裏
実鳥が迷子にした『弟』の話。怖さの種類が違うって言われそう。
作中の『おまわりさん』は鉄道警察隊だったり、派出所巡査や巡査長だったり。詳しい方には申し訳ありませんが、鉄道や警察に興味のない子ども目線です。『おまわりさんの制服を着ているおとな』程度の認識です。
「ここ……どこ?」
終点ですよ、って下ろされた駅には、誰もいなかった。切符を確認した電車はもう折り返して行ってしまって、改札のボックスに入れるだけの、もう使えない切符を手にしたまま、立ち尽くす。
運転手さんの、少し不安そうな顔が思い出される。
『ここ、無人駅だけど……。おじいさんかおばあさんが迎えにくるんだろう? 少し遅れているのかな? 迎えがくるまで、そこの待合室にいるといいよ。知らない人にはついていかないんだよ? 一応、近くのおまわりさんに連絡しておくからね』
お迎えってなんだろうな。ミノルは切符を見つめる。たぶん、わざと、違う切符を与えられたのだ。別々に帰る必要なんかないのに、駅で、あれに乗ればいいからって指し示されて、一人で乗った。一緒にいた、二年年上の『お兄さん』は、ミノルとは血がつながっていないし、いっしょに育ったわけでもない。六才のミノルが『お兄さん』の家に預けられたのは一週間前。仲良くなるには冒険だ! と、子どもみたいな『お父さん』が言い出して、いっしょにおつかいに出かけた。三つ先の駅って目的地は、おつかいっていうにはちょっと遠いんじゃないかな、って思ったけれど、拒否することはできない。もともと『お父さん』は人の話を聞かないし。『お兄さん』がさんざん嫌がったのに、決行したし。
もちろん『お母さん』も、よその女(ミノルの母親)が『お父さん』に押しつけていった子どものことなんて、歓迎していない。『お父さん』が見ているときだけ優しそうな表情を向ける、実際に親切だったことは一度もない。一日一回、ごはんを食べられればいいほうで、おふろも冷たいシャワーかお湯の冷めきったお風呂だし、シャンプーがもったいないって言って、適当なハサミで丸坊主に近いトラ刈りにされたし、服は着てきたものと『お兄さん』のおさがりだし、靴も服もサイズがあってないし、洗っても落ちないシミがあるし。
まあたぶん、『お母さん』が小学校に上がったばかりの『お兄さん』にやらせたんだろうな~……。と、察することができるくらいには、出かける前の『お母さん』が笑顔だったなと思い出す。
「たたかれないだけ、まし……かなぁ」
改札は出ないから切符を持ったまま、ミノルは駅の待合室に入る。風が吹きつけない分だけあたたかい。切符をハーフパンツのポケットに入れて、背負っていたリュックを下ろす。木のベンチは使い込まれてつるつるの手触りだけど、よじ登ると大きな音を立ててきしんだ。おとなが使ってだいじょうぶなベンチなんだろうかと心配になる。
リュックを開ける。財布代わりに持たされた巾着を取り出し、ひもで絞ってある口を開けて、のぞきこむ。十円玉や五円玉や一円玉が、合わせて両手で数えられるだけ。一駅分の運賃にもならない。リュックの中身はほとんど何もない。ミノルが知らないなんとか戦隊がポーズを決めている色あせたハンドタオルと、道で配っているおっぱいの大きなお姉さんが写った紙の入っているポケットティッシュ。電車の中でおばちゃんにもらった飴が二個。それだけだ。
おつかいの成果は『お兄さん』が持っている。お金を多めに持っていたのも『お兄さん』だ。ミノルが持っていたのは行きと帰りの電車賃だけで、切符を買ったのも『お兄さん』で、お金はミノルの巾着に入っているものを使った。駅の中で、いいおにいちゃんねぇと何人もの大人の人が言っていた。『お兄さん』は一人のときと、ミノルと二人だけのときは、笑った顔も怒った顔も見せないけど、他の人がいる時はその無表情を見せないからすごい。間違わない方法を教えてほしい。ミノルはまちがって殴られるから。
「――『おにいさん』が考えたのでも、おかしくないかも……」
今日一日の出来事を思い出すと、言われたままに行動したわけじゃないかも、と思える。車掌さんや駅員さんは忙しいから、できるだけ話しかけないとか。改札は引っかからないようにさっと抜けるとか、迷わずに切符を買うとか。乗り合わせた人から話しかけられても、よけいなことは答えないとか。知らない人から何ももらわないとか。
黒いフィルムに赤い文字の、大きな飴はミノルが一人になってから、断わり切れない感じに押しつけられたものだ。
「――どうしようかな」
この先。
巾着の中に切符を入れて、リュックに入れなおす。
駅の名前が並んでいる、カラフルな図を見上げる。
ミノルは文字が読めない。今いる場所はこのカラフルな線の端っこなんだろう。でも何色の線の端だかわからない。そして、戻る先もわからない。今いる家の住所を、知らない。名前もうろ覚えだ。家名。うちの玄関に書いてあるのを見ることができたのは、二回くらいだっただろうか。もちろん読めないから、図形としてしか書くことができない。そして、実の母親が住んでいる場所も知らない。住んでいた場所の住所も知らない。知っている光景を見ればわかるけど、尋ねられても住所を答えることはできない。
だれかが、大人の誰かが、「ミノルという名の六才の男の子を探しています」って声を上げてくれないかぎり、戻ることはできないのだ。記憶があっても。
「……」
飴の袋を開けて、ひとつを口の中に入れる。ずっとべろの上に乗せとかなければいけない大きさだけど、甘くてほっとする。ミノルの知らない飴の味で、ほっとする。
ゆっくりと時間をかけて、味わった。おなかはすいているけれど、もう一個は念のためにとっておく。
この後、おまわりさんが来てくれるかもしれない。明日の朝の始発で人と出会えるかもしれない。たぶん、駅から出ない方がいい。知らない町で、夜の闇の中をむやみに歩き回っても、迷子になるか事故にあうだけだ。お金がないから買えないけれど自販機があるし、トイレがあるし、水道があるし、たぶん一晩中、電気がついているはずだし。
寒いけど、それは外に出たほうがもっとひどくなる。
着るものはない。羽織るものもない。何かないかと待合室を見回す。壁に貼ってある紙は、どれだけ色が抜けていても、はがしたらだめだろう。雑誌も、よれよれだけどまとめてあるから、わざわざ置いてあるんだろう。ビニールに入った服みたいなものも並べてあるけれど、ビニールに入っているものはたいてい売り物だ。お金を持っていないミノルが触ってはいけないものだろう。
「あ。ごみばこ」
待合室の隅に置かれた、錆の浮いたゴミ箱に近づく。ゆれるふたを押して、中をのぞきこむ。暗い。当たり前だけど。
ゴミ箱を部屋の隅から引っぱり出す。金属だから重いけれど、大きさのわりには軽い。中身はあまり入っていないようだ。
あんまり明るくはない蛍光灯の光が届く場所に移して、ふたの部分を取り外す。新聞紙が入っていた。人の注意を引くように色がついていて、図形を組み合わせたような文字がおどっている、枚数の少ない新聞だ。少なくても新聞紙はあたたかい、いい拾いもの。
食べ物は、明らかに食べられなそうなものしかなかった。人がたくさんいる駅のゴミ箱なら、なんで捨ててあるのかわからないようなものもあるんだけど。
新聞を拾えただけでも良しとしよう。
ゴミ箱を元の場所に戻す。拾った新聞は汚れた部分を内側にして折りたたみなおす。そしてリュックに入れた。まだ、ここで寝なければいけないと決まったわけではない。
虫とか動物の声みたいなのとか、木がざわざわ揺れるのとか、看板とかがカタカタゆれるのとか、蛍光灯がじーってうなっているのとか、自販機がうなっていたと思ったらごとんって何かを切り替えるのとか、虫が電灯に何度もぶつかって飛び回っているのとか。うるさいくらいだけど人がいないって心細い。くるあてのない人を待つ時間は、とても長い。
笑顔がたくさんのポスターをながめる。男の子も女の子も大人の男の人も大人の女の人も、年取った男の人も年取った女の人も、ヒモでつながれた犬も首輪をした猫も、みんな笑顔だ。なんのポスターなんだろう。学校に通えるようになったら、文字も読めるようになるだろうか。書けるようになるだろうか。
靴を脱いでベンチの上で膝を抱える。学校に通えそうな気がしない。ということは、ずっと文字が読めないままなのだろうか。文字が読めなくて、仕事ができるだろうか? 仕事ができなかったら、どうやって食べていけばいいんだろう?
――なんだか、生きていける気がしないんだけど。
でも、なかなかしぶとく、人間って死なないものだし。
時計の長い針が二周まわっても、おまわりさんはこなかった。読めない文字を眺めるのにも飽きて、やたらとたくさんある、木彫りの鳥をひとつひとつ眺めていた。胸に波模様のある鳥。手の中に隠れそうなくらい小さいのも、自分の顔より大きいのもある。何の鳥なのかは知らない。
(あしたの朝に期待しよう)
リュックから新聞紙を取り出して、広げる。一枚を広げてたてに半分、折り曲げる。ベンチに敷いた。あと二枚をくしゃくしゃに丸めてしわをつけて、また広げる。しわを伸ばして、短いほうの辺を重ねたまま二回折る。ずれて落ちないように。
ベンチの上の新聞に上がって、靴を取る。底を合わせて重ねて、半分だけ残っていた新聞紙で巻いて、リュックに入れる。ごつごつするしにおうけど、なくすよりはいい。リュックを枕にして、新聞紙をかぶった。隙間ができないようにごそごそする。髪の毛がない分寒い頭まで新聞紙の下に隠れて、横向きで体を丸めて、顔の前に隙間を作って新聞紙をにぎりこみ、目を閉じる。雪が降るにはまだだいぶ早いなって程度の寒さだから、凍えて死ぬほどではないだろう。新聞紙はあたたかい。
うつらうつらと朝を待つ。
「きみ!」
寝入っていたところを強く呼ばれて、肩を強い力で押さえられて、いきなり目が覚める。落ちる夢を見たときみたいに大きく震えて、そのまま動けなくなってしまったら、新聞が顔のところからはがされた。そこに隙間を作っていたから、つかみやすかったんだろう。声や力の強さのわりに、新聞をはぐ手つきはゆっくりで、やさしかった。
ぎょっとした様子で、制服のおまわりさんがそこにいた。しわの少ない、つやつやした肌の、男の人だ。
心臓が暴れまわっていて、ミノルはこわばったまま、目に映るものを見ているしかできない。
「――どうしたの?」
おまわりさんの制服を着た若い男の人が、目を丸くしている。酔っ払いやホームレスだと思ったのか。
「きみ、どこの子? このあたりの子じゃないよね? なんでこんなところで、一人で寝てるの?」
おまわりさんの向こうの壁にある時計の針は、長いほうも短いほうも上を向いている。
「――だいじょうぶ?」
びっくりしすぎて、どっと汗が出てきた。心臓が暴れまわって苦しくて、息が乱れる。
「あっ、驚かせちゃったのかなっ? ごめんなっ」
おまわりさんはしゃがんで、ミノルとの距離を縮める。慌てている。なだめすかそうとする笑顔のぎこちなさ。この人は、悪い人では、ない。頼りになるかどうかはともかく。
「えっと、そうだ。寒かったろう? あったかいものを飲もうか?」
一人で勝手にしゃべって、おまわりさんは自販機のほうへ向かう。ポケットを探って小さな財布を取り出しながら、肩にかけている無線みたいなものに、深刻な口調で何かを報告する。たぶん、家出か迷子かわからないけど一人でいる子どもを発見したって報告だろう。でも自販機で飲み物は買うらしい。ガラスの扉の向こうから、ちらちらとミノルの様子を観察している。
暴れまわる心臓がなんとか元の場所に戻ってドキドキしはじめるのに合わせて、体も動くようになってきた。ゆっくり、気をつけながら、腕の力で体を起こす。ぶるぶる震えている腕でリュックを引き寄せて、胸に抱く。
人がいないからって油断して、寝入ってしまったようだ。気をつけないと。つま先のとがった革靴で力いっぱい腹をけり上げてくる人間に見つかったわけじゃなくてよかった。おまわりさんがミノルの様子を観察しながら、意識してそうしているゆっくりした足取りで、戻ってきた。ベンチの前、ミノルの前にしゃがんで、濃い茶色の缶を持った腕を出してくる。反対の手に持っているのは違う飲み物だ。
「ココア、飲める? 熱いから、気をつけて」
目の前で缶を開けてくれた。熱くて甘いにおいの湯気が立ちのぼる。おなかがすいているから、口の中によだれがたまる。でもまだ、リュックを抱きしめる腕がぶるぶる震えているから、受け取れない。いま受け取ったらこぼしてしまう。
おまわりさんはしばらく待っていたけれど、ミノルが手を出す気がないと判断したのか、ベンチの上に缶を置いた。ミノルの手が届く場所に。
「猫舌?」
おまわりさんはもうひとつの缶を開ける。甘いコーヒーの匂いだ。小さめの缶の中身を、あおるように一息で飲み干した。
「おはなしできる? なまえは? なんさい?」
充分な間をおいて、たくさんの質問が投げかけられる。驚きすぎて動けなくなった影響でしゃべれない感じ、引きずって口を閉じたまま、ミノルはそれを聞いていた。
長い方の針が下を向いたころ、おまわりさんがもう一人、やってきた。しわの多い、白がいっぱい混じった茶色の髪をした男の人。
「あ~、センパ~イ。何も答えてくれないんですよ~」
若いほうのおまわりさんは、年上のおまわりさんにさっさと丸投げしようとする。
「――小学生くらいって、幼稚園に通っているかどうかも怪しいちびっこじゃねぇか」
「小学一年生くらい、かなぁ? って。一人でこんなさびしいところにいて、ちっとも泣かないし新聞にくるまって寝てるし。あんまり小さなお子さんだと、そんなことしないじゃないっスか~」
「今どきのガキンチョは新聞紙にくるまって寝るなんてしねぇよ」
年上のほうのおまわりさんも近づいてきた。しゃがんだと思ったら、どっこいせと言いながら待合室の床に尻をつけて座り、あぐらをかく。
「よぉ、ボウズ。俺ぁ、イナバという。交番のおまわりさんだ。ボウズの名前は?」
じっくり腰据えて話そうぜ、って顔つきだ。いきなり手を出しては来ない。あの座り方だと、急に立ち上がることはできない。いきなり立ち上がって脅かしたりはしない、って膝に肘を乗せた態度や、笑い方で、ちゃんと伝えてくる。この人は頼りにしてもだいじょうぶな人。
「――ミノル」
だから、声を出すことができた。
おまわりさん――イナバさんはおおらかに笑った。
「おお、みのるか。いい名前だ。俺の孫の友だちにもミノルって名のやつがいる。木の実のミって書くんだが、おまえはどんな字を書くんだ?」
どんな字? 書く?
「――ジは、かけない。まだ、ガッコウに、いってない、から」
「え? 学校に行く前から勉強――」
「おい若造。黙っとれ」
「うっ、ハイ……」
「まだ学校にいってないのか~。それなら、学校で字を習うのが、楽しみだな?」
「……」
学校に行く前から、字が書けるのは当たり前? じゃあ、読むのも? みんなできる? みんなできることができないミノルは、学校に行けたとしても、みんなのようにできない?
「おいおい、みのるよぅ。今どきの過保護でうるさいママさん方が、勉強しろ勉強しろってうるさく言うから、ガキどもはいやいや勉強しているんだぜ? その中で、おまえさんは自分が勉強したいから勉強するんだ。すぅぐに、追いつくし、追い抜くだろうさ。なにも心配するこたぁ、ない」
「――いやいや? べんきょう……キライ?」
「嫌いなやつが多いぜぇ? 人間ってなぁ、やりたいことは楽しくできるが、やらされることは楽しめないもんだからなぁ」
「……」
「まだ学校に通ってないってこたぁ、五、六才か?」
「ろく、さい」
「六才か。しっかりしてんなぁ。みのるはここに、電車で来たのか? 車で来たのか?」
「でんしゃ……」
「この駅で待っとれって話だったんか?」
首を横に振る。リュックを開けて、巾着を出して、切符を取り出した。イナバさんに差し出す。イナバさんはそれを受け取って、紙に書いてある文字を見て、路線を書いた図を見上げる。どこの駅から来たのか、わかるのだろうか。
「おにいさんが、このキップをもって、あのデンシャにのれって。車掌さん、キップをみて、キップがまちがってなければここって、いった」
「どこのお兄さんだ? みのるのお兄さんか? 知ってるお兄さんか? 知らないお兄さんか?」
「……。しってる、おにいさん」
「どこで知り合ったお兄さんだ?」
どこで。
何と答えていいかわからなくて、黙る。
「一緒に遊ぶ相手か? 挨拶するだけの相手か? 顔を知っているだけの相手か?」
あいさつは、しない。顔を知っているだけ、ではない。
「――あそぶ、……?」
あそぶ、というのかどうかわからないけど。
「――そうか。まあ、いい。ここは寒いから、交番に行こうか? ストーブがあるし、おにぎりやカップ麺もある。明るくなったら、迎えがこなくても送っていく」
「かっぷめん……」
口の中によだれが湧き出す。きゅるると腹が鳴いた。
「おっ、腹の虫は正直だな。じゃあ、いこうか。くつは、そのリュックの中か? 用心深いなぁ」
すっかり冷たくなったココアは、イナバさんが飲み干した。かーっ、甘い! と悪態をついた。やっぱり甘いのか。甘い飲み物は頭が痛くなるから、要注意だ。
お世話になった新聞紙をゴミ箱に戻して、駅の待合室を出る。イナバさんが歩きながら押すスクーターの後ろに乗せられて、ちょっと楽しかった。若いほうのおまわりさんは、自転車をこいで先に交番へ戻る。
カップめんは何味が好きかって話や、おにぎりの具は何が嬉しいかって話をして、好きな食べ物を尋ねられて困る。黙ったら、イナバさんの得意料理の話になった。かみさんに逃げられたとか、腹を減らしている中学生や高校生に食わせるために料理を勉強したって事情。
「――おじさんも料理、するの?」
「うん? 嫁さんに逃げられてから、作るようになってナァ。黙って座っていてもメシを出してくれるかみさんのありがたさを、失ってから気づいて泣かれたけどな」
まわりが暗いからやけに明るい交番が見えてくる。
交番の前で、スクーターから抱え下ろされた。若い方のおまわりさんが、中からガラス戸を開けてくれた。
「あったまってるよ、おいで」
「こいつを停めてくるから、先に中へ入ってな」
若いおまわりさんと、イナバさんと、二人から中へ入るように言われて、ミノルはそっと足を踏み出す。
敷居をまたぐと、気がゆるむようなあたたかさが肌をなでた。今まで寒かったんだとわかる。
「さあどうぞ、座って」
若いおまわりさんは、パイプいすをストーブの前に広げてすえる。そんなに近いと、床に足の届かないミノルでは、やけどしてもおかしくないんだけど。火のそばでじりじりとあぶられるのは、かなり痛いし怖い。よかれと思ってやってくれる人の気づかいを断るのと同じくらい。
ミノルは迷って、椅子を見つめる。
イナバさんが交番の中に入ってきて、ガラス戸を閉めた。動かないミノルを見て、いすとストーブを見て、若いおまわりさんを見た。
「みのる。とっておきの買い置きを見せてやるから、こっちへおいで」
イナバさんに手招きされて、ミノルはそちらへ駆け寄る。イナバさんは若いおまわりさんを振り返って、彼の設置したストーブ前のいすを指さす。
「お前はそっちに座ってろ。いいか、俺らがこっちに戻るまで、動くなよ?」
えっ? ミノルはイナバさんを見上げる。イナバさんはミノルを見て、だいじょうぶだとうなずく。だいじょうぶ? 本当に? イナバさんは若いおまわりさんがいすに座るのを見届けてから、奥へ向かって歩き出す。ミノルは何度も振り返りながら、ついていく。ストーブに向かい合って、変に行儀よく膝をそろえて座って、ストーブのだいだい色に照らし出されるむくれ顔。
壁一枚向こうのロッカー室で、カップ麺が積み上げられる。どれでも好きなものを選んでいいと言われた。大きいものも、小さいものもある。いろいろな味をおすすめされる。ミノルはほとんど聞かないで、一番小さなものを選んだ。おとなの男の人が食べるサイズは、ミノルには大きすぎる。
「それでいいのか? 腹にたまらないぞ?」
白っぽく透き通っためんと野菜のかけらのパッケージ。ダイエットにうるさい女性が買ってこさせたがるやつだ。でも体の小さなミノルにはじゅうぶんだ。
「これがいい」
「そっか。じゃあ、戻ろう」
山積みのカップ麺はそのままにして、イナバさんは許可をくれる。ミノルは大急ぎで表の部屋に移動して、
「――っあっちぃいいい!」
叫んで、椅子を蹴倒して立ち上がる、おまわりさんの姿を見た。勝手にストーブから離れて、ミノルの横を走り抜けた。蛇口からほとばしる水音が、すぐに聞こえはじめる。
呆然と立ち尽くす。『命令に反し』て『いすを蹴倒し』て『勝手にストーブの前を離れ』て『勝手に傷の手当て』をしにいって、『水道管がうなる勢いで水を使って』いる。『大声あげて』『地響きがするほどのいきおいで走って』。
「まったく、やかましいな」
笑い交じりの声で、イナバさんは独り言を言いながら、ぶるぶる震えているミノルの横に並んだ。恐る恐る、その横顔を見上げる。年老いた顔には、しょうがないなぁと言いたそうな苦笑い。目が合うと、笑いかけられる。
「心配いらない、って言っただろう? 大きくなれば、自分の命や健康は自分で守れる」
「――おこられない、の?」
「むしろ、やけどするってわかっているのに逃げない子どものほうが、叱られるんじゃないかねぇ。ほとんどの大人なら、な」
「……。ほとんどの、おとな」
「大人がみんなで、子どもの成長を見守るべきだ。ってのは、俺の持論だがね」
よく、わからない。
うつむくと、手の中のカップ麺が見えた。ぽん、と軽く背中を叩かれる。
「さあ、メシの準備をしよう」
電気で沸騰するやかんの熱いお湯で、食べられるように準備してもらう。おとなが三人座れる、背の低いソファーに座らせてもらってももの上にタオルを広げて、横にお盆を置いて、おはしを渡された。もう食べても大丈夫だぞ、と時間を見ていたイナバさんに許可をもらって、厚紙のカップを両手で持つ。ふうふうと息を吹きかけながら、ちょっとずつ汁をすする。
若いおまわりさんはタオルで顔を拭きながら、戻ってきた。
「ひどいっすよ、イナバ先輩」
「床に足が届かない子どもを座らせるのに、どんだけストーブに近いのかって実感できただろうが」
年齢差があるけれど、大人同士の会話は、どちらかが一方的に物事を決める口ぶりではなかった。熱いスープであたたまりながら、ミノルはそれを用心深く聞く。
「あ。そういうことですか」
「気づけ、ひよっこが」
「よくわかりました。気をつけます」
「それで? あったか?」
「駅の方から運転手が本部に連絡を入れてました。でも、乗ったはずの駅にもエリアにも、迷子の届けはまだ来てませんね」
「だろうな」
「施設に届けますか」
「明日、俺ぁ明け方までだから、そのあと一緒に行ってみるわ。本人が案内できるかもしれん。行ってみて、その様子次第だな」
「しかし、恐ろしいことをしでかす輩がいるもんですねぇ」
「急病のじいさんの救急搬送で手間取ったとはいえ、あの子が動き回らんでいてくれたから遅くなっても大事に至らなかったってだけだからなぁ。正直助かったが、申し訳ないことをした」
「うちの姉貴の子どもとかだったら、泣き叫んで大変だったでしょうねぇ」
「叫んでも誰も来なけりゃ、歩き出すからな。それが怖い」
「――ああ、そうっすね」
「あと、無人駅について泣き出す子どもだったら、回送列車でもつれて戻ってくれただろうよ。変に頭のいい奴の悪意だぁなぁ……」
「――つれて戻って、だいじょうぶっすか?」
「さぁな。実の親子でも、離れたほうが幸せなことだってあるさ」
スープを半分くらい飲み終わるとおなかがふくれて、体も熱くなって、まぶたが重たくなってきた。時計は、ずれているけれど長い針と短い針がまた上を向いている。夜中だ。まわりが薄暗くなって、両手にかかる重さとおでこに触れるものがあってはっとする。重たいまぶたをこじ開けて、顔を上げる。両手の中の熱くて重いカップがそっと持ち上げられて、横のお盆の上に置かれた。おはしはまだ使っていない。目の前にイナバさんが、腰をかがめて立っている。
「眠くなったか? もう、夜中だもんなぁ。裏に、俺らが使う仮眠用のベッドがあるから、そこで眠るといい」
うん、とうなずく。手を引かれて、ふらふらしながら歩いた。
大人の男の人が寝るにはずいぶん狭くて、居心地が悪そうなベッド。ミノルにはじゅうぶんに大きい。毛布をはいで、自分で上がるように促される。ミノルは靴を脱いでベッドによじ登り、おとなしく横たわった。もう、まぶたが上がらない。
「少しだけ、ドアを開けておくからな。暗いのは大丈夫か? 寂しくなったら泣いてもいいぞ」
冗談交じりにそう言って、イナバさんはミノルの頭をなでて、部屋を出ていく。パチンって音といっしょに、まぶたの向こうの明るさがなくなる。ミノルはそこで、眠りに落ちた。
誰もいない部屋の中で目を開ける。目の玉を動かして周りを確認しながら、記憶を掘り起こす。
駅で、おまわりさんに保護されたんだった。交番の奥の、おまわりさんたちが休む部屋で寝かせてもらったんだった。もらったごはん、食べ終わる前に寝てしまった。罰で、今日のごはんはないかもしれない。
窓の外は少し明るい。紺色。
明け方に交代だって言ってた。じゃあ、この後イナバさんはお仕事の時間が終わる。一緒に駅まで行って、今暮らしている家まで付き合ってくれるみたいだった。でも、戻っていいのかな? 戻ってきてほしくないだろうな。覚えていないことにした方がいいかな。
それとも。
そこまで考えてから、ミノルは体を起こす。久しぶりに、ちゃんと眠れた。起きだして、毛布をたたむ。シーツのしわを伸ばす。おしっこしたい。部屋を出た。
「おはようございます」
大人二人に見つめられて、頭を下げる。
「おしっこしたいので、トイレをつかっていいですか?」
「ああ、おはよう。早起きだなぁ。トイレはこっちだぞ」
イナバさんが笑って挨拶を返してくれて、トイレに案内してくれた。すっきりして外に出る。待っててくれたイナバさんが洗面台も使わせてくれた。手と顔を洗って、口をゆすぐ。乾いたタオルをもらって、両手で顔を押さえる。
そのあと、朝ごはんを食べた。コンビニのおにぎりと、お湯を注ぐだけのおみそ汁。ちゃんとごはんがあった。びっくりした。昨日の食べ残しじゃないし、ちゃんと一人分。
三人で一緒に食べた。
おなかがいっぱいになると、帰る場所の話になった。きのうまで暮らしていたところの話。
「――みんな、しんせつにしてくれてます」
こわばった口調でミノルは答える。イナバさんは眉尻の下がった、苦い笑みを浮かべた。
「――そうだな」
何もない。なんて言っても、まともなおとなは信じない。信じたがる大人だけが信じるのだ。もう知ってる。何度も体験した。ミノルは膝の上でこぶしを握る。いろんな人がいる。その中では、昨日までいた家の『お母さん』も『お兄さん』も、ぜんぜんいい人だった。存在しないように無視する人だっているのに、一日一回でもごはんを出してくれた。着替えをくれた。お風呂も使わせてくれた。
一日三食食べさせるのが当たり前、って考えの人たちからしたら、ぜんぜん足りないんだろうけど、ミノルにとっては、一日三食食べる方がつらい。そんなに食べられない。
「――それでも。……。しんせつな、ひとなんです。ひよがいらないミノルを、じぶんのイエにおいてくれた」
「……。そう、かぁ」
でもやっぱりこれは、聞いてもらえない。子どもの言うことだから、ではない。ミノルが『被虐待児』だからだ。駅で保護された段階で、イナバさんは気づいている。これまでの会話で、さまざまな情報を引き出されている。いまのミノルでは、どうすればごまかせるのかわからない。
「しんじてくれない、ですよね」
「みのるがうそを言っているとは思わないよ。しかしなぁ。その大人が本当に親切で優しいのかどうかは、みのるとは違うふうに考えるなぁ」
なぐるけるどなるののしる、がないだけでミノルはとても安心できるのだが、そんなのは普通のことだよって言われたことがあるから、たぶんそうなんだろう。ミノルが暮らしている場所は、イナバさんみたいな人が暮らしている場所とはたぶん、全然違うんだろう。
「――きのうまで、おいてくれていたひとのイエには、いきません」
堅くなったままでミノルが言うと、イナバさんは少し考えてから答えた。
「それは、恩返しにはならないと思うぞ? みのるを間違った電車に乗せた『お兄さん』とやらは、間違ったことをしたのに、お前は正しいって言われたまま大人になるんだ。彼が大人になったとき、同じことをするかもしれない」
「おとうさんのウワキあいてのおしつけてきたコドモ、なんて、ミノルだってカンゲイできない」
「みのるは駅で寝ていてくれたけれどね。小学校にもあがってない、字も読めない子どもを、ひとりで電車に乗せて、無人の駅に夜、放り出すなんてのはね。いたずらでは済まされないんだよ。殺人と変わらない」
「いたくもくるしくもなかったからヘーキです」
「無責任に子どもを放置するのは、犯罪なんだ」
「ほんとのおかあさんにすてていかれたコドモをうちにおいてくれた」
「育てられないなら警察に連れていけばいいんだ。駅で迷子にするんじゃなく」
びっくりして、年取ったおまわりさんを見上げる。聞いたことのない返事だ。
「――けいさつ……?」
「そう。この子の母親が預けていったけれど、うちとは関わりがないってね」
「……。じゃあ、今度から、自分で警察にいく……」
なんだ。いいんだ、そういうことして。知らなかった。
イナバさんが何度も重々しく首をタテに振る。
「そうだな、それがいい。もしもまた、お母さんのところに戻ったのに、どこかへ預けられそうになったら」
うん、とうなずく。それがいい。ミノルがいてもいい場所に置いてもらえるなら。
「いてもいい、場所に行く……」
「――そうか。じゃあ、その手続きをしようか。でも一度は、いま世話になっている家に行くぞ。会わなくてもいい。もしも何かの間違いで迷子になってしまったんなら、おおごとになるからな」
イナバさんは遠目にその家を確認した。ミノルは迷惑をかけてしまった他人の家に二度と近づくつもりはない。
その後、ミノルは養護施設に入ることになった。
◇◆◇
生きていくことだけに集中していた子どものころのスルー能力が高すぎる。
生活が安定したいま思い出してみれば、駅にも派出所にも同じモチーフの鳥がいっぱい置いてあった気がする。胸に波模様のある、スマートなシルエットの鳥。
あのころは特に気にしないで通りすぎたけれど、思い出してみるとちょっと不気味なくらいたくさんあった。売り物にならなそうな手芸品と同じく、暇を持て余した誰かが作って、人の目に触れる場所に並べていただけなんだろうと思いたい。
(なにかの象徴なのだろうか)
駅の名前は憶えていない。
いっぱい置いてあった木彫りの鳥がなんなのか、いまもまだ知ることはできない。
◇おわり◇
六歳(未就学児童)としては、地の文がおとなすぎるのですが、リアル六歳児では話が成り立たないので、ご了承ください。十五~二十歳ごろ、過去を思い出している設定です。