばならぬと思ってのん」
「まずは、今川の事でんな・・・義元は怒り狂うてるやろと思いまっせ」
「ほうだわな・・・ほんでもよ、義元は笠寺砦を落としても落とさんでも、いずれは必ず来る。尾張を踏み潰して都目指そうとするはたしかだわ。要はその時節じゃ・・・八右衛門が言うには、この頃は武田、北条とのやり合いが激しゅうなっておるようだで、ほれが片付くまでは来たくとも来れぬ」
「ほな、まあ此方は時が稼げるゆうとこででんな」
「うん。此度は、今川より尾張中に武威示すが肝心だったでのん・・・それは成ったで、今川の事はまた追々案ずるとしよまい・・ほれに、其方にいつか聞いた今川の仕組みだと、出陣に時がかかるし、長陣のまわし始めれば必ず伝わる・・・応ずる策はそれから案ずれば間に合うわ」
「御意。彼方は家来衆があちこち広うに散らばってまっからでんな。心得ました。ほれから、お殿様もやと思いまするが、わては、ろ棒の力に真から化転(驚いて)してるんでおます」
「うん。確かに・・作るも容易・・用途(費用)も僅か・・それであの凄まじき様だったもんな。国見亮(左右次)には褒美やらなかん」
「笠寺砦で、左右斜めから放ちましたな。あの陣形が、また一段と効いてましたな。この先の戦では、なるたけあの陣形がとれるようせなあかんでっしゃろな」
「うん。討ち洩れが僅かだったな・・・あとはよ、ろ棒の放ち手は、我が身を彼方に晒さなかんだろ。そこも案じて、放ち手を守れる時節と場所を選ばなかんな」
「御意。わては他には特にはおまへんが、お殿様は・・・・・あっ、一つありまっせ」
「言うてみよ」
「ほな。三の山んとき、お殿様、騎馬衆の先頭を駆けはりましたな」
「う、うん、思わず知らずに・・・・」
「もう二度と、あげな事は御止めくだはりませ。大事な御身でっせ・・・まかり間違うてたら、お殿様も勘十郎様と同じ目やったかも。わては家来やけど、これだけはきつう言わせてもらいまっせ。お殿様っ、如何っ」
「うっ、済まぬ・・・あいわかった・・・二度とはせぬ」
「はっ。聞き取りまいた」
信長が苦笑いで続ける。
「ほしたらよ、話戻すけどよ、ろ棒はどんだけあってもええな」
「ほうでんな・・・場面によっては放ちっぱなしもあるやろから」
「されば、なるたけようけ作らせよか」
「はっ。あとは、ろ棒は犬山、岩倉守山衆にも教えまっか」
「いや、まだ早い・・・暫くは彼奴らの心底見定めなくてはならぬ・・・叔父御とは長く昵懇だったが、今一つ信が置けぬ・・伊賀、いや、びとの三百人が来たらよ、三家に忍ばして、彼奴らの誠を探らせる」
「ははっ。ほいて、またよけのまい(余計)やもやけど、一つ御伺いしても」
「うん」
「お殿様は、先途のあゆちの事、わてら以外の御家来衆にはまだ言うてはらへんですな。それはどげな訳で」
「あのよう、訳はよう、言うてもあの者等にはまだ解らんでだわ・・・あゆちのよう、民の安穏を先途とするは、まだ判るであろう。されどその先だわ。一生懸命はよ、侍には生の字が所になって一所懸命が、大昔からやってきた事だがや。地べたが欲しい、守りたい増やしたいが侍のもっとも(当たり前)だわ。だが俺はいずれ未来には、そうはさせぬのだわ・・・あゆちとは民人共の安穏だでよ、先の先には、領地は全部、預けはしても、俺の御台地(直轄地)にせな成らんのだわ。そうせねば、民の安穏は果たせぬのだわ。その要の事が、今の家来共にはまだ解らんのだわ・・・あゆちを語れば、話は必ず領地の事に及ぶ。されば、今はその事は頬被りしておくんだわ。いずれ俺の武力が、まっとまっと強くでかくなったら言うんだわ・・・家来共が迷って抗おう思っても、やれんくらいよ。ここまでは」
「へっ、仰せの通りやと」
「ほしたら、百地や藤林になんで初回に言ったかの訳はよ、びとの者にも地べたはあるけどよ、痩せた地べたでおおかたが貧しいだろ。ほんだでびとの者にはあゆちや民人の心情が解る・・・そう思ったでだわ」
「よう解りました。御無礼でおました」
信長が茶を一口飲む。
「岩倉犬山守山合わしたら、おおかた八千。大小の地侍共が千。山口勢が皆残ったとして千。数は増えたけどよ、鍛練の度合いが気にかかるのん」
「ほうでんな・・・一軍で闘うんに軍勢練度に差ぁがあっては・・・」
「いちいち、俺や其方が出張る事もなかなか出来んしの」
一益が暫く考える。
「まずは三家から、鍛練のやり方を、紙にしるして、言うたら教え書きを配って、その成果は時を定めて試しする言うんわ」
「うん。そうしよまい。教え書き書けるのは其方だけだで、忙しいだろけど頼む。ほれからよ、俺んとこは、軍装深紅で揃えとるだろ。岩倉犬山に守山は別の色で揃えさしたろと思うけどよ」
「ほうでんな・・・戦場で区別つくようしといたら采配もし易うなりますな。その事も教え書きと一緒に送りまっせ」
「ほんでよ、鉄砲衆はよ、三家の忠心見定めてからよ、尾張中全部清洲へ呼び寄せてよ、俺の直とし、其方が鍛練して、織田鉄砲隊としたいんだわ・・・その時は焙烙火矢も教える」
「一手にするんでんな・・それはそれは。ええ御思案やと」
一益の教え書き(マニュアル)と、軍装の色統一の指令は、三日の後に、岩倉犬山、守山の城に届いた。
表向きにはもう信長には逆らえない三人の城主は、早速それに取りかかり、守山は蘇芳香と呼ばれる薄い紅色。岩倉は檳榔子黒で黒色。犬山は木賊色で緑色に揃える。色の選択で三家は多少は揉めたが、宿老同士の話し合いで事無きを得た。
信長勢の赤色は、猩猩緋と呼ばれる深紅だから守山勢との区別は一目で判る。
それは別に、信長の清洲以外の直の全ての家来達は、指図される前に許可を得て、自分達の鎧兜を自費で深紅に塗り替えた。
深紅は、尾張織田の本家となった、弾正忠家のステータスだからだ。
信長は、三家に臣従の褒美、この先もある諸々の改善、対策の費用補助として、犬山岩倉に五千貫文(約七億五千万円)、比較的規模が小さい守山には二千五百貫文(約三億七千万円)を銭で送る。
銭は米俵に詰め多数の駄馬に載せて送った。
送った使者からの相手の魂消た様子を聞いて信長が笑う。
「武力で脅すのも手だけどよ、黄白もなかなかに使えるんだわ・・・じいっ、青山、関所廃止で苦情言いたてる奴儕には、この手を使え。尿漏らす程の黄白やって、二度と異を立てぬとの念書取れ。
ようけの銭見りゃあ目が眩んで、すぐ書くわ。揉め事の種は早めに刈り取るんだわ」
「ははっ。ほれから、褒美届いてすぐ、三家から質(人質)出すと言うてきとりまする」
「質みてゃあいらん・・・出すに及ばぬと言うてやれ・・ほんだけどよ、三家の若年で、俺の傍で学びたい者おれば許すと伝えよ」
「ははっ」
政秀は、信長に仕えるのが嬉しくて仕方ない。信長の言動、指示が驚く程、革新的かつ優れているのにも毎回感動している。
(お殿様には、瞬きの間に尾張統一をば御果たしになされやあて、桃巌道見様(信秀法名)も御喜びじゃ。幼き頃は手を焼かされたが、今となりては御聡明甚だし良き武将となられた。残り僅かな我が命は、この御方の為に磨り潰す。それにしても長政のたわけは・・・神妙にいたしておれば御取り立ても必ずあったろうに)
尾張中の桜が咲き始め、目に艶やかだ。
更に、那古野辺りの畑地は、一面黄色で覆われている。
鍛練をこなし、多くの決裁を続ける。
信長の表情は、鳴海の闘い前には戻らない。
暗さがにじみ出てしまうのだ。
作業進捗の報告に来た一益が言う。
「お殿様っ、御無礼やけど」
「うん。其方は家来だけど、俺は心中では兄者と心得とるでよ。遠慮無用だわ」
「あははっ。なんやこそばゆい・・・ほな、お殿様っ、あれから御顔がなかなか晴れまへんな・・御疲れやと御察しするんだっせ」
「ほうだな。鳴海で狙われてからは、ずっと駆けずり回りっぱなしだでな」
「御狂いしなはったら」
御狂いとは、祭り等で踊り狂う事で、信長は幸若舞が好きで、以前には女の着物で踊ったこともある。
「あははっ。踊りなど忘れとったがや。尾張はほぼ従ったでな・・・その祝いも、盆には早いが花見を兼ねて、領民共と一緒に狂うか」
準備が整い、清洲城下に限らず、近隣の村々にも行事参加の使者が走る。
城が開放され、太鼓に笛、鐘が鳴らされ踊りが始まる。
城内には酒や食べ物が大量に用意され無償で共される。
清洲城下や近隣に不審者はいない。毎夜、言わばパトロールとして走り回る狼三匹の嗅覚を誤魔化せる者はいないのだ。
約三万の城下住民に加えて、村々からの参加者で、広い城内や城外までが人で埋まる。
踊りの輪があちこちできて、皆踊り狂う。
信長も濃と二人、領民達の輪に加わる。わざと粗末な衣装の六人衆も万々一に備え、信長、濃から離れないよう、馴れない踊りをする。
夜になっても篝火が焚かれ、踊りは続く。
信長は領民達の歓喜の表情が嬉しかった。
(ほうだ。俺が闘うは、この民人共の喜びの顔が見たいでだ。あゆちとは正にこの事であった)
丸一昼夜の踊りの宴は終わった。
翌日、古渡城から林秀貞が来る。
「新五郎、大儀。様子は」
「はっ。御前様は変わらずに御手当てを続けておいでで」
「温め、擦りてか」
「はっ」
「ほしたら、亡骸傷んで臭うであろう」
「御意。されど香を焚き、抹香を御身体に擦り込むようなされ、今朝などは鼻や口に抹香を詰め込まれ」
「狂うておられるのかのん」
「確かめようにも、手前を始め、医師も誰も近づけませぬ故、最前の御様子も以前から召し使う僅かな付き女中から聞きし事でござる」
「母様は飯は」
「それも、勘十郎様が食えぬのに、わらわが食えるかと仰せになり、白湯を僅かに飲まれるばかりと。一度に痩せ衰えられて、真に真に御痛ましく」
秀貞は目に涙を浮かべている。
「辛き役目を押し付けてすまぬ・・・されど、母様の相手出来そうな者は、他におらぬ・・・那古野城の事も気にかかろうが、暫くは・・・の、頼む」
「なんと御優しき御言葉。改めて承りました。手立てを案じ、一日も早く勘十郎様の御葬儀、行えるよう図りまする」
「うん。大儀であった」
踊りのせいか、信長の表情は幾分晴れた。
僅かに残る暗さは、土田御前が気にかかるからか。
質素な夕食を一益、六人衆と共に摂る。
信長が少し笑って、手紙を見せる。
「これはよ、あの髭丸からの文だわ・・なかなかの達筆にて、中身も要点を纏め、民情が分かり易う書いてある・・・意外での・・わらえるんだわ。ほれっ見てみい」
細かいが綺麗な文字が、びっしりと書き連ねてある手紙を七人が回し読みする。
皆、口々に誉める。
伊賀者も甲賀者も、忍び仕事には必須条件だから、身分に寄らず、読み書きは漢字に至るまで、完璧なのだ。
「髭丸への褒美はちょびっと増やしたった。
西国の由(情報)まさやかになるでのん。ほんでよ、文見て思ったけどよ、今更だけどよ、我が家来共は読み書き皆出来るかのん」
一益が答える。
「それを聞くんは、無礼になりまっさけ、わてらでは・・・・」
「ほうだな・・・政秀に言うわ」
政秀が調べ、足軽達は、ほぼ全員。徒侍は半分程、身分高い者も三分の一は読み書きが出来ないと判った。
信長が、広い馬場に全員を集め命令する。
「この先は戦が増える・・その折、読み書き出来ねば何かと不都合。されば、出来ぬ者は身分に寄らず読み書き習え。足軽共はせめて仮字、片仮名だけでも出来るよう致せ・・・足軽共より上の者は真字(漢字)もじゃ。時はやるがの、やがて試しをするでよ・・・出来ねば俸禄減るか、身分下がる事もあると心得よ」
読み書き出来ない者達が、顔を引きつらせて叩頭する。
翌日から、身分ある者達の読み書きの教室が、表御殿広間に設けられる。
足軽等へは、それぞれの頭分で読み書き出来る者が、足軽長屋で教える。
激しい鍛練を終え、休憩の後、御殿で教室が開かれる。教師は政秀と信昌が交代で務める。
鍛練疲れで、大勢が寝てしまう。
すると、政秀などは,細い竹棒で不心得者を叩いて回る。
更に、雷のような大声で怒鳴る。
「おみゃあんたらあは、なんちゅう情け無い様じゃ・・・・精進して期日までに覚えな、俸禄減るか、身分下がるんだぞっ・・・まめまめ(真面目に)やらんと叩き出すでなっ。いっぺん叩き出したらもう入れたらんでな。ええかっ」
「ははあっ」
心で悪態をつきながら、皆、必死に取り組む。
足軽達も悪戦苦闘したが、頑張るしかない。
この頃になると、城内は勿論、尾張中で、信長の資質を内心で疑っていた侍達は、これまでの数多の手腕とやり方を見て評価を高め、信長を名君と認め崇め始めている。
日々は忙しく過ぎ、びと衆三百人が来る日が来た。
清洲城周りの桜は満開に咲き誇っている。
昼過ぎに、信長と一益、六人衆だけが視察と称して津島湊へ向かう。
道空館跡に着く。
門の『織田家御用所津島湊改方』と書かれた看板を覆っていた布は取り払われている。
館前の広場を埋めて、すでに三百人が片膝を突き待っている。新調か、真新しい揃いの黒染め着物に羽織、山袴姿に山笠は皆、足元だ。
広場隅には、彼等が背負ってきた大葛篭が、山の様にある。
信長の移動に合わせて全員が向きを変えてゆく。全員の背後が明るく輝いている。
館式台に上がった信長が笑顔で告げる。
「皆の者、遠路大儀・・・俺が上総介信長だがや。先着の六人衆に従い精進してくれい。其方らの俸禄は、なべて五十石(約二百五十万円)。銭に換算して遣わす。其方らのこれからの支度は、舘内に全て整えてある。部屋も仕切ってそれぞれにある。部屋外の名札見て使えばええでよう。暮らしの世話は賄い方と小者がやる」
その言葉で静寂が破れ、三百人が響めく。
その響きにはもう一つ意味がある。彼等は信長の強い気と威に驚いているのだ。
百地や藤林に、通力の事を聞きはしたが、目の前の信長は、光の膜に覆われているようで、しかもその膜が彼等に強い圧迫まで感じさせるからだ。
「あははっ。働きにより、まだまだ俸禄は増やす。今や弾正忠家は、大分限者(大金持ち)だでよ・・・やってまう事は六人衆と決めてある。それぞれに別れ指図仰げ」
三百人の氏名は、追々、機会を捉えて信長が覚えていくことになっている。
三百人が、五十人づつに別れ、広がった六人衆の前に移動する。
小柄で華奢な侍が一人残り、信長を見上げる。
整った美しい顔立ちだ。
「其方は」
と言いながら信長は驚いた。
その侍の背後は繁造と同じくらい黄金色だったからだ。だが口にはだせない。
「笹百合と申しまする・・・お殿様には御初にて。鷹目に代わりて、御身辺を御護りさせて頂くんでおます」
彼女は信長の驚異的な力を当然感じているが、顔には出さない。
「声と名からして、其方は女子であろう。まだ乙女(少女)にしか見えぬ・・・忍の術の心得は」
そこまで言って、信長が声も美しいその主の変色した指先を見る。
「おっ、済まぬ・・・無礼を申した。その指先で判った」
笹百合が微笑む。
配下になる五十人に心得などを説いていた風が慌てて戻り、笹百合に片膝を突いて頭を下げる。
「御嬢はんっ・・・・」
「御嬢とはっ、誰の娘かのん」
風が言う。
「笹百合様は、百地の旦はんの一人娘様でおます。わてら六人衆はなんも聞いてへん。まさか御嬢が来はるとは・・・・」
他の五人も言い聞かせを中断し、駆けつけてくる。
五人とも驚いた顔だ。
笹百合が言う。
「わては、てて親に、この先は敵が増えるさけ、お殿様の護りは一層きつうせなあかん。それと共に御方様にも御傍で護る者がいる。それは女子にしか務まらん。やからお前行けと言われて来たんでおます」
「左様か・・・それは大儀・・・しかしその態ではの」
「女子の衣装もただけに持って来てますよって、だんないんでっせ」
「笹百合とはよ、この辺りでは聞かぬが、伊賀の花かのん」
「へっ。春の終わりから、夏の始めに桃色の、それは綺麗な花咲かすんでおます・・・伊賀にはただけに咲く花でっせ」
「ふ~ん。されば百地は花にちなんで、其方の名を・・・」
「聞いた事はおまへんが・・てて様は笹百合好きやから、おおかた・・・・」
「ほうか。さまざまあい判った・・・しからば、其方は濃付の奥女中といたす・・俸禄は最前申した通り」
笹百合が畏まる。
一益も隣でやりとりを聞いていた。
その美貌にも驚いたが、彼は別の事を思っていた。
(この娘は出来る。風等と変わらんくらいや。百地はんにきつう仕込まれたんかいな)
信長も心中では色に加え、その事も感じていた。
一方、笹百合も、信長の信じられないほどの威勢に驚いてはいるが、父の百地から聞いていた事だから、表情を変えたりはしない。
その夜は、三百人を歓迎するため宴が設けられた。熱田から、金之助が、大量の魚貝類を船ごと津島湊まで運んだから、多彩で豪華な料理が並ぶ。
見たこともない料理に戸惑う彼等を、今日から束ねる鷹迅が、広間奥に座る信長の横に立ち上がり告げる。
「皆聞け。お殿様は、わてらの食べ事はよう御承知や。その上で、門出を祝ってくらはってるんや。御志なんや。やから今晩だけは、遠慮のう頂け。酒も御許しやから、明日からの仕事に差し支えへんほど飲んだらええ。わかったか」
三百人が口々に礼の言葉を述べる。
「されば皆の者っ、明日からは励めよ・・・祝いの膳じゃ、それっ、食せ」
津島湊には五十人が常駐し、領内全ての治安も守る。他の組は、それぞれ他国(今川、美濃斎藤、松平、武田、浅井等)を探る組。犬山岩倉守山や、信頼しきれない者等の、尾張中の城、砦に忍んで探る組。領内へ侵入してくる他国の間者、諜者を警戒し、捕縛もしくは成敗する組。
他国探索は広いから三組百五十人がゆく。
この組は、更に十人、二十人に別れ各地を探る。また緊急連絡の為、それぞれが鳩を一羽づつ小さな籠で連れて行く。
他国探索の伊賀のびと衆は、昼間は行動しない。だから装束は来た時のまま、忍び装束は葛篭に入れて運ぶ。
領内で表向きの任務に就く者達は、信長が用意した同じ衣装で働く。
すなわち、黒漆塗りの深編み笠に黒染麻の筒袖袷と山袴。深紅に染めた袖無し羽織、革草鞋に革足袋で、顔には、小さな黒布をマスクのように垂らしている。そこには白抜き染めで織田木瓜の家紋があるし、羽織の背には、同じく織田木瓜の家紋が、小さく金糸縫いされているから、前後から、信長の家来と一目で判る。彼等は大小を差し、六尺棒を手に移動する。大半の者が、小さな葛篭を肩から下げて行う。
領内の国境の主な道には、織田家の番所があるが、びと衆は、そこをなんらかの方法ですり抜けてくる曲者を警戒し、町村でのトラブルにも対応する。
彼等は隊列を組んだりはしない。散らばって、町や村を風のように駆け抜けて、怪しい者や騒ぎを探す。かと言って、見た者が驚く程のスピードはわざと出さない。
又、領民から何かを訴えられれば、最低限の言葉と仕種で対応する。
ただ、領民と接触した際には、軽く会釈をし、目だけで笑いかける。
信長の内意を受けた鷹迅の命で、領民と慣れ親しむ為だ。
親しみがわけば、情報収集が容易になる。
民の情報の重要性に信長は気づいている。
それでも、領民と行き会えば、原則的には笠を傾け顔を隠す。
元々、布で鼻から下が隠れているから、素顔は判らない。
これは、まだ先の事だが、小さなトラブルを数多く解決するうち、領民達は偉ぶらず、寡黙だが、誠実なびと衆を頼りにし、また、彼等の短いが、柔らかい甲賀言葉に好感と好奇心を抱き、気軽に話しかけてくるようになる。沢山の情報が集まり、重要性が高いと判断すれば、鷹迅を通して信長まで伝わる。
信長には領内の色々な出来事や情報が、手に取るように判るようになる。
他国探索の百五十人は、着いた次の日のその夜出発していった。領内あちこちに忍び込む組も、その夜から活動を開始する。
警戒の組は、領地東側の国境の森などに、当然忍び姿で潜み、敵侵入に備える。
また鳴海戦の敗因を探る為に来るであろう、今川や松平の諜者が建立中の三つの塚を荒らす事にも備える。
津島湊改方館にも、当然、鳩小屋が設けられる。
そして各組は二月ごとに入れ替わる。移動は大変だが、走る事は忍者には欠かせない鍛練だから逆にそうした方が利点が多いのだ。
信長は、びと衆を通常の野戦には出さないと言った約束を守っている。
次の朝、鷹迅が残り、信長一行に笹百合が、鷹迅の馬でついてくる。
馬には、いつか一益が担いできたような大葛篭が縛りつけてある。
信長は笹百合の馬術が巧みなのを見てとる。
「笹百合を濃に付けるとなると、おおかたの事は濃に話さなかん・・・左近将監、ええかのん」
「ええもなんも、御方様やから・・・逆に隠し過ぎたやもでっせ・・・銃床銃架は御方様の御手柄やし、思うたら、これまでは御無礼してたようなもんでっせ」
「うん。されば話す・・・公には笹百合は其方の遠い縁者とし、指先は六人衆同様、甲賀の風習で革手をして隠す」
一益が、突然ぶっと吹き出す。
「如何した」
「いや、笹百合はんが、とひょうものう(とんでもなく)見目麗しいさけ、百地はんの顔思い浮かべたら。あの橡(どんぐり)面が。あははっ・・なんであげな橡から笹百合はんみたいなべっぴんはんが」
「あははっ、あははっ、確かに、確かに、不思議だのう。あははっ、つるばみ百地からな。あははっ、ぎゃははっ・・・腹痛てえ」
風以下五人の忍びには当然聞こえているから、五人とも笑いたいが、笹百合に遠慮して堪えている。笹百合は風景に気を取られていて、内容が正確には判らない。問い糾す事も怒る事も出来ず、綺麗な目を吊り上げて最後尾を行く。
雪丸が不知火に囁く。
「御嬢、怒ってはるで」
「あかん、俺は前からなんやわからんけど、あの御方は恐いんや」
左右次も加わる。
「あれはきついからな・・・きついが着物着て歩いてるようなもんやからな」
柱助が馬を寄せて言う。
「あれは人やない・・・鋼が人の形してるんや」
風が嗜める。
「おまはんら、滅多な事言わん方がええで。御嬢には全部聞こえてるで・・・見てみい、睨んではるやないか」
言われた四人は「うへっ」と肩を竦め信長を追い越して進む。
信長が振り返り、怒りの表情の笹百合を見る。
声をかけようとしたが、止める。
「左近、左近将監、もう笑うてはならぬ・・笹百合が怒っとる」
「えっ」
振り返り一益も肩を竦めて言う。
「ほんまや・・・あかん、わては女子の扱いはさっぱりや」
「俺もだがや・・・もう堪えて静かに参ろう」
言うと同時に信長が吹き出し、一益もまた吹き出し、五人も習う。
一行は清洲城へ帰り着く。
信長が侍姿のままの笹百合を伴い、濃の居室へ行く。
信長は、あゆちの事は除き、これまで隠してきた事柄の大半を話す。笹百合を警護として付ける事も伝える。
濃はにこにこと聞いている。
「笹百合は、その伊賀の百地様の娘様やろ。身分ある御方に、わっちの女中さしてええん」
「ほれはよ、伊賀、いやびと衆がよ、俺も其方の事も大事に思うてくれとるでだでだわ。
百地が大事な娘使うのは、此方をも大事に思っとる証だがや・・・役目は警護で女中ではにゃあ・・・ほんだで頼むわな、でええんだわ」
「へえっ、よう心得ました。ほしたら笹百合、御頼みするえ」
「ははぁっ」
笹百合が畏まり、衣装を着替えに別室へ下がる。
暫くして戻った笹百合を見て、信長も濃も絶句する。縛っていた長い黒髪を下ろし、奥務めに相応しい,木綿、辻が花染めの小袖に細い帯を長く垂らし、薄化粧した笹百合は見たこともない凄艶な美しさだったからだ。
「まあなんと」と、濃。
「ううっ」と、信長。
信長が我にかえって言う。
「急な事で其方の部屋の準備が間に合わぬ」
「わては、御方様の御側なら、廊下の隅でも」
「廊下はあかへん。今晩はわっちの隣で寝たらええんやお・・・お殿様、ええずら」
「うん。ええええ。そうせい、そうせい。されば俺はまだやる事あるで、笹百合、身重の濃を頼むでよう・・・励め」
信長はそそくさと、居室へ戻る。
一益と五人が待っている。
「お殿様、御方様の御気色は」
「わかってくれた・・・だがの、俺は何やら嫌ぁな予感がする」
「何でっか」
「濃と笹百合がよ、仲睦まじくなったらよ、何やら恐がい、敵わんとかよ・・何ともならん、参ったとか言わなかん、現し(存在)になるような気がしてしゅあないんだわ」
風が即答する。
「あり得まんな」
残り四人が強く頷く。
「其方ら・・・他人事ではないぞ・・・いまから策を思案しとけ」
一益が爆笑する。
皆、大笑いで、その日は終わった。
明くる日、城の主だった者に、まず、三百人が、修行目的で様々な仕事に就く事が知らされる。
三百人は飽くまで領内で、甲賀出の侍として主に警備警戒を主軸に働くとし、彼等の正体や他国探索については知らせない。
その事は、領内各地の、城砦の主将、土豪や地侍にも簡単に通達される。
次いで笹百合が紹介される。
彼女は、変色した指先を、肌色の特殊な塗料のような物で塗っていて、革手は着けていない。
信長はそれを見ているから、当然、革手には触れない。
信長は、濃に後からそれを聞き、普段は使わない七放化の変装道具と知った。
甲賀の習慣だとしても、女の身での革手装着が不審を招く恐れを除く為に、笹百合が使ったのだ。
その美貌に、男共は、眼の色が変わり、女共の多くが嫉妬に顔を歪ませる。
政秀や、信昌までも、眼を輝かせている。
その後、話しを漏れ聞いた、小姓や近習達が、なんとか濃の居室に近づこうとするが、五人衆に気配を覚られ追い返される。
濃が、安産の為、城内をあちこち動くと、笹百合もついて回るから、それをまた男共が追う。
暫くして、其れ等の者が、信長から大目玉を食い、騒ぎは収まった。
風が言上する。
「お殿様、わてらこれまで六人でやってきましたよって、一人欠けると様々塩梅悪うて」
「笹百合がおってもかのん」
「ほら、御嬢は業前確かで、そこはええんやけど。御嬢は御方様に張り付かなあかんし」
「あははっ、其方等はやりにくいのであろう」
「素直に言うたら、そうでおます。御嬢には指図しにくうて」
「ほしたら・・・」
「あと一人呼びたいんでおます」
「ええよ。承知致した」
続けて左右次が言上する。
「お殿様、此度はろ棒の褒美やて、またただけに黄白頂いて」
「ろ棒の効はどえらけにゃあがや(とてつもない)。あんだけばか(あれくらい)安過ぎるくらいだわ。それが如何した」
「恐れ多い事やけど、わてだけやなしに、わてら皆、黄白やら御扶持貰うても使うとこがないんでおます・・・・兜鎧、刀に槍、立派なん購うてもまだ余って余って」
「其方等も、偶さかには遊びに使うとか・・城下の傾城宿(売春宿)には眉目良いのが揃っとると聞くがや」
「いや、わてらはお殿様からは離れへんし、遊び女は買わへんのでおます」
「ほうか、ほしたら国の家人に送るとかは」
雪丸が答える。
「硝石運びの仲間に託し、以前に送ったら、こげにただけな御宝、置くとこあらへんと、大半を送り返してきよったんでおます」
「ほうか・・・・・ほしたらよ、其方等の持て余す財貨はよ、俺に預けよ・・・元の額は預り証で相違なくしてやるでよ・・先々には城の財貨として、商人やら大百姓共などに貸し付けてよ、利を加えて返済させるでよう。金が生きるし、其方等の財貨も増える・・要る時は、いつでも出せるよう信昌に言っとくで、ほしたら置く場所も案じんでええだろ。俺にも徳。其方等にも徳」
「ははあっ」と、五人が声を揃える。
「ほれからよ、俺はこれまで其方らの家人の事も、尾張へ来るまでの事も何も聞かずに参った・・・それは其方らを軽んじてではない。折々にと思ったからじゃで、判ってくれよ」
「そげな事はよう・・・」
「ほしたらよ、鷹迅は居らぬが、まずは其方等の家人の事聞かせてくれぬか」
五人が順に語る。
雪丸には、母と老祖母。風の父は、戦の闘いで、片腕がなく母は健在。柱は孤児。左右次こと左は両親、祖父祖母が健在。
不知火は母が産後に亡くなり、父一人。鷹迅の事は風が語り両親健在。
「左様か・・・柱助は何かと辛い事もあったであろうな・・・察するぞ・・・ほしたらよ、其方等の屋敷もそのうちに出来る。国の家人等を尾張へ呼んだらば」
五人が目を輝かせる。風が聞く。
「よろしいんで」
「百地、藤林に無断はならんだろけどよ、鳩飛ばして聞いてみい・・・あと一人の事もよう」
五人が一斉に「ははあっ」
次の昼過ぎ、小六が目通りを願ってやって来た。
「おっ、蜂小、まだ祝いが足らんと、なんぞ持ってきたのかのん」
「お殿様、転合ばっかり。ええ話し持ってきたがね」
その話しとは以下の通り。
犬山の木曽川対岸の伊木城城主の伊木清兵衛は、斎藤方の土豪なのだが、元々は川並衆であり、小六と昵懇で、犬山の降伏臣従を聞き、信長への臣従を望んで小六へ仲介を頼んでいるということだった。更に伊木城東南の字留間城(鵜沼城)の、美濃の虎と呼ばれた大沢次郎左衛門までもが、それを漏れ聞き、伝手を頼って小六に仲介を求めていることだった。大沢は美濃斎藤の被官だが、伊木城が寝返れば、己が孤立化する事を恐れての申し出のようだった。
「お殿様・・・如何きゃあも(ですか)・・・美濃の御舅様への手前は御有りだろけどよ」
「うん。此方を頼る者を足蹴にしたらたわけだわ。まあ確かに舅殿への遠慮はあるわ・・ほんだけど、美濃もなにやら焦げ臭いでの」
「おうおう、御舅さまと六尺五寸(斎藤義龍)が不仲だ言うでな」
「親子喧嘩起これば、俺は舅殿を助勢いたす。臣従は許すが、そのような異変起きるまではこれまで通りにせよと伝えよ・・・裏切りを悟られぬようにとな」
「ははっ、心得たがね」
「我に益する話し、有りがたし・・・ほんだけど、御主は。まあ大概に俺の家来にならな(ならなくては)・・・俺との仲は近隣で知らん者おらんぞ」
「判っとるがね・・・お殿様が戦で負けたら、俺も終いだがね・・ほんだけどよ、俺はどうでも窮屈が嫌なんだわ・・あれいかん、これいかんが堪えれんのだわ・・・・まあちいと時をよう・・・・」
「ふ~ん。判った。気の済むよう致せ」
「恐れ入り奉りまする・・・・あと一つ」
「申せ」
「本人曰くだで真偽判らんけどよ、お殿様、木下藤吉郎って知っとらっせるきゃあ」
「猿か、知っとるがや・・・天王坊で左近将監の馬番やらしとって、もう二年程前に逐電した下郎だがや」
「ほしたら言い分通りだわ」
「猿が如何した」
「病で行き倒れになりかけを手下が拾ってきてよ、それ以来俺の屋敷で小者やらしとるんだわ」
「ほうか、ほんならええがや」
「いやいや、あのよう、彼奴は賤しい出だけどよ、見所ある奴でよ、あちこち歩き回って見聞広めた言うだけあってよ、なんでかようけ知っとるしよ、根が賢けえし、気配りできる才覚がなによりなんだわ。ほれに剽げ話(おどけ話)や色話が面白えもんで、屋敷の女子衆からまあ、好かれるわ好かれるわでよう・・・ただ腕はからきしだけどよ」
「あははっ。小六よ、長々と猿を褒めたの。元々彼奴は俺が八右衛門んとこで、使える思って拾ったんだで、そのような事は全部承知しとる・・・その後は馬番やらしとったで、確と彼奴の器量は見定めとらんがの」
「なんだあ、はよ言ってちょう」
「間に合う小者なら、そんでええがや」
「いや、彼奴は口にはせんけど侍になりてゃあ思っとる・・・俺んとこに置いといたら一生小者で済んでまう・・それは惜しい。必ず惜しい」
「望みを言え」
「まず、逐電の咎めは無しにしたってちょ。ほんで、お殿様の眼力なら藤吉郎の真の器量判るがね。ほんだで、御手許近くで使ったってもらえんきゃ。お殿様の御家来衆は皆、勇武は優れとるけど、藤吉郎みてゃあな奴は居らんでよう・・・使う場面必ずあるって。これこの通り」
「其方はやはり侠気あるの・・・下郎の為に頭下げるとは・・逐電は、猿は正式に雇ったんだ無ゃあで、咎めるも何も無いわさ」
「あははっ・・ほりゃあよかった・・推挙は偶さかに気が向いたでだわ・・ほんでお殿様っ」
「褒美はまだやれぬ」
「判っとるがね。その代わりよ、今川の笠寺砦、一日で落として、三の山でようけ討ち取ったやり方教えてくれんかなも」
「あははっ、それは言えぬ・・其方が家来になれば教えぬ事もない・・聞かずとも、其方の手下が大勢物見に来とったがや」
「げえっ、御気付きで」
「あははっ・・いや、気付かぬ・・・それどころではなかった故・・・其方ならやると思ったで、鎌掛けたった」
「まあふんとに御人が悪りい・・・それは置いといて。手下がよ、笠寺砦や三の山ん時、五町(五百五十m)くりゃあ傍まで近寄ったらよ、どっちの時もよ、正体判らんよ、どえらけにゃあ恐ぎゃあ獣の気配がしてよ、手下は怖がってまって、だあれも闘いの様見れずに帰って来たんだわ」
「ふ~ん。二十人全部か」
「ちゃうちゃう、五十人だがね・・・あっ、また引っかかってまった・・・あははっ、あははっ」
「強い獣が気配をのう・・・家来共からは聞いとらんし、俺も覚えないがのう」
「お殿様は知っとらしても言わっせんわな。
仕方にゃあ・・・ほしたらお殿様、藤吉が事はいっぺん御思案頼むでよう・・・御心定まったらまた卍旗揚げてちょ」
翌日の昼過ぎ、卍旗が揚がり小六が駆けつける。
「蜂小、其方は猿が話が上手で女子衆から好かれると言うたの」
「ほうだがね」
「ほしたらよ、そこを見込んで一つやってまいたい事あるで、猿がそれを果たしたら、俺の傍で使うてやる・・・どうじゃ」
「有りがたし・・・猿は城外に控えさしたるで呼んでもええきゃ」
式台下に土下座する藤吉郎は、薄汚い小袖に半袴、腰には見窄らしい脇差しで、草鞋の足先は真っ黒だ。
「猿っ、やっとかめだがや・・雇って欲しいか」
見下ろして言う信長に、藤吉郎はただ頭をがくがくと振る。
「ほしたらよ、古渡城行ってよ、我が母様を御慰めさし上げてよ、勘十郎が死んどる事を覚られるよう致せ・・・その汚らしい態ではならぬ・・・髪身体を清めよ。衣服はくれてやる」
「へへ~っ。ほれが果たせたら、手前は」
「まことしゅう(正式に)雇ってやる」
「ど、どのようにしたら」
「その才覚を試すんだがや。己で案じよ。古渡の新五郎には、伝えとくで、信昌んとこ行って衣服貰え。誰ぞ、猿を井戸へ案内してやれ」
半月後、土田御前が、林秀貞に信行の葬儀をするよう命じ、信秀と同じ万松寺で盛大に執り行われた。
信長は喪主を務める。
その席で、信長は藤吉郎の働きぶりを秀貞から聞く。秀貞は囁くように話す。
身奇麗にした藤吉郎は、始めの日、信行の遺体と土田御前がいる異臭が篭もる部屋前の庭隅にただ座って一日を終えた。土田御前は付き女中に抱えられるように二三度出入りしたが、藤吉郎には気付かなかった。
明くる日、厠へ行く衰弱した土田御前を介助する付き女中が気付き、何者かを問い質したが、信長の命で来たと土田御前が聞き激昂した。汚らわしい等と罵られ、下がれ下がれと言われて藤吉郎は一旦は下がったが、しばらくしてまた庭隅に戻った。
三日目には、土田御前が、まだいる藤吉郎に怒ったからか、震える手で、茶碗や文箱等を投げつけ、彼は額や頬に小さな傷を負った。
四日目五日目も同様で、付き女中にまで、水をかけられ、炭を投げつけられ、六日目には薙刀で斬られそうにもなった。
七日目に土田御前が、てこでも動かない藤吉郎に何故去らぬと付き女中を介して聞き、藤吉郎はこう言った。
「御前様の御手伝いをせよとの御下命だもんで、それを果たすまで、僕は御手討ちになっても去ぬことはできんのでござりまする」
藤吉郎は、土田御前が食事をしないと聞いていたから己も水しか飲まない。だから見る見る痩せていく。土田御前がそれに気付き、少し心を動かす。
夜は、林秀貞の配慮で、足軽長屋で布団に寝た。飯も与えられたが、全く喰わない。
その時点での信行の亡骸は、殆どもうミイラ化しているが、残った身体に蛆が沸き、悪臭を放っている。両目は蛆に食われて消失し、赤黒い穴と化している。土田御前は、その蛆を箸でつまんで、必死に取り除こうとするが、身体が衰弱して、手が思うように動かない。
三人の付き女中は、促されても、気味悪過ぎて手伝えない。
たまに開け放たれる部屋の様子を垣間見た藤吉郎は、それを手伝いたいと何度も願う。
その度、下賤の者に、信行の身体には触れさせぬとの土田御前の言葉を介した付き女中に怒鳴られる。
十日目まで、同様のやりとりが続いた。藤吉郎は空腹で立ち上がれないほど衰弱したが、藤吉郎より長く断食している土田御前も同様だ。
このままでは、信行復活が果たせないと覚ったのか、土田御前は藤吉郎が行ってから、十一日目に重湯を啜る。
庭隅に死んだように踞る藤吉郎に哀れを覚えたのか、付き女中に重湯を与えさせる。
藤吉郎が笑顔で礼を述べ、また手伝いを申し出る。土田御前がついにそれを許し、十二から十四日目まで、二人は朝から晩まで蛆を取る。しかし、蝿が防げず、蛆は途切れない。十四日目の夜、藤吉郎が土田御前に言う。
「御方様、恐れ多いけどよ、蛆は死肉か腐肉しか喰わんがね・・・生きとる肉は喰わんがね。ほんだでよ、若殿様は、まあ死んどらっせるんだがね。はよ焼いてくれと仰せだがね。成仏してゃあと仰せだがね。御得心してちょうでゃああそわせ(納得してくださりませ)」
涙をぼろぼろ流して、必死に訴える藤吉郎に、土田御前が我に帰ったように言う。
「言われてみれば、其方の言う通りじゃ。信行のこのような惨い身体このままにはしておけぬ・・・信行はもう三途の川を渡らねばのう。身罷ったと分かってはいても、認めたくなかったのじゃ・・・・わらわの過ちであった・・死人はそれなりに扱わねば・・・藤吉郎とやら、礼を申す・・・手荒き真似は許してたもれ」
藤吉郎は、安堵からかその場で気絶したから、そのまま部屋を与えられ衰弱を治している。
土田御前も激しく衰弱しているが、付き女中に助けられ、よろめくよう葬儀に参列した。
ただ信長とは、眼も合わせない。
葬儀が終わり、秀貞が聞く。
「猿めは、清洲へ戻しまするか」
「いや、暫くはここへ置く。古渡は勝三郎(池田恒興)を城代と致す故、其方は那古野の仕置きに戻れ・・・母様の様々では大儀であった」
「ははっ。畏まりて候」
藤吉郎は、五日目に起き上がり、城代としてやってきた恒興から、信長の指令を聞くとまた土田御前の部屋の回りで勝手に雑用をする。
土田御前も葬儀から五日程は寝込んだが、食事を採るようになり、歩けるまで回復した。
藤吉郎に感謝はあっても、身分が違い過ぎてか、土田御前は見て見ぬふりをしている。
しかし、藤吉郎が陰日向なく、日がな一日、無言で何かとやることを見つけては取り組む姿に段々とほだされてくる。
「其方は猿と呼ばれておるのか」
直接聞かれた藤吉郎は、無言で猿真似を上手にやる。
庭の木にするするとよじ登る。枝にぶら下がる。きゃっきゃっと鳴き真似し、木の実をがりがり囓る。歩き方もそっくりにこなす。
土田御前が、口を押さえて笑う。付き女中共も、袂で口を隠して大笑いする。
それを境に土田御前が、声をかけるようになり、会話が増えて行く。
すると、藤吉郎は、待っていたように色々な話をする。
己や他人の失敗談、成功談。歩き回った他国の話。怪談。剽げ話。伝説。日が過ぎてからは、色話もする。
土田御前も付き女中達も熱心に聞く。段々藤吉郎を待つようにまでなる。
話は尽きないし、とにかくどれも面白い。土田御前や、女中共もはしたなさなど忘れて笑い転げる事もある。藤吉郎の話し方が巧みだし、知識経験が豊富だからだ。
藤吉郎は土田御前の気色を戻せと信長に命令されているのだ。
そんな日々が続き、藤吉郎は古渡城の人気者になっていった。
そうなっても、仕事をてきぱきこなし、腰が低く笑顔を絶やさない藤吉郎は誰からも好かれる。
古渡城へ行ってから二月後、信長から清洲へ帰れとの命令が届く。
別れを告げた、土田御前以下、藤吉郎のファンとなった大勢の人々が涙を流して悲しむ。
「藤吉郎、信長の命なら致し方ない・・・されど、清洲からここは近い。暇をみて遊びに参れよ・・・わらわも皆も待って居るほどに」
藤吉郎は、そう言った土田御前から二十貫文(約三百万円)の褒美を貰い、清洲へ帰っていった。
「猿っ、ようやった。命懸けのやりようは聞いたがや・・その後も、母様の御気色取り戻したは天晴れである・・・母様は手元で使いたいとまで言われたようだが、それは御断りした。されば其方は只今より士分に取り立てる。俸禄は十貫文。村井吉兵衛、島田所之助の下僚といたす。両名は民政をしておる故、其方はその手足となりて働け。働きながら学べ」
「ひえ~っ、い、いきなり、し、士分に。ほしたらよ、手前は荒し子や足軽だなしに、侍になったんきゃあも」
「確とそうだがや・・・だがの、侍ならば、武芸が出来てもっともなれば(当たり前)、その鍛錬もせねばならぬぞ。刀と馬はあるか」
「刀など、この鈍の脇差し一本でごじゃりまする。ほれに、馬など値高きものは僕にはござりませぬ」
「支度の用途(費用)に十貫文くれてやる。鎧兜は後でええ。大小の刀に槍、衣服を整えよ。馬はいずれ駄馬などくれてやる。嗤わられぬ様致せ。ほれと其方を推奨した蜂小への礼を忘れてはならぬ」
背後の光が明るく輝く、木下藤吉郎はこのとき十六歳である。