◆もしも、運命のボタンをかけ違えたら◆
思いついたままに書き殴った作品なので粗が目立つかと思いますが、
寛大なお心でサーッと読んで下さると嬉しいです(*´ω`*)
汗でぬるつき始めた手が解けてしまわないように必死に握りあいながら、厚い雲に隠された月のない夜をただ駆ける。
馬を使えばすぐに見つけられてしまうことから、王都を出てすぐ街道から逸れて森に逃げ込んだ。けれど明かりを持つことも出来ない現状では、闇をかき分けるように進むしかない。そして、それはこの闇夜を一緒に駆ける相手にとって、とてつもない屈辱であることだろう。
「もう……もう走れないわ、ルーカス! それにレオン様はあの男爵家の女にご執心で、彼女に暗殺者を差し向けた私をお許しにはならないでしょう!? 家にも見捨てられて……明日にはどうせ断頭台送りだったのに、こんな風に逃げたってもう意味などないわ!!」
やはりというべきか、そうヒステリックに叫んで僕の手を振り解いたエミリアが、涙で汚れた顔を覆って足を止める。夜の闇の中では見えない亜麻色の髪は、幼い頃から彼女が一等自慢にしていた。
彼女の足が止まったことで、こちらも足を止めざるを得ない。肩で息をしながら辺りの気配を探り、まだ追っ手の気配がないことにひとまず安堵する。
本来であれば、目の前で絶望に打ちひしがれている哀れな彼女こそが正当な婚約者であり、未来の次期王妃だったはずなのに――。
しかしエミリアが第一王子であり、宰相家の息子である僕の、かつては親友だった男――……。今では名前を呼びたくもない存在に成り下がったあの男の想い人である、平民上がりの男爵令嬢を殺害しようとしたことで事態は一変した。
そうならないように色々と裏で策を巡らせていた僕の目論見は、けれど。あの男の為にそこまで思い詰めて行動を起こしたエミリアの先手を打てなかった。
今となってはエミリアは公爵令嬢の地位を失い、家族にも見放された、平民以下の存在に落ちぶれた罪人で。
僕は、そんな彼女に幼い頃から横恋慕していた、どうしようもなく愚かな宰相家の息子だった。
だから『第一王子の言付けをしに来た』と嘘を吐いて人払いをした地下牢で、誰にも手入れをされなくなった亜麻色の髪に艶はなく、常ならば自信に溢れて輝いていたエメラルドのような瞳にも、精気のなくなった彼女を見た時に決めたのだ。
「それは駄目だエミリア。例えレオンが君を許さなくとも、そんなことは関係ない。君には生きてもらう。ここではないどこかで」
――ああ、そうだ。
彼女だけは、生かさなければ。逃がさなければ。
彼女が今はそれを望まなくとも、あの下らない男の為に命を投げ出させるのだけは嫌だった。
ここまで手酷く裏切られておきながら、いつまでもあの男を想って嘆く彼女の好きにはさせたくなかった。
彼女が求める幸せはあの国にはなかっただけだ。けれど他のどこかでならば、まだ可能性はある。その為ならば、何だってしよう。
「……立つんだ、エミリア。追っ手が来る前に森を出よう。国境付近まで逃げれば、翌日に隣国を訪れようとしているキャラバン隊がいる。彼等に金を握らせて君を紛れ込ませてもらえるように、すでに手筈を整えてある」
本来ならば次期国王になる男の片腕になるべき要職につく僕が、こんなことをしてはいけないことなど分かっている。分かっていながらそう割り切れないのは、僕自身がこの報われない恋を捨てきれないからだ。
エミリアに初めて逢ったのは僕の方が早かったけれど、最初から彼女はあの男の婚約者であり、僕は彼女らを将来支える為に傍に置かれた、宰相家の息子でしかなかった。
「あの国で、あの男の隣で幸せになれなかったからといって、君に価値がない訳ではない。……エミリア、君には価値がある」
【僕にとっては千金どころか、母国にも勝るほどの価値が】
口に出せない。
出すべきではない。
今から新しい場所に向かう彼女にとって、そんな言葉はただの足枷だ。
「頼むから……僕を信じて。立ってくれ、エリィ」
あの男と、僕と、彼女と、三人で過ごした幼い日々は、今や随分遠いことだが、それでも悔しいことに――あの日々をかけがえのない時間として憶えている。
痛みにも似た感傷に震える僕が差し出した手に、恐る恐るエミリアが手を重ねた。彼女の記憶の中とは似ても似つかない、やせ細った指先が自分の掌に触れることが、こんな時だというのに酷く嬉しい。
「……私としたことが、随分取り乱してしまいましたわ。ごめんなさい。けれどこんなことをしては、貴方も無事ではいられないわ。道案内ならもうここまでで結構よ。貴方はいつものように良く回るその舌で、私を逃がしてしまった言い訳を考えながら帰ると良いわ」
「ハハ、それこそ余計な心配だねエミリア嬢。君と違って僕は世渡りが巧いんだ。牢番やレオンを言いくるめるくらい造作ないよ」
いくらか落ち着きを取り戻したらしいエミリアと、そう冗談混じりに言葉を交わしながら、段々とこの手を離すことに恐怖を感じている自分がいた。外交政策でどれだけ他国の外交官から【氷の心臓を持つ男】だと謗られようと、何の感慨もなく切り捨て、利用して来たこの僕が。
彼女を無事逃がして戻れば、断罪されるのは間違いない。
今夜と明日の一日を使って彼女の逃走経路を攪乱し、断頭台に上るのは僕だ。そこには何の疑い後悔もない。
彼女の幸せを願っている。
……この世にいる間に、二度とまみえることはなくとも。
再び手を取りあって走り出した彼女はもう弱音を吐くこともなく、これまでの人生で味わったこともない肉体の酷使に堪えてひた走ってくれた。
そのことが嬉しくもあり、同時に冷静な判断の中でおかしいと感じている自分を無理矢理抑え込んだ。
おかしい、
おかしい、
おかしい。
親友は愚かだが馬鹿ではなかった。それが何を意味することなのか、知らない僕ではないはずなのに。
チラリと後ろを盗み見て、喘ぐように呼吸を繰り返す彼女に悟られないように、願う。どうかあの男が、そのくらいの慈悲をまだ持っていてはくれないものかと。
しかし――……。
やはりというか無慈悲にも、森を抜けて国境まで辿り着いた僕達は、周辺で待ち伏せしていた兵士達に捕らえられ、たった今、這い蹲るような格好をさせられたまま首筋に冷たい剣の切っ先を当てられていた。
隣では可哀想に、すっかり顔色を失ったエミリアが震えている。
親友だった時分に教えた“他者を信用しすぎてはいけない”という僕の言葉を、あの男はしっかりと憶えていた。分かり切ってはいたことだが、僕もエミリアと同様、当の昔に切り捨てられる存在に成り下がっていたのだろう。
そうして悔しいことに、肝心のエミリアには知られていないのに、あの男には気付かれていたことがあった。
――この身の内でくすぶり続けた、僕の醜い恋心だ。
皮肉なことに兵士が振り上げられる刀身に、それまで隠れていた月の光が滑り落ちて輝いた。けれどすぐにその輝きも雲に阻まれ、またも訪れた闇に飲まれる。
そんな中で情けないことに僕に出来ることといえば、隣で震える彼女に「大丈夫だ」と何の慰めにもならない言葉をかけることだけで。
せめてもの恩情というべきところなのか分からないが、その刃が僕達の首に振り下ろされたのは、奇しくも厚い雲に覆われていた月が、再び顔を出した直後のことだった。
◆◇◆◇
不意に目蓋の裏が、頬が、温かいもので濡れた感覚に気付いて身じろぐと、それを拭う誰かの存在が間近にあることに気付く。
誰だろうかと思いながらもソッと閉ざしていた目蓋を持ち上げれば、そこには大好きな亜麻色の髪をした少女が心配そうに僕を見下ろしていた。横たえていた身体を起こして周囲を見回せば、いつもエリィと待ち合わせをする庭園にある林檎の木の下だと分かる。
「どうしたのルー、怖い夢でも見ていたの?」
まだぼんやりとしていたところに、そう少女に……エリィに声をかけられて、徐々に靄がかかっていた夢の断片のようなものが思い出され、身体が震えた。当然だ。断片的ではあっても、夢の中で泣いていた女性は、目の前で僕を覗き込んで心配するエリィにどことなく似ていたのだから。
誤魔化すように「何でもないよ」と微笑んでエリィのハンカチから逃れると、エリィは「本当に?」とまだ疑っている様子で僕を見つめる。不安そうに揺れる彼女を安心させようとその手を取れば、エリィは少しだけ頬を染めて「どうしたの?」とはにかんだ。
エリィのそんな表情を見て、強く胸を締め付けられる。
そこへエリィの家のメイドが彼女と僕を探している声が届いて。
「ああ、ほら、もう探しに来てしまったわ。お父様たちが、今日は大事な用事があるから私とルーを呼んでくるようにと言っていたの。きっと退屈なお話よ。だからその前にルーと遊びたかったのに……ルーったら眠って……泣いているんだもの」
そう教えてくれたエリィは、まるで自分のことのように悲しげな表情を浮かべた。その辛そうな表情に、また胸が締め付けられる。
さっきまで見ていた夢がそうさせるのかもしれないと思いつつも、何となくこれから起こる出来事が、僕とエリィの関係を今とは変えてしまうことであるような気がして。
「――大丈夫だよ、エリィ。僕はどこも辛くない。だけど……」
「“だけど”? その先は何なのルー?」
グッと顔を近付けてくるエリィのエメラルドのような瞳に魅入ったまま、僕は続く言葉を何とか口にした。
「君がこの先、他の誰かに取られるのは嫌だ」
あんな夢を見たせいか、今日の僕は少しおかしい。こんなことを言ったって、エリィを困らせるだけだと……そう思うのに。何故だか、今この場で言葉にせずにはいられなかった。
「ねえ、エリィ。もしも君が嫌でなかったら、将来僕のお嫁さんになってくれる? そうしたら、僕は絶対に父上みたいに優秀な宰相になって、きっとこの国の誰よりも君を大切に……幸せにするよ」
【――……出逢ったのは、僕の方が先なんだ】
あの夢の中、どこか遠くでそんな声を聞いた気がして。
「お願いだから、頷いてエリィ」
だからこそ、すぐそこまでメイドの声が迫っているのに、真剣に彼女の答えをせがんだ。エリィはまだ困惑しながらも、やがて決心したように「良いわ。その代わり、毎日私に今みたいな愛を囁くのよ?」と微笑んでくれた。
そんな幼い法的には何の効力も持たない約束は、けれど、あの恐ろしい夢のような未来に繋がることはなく。
それから数十年後に、この日彼女の“婚約者”になるはずだった男であり、僕の生涯を通しての“親友”となる第一王子が、運命の女性である男爵家のご令嬢と結婚して王座に座っても、国の繁栄と共に生涯守られ続けた。