動機、演出
檸檬絵郎様の個人企画【プロセニアム企画】参加作品。
挿し絵「花瓶のある個室」檸檬 絵郎様作
「君はこんな話を知っているかい?」
わざわざ花を持って訪れた私に興味など無い様子で、彼はソファーに埋もれながらワイングラスを揺らしていた。
相変わらず狭い書斎だ。
殺風景な部屋を唯一飾る小さな額縁を背に、彼は一人でワインを楽しんでいる。
私をもてなそうなどという気遣いはさらさら無いのだろう。
「ある著名な小説家がいた。彼は長年に渡ってそれはもう幅広いジャンルの作品を手掛けていたのだが、晩年には気が触れてしまっていたらしい」
ガサガサと花束の包み紙を剥がす私には目もくれず、彼はさも可笑しそうに話し続ける。
「彼は毎日のように涙を流し、嗚咽を漏らし、懺悔していたそうだ。『私は実に多くの命を奪ってしまった、大変な人殺しだ。これ以上、この罪の重さに堪えられそうにない』と……」
なんて物騒な話だろうか。
私は相槌もそこそこに花瓶の高さに合わせて茎を切り落としていく。
「彼が謝罪し続けた相手は全て、これまで彼が執筆した作品の中で死んだ登場人物達だった。ミステリーに出てくる連続殺人の被害者達、戦記を元にした時代物の犠牲者達、死別するラブロマンスの恋人。……分かるかい? そう、彼は自身の生み出した全作品における死を悲しみ、実在しない人物達の死の責任と罪悪感に押し潰されていたんだ」
「な、おかしいだろう?」と鼻で嗤う彼の口調は、完全に件の小説家を馬鹿にしている者のそれである。
確かにおかしいと思う。
気が触れたというその小説家が、ではない。
そんな話で笑える貴方の感性が、だ。
バランス良く花を挿した花瓶にトクトクと水を注いでいく。
ガラス製の水差しが軽くなるのに対して花瓶がズシリと重みを増していくのが分かった。
うん、とてもいい感じ。
満足気に花瓶を持つ私に構わず、彼はまだクツクツと喉を鳴らしている。
この話、そんなに笑えるだろうか?
「たかが紙の上の出来事なのに、下らないったらないよな。大体、罪って何だよ。物語の進行上、必要なら仕方のない演出じゃないか?」
テーブルに置かれたワインボトルに手を伸ばそうと前のめりになった彼。
私はその頭上に勢いよく花瓶を振り下ろした。
「……な、んで……」
血を流しながら倒れる彼を見下ろし、私はつれなく答える。
「物語の進行上、必要なら仕方のない演出なんでしょう?」
彼はもう動かない。
そして私は──
「……駄目だ。この先が全く思い浮かばない」
老人はテーブルに広げられた紙をクシャリと丸めると頭を抱えてソファーにもたれ掛かった。
投げ出したペンがテーブルの上を転がり、花瓶にぶつかって止まる。
狭く殺風景な部屋の中、老人は背後に飾られた額縁をチラリと見上げては溜め息をこぼした。
「……この話も没だな。あぁ、また僕は罪もない人間を無駄に殺めてしまった……」
老人は静かに涙を流し、懐からマッチを取り出す。
そして荼毘に付せるように丸めた紙に火を着けた。
懺悔の言葉を幾度となく繰り返す彼の様子を、空の花瓶だけが見ていた。