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前世主従夫婦

あなたの為に死にません

作者: とど


「何か欲しい物はあるか」

「えっ」



 仕事から帰って来た夫が開口一番に告げた言葉に紗桐は困惑しながら首を傾げた。

 いきなり何の話だ。紗桐は真意を探ろうと男を見上げるが、相変わらずの鉄面皮で何を考えているのか全く分からない。



「欲しい物、って……」

「ないのか」



 言い澱んでいる彼女に男は眉間に皺を寄せながら言葉を重ねる。欲しい物は、と尋ねているのにやたらと高圧的な態度で追及して来る夫に、紗桐は何か試されているのかと疑心暗鬼になりながら必死に正解を探した。

 ……が、結局何も思いつかなかった。



「え、と……その、特に無いです」

「……」

「あの、普通に平和に生きていければ満足なので……」



 沈黙に耐え切れずに紗桐が言葉を付け足す。勿論彼女にも人並みに物欲はあるし、尋ねたのがこの男ではなかったら「新しい服が欲しい」くらいは言っている。しかし相手が相手なのでそんな軽口を叩く余裕はない。

 紗桐の言葉をどう受け取ったのか、夫は軽く眉を顰め「そうか」とだけ口にして会話を終えた。






「何だったんだろ……」



 夕食も終わり、食後の茶の準備をしながら紗桐は先ほどの問いかけの意味をぼんやりと考える。しかし彼女はそこで自分が口にした言葉を思い出して「あ」と思わず小さく声を上げてしまった。

 「平和に生きていければ満足」なんて思わず本音が飛び出してしまったが、よくよく考えれば前世の死因が死因なのであの男にとってはとんでもない嫌味に聞こえてしまったのではないかと。



「……ま、まああの人が前のこと覚えてるかなんて分からないし!」



 一瞬血の気が引いた紗桐が自分に言い聞かせるように呟く。むしろ普通に考えれば覚えている方が可笑しいのだから大丈夫大丈夫……とぶつぶつ言いながら、彼女は少々緊張した面持ちで男の待つ居間へと茶を運んだ。



「どうぞ」

「……」



 紗桐が湯飲みを差し出すと男はいつも通りそれを口に運び、そしていつも通り「濃い」と文句を付けた。不味いと言われることはもう滅多にないが、毎度の文句には流石に慣れた。その癖いつも飲み切るのは茶に対する礼儀なのかこちらに対する嫌味なのか。


 正直もう自分で淹れてよと彼女は言いたくて堪らない。一人暮らしをしていたのなら元々自分でやっていたのだろうし。

 彼女がそんなことを考えていると、不意に男が湯飲みを置いて顔を上げ彼女を見た。紗桐は心の中を読まれたような気がしてぎくりと肩を強張らせる。



「今度取引先を呼んで新店舗の記念式典を行う」

「え? ……はあ」

「そのパーティにお前も連れて行くからそのつもりでいろ」

「は……私もですか!?」

「そうだと言っている」



 急にそんなことを言われても困る。実家の関係でちょっとした集まりに出向いたことぐらいはあるが、跡取りでもなんでもない彼女はそんな正式な場に慣れてなどいない。

 正直断りたくて堪らなかったが勿論凶器の視線の前ではそんなことは言えず、紗桐は機械的に頷くことしか出来なかった。











「どうしよう……」



 紗桐は頭を抱えて唸る。もうパーティ当日であるというのに、今だに彼女は覚悟を決められていなかったのである。

 一応夫の会社について調べたり母にアドバイスをもらったりはしたものの、まだ家にいる時点で紗桐は緊張ががちがちになっていた。



「おい」

「は、はいいっ」



 とにかく出かける支度をしなければ、と部屋へ行こうとした所で不意に背後から声を掛けられる。思わず飛び上がりそうになりながら声を裏返して返事をして、彼女はすぐに振り返った。

 その瞬間、彼女の視界を白いものが遮った。



「これに着替えろ」



 男が押し付けるように長方形の箱を紗桐に差し出す。突然のことにわたわたとしながらも反射的に箱を受け取った彼女は、箱と夫を交互に見て困惑の表情を浮かべた。



「あの、これ」

「早く準備しろ」



 紗桐の問いにはまるで答えずにさっさと離れていく。そんな夫の後ろ姿を見ながら、彼女は小さく溜息を吐いて手にしている箱を見下ろした。

 着替えろ、という事はこれは服なのだろう。せっかく事前に必死になって着ていく服を吟味したというのに無駄になった。こんなことならあらかじめ言っておいてほしいものである。


 ぶつぶつと文句を口の中で呟きながら部屋に戻った紗桐は急ぎ着替えようと箱を開け……そして、出てきた着物を見て先ほどまでの文句を全て封じ込められた。



「うわあ……綺麗」



 見事に染め上げられた薄紫の生地に、裾に繊細な文様が施された色留袖。その美しさにぽかんと口を開けて見入ってしまった紗桐は、今までの憂鬱な気分を一変させてわくわくしながら早速その着物に袖を通した。



「これ、すごくいい……」



 着心地もとても良く、彼女は鏡の中の自分を眺めて思わずにやけてしまう。はしゃぐようにくるりと一回転して満足するまで鏡を見つめていると、紗桐はふと我に返って現実的な思考が沸いて来た。



「っていうかこれ、すごく高いんじゃ」



 生地の質やら柄やら、あまり着物に詳しくない紗桐でも決して安物ではないと分かる。会社のパーティに着ていくものなのだから十中八九自社で作ったものなのだろうとは思うが……。



「あれかな、会社の宣伝に使われてる……?」



 夫がこの着物を渡して来た意図を考えた紗桐はそのような結論に至る。もしくは「貴様の持っているような着物ごときで呉服屋の社長である私の隣に立つなど恥を晒すつもりか」とでも思ったのかもしれないが。

 何にせよ着物を気に入ってしまった紗桐には男の意図など割とどうでも良い。結婚生活で少々図太くなって来た彼女は、再度鏡の中の自分を見つめた後軽い足取りで部屋を出た。



「お待たせいたしました」



 支度を終えた紗桐が居間で待つ夫の元へと向かうと、新聞から顔を上げた男が上から下まで紗桐を確認し、そしてやたらと鋭い視線で彼女を睨み付けた。



「な、何か可笑しいですか……?」

「……」



 通常よりもきつい視線と眉間に寄せられた皺に何か間違いでも犯したかと焦って尋ねる。が、男はしばらく何も言わずに紗桐を睨み付けるだけで、ややあってようやく「悪くない」と一言口にしたのを聞いて彼女はほっと息を吐いた。一応及第点はもらえたようだ。



「時間だ、出るぞ」

「はい」



 家を出て車へと向かう。その間も紗桐は何度もちらちらと着物を眺め、その度に表情を緩ませて密かに笑みを浮かべていた。

 着物に夢中の彼女は、当然ながらそれを夫が見ていたことなどちっとも気付くことはなかった。












「これはこれは……まさか社長が結婚なさるとは」



 新店舗の記念パーティ、つまり社長である夫は主催者で、彼に連れ回される紗桐も当然色んな人間に挨拶周りをさせられた。

 しかし挨拶する人間皆、夫が結婚したことに驚愕しながら紗桐を見て来るのである。普段周囲からどんな風に思われているのかがよく分かる。紗桐は終始愛想笑いをし続けて顔が引きつりそうになりながら――いや、いつも恐怖で引きつっている気もするが――大人しく夫の後ろに着いて行った。



「社長」



 そろそろ限界だ、と紗桐が表情には出さずにへろへろになっていると、不意に一人の男が夫に近付いて来た。



「少しよろしいでしょうか」

「どうした」

「実は……」



 部下らしい男は小声で夫に何かを告げる。それに対して僅かに眉間の皺を濃くした彼は唐突に紗桐を振り返ると「おい」と声を掛けた。



「少し離れる。が、大人しくしていろ」

「……はい」



 何やら問題でも発生したのか、そう言って紗桐を置いて行った男に彼女は正直ほっとしながらその背中を見送った。

 ようやく一息ついた。あの良くも悪くも目立つ夫の傍で視線に晒され続けてもうくたくただ。紗桐一人ではこの煌びやかな空間では簡単に埋没してしまう。

 目の前を行き交う人々を眺めていた紗桐は、ふと別れ際に言われた言葉を思い出して少々不機嫌になった。



「大人しくしてろって、子供じゃないんだから」



 確かに年は離れているものの、そこまで子供扱いされるような年齢じゃない。元々の落ち着きのなさが滲み出てしまっているのだろうか。





「あのー、もしかして社長の奥さんですか?」



 壁際で言われた通り大人しくグラスを傾けていた紗桐がいつあの男は戻って来るだろうか考えていると、急に目の前に影ができた。

 顔を上げると、そこには紗桐と同じか少し年下くらいの若い男が楽しげな表情で彼女を見下ろしている。雰囲気からしてチャラそうだ。



「……そうですけど」

「やっぱり、さっき遠目でちらっと見たと思ったんですよね。あ、俺秘書課の木村と言います。社長居ない間だけでいいんでちょっと話しましょうよ」

「はあ……」

「いやあ、あの社長の奥さんがどんな人か、ずっと気になってたんですよね。思ってたよりも普通で驚きましたよ」



 へらへらと笑いながら直球でそんなことを言う木村に、紗桐は少々苛立って視線が冷たくなった。普通で悪かったな。どうせ絶世の美女とかじゃない。

 しかし気を悪くしたのが分かったのか、木村は紗桐の表情を見て少し慌てた様子で首を横に振った。



「あ、別に悪い意味じゃないですよ! 社長と結婚するってことは、同じくらい怖い女傑っぽい人なのかなって思ってて」

「……あー」



 分かる、と思わず納得の声を上げると木村は「ですよね」と緩い表情で笑う。それからふと紗桐の着物に視線を落とした。



「それ、似合ってますね」

「そうですか? ありがとうございます」



 気に入った着物を褒められて紗桐も木村への警戒心が薄れていく。が、続けて「社長の見立ては流石ですよねえ」と言われ、紗桐はあれ、と疑問を抱いて首を傾げた。



「何で貰ったって知ってるんですか?」

「そりゃあその色留袖、先日うちの会社で社長が生地から文様から全て指示して仕立てさせましたから」

「え」

「実は俺が日頃の感謝に奥さんに何か贈ったらどうですかって社長にアドバイスしたんですよー。亭主関白が過ぎると嫌われますよって」



 あの男にアドバイスってこの人すごいなと、色々と思ったことは他にもあったのに紗桐はまず一番にそう思ってしまった。

 そして彼女の脳裏に、先日欲しい物がないかと尋ねて来た夫が過ぎった。あの問いかけはこの人が理由だったのか。



「じゃあこれってそれで……てっきりパーティで自社ブランドの宣伝して来いってことかと」

「ははっ、それ流石に疑い過ぎですって! ……まあもしかしたらそういう理由も込みかもしれませんけど、少なくとも奥さんへのプレゼントが一番の目的であることは間違いないですから」

「そうですか?」

「だって社長、普段何でも即決なのにその着物は随分時間をかけて――」

「紗桐」



 ぺらぺらと話していた木村の声を遮るように自分の名前が聞こえ、そちらを振り返る。案の定あの男が戻って来たのだ。

 彼は紗桐の傍へやって来ると木村を目に留め、少々その視線をいつもよりも鋭くした。



「木村」

「やだなあ社長、そんなに睨まないで下さいよ。奥さんとはただちょっとお話してただけですって」

「余計なことを話す必要はない」

「余計じゃないですよ、社長がちゃんと言わないから奥さん色々勘違いしてたじゃないですか」



 上司の鋭い眼光もへらへら笑って受け流す木村に紗桐は若干の感動と尊敬を覚えた。よくこの男――しかも上司の前でこんなにも軽口を叩けるものだ。

 「ところで」と、木村の視線が紗桐に向く。



「名前、サキリさんとおっしゃるんですか?」

「え? はい、そうですけど」

「ちなみに漢字は?」

「糸偏に少ない、と木の桐です」

「ははあ、成程。ぴったりなお名前ですね」

「そうですか?」

「……木村」



 どこか咎めるような声色で上司に名前を呼ばれた木村は意味深に微笑んで「社長も来たことですし俺はこれで」と頭を下げてその場から去ろうとし……しかし一度振り返って紗桐を見た。



「紗桐さん、その着物本当によく似合っていますよ。特に着物の色と桐の文様が、ね」

「え?」



 唐突に言われた言葉に視線を下に落として着物を見下ろす。綺麗な柄だとは漠然と思っていたものの、改めてよく見てみると様々な意匠の中にいくつもの桐が描かれているのが分かる。

 ……そういえば、桐の花は確かこの着物のような色ではなかったか。


 顔を上げると既に木村の姿は見えなくなっていた。代わりに隣にいる夫を窺うが、相変わらず何を考えているのかちっとも分からない怖い顔をしていた。ただ、この着物は全てこの男が決めて作らせたという。



「……」



 少しは慣れたとはいえ、未だにトラウマは引き摺っている。たが紗桐はもう一度着物を見下ろしてその表情を緩めると「旦那様、ありがとうございます」と心からそう言った。







 □ □ □ □ □







「――え?」



 パーティの翌日、紗桐は布団の上で上半身を起こして唖然としていた。手が震える、唇が戦慄く。彼女は薄れそうになる記憶を必死に捕まえて、そして頭を抱えた。


 夢を見た。桐の、あの戦場での夢を。ただいつもと違うのは、あの言葉を告げられた一場面だけではなかったということだ。

 病気を患って布団の上で吐血していたこと。苦しくて苦しくて、それでも飛び起きて馬に乗り、自らあの戦場へと一人駆けたこと。そこで、主に残りの命を使ってくれと懇願したこと。

 何より――“あの言葉”を、桐が望んで受け入れていたこと。



「嘘……でしょ。だって今まで、そんなこと、え、嘘でしょ……?」



 同じ言葉を繰り返しながら、しかし混乱は一切収まらない。あの夢が真実だったとすれば、だってそれはつまり、今まで紗桐がとんでもない勘違いをしていたということに他ならないのだから。



「……何かもう、どうしようもなく申し訳ない」



 夫が、主が進んで自分を見殺しにしたのだとずっと思っていたというのに。勝手に勘違いして怯えて、本当にいたたまれない。

 今すぐに夫の元へと向かい全力で今までのことを謝罪したい。……したいのだが結局のところ、あの男は前世のことを覚えているのだろうか、それが問題である。

 覚えていないのであれば突然謝られても意味が分からない上、説明しても信じてもらえないだろう。この女気が狂ったのかと思われても仕方がない。



「お、おはようございます、あるじ……旦那様」

「……ああ」



 それでも罪悪感が拭えず、いつもとは違う理由で挨拶がどもった。おまけにうっかり主様と言い掛けてしまう。

 しかし男は特に驚くこともなく普通に返されたので、やはり覚えているのは紗桐だけなのだろうか。


 動揺しながらも朝食を出し、そして茶の準備をする。気持ちは落ち着かないものの、ここで上の空で不味いお茶でも淹れてしまおうものなら瞬時に罵倒が飛んできそうだ。いつも通り神経を使って作業を終えると、彼女は居間に戻り夫へ茶を差し出す。


 そして、一つ覚悟を決めて話し掛けた。



「あのー……旦那様」

「何だ」

「何か欲しい物とか、私にしてもらいたいこととかってありませんか……?」



 何にせよ今まで失礼なことを考えて態度にも表れていたのだから、せめて何かお詫びをしたい。昨日の着物のこともあり、何か少しでも今までのことを返せたらと思ったのだ。

 そんな彼女の窺うような声に男は目を細めて紗桐を見る。誤解だったと分かっていても怖いものは怖い。思わず視線を逸らして俯くと、すぐに彼女は名前を呼ばれた。



「紗桐」

「はい」



 顔を上げると、彼女を見る目は酷く鋭く、そしていつものよりもずっと険しい顔をしている。



「貴様に求めることなど何もない」

「……はい」



 痛烈な言葉に紗桐はずきりと心が痛んだような感覚を覚えた。

 確かに、冷静に考えれば欲しい物があれば紗桐に頼まずに自分で購入するだろうし、彼女に求めることがあれば既に遠慮なく告げているだろう。その上で、あえて紗桐に頼むことなど何もないのだ。


 落ち込む彼女を気にすることなく茶を飲み始めた男は、一度湯飲みを置くと「ただ」と短く言葉を発した。




「お前が健康に生きているのなら、それで充分だ」

「……っ!?」



 紗桐が持っていた盆が盛大な音を立てて床に転がった。



木村は2018年4月7日の活動報告の前作のおまけにちらっと出てます。

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[良い点] すごくよき…
[良い点] なんと言ったらいいか分からないですが、前作に続き、このお話もすごく好きです! 主様の急なデレにきゅんきゅんしました
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