隷下の誓い
翌朝、俺はこの屋敷に来て初めて、朝のお茶を給仕することになった。
お茶の給仕は、従者か執事の仕事である。下僕の身でありながら本来、やってはならない仕事をすることになった理由は、客人であるアルがそれを望んだからだ。
ジョーンズはもとより、トランザム卿も不満だったろう。しかし客人たっての願いとあれば、ノーとは言えない。使用人のルールに反する所業も、渋々認めざるをえなかったのだろうと思う。
かくして俺は、臨時従者としてアルの寝室に紅茶を運んだ。
「ありがとう、玲君」
「どういたしまして、ネヴィル様」
「ふたりきりなんだ、敬称をつけるのはやめてアルって呼んでよ」
「むっ……これは失礼した、あ、いや、すまん」
トランザム家で勤めた短い期間で、俺はすっかり下僕口調になじんでしまっていたので、慌ててそれを元の高校生同士の会話に戻す。
「この紅茶は玲君が淹れたの?」
「ああ。要望どおりストレートティーのままだ。一応砂糖とミルクは付けてあるけど」
「せっかくだからどっちも入れさせて貰おうかな」
砂糖壺からスプーンで、牛乳の入ったミニポットからは直に、ティーカップに適量を注ぎいれるアル。奴の好みはミルク多めか。俺はめざとくそれらの動きを観察する。
「うん、美味しいね。玲君は紅茶を淹れるのが上手だったんだ」
「妹が紅茶好きでな。ごちゃごちゃ文句いわれるたびに上達してしまった」
「そうか、妹さんがいたんだ。ぼく、玲君のこと何も知らなかったね」
「知ってどうなるもんでもないぞ」
「そんなことないよ。友達のことはできるだけ知りたくなるものさ」
おっと、友達という発言がでた。
この俺を友達呼ばわりする奴は小学校以来だ。なんだかそれだけで涙が出そう。
しかし、俺はここで仲良しごっこに興じている場合ではないのだった。昨晩、俺を襲った衝撃的なやり取り。アルによる救済。その真意。知りたいことはやまほどあった。
「なあ、アル」
俺は声をひそめ、アルの顔から目線を逸らしてこう問う。
「どうして俺のこと、助けてくれた?」
「虐待は目に余るからね、人助けなんて偉そうなことをしたつもりはない」
人のいいアルらしく、謙遜した答えが返ってきた。
「それと、なんでおまえが貴族になっている。俺と月は使用人になったのに、それはただの偶然なのか? べつに羨ましがっているわけじゃない。俺はこの転移した世界の仕組みを知りたいだけだ」
「答えてもいいけど、大した情報にはならないよ」
「それでいい。どんなに小さな情報でもいいから、俺はこの世界のことが知りたい」
「わかった」
目線をティーカップに落とし、アルは静かな様子で言葉を継いだ。
「実は遠縁に爵位を持っている人がいるんだ。きっとその縁が、ぼくを貴族という立場に導いたんだと思う」
なるほど。元の世界の履歴が多少なりとも影響しているわけか。
平凡な庶民の生まれである俺や月が使用人になり、社会的地位の遙かに高いアルはより高い地位へとついた。そう考えれば、いまの境遇は納得がいく。
それにしてもだ。アルは俺を救ってくれた。
昨晩は早々にお開きになってしまい、言うチャンスを逸してしまったが、俺はあらためてアルに礼をいっておきたかった。
心の内を表に出すのは慣れてないけど、気持ちをこめてアルに向き直った。
「俺さ、この世界の出来事は酷い夢だと思っていた。最悪の悪夢だと。でも、おまえが俺に手を差し伸べてくれて助かった。ありがとうな、アル」
「さっきもいったけど、お礼をいわれるようなことはしてないよ」
「でも気持ちの問題だ。礼は受け取ってくれ」
「わかった。そうさせて貰うね」
柔らかく笑んだアルは、紅茶を口に運び、
「そういえば、玲君。君はこの世界のことをどう思っているんだい? ぼくらは全員、車に轢かれて死んだはずだ。なのにこうして生を受けている。そのことに疑問は?」
真剣なまなざしを俺のほうへ向けてきた。
アルがこの世界の仕組みに関心があるとは、正直俺は思っていなかった。そんなことを考える前に人は環境に適応しようとする。いちいち疑問を持つのはコストが高いのだ。
とはいえ訊かれたからには、答えなければ格好が悪い。
また俺自身も、自分なりの考えというものを持っていたし、それらを議論させること自体は有意義と思えたのだ。
「俺はこの世界を夢だと思っている。死後の世界で見る、儚い夢だ。しかも修学旅行で一緒だった五人が同時に見る共通の夢」
なぜなら、俺たちのおかれた境遇が転移というものなら、異世界に飛ばされるのがセオリーだ。ここは異世界と呼ぶには現実的すぎる。俺はそう、自分の発言に付け加える。
「玲君はそう思っていたんだ。でもね、ぼくの考えは違う」
紅茶をまたひと飲みして、アルが俺の顔を見た。
「この世界は夢じゃない、現実だよ。ただし、ぼくらがいた世界とは別の現実。その証拠に痛みは痛みとしてある。心も傷つく。夢のわけがない」
アルの反論だが、それはそれで筋が通っている。
例えばジョーンズの虐待とか。俺は体も心も傷ついた。この世界の出来事は夢にしては生々しすぎる。
「それに、玲君。ぼくたちのいる世界は二十世紀初頭のイギリスにとてもよく似ている。きっとぼくらは過去のイギリスに転移したのだと思う」
「転移?」
「そう。心や体はそのままに、別の世界へと転移すること」
「でも、なぜ二十世紀初頭だとわかる?」
「ぼくは屋敷のカレンダーを見たからね。いまは一九一四年の一月だ。けれどここが重要なことだけど、その一九一四年はぼくらが知る一九一四年ではないんだ。玲君、この時期のイギリス首相が誰だったか知っているかい?」
「いや、わからない」
「自由党のハーバート・ヘンリー・アスキス。それがこの世界で政権を担っているのは保守党のバルフォアだ。新聞で確かめたことだから間違いない」
イギリス政治の流れが変わっていること。この事実には驚かざるをえなかった。
「それは別の歴史を辿ってるってことの証拠か?」
「うん。ここは二十世紀初頭のイギリスという名の異世界だ。この世界のどこかに、人ならざる魔物がいたっておかしくはない」
俺を見上げ、きっぱりと言い切ったアル。ここが異世界というのは納得したが、違和感は残り、思わず反論が口をつく。
「けど、そんな二十世紀初頭のイギリスに、俺たち日本人がいるっておかしいだろ?」
「そこが転移の秘密だね。過去にタイムスリップしたといえばそれまでだけど、誰かがぼくたちを召喚したと思えば不自然ではなくなる。それに過去になにひとつつながりがないことが、ぼくらが転移した何よりの証拠だ」
ふむ……召喚か。ラノベでいえば『ゼロの使い魔』のパターンだ。ピンク髪の美少女と出会ってないことを除けば、ありえる発想ではある。
「そしてぼくらが転移したことでこの世界は組み変わってしまったんだろう。世界はアルバート・ネヴィルという貴族を、レイ・ニラサワという下僕を受け容れた。存在していなかったぼくらという異物を取り込むようにして」
「……なるほどな」
いずれにしろ、アルはアルで、自分なりの考えを持っているようだった。
そこで俺は、この世界にかんする俺なりの考えをアルにぶつけてみることにした。
「そういえば、アル」
「なんだい?」
「おまえ、何か忘れてないか?」
「忘れてるって、記憶のこと?」
「ああ、そうだ」
俺の問いにアルは思案顔になり、
「どうだろうね、ちょっと思い当たらないな」
あっけらかんと答えた。
もっとも俺から見ても、アルは何かを欠落させたようには見えない。
強いていえば、貴族という立場に適応していることが挙げられるけど、それは俺や月でも同じことで、特別以前の自分から変化してしまったわけではないようだ。
「じゃあ、記憶とか失ったわけじゃないんだな?」
「どうだろう。本当はなにかを失ったのかもしれないけど、いまのぼくからはそれが何かわからない。ぼくがぼくの顔を見られないようにね。だからぼく以外の人物、例えば玲君の目から見ることで、答えがわかるのかもしれない」
意味深なことをいって、アルは紅茶を飲み終えた。
「美味しかったよ。ありがとう」
「どういたしまして」
◆
その日の午後。アルの旅立ちの時間となった。
彼に再雇用される俺は、自分のお仕着せをきれいにたたみ、あてがわれた自室の整理整頓を無事終えた後、応接間で待つアルのもとに向かった。
衣装は最初に着ていたコートである。まだ腰の部分に泥が付着していた。
「お世話になりました、トランザム卿。いい商談ができました」
「なんの、ネヴィル卿。今後ともよいお付き合いができることを願っている」
「それでは、新しい下僕も得たことだし、お暇します」
「またのお越しを」
トランザム家の使用人たちが一斉に頭を下げ、アルに見送りの挨拶をする。
俺はその横に立ち、居心地の悪い思いをしていた。
「行こうか、玲君」
「ああ」
玄関へ向かってきびすを返し、歩きだす俺たち。
と、そこへ。
「アルさん! 玲さん!」
なぜかジョーンズに手を引かれ、月がパタパタとこちらへ駆けてきた。
見れば、両手で学校指定のバッグを抱えている。服装もメイド服じゃない。
「ご主人様がこいつも厄介払いしろとのご命令だ。この屋敷に疫病神はいらんと言われてな」
吐き捨てるようにいったジョーンズが、月の背中をドンと押す。
足元をふらつかせた月が、俺の懐にぽすんと落ちてきた。
「おまえまでクビにになったのか?」
「そうみたいです。でも玲さんってば酷い。私を置いてくなんて」
小さく頬を膨らませ、月が俺の胸をぽかりと叩いた。
「でも、アルはいいのか? 月まで雇うことになっちまって」
「行くアテはないんでしょ? だったらいいよ、ぼくの屋敷に来るといい」
「アルさん、ありがとうございます!」
メイドしぐさが抜けきらないのか、月は折り目正しく頭を下げた。
玄関の外には、アルが手配したのだろう、旧式の乗用車が待っていた。まるで馬車と見間違うほどのアナクロさ。エンブレムでわかったが、その車はロールスロイスの初期型・シルヴァーゴーストだ。俺自身、図鑑でしか見たことがない超高級車。これが二十世紀初頭のリアリティなのか。
「さあ、ふたりとも、ここからは使用人らしく振る舞って」
ひとりでぶつぶつ呟く俺に、アルは意外なことをいった。
「使用人らしく?」
「そうだよ。いまこの瞬間から、君たちはぼくの使用人だ」
「どういう意味ですか、アルさん?」
「月。アルさんじゃないよ。これからはご主人様と呼んでくれないとね」
月はきょとんとしているが、俺はアルの醸し出す空気を読んだ。
アルは主従の線引きをはっきりさせるタイプなのだ。間違いない。
「アルバート様。どうぞ、こちらへ」
俺は二、三歩進み出て、先に乗用車のドアを開け、アルの乗車を促す。
「合格だ、玲君。君はそのうちいい執事になれるよ」
アルが乗り込んだ後、俺、月の順番で車に乗り込む。
自然、俺とアルが隣り合う姿勢になった。だから思わず話しかけてしまう。
「俺がいい執事になれるって、そんなわけないだろ」
俺は空気を読むのに長けてるだけで、執事の何たるかがわかっているわけではない。
ただの下僕と違い、執事は屋敷の運営を統治するという話を読んだことがある。
だが俺は、人付き合いの悪い、典型的なぼっちだ。
そんな俺に、執事が務まるとは思えない。
「下僕として働くのが精々だよ。無論、やる限りは頑張らせて貰うけどな」
「一生懸命務めれば大丈夫さ。それにぼくが調教してあげる」
そういってこちらを向いたアルの顔には、柔和な笑みとは似ても似つかぬ冷ややかさが微かに浮かびあがっていた。その表情は冷酷と呼んでももいい。
「調教?」
その言葉は、淡々と呟かれていいものではない。格別な異質感を伴っている。
しかしアルは平然としてこう続けた。
「そうだよ。使用人の調教も、屋敷の主人の大事な仕事だとぼくは思っている。だから玲君、月君、今後ぼくと話すときは敬語で行うこと。勿論、ふたりきりのときは、これまでどおりフランクに話して貰っていいけどね」
走りだした車のエンジン音にかき消されるように、アルの発言が心に刺さった。
――ぼくが調教してあげる。
まったくもって、以前のアルらしくない言動。
ひょっとしてこれが、アルの身におきた変化ではないだろうか。
だとすると、トランザム家を出てもなお、自分を友達といってくれた奴とはべつな、筋金入りの貴族の下で働くことに変わりはないことになる。
そもそも俺はアルがクラスメートだということ以外、すなわちこの世界のアルのことを何も知らないのだ。急速に不安が募ってくる。
けれども自分でもいったとおり、勤める限りは逃げだすことはできない。
アルは貴族で、俺は彼らに傅く使用人だ。
それらを隔てる一線は、階級社会において最も大事なルールである。
だから平伏した口調で、俺はアルに頭を垂れた。
「承知いたしました、ご主人様」
こうして俺は我が主家に、絶対遵守の誓いを立てたのだった。