グリムハイド・アビー
アルの住む屋敷は、トランザム卿の屋敷から、南東に百キロほどの場所にあった。
きょうの天候は雪。
最初に転移したときと同じく、きらきらと粉雪が舞っている。
おまけに旧式の乗用車には暖房なんて文明の利器は備わっていない。
歯がかち合うほどの寒さを無表情で堪え、俺たちは三時間ほどの旅路の末、目的地であるグリムハイド・アビーに到着した。これでも随分飛ばしたほうらしい。
「ようこそ、グリムハイド・アビーへ!」
最後に降車したアルが、屋敷をバックに爽やかな笑顔でそういった。
ちなみに「グリムハイド」とは所領の名前で、「アビー」とは邸宅の意味らしい。
そしてアルは正式にはグリムハイド伯爵。貴族でも中くらいの地位だ。
「よろしくお願いします」
アルに向かって丁寧に頭を下げる月。
「お、おう……」
かたや俺は、屋敷を見上げて、ひさしぶりにきょどった声を上げてしまった。
目の前の屋敷は、このあいだまで居たトランザム家の邸宅より一回り大きく、そして何倍も豪奢な建物だったから。
「上には上があるってことか」
驚愕した顔のまま、ぼそりと呟くと、アルが俺たちのほうに近寄ってきた。
「随分びっくりしているみたいだね、ふたりとも」
「ええ。こんな大きな建物がアルさんひとりの持ち物だなんて」
「月。言葉遣いが元に戻っているよ」
「あ、ごめんなさい。御意」
慌てて畏まる月に、アルは「よくできました」とばかりに微笑みかける。
そしてその仮面のような笑みを、今度は俺に向けてきた。
「玲君はどうだい」
「私も驚いてますよ。こんな屋敷で働くなんていまから緊張する」
「固くなりすぎだよ。肩の力を抜いて」
「御意」
「それにね、玲君?」
「なんでしょうか」
「この先には、もっと驚くことがあるんだ。これくらいでびっくりしていたら、心臓がいくつあっても足りないよ」
何やらほのめかすようなことをいって、アルはつかつかと玄関へ向かった。
俺と月はその先回りをし、ドアを開けてアルが入るまで待機の姿勢をとる。
「ただいま! いま戻ったよ」
玄関をくぐったアルが屋敷中に響くような大声を張り上げた。
ご主人様のご帰宅。
屋敷の使用人がわらわれ出てくるかと思ったが、屋敷の中は意外に物静か。荷物運びのためにやってきたのだろう、男性使用人が左側の扉を開け、姿を現す。
しかし俺は、その男性使用人を見て、腰を抜かすほど驚いてしまったのだ。
「ちょ、雪嗣!?」
リアクション芸人よろしく間抜けな声で叫びあげてしまう。
「雪さんも、このお屋敷にいたんですか?」
かたわらの月も、がばっとアルのほうを振り向いていた。
「そうだよ。雪はぼくの雇った使用人だ。この世界に転移してきたとき、なぜかぼくは貴族、彼は使用人という立場に転移したんだ。契約はその場で成立。以来、この屋敷で第一下僕として働いて貰っている」
「雪さんが使用人だなんて、さすがアルさん。馬鹿とハサミは使いようですね」
感服しきったようにいうが、月。それはまったく褒めてないぞ。
もっともアルはその発言を華麗にスルーして、
「じゃあ、雪。きょうからうちで働くことになった二人に挨拶して」
なんてことを雪嗣の奴にいいやがる。
クラスの中でのおそろしく根暗で、発言らしい発言をしたことがない雪嗣がどういう挨拶をしてくれるのか。俺の興味はただちにそちらへ移っていったが、
「ユキ・トービーだ。飛雪嗣を英語にするとそうなるらしい。この屋敷では半年前から働いている。おまえたちの先輩にあたるわけだが、何かわからないことがあったら遠慮なく訊くといい」
「半年前から? 雪さんはそんな前にこの世界へ来たんですか?」
「そうだ」
「みんな一緒じゃなかったんですね。一体どういう仕組みなんでしょう」
「さあな。俺もきのうご主人様から電話を受け、おまえらがこの世界にいると知って驚いたくちだ」
「電話? この世界にはそんな便利グッズまであったんですか。イギリス、パないです」
「他にも色々あるぞ。ここは中々の文明世界だ」
やや自慢げに胸をそらす雪嗣。月はまったく気にせず、自分の世界に入ってしまったが、俺は奴の先輩づらした態度が気に入らなかった。
「中野、韮沢。もうひとり使用人を紹介してやる。いいですよね、ご主人様」
「ああ。いいとも」
「ふたりとも、こっちへ来い」
雪嗣は俺たちを苗字で呼びながらあごをしゃくって命令する。この野郎、根暗でぼっちな「近づくな」オーラの向こう側に、こんなにも度し難い性格を隠し持っていたのか。
もっとも、学校内外でいくつもの傷害事件を起こしている雪嗣だけに、本当は優しい心根を持っていたというよりも、傲慢な自惚れやのほうがしっくりくる。
「じゃあ、案内して貰おうか」
俺はそういって、雪嗣の後ろに付き従った。月があとをぱたぱたついてくる。
雪嗣の向かった先はキッチンだった。
「おい、例のふたりが到着した。挨拶せよとのご主人様の命令だ」
キッチンの奥に声をかけると、メイド服の女性がこっちを振り返った。
「おまえ、黒石じゃねぇか!?」
びびって声が裏返った俺。
黒石紫音はメイド服を着て、見違えるほどかわいくなっていた。メイド服恐るべし。
そして紫音のメイド服には、俺たち向けに名札がついている。
シオン・ブラックストン。彼女もやけに英語っぽい名前。もう嫉妬しか湧かない。
けれども紫音に起きた変化とは、それだけではなかった。
「よお、おまえら! よく来たじゃねぇか! きのう電話貰ったときはマジかよって思ったけど、これで修学旅行の班メンバー全員集合ってわけだな、いやっほう!」
突然、俺たちのほうに駆け寄ってきて、月の肩を掴み、前後にがくがく揺さぶる。
なにこいつ。テンション高えよ。
クラスの誰にも近寄らない孤高の狼みたいだった紫音が、まったくの別人になっている。これは雪嗣の変化よりインパクトが大きかった。
「紫音さん、その服似合ってますね」
「このメイド服だろ? 私さ、こう見えてかわいいもの好きなんだ。似合ってるっていわれると恥ずかしいけど、その……なんだ、けっこう嬉しいぜ」
「ええ。馬子にも衣装です」
そして黒ルナは大快調。
紫音はわっはっはと大笑いし、雪嗣はこれ見よがしに鼻を鳴らしている。
そんな俺たちのところに、主人であるアルが歩み寄ってきた。
「無事、挨拶ができたみたいだね」
「ああ。まさか紫音と雪嗣のふたりがいるとは思ってもみませんでした」
「だからいっただろう。もっと驚くことがあるって」
アルは仮面の微笑を浮かべながら、胸を張った。
「紫音と雪は、屋敷へ来る以前、ぼくがクラリック公と経営している孤児院の出身ということになっているんだ」
また孤児院か。俺や月もそうだが、転移者はみな孤児院にゆかりがあるわけだ。しかもクラリック公との共同経営とは、俺たちがいたとの同じ孤児院ではないか。
「恵まれない子供に救いの手を。我が家のモットーのひとつさ」
俺の自問自答をよそにアルは、笑顔のまま俺たちに指示を出す。
「さあ、玲。月。次は屋敷の他の住人たちを紹介しよう。その前に、雪に従ってこの屋敷のお仕着せとメイド服に着替えてね。新品がいくつか残っているから」
アルがそういうと、雪嗣は目礼をして俺たちに手振りで指図を飛ばした。
「二階に収納室がある。こっちへ来い」
階段を昇ると、トランザム家同様、材質は大理石。模様のきめの細かさからは、さらに上質な石を使っていることが察せられる。そんな目の飛び出るほど豪奢な屋敷が俺たちの仕事場になるのだ。
「新しいお仕着せ、格好良いといいですね」
「おまえのメイド服もな」
月と雑談をかわしながら、階段を昇っていると、
「いまは許してやるが、無駄な私語は慎めよ」
即座に雪嗣のツッコミが入ってくる。
(やれやれ。この屋敷でも面倒な人間関係が待っていそうだな)
俺は心の中で嘆息し、雪嗣への不満を募らせそうになった。
けれど空気が、俺に読めといっている。
この屋敷で働く以上、揉め事を起こすのは賢くないと。ジョーズとの二の舞は何としても避けたいところだ。
だから俺は、何も聞かなかったふりをして素直に雪嗣の後を追うのだった。
◆
収納室で順番に着替え、俺と月はお仕着せとメイド服に着替え終わった。
「玲さん、蝶ネクタイが曲がってますよ」
月が背伸びをして、俺のネクタイを調えてくれた。
「おお、すまん」
俺が礼をいったところへ、教育係とおぼしきポジションの雪嗣が声をかけてきた。
「これが名札だ。他の使用人たちに早く名前を覚えて貰うためだ」
トランザム家のときと同様、俺たちにはネームプレートが渡された。
月はルナ・ハートフィールド。
俺はレイ・ニラサワ。
「ご主人様は徹底した合理主義者だからな。見栄えは悪いが納得してくれ」
「いいよ、べつに」
ニラサワという字の浮きっぷりが酷いが、一度経験していることだけに、以前のようなショックはもう感じなかった。東洋人まるだしで生き抜いてやる。
そして俺たちは、アルの待っている書斎へ向かった。
「いい感じだよ、ふたりとも」
アルは俺たちの顔を順繰りに見まわし、満足そうな表情を浮かべた。
「うわー、大量の蔵書。飾りもいいところです」
月の空気読まん子発言が耳に入った。
俺は彼女をひじで小突く。無駄な私語は慎めといわれたばかりだ。
幸いなことにアルはこの動作に気づかなかったようだ。
「玲は第一下僕、月はハウスメイドに就いて貰う。第一下僕は雪と同じポジションだけど、君にはトランザム家での経験があるから、それを考慮した。いいかい?」
「私は問題ありません」
「…………」
一瞬、雪嗣が黙り込んだ。しかしややあって、
「承知いたしました」
少し言い淀みながら、アルへ答えを返す。
俺は黙っていたが、いまのやり取りは下策に思えた。これは推測だが、雪嗣は俺と同じポジションなのが気に食わなかったと見える。横目で見れば、案の定、彼の不愉快そうな顔が目に入った。
なので俺は、自分から第二下僕でいいと申し出ることにした。
「ご主人様。私は後から来た者です。雪と同格というのは買いかぶりかと」
「それは早計だ。君は新人ではない。トランザム家での働き、見事なものだったよ。それと同じクオリティをこの屋敷でも発揮してくれたまえ」
俺の申し出は却下されてしまった。
当然、雪嗣の不満は晴れない。しかし彼も一人前の下僕だったようだ。
「さ、雪。他の住人たちに彼らを紹介してやってくれ」
「御意」
アルの命令に、優雅に頷き、俺と月を書斎の外に連れていった。
「最初はどこから回るんだ?」
俺は先をつかつかと歩いて行く雪嗣に後ろから呼びかけた。
「ベアトリス様のところへ行く。彼女はこの屋敷の令嬢だ」
ちなみに雪嗣によれば、男性使用人の部屋が一階と地階、女性使用人の部屋が最上階、貴族たちの部屋が二階だという。これはトランザム家と同じだから、貴族の屋敷において一種のセオリーなのだろう。
かくして二階の間にやってきた。
清潔に掃除された廊下を歩き、一番突き当たりの部屋に止まり、ドアをノックする。
「入れ」
部屋の中から凜とした声が聞こえた。
雪嗣を筆頭に、俺たちは慎重に部屋のドアをくぐる。そこには長い琥珀色の髪をアップにまとめた美しい顔立ちの令嬢がいた。
「ベアトリス様、新入りの使用人を連れて参りました」
「ふむ、そうか。ところでユキ」
「なんでしょうか?」
「ベアトリス様ではない、ベアト様と呼べと何度いったらわかるんだ?」
「これは申し訳ございません」
きびきびとした調子で雪嗣を窘めるベアトリス……いや、本人の希望によればベアト様か。貴族の令嬢にふさわしく麗しいほどの容姿だが、その衣装は動きやすく短いスカートだった。
貴族の少女といえばロングドレスと思っていた俺の目には奇っ怪な服装に映る。
「君たちがきのうアルがいっていた新入り君か。ルナ……レイ。いい名前じゃないか。面構えも悪くない。やる気のなかった前任者よりまともに働いてくれそうだ」
ベアト様は、何か作業をしているのだろう。その視線は、机と俺たちとをいったりきたりしている。
「ベアト様、ひとつ質問してもよろしいでしょうか?」
「なんだ、レイ。答えられるような質問か」
「はい、些細なことでございます」
「いいだろう」
「お嬢様はいま、どんな作業をしていらっしゃるのでしょう?」
「これか、これが気になるのか」
ベアト様は机の書類を指し示し、俺のほうへ向き直った。
「ネヴィル家はな、投資的な事業、いうなればビジネスを生業としている。私はその事業に経理として関与している。成人前だがもう一人前の大人としてな」
「そうだったのですか」
そういえば、トランザム家にいるとき、卿が「ビジネスなど成金のやることだ」といっていたけれど、あれはアルのことを揶揄していたのだろう。
この世界のしきたりが腑に落ち、心のなかで納得していると、
「ところで、レイ」
「なんでしょうか、お嬢様」
「それだ、そのお嬢様というやつだ」
突然、ベアト様は不機嫌そうに目を細め、
「最初だからいっておくが、私は必要以上に女扱いされることを好まない。お嬢様という響きには男性の上から目線がこもっている。私のことは基本、ベアト様と呼べ」
「承知いたしました」
「そこのメイド……ルナといったか。おまえもよくよく気をつけるように」
「御意、ベアト様」
「うん、よし」
仕事中ということもあって、ベアト様への挨拶はすぐに終わった。
それにしても、のっけから中々の変人ぶりを発揮されてしまったように思う。
「ベアト様って、いつもあんな感じなのか? 服装もえらくラフだし」」
「ああ。お嬢様は変わり者なんだ。相性の悪い使用人は容赦なくクビにする」
「そいつは気をつけないと」
雪嗣と雑談をかわしながら、ふたたび階下へ降りていく。
「本来なら、家令のカーソン様を紹介しなければならないのだが、カーソン様はいまアメリカに渡っていてな。さっきもいった投資業で彼は多忙なんだ」
「それじゃ、いま屋敷で一番地位の高い使用人は?」
「うちは執事と従者が辞めたばかりなので、第一下僕である俺とおまえになる。新人のくせに下っ端ではなく、おまえも運がいい」
次の住人紹介は、使用人室で行われることになった。
コック、家政婦長、運転手の三人が、午後のお茶を楽しんでいた。
かたわらには紫音がいる。彼らに出すお茶を担当していたのは彼女だった。
「まずはコックさんから。エマニュエル・デシャン、フランス人のシェフだ」
「どうも、レイ・ニラサワです。フランスからいらっしゃったんですね」
「ウィ」
「ルナ・ハートフィールドです。よろしくお願いします」
「ウィ」
席を立ち上がったデシャンと簡単な握手をかわす。
年齢も若く、物腰の柔らかいひとだと思ったが、背後の雪嗣が小さく補足する。
「ひとついっておくが、デシャンは英語は理解できるが、会話に難がある。だから基本的には、ウィとノンでしか話せない。会話をする際は、うまくフォローしてやってくれ」
「そうなんですか、ムッシュー?」
「ウィ」
「でも腕利きのコックさんなんですよね。三つ星レストランにいらしたんですか?」
「ノン」
「でも料理はお上手なんですよね。いつか私にもごちそうしてください」
「ウィ」
俺と月が立て続けに発言を飛ばすも、確かに会話は成り立っている。
「この屋敷は変わり者ばかりでさ。常識人のあたしとしちゃ、困っちゃうよ」
デシャンの隣で肩をすくめた女性。雪嗣の説明によれば、彼女が家政婦長のルース・ダグラスさん。年齢は中年過ぎといったところ。月の上司になるのが彼女だろう。
「ルナ。あたしは仕事にうるさいからね。覚悟しておくんだよ」
「御意」
「こらこら、そんなに畏まっちゃいけない。わかりましたで結構さ」
「すみません、わかりました」
「キッチンメイドはシオンがやっているから、あんたの仕事はハウスメイド。裁縫、被服、アイロンかけ、掃除、洗濯、暖炉の掃除……全部やって貰うから重労働だよ」
「それを全部私が?」
仕事内容を聞かされて、月が露骨に「えー」という顔になった。
なにやってる月、空気読め、空気を。
「なにか不満かい?」
「不満はありません。罰としてムチ打ちとかされなければ天国です」
「馬鹿いうんじゃないよ! 誰がムチ打ちなんてするかい。むかしと違って最近は使用人をぞんざいに扱っちゃいけないって風潮なんだ。代わりに小言は多いかもしれないけどね」
しわの寄った顔を崩し、ダグラスさんは高笑いをした。
そして隣にいる運転手に自己紹介するよう促した。
「私はバークマン。きょう君たちをお屋敷まで運んできた運転手です。それ以外にも、庭師、ハンティングの際は猟場番人もやります。もうじき爺さんになる歳ですが、せっかくの縁だ。よろしくお願いするね、レイ君、ルナちゃん」
バークマンさんはそういって頭を掻いた。
見た目は初老、よく漫画で白髪でひげの執事が出てくるが、風貌としては彼が一番そのイメージに近かった。
「バークマンさんは、まるで執事みたいですよね」
見たまんまの感想を、隣の月が呟いた。
「見た目だけはね。でもいま、このお屋敷は執事不在さ」
ちょっぴり寂しそうにいって、ダグラスさんが俺を見る。
「ところでレイは下僕として働くのかい?」
「はい、第一下僕だそうです」
「ユキと同じってことかい。どっちが次の執事になるか、こりゃ楽しみになってきたね。どうだいバークマンさん、ここは執事の座をめぐる賭けをしてみるってのは?」
「あなたの賭け事好きには付き合いたくないよ」
「んま、度胸のない男だこと」
ダグラスさんはおばちゃん口調で、かなり微妙な話題を平気でしていた。
次の執事に俺か雪嗣が選ばれる……?
たんなる使用人の噂話なのだろうけど、火のない所に煙は立たない。
振り返れば、雪嗣はむすっとした顔で押し黙っている。
「それでは皆さん、今後ともよろしくお願いします」
俺と月は声を合わせ、三人の使用人に頭を下げた。
そして最後は、アルのいる書斎に戻る。
「どうだった、うちの使用人たちは?」
「トランザム家のときよりは遙かにましかと」
「君と月は虐待を受けたらしいしね。それより酷い待遇は中々あるものじゃないよ」
そういってアルは、手元の書類を取り上げた。
「聞いたと思うけど、我が家はビジネスに熱心だ。家令のカーソンはアメリカでの事業にかかりっきりだし、妹のベアトリスまでその仕事に携わっている。それにうちは合理主義だ。ビジネスを行い、贅沢や利便性を追求するのは成金のやること。そんな貴族たちのスタンダードに照らせば、ネヴィル家は成金じみている。そう陰口を叩かれていることも知っている。でもぼくは思うんだ。金こそが力になると」
口元に浮かぶのは自嘲ではなく、溢れでるほどの自信だ。
「だから君たちにはこの屋敷のやり方に慣れていって貰いたい。虐待の代わりに、ハードな仕事が待っているかもしれない。それにもうまく順応していってほしい」
「御意」
俺は当然として、月も失言はせず、礼儀正しく振る舞っていた。
「もっとも君たちは、この屋敷ではまだ見習い同然だ。仕事を覚えるべく、すべての雑用を経験するといい」
そういってアルは、ペンとメモ用紙を渡してくる。
「なにか知らないこと、覚えることがあったらすぐこれにメモをして。ポケットに入れて常に備えておくといい」
アルなりの配慮なのだろう。俺は即座に胸ポケットにしまい込んだ。
「それではもう一度いわせて貰う。グリムハイド・アビーへようこそ。きょうからぼくが新しい主人だ。しかと崇めてひざまずけ」
その命令に、俺と月、雪嗣は床に片膝をつき、服従の意を示した。
「よろしい。この屋敷を我が家と思って働いてくれたまえ」
とそのとき。ジリジリという機械的な音が鳴り渡った。
「雪。電話だと思う。出てくれ」
「御意」
命令を受けた雪嗣が部屋を駆け出す。
さすが文明世界。二十世紀初頭だけど、最先進国のイギリスには本物の電話があるんだ。そのことにあらためて感じ入っていると、
「ご主人様。シンシア様からです」
「なんだって?」
アルが書斎の椅子を立ち上がり、応接室のほうへ消えていった。
俺は小声で雪嗣に尋ねる。
「なあ、雪嗣。シンシア様って誰だ?」
「ご主人様の母君だ。血はつながっておられないようだが」
ぽつりと呟いたきり、雪嗣は黙ってしまう。
月はその場を離れ、壁越しに応接室を食い入るように見ている。のぞき見というやつだ。
アルやベアト様以外にも、屋敷に関係する貴族がいたわけだ。
「どんな人なんだ?」
「俺の口からはいいづらいが、厄介な人であることは確かだ」
雪嗣の表情はみるみる曇っていく。
思うにその電話は、風雲急を告げる神様からの合図だったのだろう。