メイド喫茶
京都から戻り、俺はふたたび療養生活に入った。
しかしそれは長くは続かなかった。医者は俺の回復ぶりを認め、ほどなく退院できることを告げた。綾子はそれを聞き、自分のことをように喜んだ。
「おめでとうございます、兄さん」
「これもおまえのおかげだよ、ありがとう」
「兄さんが頑張ったおかげよ、私はお手伝いをしただけ」
「謙遜するな。素直に受け取ってくれ」
俺が綾子の頭を撫でると、艶やかな黒髪がほつれた。顔に落ちた黒髪は、涙で頬に張りついた。俺はその涙を手で拭った。綾子は恥ずかしそうに微笑んだ。
「私、泣いてばかりね」
自嘲するようにいって、綾子は俺の体を抱きしめる。
その様子を、病室のドアから見つめる者がいた。見舞いに来た月である。
綾子は月の姿を認めると、すぐに体を離した。彼女にも羞恥心があったのだろう。
「麗しい兄妹仲ですねー?」
棒読みでそう言って、月は珍しいものを見たような顔をしながら歩いてきた。
「月、きょうは随分早いな」
「先生がお休みで、午後の授業がなくなったんです」
「そうか」
俺は淡白に返し、退院が近いことを彼女にも告げた。
「退院したら、すぐ学校に復帰するんですか」
「たぶんそうなる。杖をつけば歩けるし、その杖もあくまで心の支えだ。なくてももう歩ける。ほとんど全快といっていいと思う」
「それはそれは。玲さんが戻ってくるのは私も嬉しいです」
「半年以上、離れていたからな。授業についていけるかが心配だ」
「その心配は無用です。この中野月にお任せください」
サポートは万全だとばかりに月は薄い胸をどんと叩いた。こういうとき、頼れるクラスメートがいることは本当に助かる。
「なら、安心だな。俺、頭が悪いから普通の奴の何倍も迷惑かけると思うが」
「でも英語だけはバッチリでしょう」
「確かに。それも安心材料だな」
転移事情を知らない綾子は、今のやり取りにきょとんとしていたが、特に疑問を投げかけてくることはなかった。しかし俺と月の親密さに思うところがあったようだ。
「兄さん、中野さんと随分仲がよろしいのね」
「綾子さん、私のことは月でいいって言ってるじゃないですか」
「けれどあなたは年上で、職場では私の先輩です。名前で呼ぶことはできません」
月の混ぜっ返しによって、会話があらぬ方向に転がっていた。
――職場?
俺の知らない会話が今なされている。聞き咎めないわけにはいかなかった。
「職場ってなんだ?」
「あれ、玲さんには教えていませんでしたっけ」
明らかにとぼけた表情の月。
「聞いてないよ、なんの話だ?」
そこで月と綾子が顔を見合わせる。ふたりは何か隠し事をしていたらしい。
月のジェスチャーを受け、綾子が口を開いた。
「実は、中野さんに誘われて新しいアルバイトをしているんです」
綾子は母子家庭の乏しい家計を補うべく、みずから率先してスーパーのレジ打ちのアルバイトをしていた。それを辞めて、べつのバイトを始めることにしたのか。
「月、おまえどんなバイトしてるんだ?」
「玲さんには退院まで内緒にしようとしてたんですけど」
「やっぱ内緒にしてたんじゃないか」
「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんです」
月は両手を振って否定し、隠し事を俺に語って聞かせた。
「私、病院はすぐに退院できたから、なにか自分にできるアルバイトを探していたんです。それで見つけたんです、自分にうってつけのアルバイトを」
「なにやってるのさ」
「メイド喫茶です」
「マジか?」
少しのやり取りで、月がそのバイトを選んだ理由がわかった。彼女は屋敷で培った経験を活かすべく、異世界同様メイドという職を選んだのだ。
思うにそれは、確かに月にうってつけだった。
「紫音さんも同意してくれて一緒に働き始めました。そんな中、玲さんの妹さんとも知り合って、人手不足だからダメ元で誘ってみたんです」
「なるほど、そんな事情が……」
「いっておきますけど、兄さん。私はメイドに憧れてそのバイトをやることにしたのではないわ。時給がレジ打ちよりずっとよかったの」
俺がもっぱら剣道にかまけている間、綾子は勤労学生として頑張っていた。俺はそんな綾子に引け目を感じていたが、高校生にできるバイトなど接客業以外にはなく、ぼっちな俺にそんな真似ができるはずがないと思い、ずっとバイトを避けていたのだ。
「頑張り屋だな、綾子は。俺には到底真似できないよ」
自分の放蕩ぶりに呆れ、思わず頭を下げてしまった。
「とはいえ玲さん、朗報です」
「朗報?」
またしても月が唐突なことをいい始める。
「退院するまでは黙っていようと思っていたんですけど、バレちゃった以上、もう意味がありません。率直にいいますが、メイド喫茶で働いてみませんか?」
その勧誘はマジで想定外のものだった。
俺がメイド喫茶? 月みたいな格好で給仕をするのか?
「勘弁してくれ、俺は男だぞ」
「妙な誤解はしないでください。誰も玲さんにメイドをやれなんて言ってません」
「でも、職場はメイド喫茶なんだろ」
「今度、執事を募集することになったんです。もう雪さんには声をかけてます。散々渋られましたが、最終的にはオーケーしてくれました」
「なるほど、執事か……」
俺の胸に訪れたのは、屋敷での日々を回顧する思いだ。
その働きぶりが十分だったという自信はないが、必死に務め上げたという自負はある。
もう一度、執事に戻る。それは相対的に退屈なこの世界でありえる生き方だった。
なにより、綾子と同じ職場というのがいい。俺は異世界に戻るまでに、綾子に何か輝く光のようなものを残したかった。仕事の同僚となれば、思い出はたくさん残せる。唐突に振られた勧誘だが、俺は瞬時に前向きになっていた。
問題は、体の回復ぶりだ。バイトで働くとなれば、杖をつきながらではまずい。
「そのバイト、いつまで募集しているんだ」
「玲さんが復帰し次第、始められるよう店長にいっておきます」
「随分オープンな職場なんだな」
「雪さんと玲さんは即戦力だといってありますから」
確かに異世界では、俺はプロの執事だった。即戦力は間違いではない。
もっとも綾子は事情を知らないから、この発言にはきょとんとしている。やがて単純に兄貴が即戦力と聞き及び、にまにまと笑っているだけだ。
「そこまで話がまとまっているなら問題ない。退院したらすぐ働くことにするよ」
剣道に復帰するには、まだ時間がかかるだろう。その間、リハビリと思って働くことは決して悪い選択ではない。家計も助けられる。一石二鳥だ。
「月、色々骨を折って貰ってすまんな」
「いえいえ、私的にも玲さんたちが一緒だと楽しいですし」
「綾子も。職場では先輩になるんだ。わからないことは教えてくれ」
「私も兄さんと同じ職場で働けて嬉しいわ」
事が決まるや、俺の行動は早かった。
回診に訪れた医者にバイトのことを告げ、できるだけ早く退院したいと申し出た。
医者は歩行能力の回復ぶりを認め、その選択を承認してくれた。
ひとつ気がかりだったのは、視力の劣悪さだ。綾子や月には黙っていたが、俺の目は元通りクリアに見えていない。以前よりましになったが、霞がかった視界は日常生活の妨げになることは間違いなかった。
「原因はたぶん、精神的なものだと思うよ。視神経の損傷は回復しても、視力が戻らないケースは決して珍しいものじゃない。事故のダメージから早く立ち直ることだ」
「それは日常生活を送りながら回復するものなのでしょうか」
「答えはイエスだね。新しいことに打ち込むのは大事なことだよ」
そこからさらに二週間が経ち、退院の日を迎えた。
俺は歩行の助けに使っていた杖を手放し、以前と同じように歩けるようになった。
体の回復と足並みを揃え、低下した視力もだいぶよくなったように思う。
少なくとも、目の前の相手を視認できないことはなくなったし、日常生活を送るぶんには支障がなくなったといえる。医者も退院に太鼓判を押してくれた。
その日、俺は綾子と母親の三人で家族水入らずの退院祝いをやった。
ひさしぶりの自宅。異世界で過ごした時間が長かったから、まるで一人暮らしを始めた息子が戻ってきたような感慨を味わった。母親も同じような気持ちだったらしく、彼女にしては珍しく手料理を振るまい、俺と綾子はそれに舌鼓を打った。
「ごめんね、全然お見舞いにも行けなくて」
母親がぽつりと謝ってくる。
けれど俺は、彼女の多忙ぶりを知っている。一部上場企業で管理職にまで昇りつめたのだから、そのハードワークは想像に余りある。聞けば、ここ数ヶ月は中国の工場と日本の本社を往復する毎日で、ろくに休んでいないという。代わりに綾子が面倒を見てくれたわけだから、俺にとって不満はなかった。なにより必要以上に家族の足を引っ張りたくなかったから、俺は母親の謝罪を申し訳なさとともに受け容れた。
「そういえば、玲」
「なに?」
「綾子から聞いたけど、同じ職場でバイトするんだって?」
「ああ。バイトの件ね」
「剣道はいいの?」
「まだ体が本調子じゃないから。でも道場に戻ってもバイトは続けるよ。家計の助けになりたいし、何より俺は綾子と一緒の時間を過ごしたい。勿論、母さんとも」
「何だか自立する前の口ぶりね。まだ高校生なんだから、気負わなくていいのよ」
「高校生は関係ないよ。俺、どうせ頭が悪いし、大学に行くつもりもなかったから。いまから社会に出る準備をしていると思えば、いい勉強になるし」
「またそんなこと言って。あなた昔、警察官になるって言ってたでしょ。それなら剣道も続けられるし、大学くらい出ておくほうがいいわよ」
「高卒でも警察官にはなれるって。それに教育費とか大変だろ」
「そうやって勝手に気を回さないの。大学の学費くらい、母さんが稼いでみせるわ」
大学進学のことになると、いつも意見がすれ違う。俺は俺で譲らないし、母親は親心なのか進学を勧めてくる。選択肢は多いほうがいい。それが彼女の言い分だった。
しかし、俺が腹の底で考えていることは母親もわかるまい。この世界にいる俺は、たんなる腰掛けに過ぎないのだ。心はあの異世界にある。進学しようと警官になろうと、それは俺の運命とは無関係だ。俺はただ心残りを消すためにこの世界にいる。だからこそ今を全力で生きたかった。バイトをやると決めたのも、その一環である。
そして翌日の日曜日。俺は綾子を連れて所沢市内にあるメイド喫茶に向かった。
内々に話が進んでいるとはいえ、型通りに面接があったのだ。
俺たちは自宅から自転車で所沢駅に向かい、駅近の駐輪場に止めたあと、プロペ通り沿いの真新しいビル二階にある店舗に入って行った。
――カラン、コロン。
ドアベルが鳴って、入店する。まだ営業時間前だったので、客の姿はない。
「兄さん、こっち」
俺は綾子の指示するまま、従業員専用の部屋に入る。そこでは店長とおぼしき女性が、デスクトップ型のパソコンに向かっていた。
「店長、兄を連れてきました」
「ああ、韮沢か。ちょっと待ってくれ」
かちかちとキーボードを叩く音。おおよそ会計ソフトをいじっているか、従業員のタイムシートを作成しているか、どちらかだろう。年齢的には二十代前半といった感じだ。
「よし、面接を始めようか。君は、そうだな……韮沢兄」
「はい、韮沢兄です。よろしくお願いします」
俺は店長の前にある椅子に座り、あらかじめ準備しておいた履歴書を差し出す。初対面の相手にきょどることもない。グリムハイドでの日々が、俺を別人に変えていた。
「高校生ということだが、課外活動はやっているか」
「いえ。部活はやっていません。以前やっていた剣道も訳あって休んでます」
「韮沢妹から聞いている。事故で大けがを負ったようだが」
「それはだいぶ回復しました。事故前とまではいきませんが、日常生活に難はありません」
「立ち仕事に不安は?」
「ありません。今は杖がなくても動けます」
「入院中は杖をついていたのか。何だかカッコいいな」
少しピントのずれたことを言う店長。にやりと笑って俺の顔を見据えた。
「スマイルはできるか」
「……はい。こんな感じでしょうか」
俺はアルやベアト様に向けたのと同じ穏やかな笑みを浮かべた。あくまでイメージでは春の木洩れ日のような笑顔。
「中々いい笑顔をするな。即戦力という話は本当だったようだ」
ひとりで納得する店長。背後に控えた綾子から、ほっと息を吐く音が聞こえる。
「そんな笑顔をどこで学んだ。接客業は初めてじゃないのか」
「初めでです。笑顔はひとりでに身につきました」
「なるほど。天性のものというわけか。努力型というより天才タイプだな、韮沢兄」
ぶっきらぼうな口調だが、店長という職務はひとを見る目が養われる仕事だ。
俺は彼女に、自分が執事に順応できた理由をずばり言い当てられた気になった。勿論、努力をしなかったわけじゃない。トランザム家では地獄を見た。けれども結局のところ、俺は執事に向いていたのだろう。剣道の型のような様式美の所作。ご主人様が望むものを空気で読み取る類希な能力。それは努力で得たものではない。
「おまえは確かに、うちで働く素質がある。韮沢妹の推薦もあったことだし、雇うことにしよう。シフトは週三日でいいか?」
「できれば毎日でもいいくらいですが」
「それだと学業が疎かになるだろ。私は勉強をサボる口実を与えない主義だ」
店長は俺をビシッと指差す。俺のことを「おまえ」呼ばわりし、自分の意見をずばずば言ってくる。俺が知る社会人には当てはまらないタイプ。このひとはきっと、優秀か変人かどちらかだろうと思った。
「シフトは週三だ。明日から働いて貰う。その働きぶりがよければ、希望どおりシフトは毎日入れてやる。だが言っておくと、この仕事は天性の才能でこなせるほど甘くないぞ。そのことを実地で学んでくれ。以上だ」
面接はあっという間に終わった。志望動機とか色々聞かれると思っていた俺には予想を遙かに上回るスピード感。やっぱり優秀なひとなのかもしれない。
「それでは失礼します」
椅子を立ち上がろうとしたとき、店長は待ったをかけた。
「きょうはもうひとり面接があるんだ。とはいっても、もう雇用すること自体は決まっている。せっかくだから顔合わせしろ」
――カラン、コロン。
そのとき、従業員室の外でドアベルが鳴った。
綾子が後ろを振り向くと、従業員室の扉が開き、ひとりの女の子が入ってきた。
「失礼しまーす」
元気で張りのある声。さすがメイド喫茶に勤めることになった女の子だけはある。まるで芸能人のようなテンションの高さだ。
そんなことを思って振り返ると、俺はおもむろに言葉を失った。
「あれ? 先輩たちですかー?」
はしゃいだ声が店長に向けられる。
「そうだが、おまえのほうがキャリアは上だ。韮沢兄妹、紹介しておく。彼女は秋葉原の人気店から私が引き抜いてきた城森峰夕だ。仲良くしてやってくれ」
「城森峰です! 先輩がた、よろしくねー!」
「……よろしくお願いします」
新入りのハイテンションについていけなくなったと見え、綾子はムッとした声で返事をかえすが、彼女が仏頂面になった理由はそれだけではなかった。
そしてその理由は、何より俺自身が一番わかっていた。
俺は綾子同様、静かに押し黙った。その沈黙を、新入りの城森峰が破った。
「あれ? 玲ちゃんじゃん。むっちゃひさしぶりー!」
店長の手前、テンションを崩せなかったのか、それとも本当に鈍感なのか。答えは前者だとわかっていたが、俺はそれでも言葉を返せない。
なぜなら城森峰と名乗るこの女は、俺がとてもよく知る人物だったから。
――中学時代。俺を裏切った幼なじみ。
その忌むべき相手こそ、いま目の前ではしゃぐ城森峰夕に他ならかった。
こうして俺はまた、絶対遵守の誓いを生きるのだった。
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