あゆちのびと衆 第一章 その九
神使
天文十九年もやがて暮れる。
小六に命じた牛馬輸送も順調だ。小六は金打した手前、成し遂げなければ面目が立たないから、無償で(信長には後払いと言われている)励んでいた。
この頃の武士階級は、「面目」にことのほか拘る。面目が立つ立たない、潰れる潰される事には強く反応する。
半ば盗賊の親玉のような小六でも、武士にかわりはなく、半強制的にしかも口での金打と言えど、大勢の前での事だから、約束として守らないと、面目が潰れるから仕方がないのだ。
では面目が潰れたらどうなるのか。同じ武士階級から嘲笑われ、信用を無くし相手にされなくなり、最悪は武士階級からの脱落も有り得るのだ。今回の顛末は、信長の役者が何枚も小六より上だったからなのは明らかだったが、武士の金打とは、それほど重大な彼等の約束行為なのだ。
そして、那古野城の城下のかなりの畑では、これまで尾張にはなかった作物が植え付けられている。信長がそれぞれの村役を呼び、津島商人に購わせた種を与え、彼等に有利な納税条件を示して行わせているのだ。それが何かは春までは他の者には判らない。
それらは別にして、この頃、那古野城下だけでなく、尾張平野のあらゆる場所の領民の間では奇怪な噂が飛びかっていた。
闇を切り裂き風のように走る、巨大な何かを大勢が目撃していたのだ。
黒い影と共に噂になったのは、黄色や金色に輝く六つの眼のような不気味な光と、松脂に似た鼻につんとくる香りで、光を真っ赤だったと言う者も居れば、六つ共に色が違うと言う者もいた。
そのせいで、那古野城下は暗くなってからは人通りは絶え、聞きつけた、城下警備の侍達の手に持つ松明の明かりが、鬼火のように町中を行き交うばかりとなっていた。ただ具体的な被害は何ももたらされてはいなかったし、そういう奇怪な現象は十日程でおこらなくなった。
六名が来て十日が過ぎた。
信長は彼等の名前以外は彼等についてまだなにも知らない。だが忍びの業の事も、彼等の生い立ちや家族の事も、彼等から話せば聞く気はあるが、こちらから聞く気はない。信長には聞かなくても、彼等の背後の色で最も重要なその心情が解るからだ。またそういう事柄は時と共にだんだん伝わるとも思っているからだ。
六名は昼夜信長の側を離れない。夜間は三人づつが交代で二ノ丸御殿全体を見張っている。不審者発見時は、なるべくなら無傷で捕らえ、手向かいされてやむを得ない時は成敗の許可を信長から貰っている。
六名は寡黙に誠実に務める。普段、信長が何も言わなくても先を読み何事にも遅れない。と言って、信長への、おもねり、こび、追従等は全くない。
野駆けの時は、脚でと、風が最初に言ったが、それをすれば、正体露見となるから、相談の上、それぞれが馬を貰い、信長達と同じばさら姿で一緒に駆けている。
馬術が巧みな信長が見ても、彼らの馬を操る技術は優れているが、それを誇るような態度は見せないし、口にもしない。
毎日の城内での鍛練時は、六名は参加せず、鍛練場所を遠巻きにして警護する。
御殿で信長が客や重臣家臣と会う時は、これまでは信長が仰々しいと誰も置かなかった役目だが、公の場所での行儀作法を覚える名目で、雪丸が信長の佩刀を捧げ持って背後に、あと五人は二人が座所下左右に座り、三人は広間入り口廊下に控え、万一に備えた。
六名は小姓達とも打ち解けて、もう仲良くなっている。信長はそんな彼らの覚悟と心意気がとても気に入っていた。
(なんの縁もなかった者達だが、もう長き間一緒のような気がするがや・・・武士の嗜みもよう心得とるし、歳も同じ位で、背中もほがら色で、兄、弟がごとき暖かき心地になるがや・・それにしても、小六を縛ったのも、水掛ける呼吸も、活いれたのも、鮮やかな手並みだったがや・・・年若き者達なれど、まさしく伊賀の手練れどもだがや)
六名は、小南の言った忍びの掟を守り、決まった食べ物以外食べない。
忍びに必要な事とは解っていても、心が痛んだから、信長は、せめて、と、熱田から毎日新鮮な魚介を取り寄せ、賄い方に命じ彼等に供させた。だが、食べ具合を信長が聞くと、ほんの少ししか食べていないと判り、ついには、風が直接賄い方に、供するのは止めてくれと丁寧に断ったと聞いて諦めた。
賄い方は、甲賀の風習なのかと解釈して詮索しない。
炮烙火矢用陶器製作も順調だったし、火縄銃の銃床も、城にある五十挺分はすでに完成していた。
信長が、ふと言い出して、鎧装着時の銃床使用を試させたが、足軽用は問題皆無で、信長達が着けるような全身を覆うタイプでも、鎧の肩覆いの部分が少し邪魔にはなったが、ずらせば特に問題はなかった。
銃床の作り方も、鉄砲放ちの内の手先が器用な者が繁造に習ってマスターしている。繁造は監視は解かれたが、未だ信長の許しがなく城からは出られない。
だが彼はそれを苦にもせず、城内を咎められぬ程度に歩き回り、家屋や設備の傷んでいる箇所を見つけては、嬉々としてそれを直したり、いずれ授かるであろう、信長と濃の子の為の玩具を作ったりして、それを濃に報告して暮らしていた。
濃はその度、小銭をやったり、料理や酒を増やしてやったりして報いていた。濃は、父の道三と同じ年頃の繁造にその面影を見ていたのかもしれない。
十一日目の朝、信長が、鍛練に向かう為御殿玄関を出ると、六人はいつものように、バサラ姿で式台下に控えていた。
信長が式台を降りると、縫こと不知火が近づいて囁いた。
「お殿様、今日のよさり(夜)、お見せしたいもんがあるんやけど、ちいと時を頂けまへんか。滝川様にもやさけ、お呼びして頂けまへんか」
夜になった。
長屋の裏に信長と密かに来た一益が立ち、六人が片膝で向かい合って居る。篝火が一基だけ据えてあるから、真っ暗ではない。パチパチと松の木片が燃える音だけがしている。雪丸が立ち上がり笑顔で言った。
「お殿様に滝川様、わてらには、まだ同輩が居てますんや。やけど、お殿様がわてらを、あいなくされ(気に入らないと扱う)はるかもしれへんよって今まで言わんかったんでおます。御無礼な問いやけど、わてらは、この先もずっとお殿様のお側でお仕えしたい思うてまっけど、お殿様は如何でっしゃろ」
「言うまでもない・・・・国を離れたお主等には、頼みにくき事ながら、なることなら、せめてあゆちの事が成るまでは共に居て欲しいがや」
雪丸が嬉しそうに言う。
「勿体ないお言葉。有り難き事でおます。それ伺ごうたらもう、がいっと(力一杯)勤めるだけやさけ。ほな、呼びまっさかい、ちいと化転(驚く)しはるか、やけど、険しい事はありまへんよって(危険はない)」
雪丸が懐から、何かを取り出し、口に咥えて強く何度か吹いた。
音は全く聞こえない。
信長が不審に思い、その訳を聞こうとしたとき、それら は来た。
闇の中から、音も立てず、三匹の獣が現れたのだ。
高さが三間半(六㍍三十㌢)もある、那古野城の土塀を飛び越えて来たとしか思えないのは、物音が全くしなかったからだ。
一匹は真っ黒で馬程もある巨体で、頭の高さが七尺(二㍍十㌢)よりやや低く、鼻先から尾の先迄は四間(七㍍二十㌢)はあり、重さは七十貫(約二百六十㌕)はありそうだ。
二匹はそれぞれ真っ白と灰色で、高さ五尺、長さは三間位、重さは三十五貫(約百三十㌕)もあろうか。
二匹も、 犬だとしても誰も見た事のない大きさだった。三匹の身体全体が何かに覆われているかの如く鈍く光っている。三匹とも、大きくとも、均整がとれていて、非常にしなやかな外見で、その姿は、恐ろしいというより、美しいという言葉が当てはまる。
雪丸が、片手で何か合図でもしたのか、三匹は信長達の前に大人しく踞った。
三つの口は閉ざされ、六つの眼は金色に輝いて、何故か松脂のような香りが漂ってくる。
耳と鼻が犬程尖っておらず、肩幅狭く、胴が短くて尾が長い。紛れもない狼の特徴だ。
信長も一益も驚きの余り言葉が出ないが、一益は覚った。
(あんときのけぶらはこいつらやったんか。なんちゅういかい(なんて大きな)・・・・狼か・・・ほんまもんのがおやがな(本物の化け物だ)
踞った一頭とは視線が合い、二頭は見下ろす高さの視線の信長がやっと言う。
「こ、これは・・お、狼か・・・・・・・
これほどの狼が伊賀には居るのか•・•・・魔性が来たかと思ったがや・・・俺はふぐり(睾丸)がぎゅっと縮んだがや・・・そうか、尾張中で騒がれとったのはこの狼どもを見たからか・・・ほんでお主等は、これを如何に使うのか」
驚く信長だが、三匹の狼の背後、と言うより、三匹の身体全体が、それぞれ金色の靄のような輝きに包まれているのにも更に驚いているが、それは口に出来ない。
「へいっ、わてらと一緒にお殿様を御護りするんでおます・・・尾張へ来てもう十日、これらはこの辺りの臭い覚えましたさけ、それで御城下も御騒がせしてもうたんやけど、まずはそれが成りましたさけ、胡乱なもんは、もう滅多にここへは寄れまへん・・・お殿様、これらの事は部屋で話させてもろうて、人目がありますよって、いっぺん去なさせまっさけ。名ぁだけ覚えてやっておくなはれ」
黒い巨体の狼は影と書いて「影」 灰色の個体は「剋」 白色は白と書いて「白」
雪丸が、また笛のようなものを吹き、片手を振ると、三匹は立ち上がり、身を翻して闇に消えた。
信長の居室。
部屋へ入るなり、一益が「あの狼は、」と何か聞きかけたが、信長が手で制止して雪丸の説明を聞こうと言った。八人が車座に座り信長が膝を崩せと言って全員が胡座をかく。雪丸が狼についての話を順序立てて話始めた。以下が内容だ。
まず伊賀では、狼を大神と呼び、大昔から、伊賀近辺の山奥から狼の産まれたてを拐ってきて育て、忍び仕事の補助をさせてきていた。
狼は慣らす事が難しいが、慣れれば犬より遥かに優秀だ。忍者にとって、犬が一番の大敵なのだが、この時代は多くの大名が犬を警備警戒に使っていた。だが狼を使えば犬はその臭いだけでパニック状態になり、文字通り尻尾を巻いて役目が果たせなくなる。だから伊賀忍者は狼を危険を犯しても拐ってきて撫育し、使ってきたのだ。
拐う際は、多産の狼の仔を一匹だけ拐ってくる。
親狼は、拐われた事に気づいても、残った仔達を放置できないから諦める。
だが、もし全部の仔を一度に拐うと、親狼は絶対に諦めず、どこまでも臭いをたどって追ってくるから、それはタブーとされていて、今までに例は無いが産まれたのが一匹だけだったらその個体には触らないのも掟とされていた。
そして、仔狼を拐うのは、六名の様に修行を積んだ者の卒業試験として行われ、全て雄の、影、剋、白も、それぞれを雪丸、風、鷹目が、赤目四十八滝の奥、大峰山、吉野山から早春に拐ってきて育てた。
(柱、右、不知火は修行時期が異なり、皆、仔狼は拐ってきたが、それは普通サイズにしか育たなかった)
そして、巨大な狼の親はやはり巨体かというと、それは意外に違って、普通の体格の親から突然に大きく育つ仔が産まれ、それは育ててみなければわからない事で、その産まれる訳も謎だった。
だが、影に関しては、これまでの伊賀の歴史上で当たり前だが最大と言うことと、剋と白も歴代の五指に入る事が、百地らが古い記録を調べて判明した。
信じ難い事だが、三匹の狼は産まれて、丁度一年だった。
百地と藤林は、この時期に三匹が伊賀へ拐われて来て、彼等でさえ肝を潰す大きさに驚異的なスピードで育った事から、それが敢国神社の三柱の神からの神使の眷属だと断じ、雪丸達に連れて行くよう命じたのだ。
そして、雪丸の笛は犬笛同様、狼にしか聞こえない音を出す、伊賀に古くから伝わる道具だった。
そのエサは、三匹が己で雪丸等に許されたタイミングで、近い距離の山野で、猪や鹿、熊でも狩って食べるのだ。
話が大体終わり、雪丸が黙ったので、信長が茶を入れるよう命じ、六名が一斉に取りかかり、全員に茶が行き渡ってから信長が口を開いた。
「狼を大神と・・・神の眷属とは・・・・俺は我が眼が信じれん・・・あのような大きさなるに、まだ一歳とは・・・ほんだけど、エサを己で獲るなら、三匹はお主等になんで従う。エサ貰って主従が成り立つんだがや」
雪丸が飲んでいた茶椀を置いて答える。
「・・・それは、使命、やろと思てます。使命持ってるさかい、エサ貰わんでも三匹はおんなじ使命のわてらに従うんでおます・・・わてもこの五人も大神のことのは(言葉)わかりまへん。やけど、大神はわてらのことのは解するんでおます・・・不思議やけど、ほんまなんだっせ。百地と藤林の大旦はんが言わはったように、三匹は神さんの眷属(神の一族)やから、神さんから使命貰って現れたんやと思うてるんでおます。神さんが、あゆちを成す事に感応しはって遣わさはったんにちがいないんでおます。やから、わてらの命聞く言うんやなて、三匹は使命に沿ってわてらと一緒に働こしてるんやとしか思えへんのでおます。」
「そうか、神が感応してくれているのか。三匹はその為に・・・」
雪丸は、影を育てた様子を語る。
飼育方法は先輩忍者から学んでいた。
怯える影を懐で暖め、牛の乳を与え、三日で乳を飲まなくなると、山で鳥や兎、狸に貉等を捕らえ、その生肉を雪丸が噛んで柔らかくして与え、便の出が悪くなると、尻の穴を舐めてやる事までもあった。
寝る時も必ず抱いて寝てやって、影が、急激に育って懐には勿論、抱き抱えるのも出来なくなるまで、雪丸は肌を合わせるよう育てていた。
影は十七日で、普通の狼の大きさになり、その後は一日事に眼で見て判る勢いで、「ぐぐっ」 「ぐぐっ」と大きくなり、三十日後には、今の大きさになった。
それは、伊賀中の話題となり、雪丸が居た伊賀の下神部の小南の屋敷は、連日、見物の伊賀衆が引きも切らず、何日か目には百地と藤林まで来て、雪丸等は、その整理と接待に忙殺された。見物に来た伊賀衆は、百地、藤林も含め、影の大きさに肝を潰し驚愕した。
そうしているうち、特に何かを仕込んだということもなく、影はまるで雪丸の言葉が判るように活動するようになった。その時はわからなかったが、剋も白も急激に育ち、それぞれの育て親の風と鷹目の言葉が判るかの如く行動するように同時期になっていた。
かなり複雑な命令もちゃんとこなす。
三匹は引き会わされ、すぐにお互いを舐め合い、臭いを嗅ぎ合って仲間と認め合い、行動を共にするようになった。
その後、雪丸達に命じられると、三匹だけで狩りに行くようになり、猪を指定すれば猪を、鹿なら鹿をと影が代表するように咥えて戻るようになった。
そして三匹はその頃から、山奥へ行くと、必ず身体に透明な松脂を擦り着けてくるようになった。
松の木の皮を鋭い爪や牙で切り裂けば松脂は滲み出てくるから行為そのものは、出来て不思議ない事だったが、松脂のつんとくる匂いは、犬は勿論、狼なら嫌う匂いのはずなのに、何故三匹がそのような事を行うのかはわからなかった。
その匂いは信長と一益も感じたし、尾張での騒ぎの折りも目撃者の口にも上った事だ。
その謎は、小南の屋敷で暮らす忍者を引退した老人が解いた。
松脂は身体を保護する鎧の役目を果たし、経験を積んだ猪がそれを行うのは知られた事だが、普通の狼が暮らすのには不必要なその行為は、この先の使命実現の為の戦場での働きを予想しての事ではないかと言ったのだ。
確かに松脂が身体をコーティングのように覆えば、刀や槍、矢も簡単には通らない。それを後に百地が追認したから、苦手な筈の匂いを苦にしない三匹はやはり神使の神獣だということになった。
二月が過ぎ、雪丸達は三匹の脚力と追跡能力を試そうとした。
育て親三人が遠い場所に先行し、それを一匹づつ場所を変えて追跡させ、時を計り探ろうとしたのだ。
影の時は伊賀から直線で約五十里の甲斐の国の駒ヶ岳。
雪丸は、全身柿渋色の忍び装束に短い忍び刀を背負い、最低限の忍び道具と食糧を懐に、日が暮れてから駒ヶ岳目指して伊賀を出発した。
街道は使わない。目印にするだけだ。道に沿った田畑を闇に紛れて駆け抜ける。時には道を外し、谷は駆け登り駆け降りる。川は飛び渡り、飛べない時は急流でも濁流でも泳いで渉る。
川を泳げば雪丸の臭いが跡絶えるが、それは影を試すのに都合がいい。結果的に影はそれをものともしなかったが。
鬱蒼とした森では、木間を猿のように飛んで伝って移動していく。
時々あるその地を支配する者が設置した山城や砦、関所や番所も、飛び越えたり道を外したりしてかわす。
平地は勿論、山が急になっても、そのスピードはほとんど落ちない。
初めての場所でも、地形や山容、星の位置で判断するから迷わない。喉が乾けば、飢渇丸(渇きや飢えを凌ぐ忍者の食糧)を数粒食べて走り続けた。
直線では五十里でも実際の距離は七十里もあったが、雪丸は五刻(十時間)で駒ヶ岳の麓に着いた。
平均時速は半刻に七里(約二十八㌖)だ。雪丸はこれでもまだ全力ではない。平均時速をあと二割位上げるのは彼には容易な事なのだ。
人気のない谷の入り口に身を隠して暫し仮眠する。二刻程熟睡して目覚めると、もうすでに傍らに影が踞っていて、目覚めた雪丸の顔をペロペロ舐めた。
雪丸と影は暗くなるのを待って伊賀へ帰った。
帰り道では度々雪丸が影の背中に掴まって走ることもあり、往路よりは早く移動出来たが、道中で影を見て起きたような騒ぎの有無を確かめながらだったから、六刻が費やされた。
騒ぎがなかったのは、影が姿を人に見せなかったのは勿論、足跡さえ、人目につく所には残さず往復百四十里を走り抜いた証だ。
伊賀へ帰りつき、影の出発時間を聞くと、雪丸が出発して三刻過ぎた真夜中の暁九つ(二十三時五十分)だったとわかり、逆算して影の平均時速が半刻に十一里と少し(約四十七㌖)と判明した。
さらに雪丸は、影の最高速度を計った。
全速を命じられた影が雪丸を背に、真っ暗な伊賀の平地を時速百㌖を超えるスピードで、小半刻(三十分)もぐるぐると走り続けたのを、学んだ目算で割り出している。
それらの様々な出来事から、影の能力の高さが証明された。
同様に、剋は風が、若狭湾の常神岬の先端に先行して、剋は直線で約二十八里、実際には三十五里の距離を平均時速約五十六㌖で走破した。
白は、鷹目が三十里南の熊野大社に先行し、険しい山地にも関わらず、実際の距離四十里を走った白の速度は時速約五十㌖と判明した。
二匹も軽く時速百㌖が出せる事を鷹目と風も目算で確認していた。
これらの事で三匹の神性はまた確信された。並みの狼では、絶対なし得ない偉業だったからだ。
長い話が終わったが、信長も一益も、言葉が出ない。
雪丸が笑顔で言う。
「お殿様も滝川様も、三匹は此方(こなた、味方)やさけ、案じはらんで(心配しなくて)ええんでっせ。あれらの使いよう案じまひょ(使い方を考えましょう)」
信長も一益も、まだ聞いた事情が整理できないのか、無言だ。
「・・・・わてが一つ思うたんは、戦場行ったら彼方(かなた、敵)も陣構えますわな。ほいてよさり(夜)になったら、馬ひととこ集めますわな・•・そこへ三匹忍ばして、いきなり吠えさしたらどないなる思わはりまっか」
「あげないかいがお(あんな大きな怪物)が吠えたら馬は泡吹いて逃げよるか、魂消てそのまま逝ってまう(ショックで死んでしまう)のも出よりまっせ」と、一益。
「馬逃げたら彼方の力は半ばになりまんがな。あとは此方のやりたい放題ですわ」
雪丸が答え、信長がにやりとして言う。
「雪丸、その通りだがや・・・その様を思うだけで、笑えるがや・・ほんだけどよ、此方にも馬は居るがや・・それは如何にいたすかのん」
「へっ、それは皆と案じ済みでっせ。馬は臆病やけど賢い生き物でおます。やから、影等ぁが、己らを襲わへん解ったら心安んじて、面会わせても恐がらんようなるんだっせ・・・これは伊賀で試し済みなんでっせ・・・やから、御家中の馬を全部集めて、影等ぁと慣れさせたらええんです・・・あれらは己のけぶら(気配)消せまっさかい」
「うん、もっともだがや・・•されば明晩からいたすとするがや」
信長はその理由を夜戦に慣らす為と触れ出し、家中の全ての馬を暗くなる前に那古野城の馬場に連れてくるよう命じた。信長の馬に関する知識が卓越しているのは、家中全員の知る所だったし、その命に逆らう者はいないから、翌晩から家中の馬は全て集まった。
周り中に、点々と篝火が焚かれた馬場は、雪丸達六名が大きく取り巻いて監視している。
信長も、闇に隠れて見ている。
信長が聞き逃した事を傍の雪丸に尋ねる。
「三匹の名の訳か由来はあるのきゃあ」
信長は、さぞ立派な訳や由来があるかと期待していた。だが雪丸はこう言った。
「ありまへん。わてと風と鷹目が、呼び安い名ぁを思いついたまま付けただけでおます」
信長は拍子抜けしたが、普通にさようかと答えた。
馬場の隅には影達三匹が気配を消して踞っている。
三匹には、廃棄予定の古びて色褪せた旗やら幟などを雪丸達が簡単に縫い合わせた大きな布がすっぽり被せられている。
だが集まった二百頭程の馬達は、影等の臭いを嗅ぎつけ、怯えて、馬場の反対側にかたまっている。馬達は、目を光らせ、違う獣の臭いと、嫌いな松脂の刺激臭に警戒して、両耳をピンと立てている。狼三匹は布の下で全く動かない。
それが三晩続き、四日目の夜になると、馬の中でも好奇心が強い個体が、何頭か三匹の側までくるようになった。
また二晩がたち、雪丸達は大きな布をとっぱらった。狼達はそれでも動かない。目は閉じたまま、息も微かに最低限しか行わない。
その状態を更に二晩続けた次の晩、近寄る馬の一頭が、影の松脂が付着していない顔の部分に鼻を擦り付けた。更に鼻で影や剋の身体を軽く押す。それでも狼達は全く動かない。
それがまた五晩続き、次の晩、馬達は入れ替わり立ち替わり狼三匹に近づき、小さなちょっかいを出しては戻りを繰り返す。
そして最初の日から二十日目、三匹の狼は静かに立ち上がった。馬達は恐れずにいる。三匹は静かにゆっくりと歩き出し、馬達の群れの中に別れて入って行く。
馬達は恐がるどころか、次々と寄ってきては、三匹の顔の辺りをひと舐めしては入れ替わる。中には影達の尻に鼻を当てる馬もいる。ピンと立っていた馬達の両耳は、力が抜けて下に垂れている。
影達はそれまで吼えたり唸ったりはしなかったが、最初は小さく、段々大きい声で吼えた。馬に声を覚えさせるためだ。
最後の真夜中、三匹の狼は最大と思われる声で吼えた。
「グワォ~オオオォールルル~」
「ガオ~オオオォ~」
「ワオォォォォ~ウルルル~ン」
馬達は一瞬凍り付いたが、パニック状態にはならない。
パニックに陥ったのは城内の事情を知らない者達と、城下でその恐ろしい声を聞いた領民達だった。
馬場へ近づこうとした者達は、雪丸達に制止され、声の主は不明で押し通され、城下の者達も、声が一声づつだったから、やがて静まった。
信長軍の馬は全て三匹の狼に慣れた。
信長もその様子を時間を決めて毎晩見ていた。信長には馬達が如何に不安がり、日がたつに連れ心持ちが和らいでいったのがその会話からわかっている。
普段は封印している力を念じて解放すれば、鳥獣の言葉がたちまち解るようになるからだ。
信長の馬、東雲が、一益の雷と話している。
「おい、あの気配はなんでゃあ」と、雷。
「知らんがや。ほんだけどよ、恐ぎゃあにはちがわんがや」
「嗅いだことにゃあ臭いだがや。松脂の臭いも嫌だがや。なんでお殿様は、こんなとろくしゃあこと毎晩しやぁすんきゃあ(愚かな事をなさるのか)・・・寒びぃし、早よ厩帰りてゃあがや・・・おみゃあさんなら訳知っとるだろう」
「知らんのだわ・・・お殿様はよう、俺にのっとらっせる時はあんまし物言えへんのだわ。みゃあにち(毎日)責め終わったら俺を拭いて労ってはくれるけどよう・・•まあほんだけど、お殿様は賢けえお方だでよう、そう案じんでもええんでにゃあの」
「他の馬んたらあ(馬達)は、どえりゃあ怖がっとるがや・・・俺の主の滝川様なら訳知っとるかも知れんなあ。あとでよう耳立てとくわ」
これが初日の会話で最終日には・・・
「あれが狼か・・・ほんだけどよ、狼てゃあ(狼とは)、あーもでっきゃあか(あんなに大きいか)・・・なんだあ、あのどえりゃあできゃあ吼え声は」と、東雲。
「俺は恐がすぎて糞漏らしてまったがや。狼かどうかはよ、見たの初めてだでかんわー(初めてだから判断がつかない)。ほんでもよう、俺んたらあ(我々)を喰おうとはせんでええんでにゃあの」
「これはよう、おおかた、お殿様がよう、戦場であの狼使う事もあるかもしれんで、俺んたらあ(我々)が、魂消んように引き会わしてくれやあたんだわ」
「ほーか、ほーだなぁ・・・あの恐ぎゃあ狼は此方か(味方か)・・・ほりゃあ良かったがや・・・あんなもん彼方(敵)だってみよ、どなけん(どんなに)鞭で叩かれても、走れーへんがや・・・馬、辞めなかんとこだったがや」
馬場の外の暗闇から馬の会話を聞いていた信長は、最後の雷の冗談に笑い声を上げそうになったが、必死に堪えて部屋へ逃げ帰った。
それからも、半月に一度は、馬場での狼と馬の懇親は続けられた。