リハビリ
リハビリが始まった。
長期間の昏睡状態の間に、折れた脚の骨はくっついていたが、脳に受けた損傷のため、歩行能力に難があった。
最初のうちはリハビリルームに車いすで向かう。介護人は綾子だ。
俺は彼女に支えられながら、歩行補助器具に手を添え、ゆっくりと歩く。まるででんでん虫が歩くようなスピードだが、担当の理学療法士によれば今はそれでいいという。とにかく『歩く』という感覚を体が取り戻すことが先決のようだ。
「兄さん、ゆっくりでいいのよ」
綾子は男の俺と同じくらい背が高いから、横を向けば顔がすぐそばにある。
「ああ。わかってる」
初めの十日間は、ひたすら歩く動作を体に植えつける。時間は三十分程度。慣れてきたら一時間、さらに馴染んできたら二時間といった具合に回復とともに増えていった。
俺は正直、もう二度と歩けないのではないかと考えていた。それくらい、ベッドから起きたばかりの俺は人間として大事な能力のかなりの部分を喪失していた。
母親は仕事で多忙だから、常に付き添うのは介護士と、学校帰りの綾子だった。彼女がいなければ、俺は挫けていたかもしれない。そのくらい、俺の喪失は大きかった。肉体的には受け容れられても、精神的なショックは計り知れない。俺はもう一度家族と会いたかっただけで、こんな苦しみを強いられるとは思っていなかった。最初の十日間は、ただひたすら自己嫌悪に陥っていた。補助器具に必死にしがみつきながら、この世界に戻ったことを後悔をしそうになった。
その後悔を打ち消すことができたのは、綾子の存在と、ベアト様との約束があったからだった。ベアト様は必ず帰れるようにすると言っていた。そしてそのときには、あの異世界へ戻ってこいとも。
異世界に待ち受けているのは、もはや牧歌的な屋敷の日々ではあるまい。戦火に巻き込まれたイギリス、来るべき革命の足音。その渦中に俺は放り出されるのだ。
そんな宿命を思うと、リハビリ程度で音を上げている場合ではなかった。
「兄さん、頑張って」
「……ああ」
言葉少ななやり取りを交わし、俺はひたむきに歩き続ける。
そのおかげか、歩行能力はめきめき向上した。理学療法士によれば、脳に負ったダメージで脚との神経接続が途絶えていたところに回復の兆しがあるのだという。
俺自身、自分の脚がイメージどおりに動かせるようになったことを感じていた。
小石を積み上げて山を築くような作業だったが、俺の負った脳への損傷は、時間をかけるごとに回復へと近づいていった。
そんな最中である。綾子の代わりによく知った人物が介添えに来た。
ルナ・ハートフィールド、もとい中野月である。
「妹さんに代わってお手伝いに来ました」
そう言って、ベッドから起き上がった俺を車いすに移す。
体力のない月に負担をかけたくなかったので、
「大丈夫、ひとりで出来るよ」
「まだ回復途中と聞きました。無理はいけません」
「おまえこそ、体は平気なのか?」
「幸い軽傷でした。玲さんが庇ってくれたおかげです。感謝してもしきれません」
空気を読まない黒い発言はせず、月は平凡な言葉を慈しむように言った。
「なあ、どうしておまえが?」
俺はリハビリルームに移動する最中、月の来訪した事情を尋ねた。
「玲さんの妹さんとは、病院で知り合ったんです。お互い連絡先を交換して、なにか困ったことがあったらいつでも呼んでくださいと」
聞けば、綾子は学校の行事できょうは動けないのだという。
彼女の連絡を受け、代わりにやってきたのが月というわけだ。
「それにしたって、もうちょっと早くに顔を見せてくれればよかったのに」
俺は月の元気な顔を見て、自分のことのように嬉しく思っていた。だから、その口調は月の行動をなじるような言い回しになってしまった。
「すみません、玲さん」
「いや、謝らなくていい。俺も少し言い過ぎた」
「そうじゃないんです。私もすぐにお見舞いに行きたかったのですが……」
「何か理由でもあるのか」
「妹さんが一生懸命でしたから、私たちが邪魔するのはどうかと思いまして」
目を覚ます前も、覚ました後も、俺の側にはずっと綾子が付いていた。
そんな妹の行動に、月は引け目を感じたのだろう。
綾子はそこで周囲に気を使える人間ではない。月たちが、自分と同じくらい俺のことを心配しているということに思いが到らない。
「悪いな、妹が迷惑をかけて」
「本当ですよ。私はずっと玲さんに会いたく思っていたんですから」
ちらりと黒ルナが顔をのぞかせた。俺はそんなマイペースな月に安堵を覚え、リハビリルームに向かった。待っているのは気が遠くなるほどの歩行作業だ。
「医者の話だと、最低一ヶ月くらいはリハビリが必要みたいだ」
「そんなにかかるのですか?」
「これでも回復が早いほうらしい」
俺は事情を月に説明しながら、補助器具に掴まる。そして俺は、自分の身に起きたもうひとつの欠落に思いを致す。
それは視覚の不調だった。俺の目は元通りになっていなかった。脳に受けたダメージによって、視界は狭く、不鮮明だった。
この不調も、リハビリとともに脳が回復することによって改善されていくだろうというのが医師の見立てだったが、俺は不安が拭いきれなかった。かろうじて目の前の人間の視認はできるが、これ以上悪化すると盲目になることさえ考えられた。その可能性はないと医師にいわれたところで、肝心の俺には気休めにしかならなかった。
だからこそ、俺は視覚の不調は綾子に教えなかった。今のあいつは俺のことを俺以上に心配する。ただでさえ歩けない俺だが、これ以上足手まといになりたくはなかった。
◆
月がきた翌日。今度は紫音がやってきた。
「玲、おまえ元気そうじゃねぇか」
口調は乱暴だが、鼻をぽりぽりかき、恥ずかしそうにしている。『そうにしている』と推量で語るのは、視界が不鮮明ではっきりとは見えなかったから。
「一命は取り留めたってことだが、リハビリも順調だよ」
「本当によかったな……というかさ」
「なんだ?」
「おまえが私たちを庇ってくれたから、アルバート様とベアト様……じゃなかった、アルバートとベアト以外、全員軽傷だったんだ。ひと言礼をいわせてくれよ」
紫音は頭を下げ、彼女らしからぬ小声で「ありがとう」といった。
「俺が聞いた話だと、ベアト様は昏睡状態らしいが?」
「うん。容態はよくないらしい。まだ面会謝絶が続いている」
「アルは……死んじまったんだよな」
「半年前にイギリスから家族が来て、遺体を引き取って行ったよ。私たちもその場に同席した。あんないい奴が死んで、私たちは生き残って。世界は間違ってるよ」
「そうか……アルが」
唯一命を落とした俺たちの主人。この世界で彼は死んだが、あの異世界では貴族として生き延びているのだろう。元の世界に転移することもなく、儚い魂だけを抱えて。
とはいえ俺は、そんな事情を話さない。話しても、みんなを混乱させるだけだ。
カーソンは戻る意志がある奴は戻り、残る意志がある奴は残るといった。
その言に従えば、死んだアルと眠り続けるベアトのふたりだけが、異世界に残る意志を示したことになる。だからふたつの世界の間では辻褄があっている。
「なあ、紫音」
「どうした?」
「おまえ、この世界に未練はあったか」
カーソンの逆召喚によって戻ってきたからには、何か未練があったことになる。
俺はそれが知りたくて、紫音に疑問を投げかけた。
「月の奴は、もう一度学校に通いたいって言ってたよ。生き残っていたら、ちゃんと高校を卒業してやりたいことがあるらしい」
「なんだろう、やりたいことって?」
「教えてくれなかった。秘密にするようなことじゃないのにな」
紫音はそういって鼻をふんと鳴らす。
だが、俺が知りたかったのは紫音自身の未練だ。
「おまえはどうなんだ、この世界でやりたいことがあったのか」
「わ、私か?」
俺が問い詰める格好になると、紫音は急にまごつき始めた。
「私は……学校サボらないで卒業すること……かな」
「何か隠しているな」
「……うぐっ!」
さらに問い詰めると、紫音は困った顔になりながら、
「わ……私さ、こう見えて幼稚園の先生になりたいんだ。だから学校に真面目に通うことにしたよ。あの世界で過ごしてわかったんだ。夢を持てるのは幸せだってことが」
そう小声で呟く紫音を見て、俺は悟った。
変わったのは俺だけじゃない。それぞれが何かしら変化をしている。それを成長と呼ぶのは陳腐だが、でも本当のことなのだろう。なにせ質の悪い不良娘だった紫音が、ちゃんと自分の夢を見据えている。それは以前には考えられないことだ。
「ところで雪嗣の奴は?」
「おかしいな、きょう一緒に来るって言ってたんだけど」
俺は車いすを押されながら、リハビリルームに向かう。
その入り口のところに、壁にもたれた制服姿の男がいた。不自由な視覚ではあるけれど、俺にはそれが雪嗣だとわかった。
「よお、ひさしぶりだな」
俺のほうから声をかける。
「おお……玲。元気になって、その……よかったな」
ぎこちない挨拶をし、俺たちは黙りこくった。
その沈黙を破ったのは雪嗣だった。
「おまえには、随分助けられたらしい。ここでそんなことを言うのもなんだが……」
「庇ってくれてありがとう、って言いたいんだろ?」
「みなまで言わせろ。でも……そのとおりだ。おまえには感謝している」
不器用な礼だが、俺は悪い気分ではない。
俺ごときが命を張って、クラスメートを救うことができた。そして一命を取り留め、妹ともう一度会うことができた。母親は妹任せにして面会に来ないが、いずれ元気になって会える日がくるだろう。それ以上の結末を求めるわけにはいかない。
「俺がリハビリの手伝いをしてやる。一緒に来い」
「待てよ、雪嗣。手伝いをするのは私だぜ」
「女は黙って隅っこで見てろ。俺は玲の手助けがしたくて病院まで来たんだ」
なぜか睨み合う紫音と雪嗣。
俺はふたりを宥めるつもりで平静を呼びかけた。
「そんなことで揉めるなって。交代でやればいいじゃないか」
「それだと意味がないぜ」
「同感だ。こういうのは男手に任せるべきだ」
「私だって男並みの力はある」
「だが俺には敵うまい」
結局、俺の懇願によって紫音と雪嗣は交代で手伝ってくれることになったが、俺はふたりの助力に感謝以外の言葉が浮かばなかった。
ここまでして貰ったからには、何としても回復せねばらない。
俺がリハビリに打ち込む動機はさらに増えた。最初は苦痛でしかなかったリハビリも、十日が過ぎ、二週間が過ぎ、やがて一ヶ月が経つ頃には満足な回復をもたらした。
◆
俺が車いすから立ち上がった日、見舞いに来ていたのは月だった。
「玲さん、もう歩けるんですか」
「ああ。杖をつきながらだけどな」
神経が麻痺していた脚はほぼ元通りになり、俺は歩ける喜びを噛み締めていた。
歩行訓練は病院外に及び、俺は広い敷地を持つ病棟の外に出て、杖をつきながら散歩をした。付き添いとして月が隣にいる。
「玲さんの回復ぶり、お医者さんが驚いてましたね」
「みんなが支えてくれたおかげだよ」
「心にもないことを言わないでください、玲さんらしくありません」
「でも本当なんだ」
軽口を叩きながら、木陰にあるベンチに向かった。
俺はそこに腰を下ろし、しばし休憩する。月はその隣にちょこんと座り込んだ。
横顔を見ると、相変わらず視界は霞がかっている。
回復はまだ完全ではない。けれど目が元通りになるかどうか、俺は不安を抱いていた。医者は時間の問題だと言っていた。しかし万が一ということもあると。
「君の視力低下は、脳に受けたダメージが原因だ。ひょっとすると、このまま視力に難があるまま過ごさねばならないかもしれない。言いにくいことだがこれは事実だ。他のリハビリが順調だから、回復する可能性のほうが高いけど」
「そうですか」
医者はその道の専門家だ。俺は彼の言うことに納得するより他なかった。
「どうしました、玲さん?」
おぼろげな視界のなかで、月がこちらを振り向いた。
「なんでもない」
「でもそんなに目を細めて。人相が悪くなってますよ」
「生まれつきだろう」
「またごまかして。全部お見通しなんですからね」
黒ルナはそういって「ぷう」と頬を膨らましたが、すぐさま笑顔に変わる。
「ねぇ、玲さん」
「なんだ?」
「実は紫音さん、雪さんと一緒に計画していることがあるんです」
「計画?」
唐突に言われて、何ごとかと思った。
「玲さんがよくなったら、みんなでやりたいなと思っていることがありまして」
「やりたいこと?」
おうむ返しの俺に、月は首を縦に振る。
「四人で修学旅行をやり直せないかなと思ってるんです」
――修学旅行。
それはあの日俺たちを襲った事故によって中断されている。本来、三日間あった予定は最初の一日目で途絶えていた。そして異世界へと転移した。
「元の世界に戻った証に、京都へ行きたいです。ちなみにこれを発案したのは何を隠そう、この私です」
「……京都か」
俺は自分の回復ぶりを確かめるべく、病院の外へ出たいと思っていた。自分が重体となった患者から、まっとうな人間に戻ったことを実感したかった。学校へ復帰する前に、どこかへ旅行すること。それが最後のリハビリになる。月の提案を咀嚼しながら、俺は頭のなかで計算を巡らせた。
「悪くないな」
俺は承諾の意をこめて、月に頷き返した。
「自分がよくなったことを、この脚で確かめたい」
でも他の連中はどう言っているのだろう。俺がおもむろに尋ねると、
「紫音さん、雪さんの承諾は得てます。みんな旅行をやり直したいと言ってくれました」
「みんな、か……」
そのみんなの中にアルはいない。俺は急に暗い気持ちになった。
けれど悲しむばかりでは、前には一歩も進めないだろう。
俺はもはや異世界の人間になってしまったアルのことを考えながら、彼なら何と言ってくれるだろうか、そんな思いに浸った。
答えはどこからも降ってこなかった。なぜなら問題は俺自身の意志。悲しみを振りほどき、確かな未来を見据えること。この世界に残した未練をなくして、もう一度あの世界へ戻ること。
それらの意志は、みんなが知らない俺だけの秘密だ。
俺は残されたわずかな時間で、この世界で生を全うしなければならない。それがアルに代わって命を長らえた者の宿命であり、果たすべき使命だった。
「あと一週間ほどで外出許可が出る。それまでに予定を立ててくれ」
「ということはオーケーなのですか?」
「勿論だ。俺もおまえらと同じ時をやり直したいと思う」
自分たちの運命を暗転させた忌まわしい地。
そこに行くことで大事な何かに区切りをつけられる気がした。俺たちの意志はそれぞれ違えど、そこから何かを得たいという思いは一致しているような気がした。
あとは母親を説得し、旅費を出して貰うだけだ。
「楽しい旅行になるといいですね」
「そうだな。行くからには楽しまないと」
せっかくの拾い物の命だ。それを無駄にするわけにはいかない。俺は鬱屈した気分を晴らすように、澄みきった青空を仰ぎ見たのだった。




